獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

藤圭子へのインタビュー その6

2024-01-21 01:37:32 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
■二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記

 


二杯目の火酒

   3

「とっても綺麗だね。高いところから街を見るのって。大好きなんだ、あたし。キラキラしてて、ほんとに綺麗……あっちは、どのあたりになるんだろう」

__赤坂、霞が関、銀座、というところになるかな。

「そうか……あれが東急ホテルか。ずいぶん低く見えるね。綺麗だなあ、夜って」

__えーと、あなたの住まいはマンションの高い階にあるんでしたよね。夜景がそんなに珍らしいとは思えないけど。

「こんなに高くないもん。車の灯りがずっとつながってる……あれは高速道路?」

__じゃなくて、立体交差かな。その手前の暗くなってるあたりが、弁慶橋がある堀だと思うけど。

「東京が、ほんとに素敵に見えるね。落ち着くなあ。ホッとする」

__ホッとする?

「うん。周りにいるお客さんが、ほら、みんな外人ばかりでしょ」

__そうか、気にしなくてすむからね。

「それに、英語やなんかが低く聞こえてきて、とっても耳に気持がいい」

__あなたの……声だけど、小さい頃から、あんなガラガラ声だったの?

「凄いガラガラ声だった」

__そのこと、自分でも気がついてたの?

「自分じゃわからなかったけど、人からいつも言われてたから……」

__何て?

「友達の家に行くでしょ。そうすると、友達のお母さんから、純子ちゃん風邪ひいてるのって、よく訊かれたんだ。ううん、ひいてないよって答えると、そう……というわけ。どうしてそんなこと訊くのって、今度はあたしが訊くと、声が……と言われるんだ。 子供心にも不思議でしようがなかった。どうして、いつも、いつも、風邪ひいてるのって訊かれるんだろう、と思ってさ。ほんと、よく言われたよ」

__学校じゃあ、唱歌を歌わなかった、とさっき言ってましたよね。家ではどうだったのかな、やっぱり歌わなかった?

「それがね、小学校5年のときに、家で鼻歌を歌ったわけなの。それが、結局、こんなふうに歌うことになる、キッカケになったんだ」

__どういうことなんだろ。もう少し、詳しく説明してくれないかな。

「つまり、家で、なんとなく鼻歌を歌っていたわけよ。その頃に覚えた歌を歌っていたんじゃないかな、恐らく。こまどり姉妹さんの歌か、畠山みどりさんの歌か、どっちか忘れてしまったけど、それを歌っていたら、お母さんが、いま歌ったの純ちゃん、って訊くわけ。そうだよ、あたしだよ。答えると、純ちゃん、うまいじゃない、って、そういう感じ。それで、おだてられて、乗せられて、もう一度ちゃんと歌ってごらんなさい、なんか言われたもんだから、調子に乗って歌ってみたの。それが、始まり。いいじゃない、なんて言われて、そのうちお父さんも来て、今度はテープにとってみよう、なんていうことになって……それが、すべての始まり」

__いいじゃないか、ということになって、それからどういうことになったの?

「それから……純ちゃん、今度、お祭りで歌ってみてよ、ということになったわけ」

__へえ。遇然って、ほんとに、そういうかたちをとって訪れるもんなんだなあ。

「そうなんだね。だって、それまで、あたしは、ひどい音痴だと思われてたんだから、みんなに」

__ほんと?

「だって、そんなひどいガラガラの変な声でしょ。ちっちゃい頃、巡業に連れていかれると、楽屋でもどこでも、馬鹿のひとつおぼえみたいに、新撰組の歌ばかり歌ってたんだって。それを聞いてね、お客さんとか、興行先の人とかが、子供のくせに変な声だねって言ってね、だから音痴だと思われてたらしいんだ。お父さんもお母さんも、とてもいい声でしょ、だから、なおさら、そのひどさが目立ったんじゃないかな」

__あの……新撰組の歌って、どういうの?

「知らない? 加茂の河原に、千鳥が騒ぐ、またも血の雨、涙雨、っていうの」

__ああ、それか。知ってる、知ってる。小さいときのあなたは、それを歌ってたのか。

「そうらしい」

__そうか……新撰組の歌は音痴に聞こえたのか。

「そうらしい」

__だから、わざわざあなたに歌わせようともしなかったし、あなたも歌おうとはしなかったわけなんだね。

「うん。意識して歌を歌うなんていうのは、それまで一度もなかった」

__音痴というより、あまりにも子供の声らしくないんで、頭から下手と決めつけられていたんだろうな。

「そうかもしれない。両親はあんないい声だから、その子はどんな声かと思ったら、ひどいんで驚いたって、よく言われたらしいよ」

__お父さんはどういう声の方なの?

「村田英雄さんを、気持、もうほんの気持だけ、細くして、高くしたような、だから、とてもいい声なんだ」

__お母さんも、どちらかといえば、高い方?

「うん、かなりね」

__初めてあなたが人前で歌ったのは、どういう場所だったの?

「近所の、裏にある、お寺だったと思う。畳が敷いてあるようなところで、法事とかそういうやつのあとで、おばあちゃんたちが大勢いて……。でも、お母さんは、近所の神社のお祭りの舞台だったって言うんだけど、あたしは、2度目だったと思うんだ、それは」

__初舞台は、法事のあとの余興だった、というんだね。

「うん。確か、そうだと思う」

__お父さんたちの仕事も、そういったものが多かったのかな。

「そうだね。お祭りの余興とか、寄合いの出し物とか……呼ばれればどこでも行ったし、 一座に入ったり……」

__一座に?

「一座っていうか、いろいろな芸人さんの仲間に入って、ひとりいくらというお金をもらって、一緒に旅をするわけ」

__あなたも?

「あたしは学校があったから、土曜と日曜だけ。だから、お祭りなんかが多かった」

__とにかく、5年生のときから、舞台で歌いはじめたわけですね。たとえ、どんな舞台であろうと……。

「そうなんだ」

__舞台でどんな曲を歌ったの?

「畠山みどりさんの歌で、〈出世街道〉というのがあるの」

__知ってるよ。やるぞみておれ、口には出さず、腹におさめた一途な夢を、っていうんだよね。

「そう、それをよく歌った」

__それが、あなたの、最大の持ち歌だったわけか。

「3曲くらい持ち歌があったけど、みんな畠山みどりさんの歌だった。次に〈浪曲子守唄〉を歌うようになって、その次に〈刃傷松の廊下〉が得意な歌になっていったの」

__〈刃傷松の廊下〉って、知らないな。

「いい歌なんだよ、凄くいい歌」

__いずれ浪曲調なんだろうね。持ち歌はみんな一貫しているような気がする。

「そう言えば、そうだね。いまでも〈出世街道〉を歌うと胸がジーンとするんだ。いろんなことがよぎるんだよ。歌った神社やお寺とか、悲しかったことやなんかが思い出されて、いまでも平気で歌うわけにはいかない歌だなあ……」

