友岡さんが次の本を紹介していました。
『居場所を探して-累犯障害者たち』(長崎新聞社、2012.11)
出所しても居場所がなく犯罪を繰り返す累犯障害者たち。彼らを福祉の手で更生させようと活動する社会福祉事業施設の協力で、現状と解決の道筋を探った。日本新聞協会賞を受賞した長崎新聞の長期連載をまとめた一冊。
さっそく図書館で借りて読んでみました。
一部、引用します。
□第1章 居場所を探して―累犯障害者たち
■第2章 変わる
■変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって
□山本譲司さんインタビュー
□おわりに
第2章 変わる
変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって
累犯障害者を取り巻く状況が大きく変わろうとしている。
刑務所の中で、検察捜査の最前線で、そして、福祉の現場で、罪を犯した障害者たちを更生に導くかつてない試みが広がっている。
改革の「震源地」は長崎。
ここでは、累犯障害者を取り巻く制度や状況がどのように動いてきたのかを描く。
(肩書きは取材当時)
2003年秋。
社会福祉法人南高愛隣会理事長の田島良昭の電話が鳴った。
相手は知人の厚生労働省幹部だった。
「山本譲司という人物は知っているか?」
聞き覚えのある名前だった。
元衆院議員。秘書給与詐取事件で実刑判決を受け、服役。刑務所を出所した後、心身に障害を持つ受刑者の世話係として汚物処理や「下の世話」をした経験を綴った著書「獄窓記」をこの年に出版し、話題を呼んでいた。
「あー、思い出した。その彼がどうかしたの?」
さして興味があるわけではなかったが、田島は問い返した。
「『刑務所の中にうじゃうじゃ障害者がいる』とあちこちで講演しているらしい。話を聴きに行ってみないか?」
そんな1本の電話が始まりだった。のちに、自らが先頭に立って累犯障害者たちの支援に奔走することになることなど、このときの田島は想像さえしていなかった。
この頃、田島は宮城県福祉事業団の理事長を務めていた。
宮城県知事だった浅野史郎に「宮城の福祉向上のために一肌脱いでもらいたい」と請われ、1993年に仙台市に移り住んだ。厚生労働省の職員から政治家に転身した浅野とは、障害者施策を通じた「無二の親友」。愛隣会の運営は信頼できる部下たちに任せ、「親友」のために力を尽くしていた。
田島は「福祉界の異端児」と呼ばれる。
障害者のためならなりふり構わないやり方が時に、同業者から煙たがられ、反感を買うことも多いからだ。しかし、田島の手腕によって日本の障害者福祉が「進化」したことも事実だ。グループホームも、障害者自立支援法も、枠組みを編み出したのは田島だった。宮城でも豪腕ぶりを見せ付けた。2002年11月、全国の自治体で初めて障害者施設の「解体」を宣言。施設に入所している知的障害者たちはすべて施設を出て、家族や友人がいる地域の中で生活してもらおうという試みだった。
「普通の場所で、普通の生活を」。そんな理念があった。
だから、厚労省の幹部から電話があった時、田島は半信半疑だった。
「眉唾物の話だろう」と高をくくっていた。
何十年も障害者福祉に携わった者として、「そんな話は認めるわけにはいかない」という反発もあった。
(つづく)
【解説】
社会福祉法人南高愛隣会理事長の田島良昭の電話が鳴った。
相手は知人の厚生労働省幹部だった。
「山本譲司という人物は知っているか?」
私は別のところ(獅子風蓮の夏空ブログ)で、山本譲司『獄窓記』の紹介をしています。
山本譲司『獄窓記』を読む その1(2024-08-25)~
山本氏の経験が、こうしてめぐりめぐって累犯障害者への取り組みにつながっていくのですね。
不思議なめぐり合わせを感じます。
獅子風蓮