獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その69)

2024-09-25 01:51:22 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
■第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第8章 悲劇の宰相

昭和31年(1956)8月10日、湛山は閣議の後に軽井沢の鳩山別邸に向かった。ほかに招集されたのは岸信介、石井光次郎、河野一郎、大野伴睦、三木武夫、官房長官の根本龍太郎だった。
「どうだろうか。私は政権の座にめんめんとする気はないから……。日ソ交渉の結果がはっきりしたところで引退したいと考えているのだが」
湛山は鳩山を除く6人の表情を、ゆっくり見た。岸は河野と顔を見合わせ、しきりに大きな歯を隠そうとした。三木武夫は湛山に視線を向け、石井は根本を見ている。大野は心持ち顔を上げて、じっと目を閉じている。
「そこで、皆さんに提案したいのは後任の総裁の件だ。党の規約では公選ということになっている。どういう形でもよいから総裁選任の方法を考えておいてほしいのです」
軽井沢の夜は涼しい。寒いくらいであった。応接間には暖炉の火が入れてあった。参集している客7人のそれぞれの心に、ほとんど同じ思いが兆し始めていた。「ポスト鳩山」への期待感であった。
鳩山はこの後、政府と与党の連絡会議の席上、早期引退の意向を正式に明らかにした。これは、いよいよ政局が本格的に動きだしたということであった。

(つづく)


解説

こうして、政局は自民党はじまっていらいの総裁選挙に向かって動き出しました。

令和の現在も、今まさに自民党の総裁選が行われようとしています。過去の歴史を知るのも興味深いですね。


獅子風蓮


『居場所を探して』を読む その25

2024-09-24 01:19:54 | 犯罪、社会、その他のできごと

友岡さんが次の本を紹介していました。

『居場所を探して-累犯障害者たち』(長崎新聞社、2012.11)

出所しても居場所がなく犯罪を繰り返す累犯障害者たち。彼らを福祉の手で更生させようと活動する社会福祉事業施設の協力で、現状と解決の道筋を探った。日本新聞協会賞を受賞した長崎新聞の長期連載をまとめた一冊。

さっそく図書館で借りて読んでみました。

一部、引用します。

□第1章 居場所を探して―累犯障害者たち
■第2章 変わる
 ■変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって
 □山本譲司さんインタビュー
□おわりに 


第2章 変わる

変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって

(つづきです)

講演から1年が過ぎた04年秋。
田島は宮城県福祉事業団の中に、罪を犯した障害者らの法的整備に関する勉強会をつ くった。
「とにかく塀の中の実態を知らねばならない」―そう思った。
やがて、厚生労働省の役人や弁護士、福祉関係者らから「勉強会に参加したい」との声が寄せられ始めた。「獄窓記」は想像以上に各方面に衝撃を広げていた。05年4月には、法務省の職員や「獄窓記」の著者である山本譲司にも加わってもらい、「触法・虞犯障害者の法的整備のあり方検討会」を発足させた。
私的な勉強会だった「検討会」は1年間にわたって調査・研究を重ねた末、06年6月、「罪を犯した障がい者の地域生活支援に関する研究」として厚労省の正式な研究班に「格上げ」された。刑務所内の障害者処遇の実態解明に、国が重い腰を上げたのである。しかし、研究班は最初から壁にぶち当たった。研究班の代表者が一向に決まらなかったのだ。刑事司法や福祉の分野で名の売れた研究者はことごとく代表に就くことを拒んだ。
「仕方のないことかもしれないな」と田島は思った。
研究班の最大の使命は、刑務所の実態を白日の下にさらすことだ。それは大勢の障害者たちが罪を犯し、刑務所に入っているという事実を明るみにすることに他ならない。当事者の家族会や人権団体から猛烈な抗議が寄せられるのは容易に想像できた。
ある日。厚労省の幹部が訪ねてきて、田島にこう言った。
「代表者はあなたしかいないでしょ」
田島は首を振った。
「俺は研究者ではない。現場の人間だ」
幹部は冗談交じりに返した。
「たいした問題じゃない。あんたが一番叩かれ慣れてる。適任だ」
その言葉を聞いて、田島は肩の力が抜けた気がした。
「確かに矢面に立つのは、私の領分かもしれない。これまでもずっとそうやって障害者のためにやってきたじゃないか」
田島は研究班の代表に就いた。
そして、「パンドラの箱」が開いた。
研究班が翌年の1970年に公表した刑務所の実態調査結果は社会に衝撃を広げた。
全国15カ所の刑務所の受刑者約2万7千人のうち、410人に知的障害(疑い含む)があった。「福祉のパスポート」と呼ばれる療育手帳を持っていたのは、そのうち、わずか26人(6%)。刑務所に収容されるに至った罪は窃盗、動機は「生活苦」がそれぞれ最多。
7割が再犯者で、その約半数は出所後、「帰住先」、つまり帰る場所がなかった。