__お父さんの浪曲の、得意の出し物っていうのは、どんなものだったの?

「国定忠治とか、柳生十兵衛とかの話……」

__お母さんは?

「紀伊国屋文左衛門とか、オリジナルの何とかっていうのとか……」

__お母さんは、どうして浪曲師になろうとしたのか、あなたは知っている?

「若い頃から眼が不自由だったでしょ、だから、大人になって親兄弟に迷惑かけないようにって、浪曲の先生に弟子入りして、自活できるようにしたらしいよ。足手まといになりたくないということで、その頃、浪曲やってれば食べていけるから、って、そういうことだと思うよ。お父さんと一緒になるときも、周りからいろいろ言われたらしいんだ。あいつとは、止めろって。だけど、眼のこともあるし、家に残ると迷惑かけるからっていうこともあって……」

__浪曲をやろうというんだから、お母さん、歌はもともと好きだったのかな。

「そんなことないんだって。それしかなかったんだって。そう言ってるよ」

__お父さんの浪曲は上手だったの?

「うまかった。お母さんも、お父さんのはうまかったって言ってる。浪曲はうまいんだけどって、周りの人も言っていたらしいの。うまいんだけど、短気で、気に入らないお客さんがいると、舞台から降りていって喧嘩しちゃうんだって。だから、仕事の口がかかりにくかったんだ」

__あなたも、興行に加わるようになってからは、ショーの構成はどんなふうだったの?

「ショーなんてもんじゃないけど」

__余興か、それでもいいけど。

「構成なんてないんだよ。あたしたちだけじゃなくて、民謡とか踊りとか、いろんな人たちがいることが多くて、いるそばからどんどん出ていくっていうだけ。そんなもんなんだよ」

__あなたは、舞台に出て、何曲くらい歌うの?

「2曲くらい歌ったかな」

__バックは?

「そんなのないよ」

__だろうね。

「伴奏もなければ、 マイクもなし。……もしかしたら、マイクのあるとこもあったかな」

__衣裳は?

「普通の、ふだん着てるような、大したことない洋服。しばらくして、ナイロンかなんかでできた、安っぽい着物まがいのを着て、出るようになったけど」

__そう。

「いろいろやってたんだよ、あたしも。太鼓たたいたり、踊りおどったり……」

__どうして、そんなことやるわけ?

「時間をもたせなければならないんだ。だから、いろんなことをやらないともたないわけ。お父さんとお母さんは漫才をやってたしね」

__漫才を?

「ネタはひとつしかないんだけど、よくやってたよ、そのひとつを。いまも、お母さんと、よくやったもんだね、と言って笑うんだけど」

__あなたが出るようになって、お客さんの受けがよくなったの?

「まあ、そういうことなのかな」

__どういうことで、喜んだんだろう、お客さんは。

「初めの頃は、あれまあ、小さいのが出てきたと思ったら、ちゃんと一人前に歌うじゃないか、っていうような物珍しさだったかもしれないけれど、少し大きくなってからは、わりと、ちゃんと歌を聞いてくれてたなあ。結構うまいなあって、歌そのものに喜んでもらえたと思うよ。だって、マイクもない、ただの広間で、バッとあたしが歌うと、声が凄かったって、よくお母さんが 言うもん」

__芸名は?

「誰の?」

__あなたの、さ。

「三条純子」

__どこにでもいそうな、泥くさい、いい名前じゃないですか。

「エヘへ。田舎によくいる演歌歌手っていう感じだね」

__お母さんの芸名は?

「寿々木照子」

__お父さんは、確か、松平……」

「国二郎」

__そうだった。週刊誌で読んだところによれば、そんな名前だった。その名前は、誰かお師匠さんかなんかの関係から来てるのかな。

「さあ、どうだろう。でも、昔、お父さん、五月一朗って言ってたの。ところが、これは大きくなってわかったんだけど、五月一朗っていう浪曲師は別にちゃんといるの。そのことは、子供心にはっきり覚えているんだけど、あるときどこかで五月一朗という人が興行してたんだよね。どうしてあの人、お父さんと同じ名前なのって、お父さんに訊いたわけ。そうしたら、おれが本物の五月一朗で、あいつは偽物の五月一朗だ、って言うんだ。あとで、大きくなってお母さんに訊いたら、違うんだって。あっちが本物で、大看板の五月一朗なんだって。おれが本物の五月一朗だっていうから、あいつは悪い奴なんだ、お父さんの名前をかたって、ひどい奴だ、なんて思って……。長いあいだ、お父さんの芸名は五月一朗だと信じてた」

__どうして、松平国二郎なんだろ。

「これはヤバイ、とか思って、途中から適当に変えたんじゃないかな」

__漫画みたいに愉快な話ですね、まったく。

「ほんと、話を聞く人には面白いかもしれないけど……」

__大変な人だった?

「うん、まあ……」

__お父さんって、博打はするの?

「昔はよくやったらしいよ。やって、すってんてんになって、なんていうことは、よくあったらしいよ。齢をとってからは、あまりやらなくなったらしいけど」

 


解説
最初は父親のことを話題にするのを嫌がっていた藤圭子さんですが、沢木耕太郎さんの話術で、徐々に父親のことも話すようになっていきます。

 

獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その5

2024-01-20 01:34:28 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
■二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記

 


二杯目の火酒


   2

__しかし、ある一時期を除くと、だいたい浪曲師として興行して歩いていたんですよね、あなたのお父さんは。

「うん、だいたいね」

__お母さんがお父さんと一緒に旅に出てしまうと、あなたたち子供だけで留守番することになったのかな?

「うん、3人でね」

__そんな、七つ、八つの子供たちだけで、どうやって生活してたんだろう。

「ほんの一時期は、近所のおばさんみたいな人が、ごはんを作りにきてくれたけど……そのときはひどかったな。鳥の餌みたいな、なんて言うの、あれ、丸い、つぶつぶの……」

__粟とか、ヒエとか、そんなのかな。

「ポロポロでまずかった。お母さんが作ってくれていたときには食べたことがなかったから。すぐに、そのおばさんは来なくなったけど」

__それ以後は、あなたたちで作って、自分たちだけで食べてたわけ?

「そう。一日分の御飯代をいくらって、旅に出る前にお母さんにもらっておくんだけど、予定の日になっても帰ってこないことがあるんだ。行った先で、また新しい巡業先なんかが見つかって、そうすれば稼げるから、そのままそっちへ行っちゃうわけ。お金がなくなって……子供たちだけでしょ、とても困ったことがある」