(つづく)


解説

田島は研究班の代表に就いた。
そして、「パンドラの箱」が開いた。
研究班が翌年の1970年に公表した刑務所の実態調査結果は社会に衝撃を広げた。

自分の過去の反省点ときちんと向き合った田島氏は、累犯障害者の問題解決に向けて、重い扉をあけることができました。

見習うべき態度だと思います。


獅子風蓮


『居場所を探して』を読む その24

2024-09-23 01:11:32 | 犯罪、社会、その他のできごと

友岡さんが次の本を紹介していました。

『居場所を探して-累犯障害者たち』(長崎新聞社、2012.11)

出所しても居場所がなく犯罪を繰り返す累犯障害者たち。彼らを福祉の手で更生させようと活動する社会福祉事業施設の協力で、現状と解決の道筋を探った。日本新聞協会賞を受賞した長崎新聞の長期連載をまとめた一冊。

さっそく図書館で借りて読んでみました。

一部、引用します。

□第1章 居場所を探して―累犯障害者たち
■第2章 変わる
 ■変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって
 □山本譲司さんインタビュー
□おわりに 


第2章 変わる

変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって

(つづきです)

田島はしかし、ひそかに「問題行動」のある障害者を愛隣会で多く引き受けた。
小さな盗みを働いたり、無銭飲食をしたり、異性の体を無理矢理触ってしまったような人たちだった。
「事情聴取をしてもらちがあかんから、そっちで対応してもらえんか」
そんな風に警察から連絡が来て引き受ける場合もあれば、「手に負えない」と親や地域の住民から依頼が寄せられる時もあった。
「コロニー雲仙」をつくる時には「障害者は天使だ」と説いて回った田島だったが、
気付いていた。「障害者の中には罪を犯す人もいる」ということに―。
それは大きな自己矛盾だった。
罪を犯す障害者がいることに世間が気付けば、自分がうそをついてコロニー雲仙をつ
くったことになる。それは自分自身が歩んできた道をも否定することになるのではないか―。田島は恐れた。
「罪を犯す障害者たちが表に出て、問題を起こされては困る」と思った。だから、施設でこっそり受け入れた。今思えば、姑息だった。
山本の講演は、田島がずっと胸にふたをして、閉じ込めてきた思いや記憶を呼び起こさせた。
「刑務所が障害者の『居場所』になっていたなんて……。何が障害者福祉のプロか! 彼らに申し訳ない」。
後悔や後ろめたさのような感情が去らなかった。
講演の数日後。田島は宮城県内の刑務所に足を運んだ。
山本が話したことは真実なのか。自分の目で確かめたいと思った。
しかし、それは叶わなかった。応対に出た職員は取り付く島もなかった。
「(刑務所内の視察は)できません。何らかの罪を犯して刑事裁判で実刑判決を受ければ、いつでも入ることはできますけど」
法務省にも尋ねてみた。しかし、「一般刑務所に障害者は存在しません。障害がある受刑者は医療刑務所に収容されています」と言下に否定された。
一体、何が真実なのか、田島には皆目分からなかった。頭の中に霞がかかったような重苦しい日々が続いた。