__どうしたの、そんなときは。

「お米だけ食べてたり……一度なんかは納豆売りをしたこともある」

__アルバイトして手間賃を稼いだわけか。

「そうじゃなくて、少しだけ残ったお金で、近くの豆腐屋さんで納豆を分けてもらって、朝、売ったの」

__仕入れて売ったのか。少しは儲かった?

「それを続けて、生活してた」

__そう……お母さんやお父さんがいなくても 結構、健気にやっていたわけですね。

「それでも、やっぱり、寂しかったよ」

__そうか、やっぱり寂しかったのか。

「それはそうだよ。特に、あたしは、お母さん子だったから、お母さんが一日でもいないのは、とっても寂しかった」

__そんなにお母さん子だったの?

「小さいとき、昼寝をしていて、目が覚めたらお母さんが傍にいなくて、泣きながら探しに行ったことがある。ワンワン泣きながら……」

__お母さんの傍から、少しでも離れたくなかったんだね。

「ずいぶん大きくなるまで、一緒にくっついて寝てた。小学校の4年生くらいまで、お母さんの蒲団にもぐりこんでたな」

__乳離れしてなかったのかな。

「実際にね、かなり大きくなるまで、お母さんのオッパイを吸ってたらしいから」

__さっき、あなたの記憶がはっきりするのは、神居町に引っ越した小学校5年の頃からだって言っていたよね。しかし、どうして、旭町から神居町へ行くことになったの。

「家を建てたんだ。昔のお金で50万くらいじゃないのかな、借金して……」

__どこから?

「お母さんの実家だと思う」

__昔といったって、ずいぶん安いね。

「土台だけ知り合いの大工さんに作ってもらって、あとは家族のみんなで作ったんだ。その頃、やっぱり仕事がなくて、一年くらい左官をやってたの、うちのお父さん。だから、そんな程度の金で作れたんだと思う」

__5年の、いつ頃、神居に転校したの?

「夏、かな」

__どうして夏だと記憶しているの?

「それはね、子供たちもみんなで家を作るのを手伝ったから。セメントと砂を買ってきて、お父さんが壁をぬったりしたんだけど、子供たちが水を運ぶ役をやったり、こねる役をやったり、混ざったやつをお父さんのところに持っていったりしたんだ。そのとき、とても暑かったことを覚えている。暑いさかりで、ほんとにカンカン照りでね」

__そうすると、二学期から神居の小学校に転校したことになるのかな。

「そうなるね」

__でも、どうしてそんなに、記憶が鮮明なんだろう。ただ引っ越したっていうにすぎないのに。

「どうしてかなあ……きっと、あたしが変ったからだろうな」

__変った?

「明るくなったし、勉強もできるようになったし……」

__それはまた、どうしてなんだろう。

「さあ、どうしてなのかなあ」

__理由はわからない?

「うん……」

__環境が変って、そのときから目覚めたということなのかもしれないね。ぼくもね、小学校の3年生くらいまで、ポケッとしていてね。ところが、3年の夏休みに野球がとても上達したんだ。そうしたら、そのときを境にして、いっぱしの餓鬼大将になり、同時に勉強も少しできるようになったんだ。そういう契機があったなあ……。

「あっ、そう言えば、あたしも同じだな。旭町にいた頃は、学校に友達はひとりもいなかったし、ひとりで静かにしているだけだったの。友達と口をきくなんてしなかったし、むろん、こっちから話しかけるなんて、恥ずかしくてできないわけ。ところがね、転校したでしょ。その最初のとき、黒板の前に立たされて、先生に紹介されるわけなんだけど、その授業の時間が終った、次の休み時間にね、友達がワッとあたしの席を取り囲んで、みんなで話しかけてきてくれたの。そのうちの、特に元気のいい子なんかが、どこから来たのとか、お父さんは何をしてるのとか訊いてきて……びっくりしたの。そして、その日から明るくなった」

__それって、よくわかるような気がするな。で、嬉しかった?

「びっくりして、嬉しかった。それからかな、友達ができて、学校へ行ってもハキハキするようになって……そうするうちに勉強ができるようになって自分で、自分の気持とか、そういうのを表わせるようになったんだ」

__旭町から神居町って、どのくらい離れているの?

「車に乗って、2、30分かな。子供のときはずいぶん離れていると思っていたけど……まるで よその国に行くみたいに」

__いや、車で30分なら、もう外国かもしれないね、子供の感覚なら。その遠さも、あなたを変える一因だったんだろうな。成績は全般的によかったの? 学校の科目はみんな好きだった?

「好きも嫌いも、あんなの習ったことを丸暗記しちゃえばいいんだから、簡単だよ」

__そう?

「そうだよ」

__そういうのを暗記するのは、不得意じゃなかったわけ?

「うん」

__音楽はどうだった?

「ペーパー・テストなんかよかったよ」

__歌は?

「駄目だった、全然」

__へえ、それはまた、どうして。

「高すぎるんだよ、キーが」

__あなたのキーが?

「違うの。みんなのキーが高すぎて、声が出ないの。だから、仕方がないから、口を開けてパクパクしてるだけだった、いつも」

__それじゃあ、唱歌は歌わなかったのか……。

「唱歌なんて、恥ずかしくて歌えないよ」

__どうして?

「唱歌を歌ったり、みんなで遊戯したり、そんなの絶対に恥ずかしかった」

__変な子ですね、それは。

「学芸会で選ばれて芝居するのなんか、絶対にいやだった」

__なるほどね。あるいは、あなたなら、そうだったかもしれないな。

「うん……」

__体育はどうだった?

「体育はまるで駄目だった。でも、体育も、普通の紙の試験があるでしょ、だから成績はよかったんだけど」

__跳んだりはねたり、っていうのが上手じゃなかったんだね。

「跳び箱とか、そういうのが駄目だった」

__そういえば、テレビのドリフターズの番組で、よくやらされていたよね。

「フフフッ。うまくない代表だもんね、あたしは」

__いや、あれはうまくない方が、見てる方は面白いし、可愛らしく感じられるものだから。

「そうかな」

__それは、そうですよ。

「うん……」

__子供のとき、別にそういったことで困らなかった?

「別に困らなかったけど、駆けっこしても、いちばん遅い方だった」

__細い体だから、一見、速そうに感じられるんだけどね。

「やっぱり、そう思う? 自分でもそう思うわけ。ところが、運動会の徒競走なんかで6人で走ると、たいてい6番か、最高にうまくいって5番なんだ。自分じゃ、すごく速く走れているような気がするんだ、軽いから。でも、ほかの人の方がもっと速く走ってるんだよね」

__ハハハッ。まあ、そういうことなんだろうけど、しかし、おかしいなあ、当人は結構速く走ってるつもりだっていうのが、ね。

「ほんと、面白いね」

__あなたは、神居小学校から、そのまま神居中学校へ進んだわけでしょ?

「そう」

__神居中のとき、成績はクラスでいえば何番くらいだった?

「いつも、3番には入っていたな」

__それは凄いなあ。得意、不得意はなかった?

「あたしたちのときって、五段階評価っていうの、それだったから……」

__ぼくのときだってそうですよ。別に、甲乙丙丁なんてことはなかった。

「そうか、そうだよね」

__で、その五段階のうち?

「どの科目も、3というのをもらったことがなかったから」

__それは優秀ですね。特に好きだった科目はあるの?

「数学」

__それは意外な……」

「そうかな? 意外かなあ。あたし、珠算の免状も持っているんだよ」

__ほんと?

「二級を持ってる」

__へえ、またまた意外なことを聞く。

「半年くらい通って、パッと塾をやめてしまったけど、すぐ取れたんだ」

__どうして珠算なんか習おうとしたの。

「お母さんが無理に行けって言ったから」

__そうか、お母さんは、あなたに何か特殊技能のようなものを身につけさせようとしたんだろうな、きっと。

「二級の検定試験、一回で通っちゃった。塾の先生には、まだ無理だから三級を受けなさいと言われたんだけど、いいんだ面倒だから、なんてやったら受かっちゃった。運がいいんだよね、何でも、最初は」

__そう……かな?

「そのあとが駄目なんだよね。飽きっぽいのかな、あたし」

__さあ、どうなんだろう。持って生まれた勘のよさで、行くとこまではすぐ行けるんだろうけど。

「そのあと、なぜか突き詰めていけないようになるんだよね、不思議と」

__学校以外に、家で勉強なんかした?

「しない。けど、試験の前にはチョコチョコって、した。丸暗記して、それをそのまま試験のときに書けばいいんだから、簡単だった」

__それで3番くらいに軽く入ることができたのか。かなりなもんですね。頭がよかったんだろうけど、要領もよかったのかな?

「どうだろう。寝床に入って、ノートを見てたっていう記憶はあるな」

__遊びの方はどうだった? 小さい頃は何をして遊びました?

「うんと小さい頃は、ビー玉、パッチ……」

__パッチ?

「紙でできた……こういうのを……はたいてやる……」

__ああ、メンコ。

「メンコっていうの。そんなの男の子と一緒にやってたな」

__少し大きくなってからは?

「縄跳びとか……女の子らしいのになったのかな」

__旭川の小学校とか中学校では、どんなところへ遠足に行くの?

「スキー遠足?」

__スキー遠足、って?

「おにぎり持って、近くの山に行くわけ。スキーで滑って、学校の全員でね。でも、あたし、スキーを持っていなかったから……。みんなは、兄さんや姉さんのお古くらいはあるんだけど、うちにはひとつもなくて……だから、北海道で育ったくせに、いまだに滑れないんだ、あたし。スキーなんて、もう恐くて、できなくなってるし……」

__そうか……。

「うん、そうなんだ」

__スキー遠足、か……。

 


解説
名インタビュアーによって、藤圭子さんの子ども時代が鮮やかに語られていきます。


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その4

2024-01-19 01:07:41 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
■二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記

 


二杯目の火酒


   1

__かなりピッチが早いじゃないですか。

「うん……喉が渇いてたから」

__もう一杯、もらいましょうか。

「うん」

__えーと……これと同じやつを、ひとつずつ下さい、ひとつ、って言い草はないか……一杯……やっぱり、一杯ずつ、か……一杯ずつ下さい。これでいいのかな?

「どっちでもいいんじゃない、そんなこと」

__まったく。どうでもいい、阿呆らしいことにこだわる癖があるんですね、ぼくは。

「そんなことも、気にしなくていいんじゃないかな」

__まったく! やられているなあ。

「そんなことないよ」

__それにしても、さっき弱いとかいってたけど、かなり強そうじゃないですか、あなたも。

「お酒?」

__もちろん。ああ、そうか、気性だと思ったの?

「どっちかなと思って」

__気性については、おいおい訊いていくとして、まずは酒。

「強くないよ」

__どのくらい呑む?

「ウォッカだったら、5杯が限度かな」

__ほんとに?

「ワインだったら、ボトルの半分」

__それ以上、呑むとどうなるの?

「酔っ払う」

__酔っ払って?


「眠くなる」

__眠くなって?

「眠っちゃう」

__それだけ?

「それだけ」

__なあんだ。

「なあんだ、って?」

__別に意味はないんだけど……お父さんは、強いの?

「一滴も呑めないんだ」

__ほんと。だって、お父さんは浪曲師でしょ?

「うん。でも、呑まないの。お父さんの十八番はね、おれは眼の不自由な女房と年子の3人の餓鬼を抱えて酒も呑まずに苦労してきた、っていう台詞なんだから」

__そんなに苦労してきたの、お父さんは。

「うーん。どう言ったらいいのかな。全然……まあ、やめとこう。お父さんについてはしゃべりたくないんだ、あまり」

__どうして?

「いろいろありましてね。大変なんですよ、この人が。だから、やめてくれないかなあ……」

__わかった。オーケー。じゃあ、お母さんは酒はどうなの?

「呑みますよ、かなり。一升、呑んでも平気なんじゃないかな」

__そいつは強い。

「好きっていうんじゃないらしいんだけど、みんなとワイワイするのが楽しいらしくて、呑み出すと、柄が大きいでしょ、どんどん入っちゃうみたい」

__柄が大きいのか、あなたのお母さんは。

「あたしの方が小さいんだ」

__そうなんだ。あなたは、どっちに似てるのかな。

「どっちかといえば、お母さん似らしい。ちょっとした仕草が似てるらしいの。でも、どっちにも、あまり似てないみたい。昔、お母さんと、あたしと、いとこの女の子と、3人で歩いていたりすると、お子さんですかって言われるのは、いとこの女の子だったらしいんだ。その子の方が、ずっと似てたんだって」