(つづく)


解説

山本の講演は、田島がずっと胸にふたをして、閉じ込めてきた思いや記憶を呼び起こさせた。
「刑務所が障害者の『居場所』になっていたなんて……。何が障害者福祉のプロか! 彼らに申し訳ない」。
後悔や後ろめたさのような感情が去らなかった。

田島氏は、山本譲司氏が話したことが真実なのかどうか確かめるために刑務所内の見学を希望しましたが、断られてしまいました。

法務省に尋ねても「一般刑務所に障害者は存在しません」とけんもほろろでした。

時代がまだ、追いついていなかったのです。

 


獅子風蓮


『居場所を探して』を読む その23

2024-09-22 01:05:03 | 犯罪、社会、その他のできごと

友岡さんが次の本を紹介していました。

『居場所を探して-累犯障害者たち』(長崎新聞社、2012.11)

出所しても居場所がなく犯罪を繰り返す累犯障害者たち。彼らを福祉の手で更生させようと活動する社会福祉事業施設の協力で、現状と解決の道筋を探った。日本新聞協会賞を受賞した長崎新聞の長期連載をまとめた一冊。

さっそく図書館で借りて読んでみました。

一部、引用します。

□第1章 居場所を探して―累犯障害者たち
■第2章 変わる
 ■変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって
 □山本譲司さんインタビュー
□おわりに 


第2章 変わる

変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって

(つづきです)

電話から数日後。
東京都内で開かれた山本の講演会に、田島は厚労省の幹部たちと連れ立って出掛けた。
山本は「刑務所の中は障害者だらけです」「刑務所が福祉施設化している」と言った。その内容は極めて具体的で、迫真的で、説得力があった。田島は打ちのめされた気分になった。それまでの自信やプライドは粉々に砕け散った。
講演会の帰り道、喫茶店に立ち寄った。
幹部の1人が重い口を開いた。
「……もし、彼の話が事実だとすれば、大変ですね」
別の幹部は
「行政は一体何をしていたのか、と批判されるでしょうね」とうつむいた。
「大変なことになったな」
誰かがそう言ったきり、全員下を向いて、黙り込んだ。
運ばれてきたコーヒーはすっかり冷めていた。
田島は、しばらくショックを引きずっていた。
長崎県島原半島北部の雲仙市瑞穂町(当時南高来郡瑞穂町)に障害者福祉施設「コロニー雲仙」をつくった頃のことをぼんやりと思い出していた。
1978年、33歳の時、政治家になる夢をあきらめ、障害者福祉の世界に飛び込んだ。「社会の中で、最も生きる力の弱い人たちのために生きよう」と決めた。当時、最大の弱者が「精神薄弱児・者」(知的障害者)だと考えていた。
妻と3歳の息子と一緒に、施設の厨房の控室に住み込み、寝食を共にしながら、障害者たちの「思い」や「願い」を叶える活動を始めた。
「コロニー雲仙」をつくるまでには4年の歳月を要した。地元の人たちの反発が大きかったからだ。「ノーマライゼーション」「障害者との共生」―そんな耳障りのいいスローガンや考え方などない時代。
「障害者は何をするか分からない。危ない」「汚い」「気持ち悪い」―
一方的な偏見や差別の言葉を浴びせられた。
田島は必死に説いて回った。
「知的障害者が罪を犯すことはない。天使のようにかわいらしく、仏様のように穏やかな人たちなのですから!」
以来、がむしゃらに障害者のために働いた。障害者たちが「普通に暮らしたい」と望めば、グループホームをつくった。「働きたい」と言えば、就労のための施設をこしらえた。「結婚したい」と願えば、結婚相談の部署を立ち上げそのための環境を整えた。田島の後を追い掛けるように、障害者の法律や制度ができていった。

(つづく)


解説

社会福祉法人南高愛隣会理事長の田島良昭氏は、山本譲司氏の講演を聞いて、ショックを受けました。それまでの自信やプライドは粉々に砕け散ったのです。


獅子風蓮


『居場所を探して』を読む その22

2024-09-21 01:47:02 | 犯罪、社会、その他のできごと

友岡さんが次の本を紹介していました。

『居場所を探して-累犯障害者たち』(長崎新聞社、2012.11)

出所しても居場所がなく犯罪を繰り返す累犯障害者たち。彼らを福祉の手で更生させようと活動する社会福祉事業施設の協力で、現状と解決の道筋を探った。日本新聞協会賞を受賞した長崎新聞の長期連載をまとめた一冊。

さっそく図書館で借りて読んでみました。

一部、引用します。

□第1章 居場所を探して―累犯障害者たち
■第2章 変わる
 ■変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって
 □山本譲司さんインタビュー
□おわりに 


第2章 変わる

変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって

累犯障害者を取り巻く状況が大きく変わろうとしている。
刑務所の中で、検察捜査の最前線で、そして、福祉の現場で、罪を犯した障害者たちを更生に導くかつてない試みが広がっている。
改革の「震源地」は長崎。
ここでは、累犯障害者を取り巻く制度や状況がどのように動いてきたのかを描く。

(肩書きは取材当時)


2003年秋。
社会福祉法人南高愛隣会理事長の田島良昭の電話が鳴った。
相手は知人の厚生労働省幹部だった。
「山本譲司という人物は知っているか?」
聞き覚えのある名前だった。
元衆院議員。秘書給与詐取事件で実刑判決を受け、服役。刑務所を出所した後、心身に障害を持つ受刑者の世話係として汚物処理や「下の世話」をした経験を綴った著書「獄窓記」をこの年に出版し、話題を呼んでいた。
「あー、思い出した。その彼がどうかしたの?」
さして興味があるわけではなかったが、田島は問い返した。
「『刑務所の中にうじゃうじゃ障害者がいる』とあちこちで講演しているらしい。話を聴きに行ってみないか?」
そんな1本の電話が始まりだった。のちに、自らが先頭に立って累犯障害者たちの支援に奔走することになることなど、このときの田島は想像さえしていなかった。
この頃、田島は宮城県福祉事業団の理事長を務めていた。
宮城県知事だった浅野史郎に「宮城の福祉向上のために一肌脱いでもらいたい」と請われ、1993年に仙台市に移り住んだ。厚生労働省の職員から政治家に転身した浅野とは、障害者施策を通じた「無二の親友」。愛隣会の運営は信頼できる部下たちに任せ、「親友」のために力を尽くしていた。
田島は「福祉界の異端児」と呼ばれる。
障害者のためならなりふり構わないやり方が時に、同業者から煙たがられ、反感を買うことも多いからだ。しかし、田島の手腕によって日本の障害者福祉が「進化」したことも事実だ。グループホームも、障害者自立支援法も、枠組みを編み出したのは田島だった。宮城でも豪腕ぶりを見せ付けた。2002年11月、全国の自治体で初めて障害者施設の「解体」を宣言。施設に入所している知的障害者たちはすべて施設を出て、家族や友人がいる地域の中で生活してもらおうという試みだった。
「普通の場所で、普通の生活を」。そんな理念があった。
だから、厚労省の幹部から電話があった時、田島は半信半疑だった。
「眉唾物の話だろう」と高をくくっていた。
何十年も障害者福祉に携わった者として、「そんな話は認めるわけにはいかない」という反発もあった。

(つづく)


解説

社会福祉法人南高愛隣会理事長の田島良昭の電話が鳴った。
相手は知人の厚生労働省幹部だった。
「山本譲司という人物は知っているか?」

私は別のところ(獅子風蓮の夏空ブログ)で、山本譲司『獄窓記』の紹介をしています。

山本譲司『獄窓記』を読む その1(2024-08-25)~

山本氏の経験が、こうしてめぐりめぐって累犯障害者への取り組みにつながっていくのですね。

不思議なめぐり合わせを感じます。

 

 

獅子風蓮