__この写真……週刊誌に載ってたんで、大宅文庫でコピーしてもらったんだけど……何歳くらいのときかなあ。利発そうな顔をしている、とてもいい写真。

「そう……それは……旭町にいた頃だから、小学校4年になっているか、いないかっていう時期かな」

__それにしては大人びた顔をしているよね。

「そうかもしれない。小学校4年にしてはませてるね」

__ふけてる。中学3年といっても、おかしくないんじゃないかな。むしろ、いまのあなたより、大人びている。

「それじゃあ、いまがずいぶん馬鹿みたいに聞こえるじゃない」

__ハハハッ。そういうつもりはないけれど、そういうことになるかな。……でも、いるんだよね、子供の頃、とても苦労して大人びた顔をしていた少女が、成長してその苦労が薄れていくにしたがって、子供のような顔になっていくということが、ね。あなたは、その写真のときより、いまの方が何かが薄れているような感じがするな。

「そうかな……自分ではわからないけど」

__一般的には、いつでも、ふけてるって言われつづけてきたの?

「うん」

__言われてたのは何歳くらいまで? つい最近までそう言われてたのかな。

「最近まで言われてたら洒落にならないじゃない、この齢になってふけてるなんて言われたら」

__ハハハッ。

「十代までなら洒落になるけど、さ」

__デビューしたときもふけてると言われた?

「そう、言われたな。お母さんがいつも言うんだけど、あたしは赤ちゃんの頃から……」

__ふけてたって?

「変な言い方だなあ、それって。ふけてるってことはないけど子供らしいところがなかったんだって。赤ちゃん赤ちゃんしてなかったらしいんだ。なんか、はっきりした顔立ちをして、男の子みたいだったんだって」

__想像がつくなあ。

「一枚、とっても好きな写真があってね、ちっこくて、男の子みたいで、ポケットに手をつっこんでいる、可愛いやつ。それ、大好きだったんだけど、週刊誌だかテレビだかが持っていって、なくなっちゃった」

__その写真、ぼくも週刊誌で見たような気がするな。五月人形みたいな顔をしてたね、そう言えば。

「学校に上がるまでは、あたし、お父さんとお母さんの巡業についてまわってたでしょ。そのときも、男の子のような髪型をしてたから、興行先の人とか、いろんな人から、純平とか純太郎なんて呼ばれていたらしいんだ」

__なるほどね。

「とてもおとなしかったらしいの。楽屋でね、お母さんが舞台に立つ頃になって、袴をつけはじめると、あたしのお姉ちゃんは、すぐ大声で泣き出したんだって。あたしはね、楽屋にいる手の空いた女の人の方に這っていって、オブオブとかいって、おぶってもらおうとしたんだって、いつでも。ほんとに手がかからなかったって、お母さんが言うよ」

__なんか、あなたの感じだなあ。

「近所の女の子が、よく抱かせてって、来たんだって。 一度なんか、妹に頂戴という子がいて、お母さんが冗談にいいわよって言ったもんだから、翌日、お小遣いで綺麗な服なんかを買ってきて、本気でもらいにきて、その子を納得させるのにとても困ったことがあるんだって」
__お人形さんを可愛がるように、可愛がっていたんだろうな。

「でも、そういうのって、話に聞くだけで、ちっとも覚えていないんだけどね」

__あなたが生まれたのは、本当は北海道の旭川じゃないんだって? 岩手県の一関……旅興行の途中だったとか。

「そうらしいんだ。でも、その頃のことはよく知らない。ほとんど知らないんだ、子供の頃のことって。記憶にないし、たまにお母さんに聞かされるくらいだから」

__お母さんは曲師(きょくし)だったの?

「そうじゃなくて、お母さんも浪曲師なの。お父さんもお母さんも」

__しょっちゅう、旅に出ていたわけだ、二人して」

「うん」

__子供の頃は、一緒だったんでしょ?

「でも、その頃のことって覚えてないんだ、全然。小学校に上がる前だったし。ただね、話によると、巡業で汽車を乗り継ぐでしょ、そうすると駅の名前を読みあげるんだって。汽車が駅に着くと、教えもしないのに、看板なんかに書いてある駅の名前を読んだらしいの。なんだか、そうやって字を覚えたんだって。だから、あたし、学校に上がる前から字は読めたらしいんだ」

__お母さんが、そうおっしってるの?

「うん」

__旅をしているうちに、字を覚えたわけだ。

「少しも記憶にないんだけど、汽車の窓から顔を出していたような感じだけは、どっかに残っているな」

__感覚的に、ね。

「いつも汽車に乗ってた。そういう気がするなあ」

__あなたが、自分で記憶していることで、一番早いのはどんなものがある?

「そう……」

__たとえば、ぼくなら、2、3歳のときに、みんなにおだてられて、床の間かなんかで踊らされてた、なんて記憶があるんだけど、あなたにはそういった小さい頃の記憶はない?

「ないなあ」

__何にも?

「ないなあ……どういうんだろ」

__それじゃあ、小学校に上がった前後のことは覚えてる?

「全然」

__えーと、1年のときの担任の先生は?

「覚えてない。2年のときも、3年のときも」

__ほんとに?

「校舎も、友達も、何も覚えてない」

__欠陥商品ですねえ、あなたの記憶装置は。どういうのかなあ……その時代のことは、まっしろけの感じなの?

「まっくらけの感じ」

__だとすると、いつ頃の記憶からあるようになるのかな。

「小学校5年から。カムイへ引っ越してから」

__カムイ?

「神さまが居る、って書くの」

__神居、か。なるほど。しかし、5年生といえば、10歳かそこらですよね。いま、あなたは28だから、人生のおよそ3分の1は記憶がないわけだ。

「我ながら、ずいぶんぼんやりしていたんですねえ。でも、人ってもっと覚えているものなの?」

__ぼくも記憶力はいい方じゃないんだけど、さすがにもう少し覚えているからね。

「お母さんが話してくれることを、いつも、へえー、へえー、って聞いてるばかりなんだ」

__それこそ、へえー、ですね。

「ほとんど覚えてないんだけど、何か特別な出来事があったりすると、少しだけ覚えているんだよね」

__どんなこと? たとえば。

「たとえば、小さい頃、大きな池に落ちたことがあるんだ。兄貴と一緒にタニシか何かを取りに行って、落ちちゃったのね。そのとき、その近くで写生をしていた男の人が、池に飛び込んで助けてくれたんだ。ぐったりしているあたしを抱いて、家に運んでくれたんだけど、そのとき、あたしは赤い服を着ていたという記憶がある。きっと、お父さんやお母さんが巡業に行って、留守のときだったと思うけど」

__命拾いをしたわけですね。

「そう……それと、気が弱かった、っていう記憶があるな」

__気が弱かった? あなたが?

「あっ、ずいぶんな言い方じゃないですか、その言い方は」

__ハハハッ。しかし、あなたが気が弱かったって?

「とても弱かった」

__子供の頃は、ね。

「いまだってそうだよ。オドオド、オドオドしながら生きてるよ」

__でも、デビューの頃のあなたは、気が強い、強情そうな顔をしてたと思うけど。

「そんなことないよ……」

__しかし、とにかく、子供の頃のあなたは、とても気が弱かったわけだ。

「うん……たとえば、ひとつ覚えているんだけど、教室で手が上げられないわけ。先生が質問して、わかる人は手を上げて、と言ってるんだけど、誰もわからなくて手が上がらないの。あたしはわかっているんだけど、恥ずかしくて、悪いような気がして、上げられないんだ、手を。どうしても、ね。とうとう、最後まで上げなかった……」

__それ、どんな教科だった?

「算数」

__へえ、面白いね。

「うん……」

__あなたは、ずっと旭川で成長したわけでしょ? 最初に住んだ家はどんなだったか、覚えてる?

「うん。旭町っていうんだけど……あれっ、もしかしたら、うんと小さいときに、違う町に住んでいたかもしれないけど……覚えているのは旭町の、市場の家」

__市場って、どんなふうな市場?

「魚屋さんがあって、八百屋さんがあって、肉屋さんがあって、そういう普通の市場」

__そこに住んでたの?

「そうじゃなくて、その横の家の二階を間借りしていたの」

__部屋がどんなだったか思い出せる?

「二間しかなくて……そこに親子5人が暮していて……階段を降りると、土間にポンプがあるんだ」

__井戸水を汲むのね。

「ポンプの前に桶があって、そこから柄杓で汲んで水を使うような、そういう感じ」

__一階は誰が住んでたの?

「大家さんのおばさん」

__部屋の中の様子は、いまでも、頭に思い浮べられる?

「うん」

__窓の外には、何が見えた?

「空き地。あたしたちが遊ぶ空き地が見えた」

__空き地の向こうは?

「コンクリートの本通りがあった。それ以外のところは、みんな泥道だったけど……。 このあいだ、久し振りに訪ねてみたら変ってたなあ。みんな舗装されていて、どこがどこだかわからなかった」

__このあいだって、いつ?

「去年の秋」

__変ってた?

「すっかり変ってた。……あたし、小さい頃、とってもパチンコがうまかったの」

__へえ、パチンコがね。

「いまみたいに自動式じゃなくて、ひとつ、ひとつ、穴から玉を入れて打ってた時代だけど。その頃、お父さんがよくパチンコ屋に行ってたんだ。パチプロみたいなことで食べてたから。一緒によく行ったんだ、あたしも」

__浪曲師をやめてたの?

「仕事がこなかったんだろうね。だから、そんなことしてたんだと思うよ」

__お父さんに、くっついて行ってたわけか。

「そうじゃないんだ。お母さんにくっついてたの。いい台を取るために、お父さんはお母さんも連れていって、坐らせておくんだ。お母さんは眼が見えないから、やってもうまくないでしょ。玉を減らすと怒られるから、お父さんの方が終るまで、黙って坐ってるの。ほんとにかわいそうなんだよ。お父さんはおなかが空くと、その席にお母さんを坐らせて、外に食べに行っちゃうんだけど、お母さんは何も食べられないでしょ、一日中。だから、少しの玉で景品のビスケットみたいなのと交換して、便所で急いで食べたりしたんだって……」

__そうなんだ……。

「学校から帰ると、お母さんがいないでしょ。お母さんがいないと寂しいから、ランドセルを置いて、あたしもパチンコ屋さんへ行くわけ。そこでひとりで遊ぶの。パチンコしたりして」

__お父さんから玉もらってやるわけだ。

「お父さんがくれるわけないじゃない」

__……というと?

「床に落ちているのを拾って、ひとつかふたつ、あたしが弾くと、だいたい入ったの」

__ほんと?

「すごくうまかったんだ、ほんとに。それで、いつも、いろんな物もらってた」

__怖しい餓鬼だったんですね。

「それでね、このあいだ、去年の秋、旭川に行ったとき、寄ってみたんだ」

__旭町の近辺に?

「そう。そうしたら、もう、ほんとに変っててね、わからないんだ。パチンコ屋さんがどこにあるのかも、わからなくなっていて……」

__十数年前といったって、そんなに、何がなんだかわからなくなる、ってほどでもないでしょ? それは、あなたが、あまりにも地理オンチすぎるんじゃないのかな。

「そうじゃないの、変ったの。だって、その頃、夏になると、そのパチンコ屋から近くのアイスキャンディー屋によく行ったの、退屈だから。5円か、10円持って。そのアイスキャンディー、とってもおいしかったんだ。でも、そのキャンディー屋さんもわからないの。あれだけよく買いに行ったのに。味はよおく覚えているのに、場所が全然わからなかった」

__味、ほんとに覚えてる?

「忘れない。東京に行っても、よく思い出したもん。あのアイスキャンディーが食べたいな、って」

 


解説
最初は、父親の話題に触れるのを嫌がっていた藤圭子さんですが、沢木耕太郎さんはあえてそこには触れずに、さまざまな角度から、彼女の子ども時代のことを聞き出そうとします。
インタビューの技術が冴えていますね。


獅子風蓮


正木伸城さんの本『宗教2世サバイバルガイド』その4

2024-01-18 01:13:26 | 正木伸城

というわけで、正木伸城『宗教2世サバイバルガイド』(ダイヤモンド社、2023.06)を読んでみました。

(もくじ)
はじめに
1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
3 自分の人生を歩めるようになるまで
4 それでも、ぼくが創価学会を退会しないわけ
5 対談 ジャーナリスト江川紹子さん 

1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
□ぼくの名付け親は池田大作
□創価大学へ進学、そして信仰に目覚める
□学会本部に就職、仕事や病気の悩みに直面
□組織への違和感が募り、心が引き裂かれる
■急速に冷めていった信仰熱
■好きなことで生きていく、いまの自分へ
■宗教2世の処世術をみなさんに伝えたい


1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
(つづきです)
急速に冷めていった信仰熱

しかし、創価学会本部に入るときに誓ったことを、ぼくは忘れませんでした。
「学会をこのままにしておくわけにはいかない! 俺が改革する!」
そして、あの手この手で、創価学会の改革に挑戦しました。
自分の父親が理事長(当時)であることを使わない手はありません。
父への直談判はもとより、父の縁によって人脈をたどりやすい境遇にいたことを活かして、学会の副会長をはじめ、なみいる幹部たちと対話をしました。創価学会の改革案をレポート化し、心ある人に提出しました。
まだうつ病が癒えていなかったころで、奔走は死に物狂いです。
しかし、結果として改革は挫折。
当然でしょう。ぼくは巨大組織のなかの一歯車、いわば“平社員”に過ぎません。それなのに、「改革はできる」と信じていたのです。とんだ甘ちゃんだったと思います。

べつのかたちでも、ジレンマを抱えることになります。
創価学会が支持母体となっている公明党を、心から応援できなくなったのです。公明党の政局的なふるまいや政策などに手放しでは賛同できない。
「どうしたら?」と葛藤しました。悩みました。
そのすえに、ぼくは疲労困憊していきました。

組織文化が合わない。違和感も多い。公明党も支援できない。
でも、本部職員のままでいると、組織のなかではどうしても指導的な立場になってしまう。多くの学会員に公明党のすばらしさを語り、支援をうながさなければならなくなる。
心から推すことができない公明党を、多くの人に勧めるとしたら?
自分で自分に嘘をつくことになる。みんなにも嘘をつくことになる。
ぼくは、それが耐えられませんでした。
そこで、創価学会本部をやめることにしました。


好きなことで生きていく、いまの自分へ

問題はここからです。
本部職員を「やめる」という行為は、学会員にとってはとんでもない負の記号です。
一部の学会員は、創価学会本部をやめたというだけで、「あいつは退転した!」ととらえます。ちなみに「退転(たいてん)」とは、最悪に落ちぶれたとか、反逆をイメージさせる単語です。
ぼくが「学会本部をやめたい」といいだしたところ、両親や妻、親族、相談相手になってもらっていた友だちから、大反対を受けました。
とくに父親とのケンカはつらかった。怒号が飛び交ったことも何度かあります。
きりきりと痛む、胃。謎の発熱も1年以上つづきました。
みんなの説得にかかった期間は、約1年になります。
それを経て、やっと、本部を退職することができました。2017年2月のことです。
本部に勤めた期間は、約13年間でした。

その後、案の定、見ず知らずの学会員や創価学園の同級生などから「あいつは金銭トラブルを起こしたらしい」「異性問題で懲戒解雇されたらしい」といった、根も葉もない噂を流されます。
「そんな噂が流れること自体、正木(ぼく)がいかに信頼されてこなかったかを物語っているよね」といった評判も広められました。悔しかったです。
しかも、転職は至難でした。
なにせ、現職は創価学会本部。やっていたことといえば、創価学会の教義をわかりやすく解説すること。
そのスキルだけを武器に民間企業へ転職しようとすることが、いかに“無理ゲー”なのかは、みなさんにもご理解いただけると思います。
しかし、縁あってIT企業への転職が叶い、そこで成果を出すことにも成功。
そののちは、2社のキャリアアップをかさね、現在はマーケティング・広報PRの分野でいろいろな会社の事業支援を行いつつ、文筆活動をぞんぶんに展開できるようになりました。
この過程で活きたのが、やはり宗教2世のサバイバル術でした。


宗教2世の処世術をみなさんに伝えたい

こうしたぼくの人生遍歴を押さえていただいたうえで、本書の第2部からは、ぼくの宗教2世サバイバル術の具体的な話にふれていきます。
話題は、多岐にわたります。
親子関係、友人関係、恋愛、進学、就職、信仰活動を手放す前と後の生き方など――。
ぼく自身、けっこう大変な思いをしてきましたが、その苦労が結晶してこの本になっています。

本書は、「被害を受けてきた」などと感じている宗教2世が、自分らしく、自分の人生を自分でハンドリングして生きられるようになるサバイバル術としてまとめたものです。あなたがもし苦労をしてきたのなら、苦労したぶん、幸福になる権利があります。このあとめくっていく1ページ1ページが、あなたが自分らしく生きるための一歩につながることを、ぼくは願っています。
では早速、ぼくが培ってきた宗教2世のサバイバル術をお伝えします。さあ、はじめましょう!

 

 


解説
その後、案の定、見ず知らずの学会員や創価学園の同級生などから「あいつは金銭トラブルを起こしたらしい」「異性問題で懲戒解雇されたらしい」といった、根も葉もない噂を流されます。
「そんな噂が流れること自体、正木(ぼく)がいかに信頼されてこなかったかを物語っているよね」といった評判も広められました。悔しかったです。
しかも、転職は至難でした。
なにせ、現職は創価学会本部。やっていたことといえば、創価学会の教義をわかりやすく解説すること。
そのスキルだけを武器に民間企業へ転職しようとすることが、いかに“無理ゲー”なのかは、みなさんにもご理解いただけると思います。


その後すぐに本部職員として採用された人は、退職後、つぶしがきかないので苦労するのでしょう。
そういえば、元本部職員の「3人組」の人たちはその後、どうしているのでしょうか。
無事、再就職できたのでしょうか。


獅子風蓮


正木伸城さんの本『宗教2世サバイバルガイド』その3

2024-01-17 01:07:52 | 正木伸城

というわけで、正木伸城『宗教2世サバイバルガイド』(ダイヤモンド社、2023.06)を読んでみました。

(もくじ)
はじめに
1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
3 自分の人生を歩めるようになるまで
4 それでも、ぼくが創価学会を退会しないわけ
5 対談 ジャーナリスト江川紹子さん 

1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
□ぼくの名付け親は池田大作
□創価大学へ進学、そして信仰に目覚める
■学会本部に就職、仕事や病気の悩みに直面
■組織への違和感が募り、心が引き裂かれる
□急速に冷めていった信仰熱
□好きなことで生きていく、いまの自分へ
□宗教2世の処世術をみなさんに伝えたい


1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
(つづきです)
学会本部に就職、仕事や病気の悩みに直面

大学3年、就職活動の時期のことです。ここから、新たな人生の展開がはじまります。結論を先にいえば、ぼくは創価学会本部に就職します。
ですが、それを決断する過程において、ひと悶着(もんちゃく)がありました。
ぼくは、自身の進路を「NASDA(宇宙開発事業団。現・JAXA〈宇宙航空研究開発機構〉の前身となる一機関)」にすると決めていたのです。ぼくは大学で、宇宙開発系の学問を専攻していました。
では、なぜ本部職員になると決めたのか?
先輩からの説得にあったのが、その理由といえます(また説得……)。
もちろん、いざ創価学会本部に進むと決めたら、「しぶしぶ行きます」というわけにはいきません。
そう思ったぼくは、唱題(「南無妙法蓮華経」を唱える祈り)を何時間も何時間も、何日も何日も実践して気持ちを整理し、「広宣流布のために」と心を定めて、教団本部に入ることを納得させました。
そして2004年4月、創価学会本部へ。聖教新聞社の記者になります。「聖教新聞」とは、創価学会の機関紙です。
ぼくは記者として、全国で活躍する学会員、人生の困難に立ちむかう信心一徹のメンバー、有識者、芸能人などを取材してまわり、それを記事にしていきました。
途中からは、創価学会の教義を聖教新聞紙上で解説する専門部署に異動し、そこで教えの記事を発信するようにもなります。仏教学も、このときにめちゃくちゃ勉強しました。 
燃えさかる使命感は、相当なものだったと思います。

ただし、本部職員としてのキャリアは順風満帆(じゅんぷうまんぱん)ではありませんでした。
病気がぼくを襲ったのです。
症状名は、うつ病、パニック障害、不安神経症、そして離人症。
精神疾患がきわまり、精神病棟に入院したこともあります。休職もくり返しました。
本部職員生活のほとんどは、うつ病と共存する日々でした。
電車に乗るだけでも動悸と吐き気で卒倒しそうになる。取材前には緊張で手足がガタガタふるえて止まらない。思考も停止気味になることがしばしば。気分が沈んでうつぶしているときに大声をあげて自分を奮い立たせ、職場にむかったことも、何度もありました。


組織への違和感が募り、心が引き裂かれる

ぼくがうつ病になった原因は明らかで、創価学会の組織文化が合わなかったのです。 それはじつは、学生時代から感じていたことでもあります。
これはぼくの意見ですが、創価学会の組織には膨大な課題があります。それに十分な対応をしないがゆえに、学会員のなかには、不本意な行為に巻きこまれたり、心を傷つけられたり、立場を排除される人が出ていました。
本書の第2部では創価学会の「成果主義」にかんする話題が出てきます。布教をはじめ、さまざまな項目一つひとつに達成をもとめられ、その達成数を追いかけるように組織に仕向けられることがあったのです。
そして、学会活動の現場が数字、数字、数字となる。
すると、本来であれば相手の幸福のために行われる布教が、一部では数字のために雑に行われるようになります。ほとんど押しつけ的に、強引に布教をしてしまう人が出てくるわけです。
それで友情が破綻するというケースを目にし、ぼくは心を痛めてきました。
なかには、数字を追わなければいけないという強迫観念から、精神的に病んでしまう人もいました。
これが成果主義の弊害の一つで、ぼくの知る創価学会の組織課題の一つです。

こうした成果主義をはじめ、「自分には合わない」と感じられる創価学会の組織文化がけっこうありました。
ぼくは、「合わない」と思ってしまう自分に苦悩し、「清浄な団体である創価学会に心身が合わないなんて、自分はおかしいのではないか」と自責の念を感じつづけました。一方で、組織について「ここは変えたい」「ここは改善点だよね」といった具合に課題として認識したことは、学生時代からメモにまとめていました。
その項目数は、300を超えます。
ぼくは組織に適応できない自分を恥じつつ、問題意識も抱いていたのです。
学生のころからそんな感じだったため、NASDAの夢を捨てて創価学会の職員になると決めた際には、「学会をこのままにしておくわけにはいかない! 俺が改革する!」と誓いました。……気負いが、ハンパないですね。

学会本部のなかで見聞きしたことは、多岐にわたります。おそらく多くの本部職員は、それに適応していったはずです。
でも、ぼくは変わっているからか、次第に組織への違和感を募らせていきました。 宗教活動の現場で、現今の宗教2世が告発しているような被害や、宗教由来の虐待を受けた過去をもつ人などに出会い、そういった“被害者”を助ける経験もありました。
たとえば、成果主義に追われて倒れた人などから、「学会の行き過ぎた成果主義、どうにかなりませんか?」と相談を受けたりしたのです。
その過程で募ったのも、やはり違和感でした。創価学会の信心をすることでかえって苦しみ、不幸せになっている学会員がいるのは、なぜだろう。
本来であれば、本部職員であるぼくが、そういった学会員を励まし、幸せにむけて手をたずさえて立ち上がるべきだったのでしょう。
でも、ぼくの力にはかぎりがあります。うまく支えられません。
悔やむばかりの日々でした。こうして、ぼくの心は引き裂かれていきます。
(つづく)


解説
学会本部のなかで見聞きしたことは、多岐にわたります。おそらく多くの本部職員は、それに適応していったはずです。
でも、ぼくは変わっているからか、次第に組織への違和感を募らせていきました。 宗教活動の現場で、現今の宗教2世が告発しているような被害や、宗教由来の虐待を受けた過去をもつ人などに出会い、そういった“被害者”を助ける経験もありました。
たとえば、成果主義に追われて倒れた人などから、「学会の行き過ぎた成果主義、どうにかなりませんか?」と相談を受けたりしたのです。
その過程で募ったのも、やはり違和感でした。創価学会の信心をすることでかえって苦しみ、不幸せになっている学会員がいるのは、なぜだろう。
本来であれば、本部職員であるぼくが、そういった学会員を励まし、幸せにむけて手をたずさえて立ち上がるべきだったのでしょう。


きっと正木伸城さんは、自分に正直で真面目な人なのでしょう。
そういう人だからこそ、心に負担を抱えて行ったのです。


獅子風蓮