獅子風蓮のつぶやきブログ

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佐藤優『国家の罠』その13

2025-01-27 01:30:05 | 佐藤優

佐藤優『国家の罠』その13  1/27
#佐藤優#国家の罠#外務省のラスプーチン#外務省#東京地検特捜部

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 ■国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


国益にいちばん害を与える外交官とは

「ロシアスクール」の親分格である丹波實大使と東郷和彦局長の小寺課長に対する評価は初めから低かった。1999年夏、丹波實氏が駐露大使に転出する壮行会を鈴木宗男氏が赤坂のイタリア・レストランで行ない、そこに私も同席した。他に同席者はいなかった。「ロシアスクール」の人物評に話が及んだ際に丹波氏は次のように述べた。
「小寺は馬鹿なんですよ。頭が悪い。僕は全然評価していません。しかし、あの辺にいる他の連中はもっとひどいんです。人材がいないんですよ。幸い、東郷がいるから、東郷がきちんと言えば小寺も言うことは聞くでしょうから何とかなります」
ちなみに丹波氏は、政治家や政治部記者の心を惹きつける独特の魅力をもっている。同時に決して政治家に対して阿るわけでもない。この席でも、鈴木氏にとって耳の痛い話もした。当時鈴木氏は内閣官房副長官をつとめ、権力の中枢にいた。
「宗さん、この機会に言っておきたいことがあります。お気に障るかもしれませんが聞いてください。まず、平和条約について、四島の日本への帰属が完全に解決されてから結ぶという基本線については絶対に譲らないでください。これは約束してください」これについて、鈴木氏は「約束する」と言った。それに続いて、丹波大使は、「前にも言いましたが、ここにいる佐藤のことなんですが、宗さんが官邸を去るときには、外務省に返してください。佐藤の将来のことも考えてあげてください」と続けた。
これに対して鈴木氏は、「俺は何も佐藤さんを勝手に使っているわけじゃないんだぞ。佐藤さんも鈴木なんかと付き合わされて、内心では迷惑しているかもしれない。国益のために佐藤さんの力が必要なんだ。しかも、来年(2000年)までに平和条約を締結するというのは、小渕政権の最大課題なんだから、そのために最も効果的に人を使うということなんだ」と答えたことで、その後、気まずい沈黙が続いた。
私が「日露平和条約のために乾杯」と音頭をとって、グラスいっぱいに注いだ赤ワインを一気飲みしたので、話題は別の方に流れた。

小寺氏の名誉のために述べておくならば、小寺氏は自らの出世だけを考え他人を蹴落とすためにさまざまな画策をするという陰謀家ではない。小寺氏には自分の美学があり、それを大切にする。いわゆる真面目な官僚であり、どろどろとした政治の世界から外交官はできるだけ距離を置いて、外務省という「水槽」の中の秩序を正しく維持する。私の見るところ、それこそが小寺氏の美学である。従って、部下に能力を超えるような困難な仕事を与えたり、長時間の残業を強いることもない。そういう意味では理想の上司だ。

東郷局長の仕事スタイルは小寺課長と対照的だ。極端な能力主義者で、能力とやる気のある者を買う。酔うと東郷氏がよく言っていたことがある。
「僕は若い頃、よく父(東郷文彦、外務事務次官、駐米大使を歴任)と言い争ったものですよ。父は僕に、『外交官には、能力があってやる気がある、能力がなくてやる気がある、能力はあるがやる気がない、能力もなくやる気もないの4カテゴリーがあるが、そのうちどのカテゴリーが国益にいちばん害を与えるかを理解しておかなくてはならない。お前はどう考えるか』とよく聞いてきたものです。
僕は、能力がなくてやる気もないのが最低と考えていたのだが、父は能力がなくてやる気があるのが、事態を紛糾させるのでいちばん悪いと考えていた。最近になって父の言うことが正しいように思えてきた。とにかく能力がないのがいちばん悪い。これだけは確かです」

外交官は、上級(I種)試験に合格したキャリアであれ、専門職試験に合格したノンキャリアであれ、そこそこプライドが高い。従って、能力差について公然と話をすることは一種のタブーである。東郷氏は人当たりが柔らかいので、はじめはなかなか気付かないが、少し洞察力のある人ならば、本質的に極端な能力主義者であることがわかる。
東郷氏自身も、英語、フランス語、ロシア語が堪能で、相当困難な交渉を通訳の助けを借りずにできるロシア語力をもつ数少ないキャリア外交官だ。しかも文学、哲学にも明るく、特にプラトンをよく読み込んでいるので、ロシアの知識人と仕事を離れたところでも楽しく付き合うことができる。私は東郷氏とモスクワで2年間共に仕事をしたが、東郷氏ほどロシアの政治・経済・学術エリートに食い込んだ外交官はいなかった。
仕事で東郷局長の要求する水準を満足させるのはたいへんだった。東郷氏からの「宿題」を処理するために、早朝、4時、5時まで仕事をし、仮眠室でちょっと横になり、午前9時半に東郷氏の執務室に完成した資料を届けたことが何度もあった。また、作業のやり直しを命じられることもしばしばだったが、東郷氏がやり直しを命じた点はいつもよいポイントを突いていた。東郷氏との仕事は肉体的にはとてもキツイが、いつも充実感があった。

2000年夏頃から、東郷局長から私のところに回される書類が増えてきた。「ロシア課から上がってくる紙が基準に達していない。小寺課長の構想力の限界だ。あなたの方で見て、チェックしてほしい」と言われることが多くなった。そして、私のコメントを踏まえ、東郷氏が自己の見解を付け加え、対露交渉の戦略・戦術文書が作成されることが多くなった。
このことが一部のロシア課員には、東郷局長が、鈴木氏の意向を受けた私に操られていると見えたのであろう。しかし、これは全く的外れな見方だ。なぜなら鈴木氏と東郷氏は強い信頼関係で結ばれていたので、「佐藤経由」などという小技を使わなくても、鈴木氏はストレートに東郷氏に自らの意向を伝えていたからだ。また、東郷氏も決して鈴木氏の言いなりだったわけではない。「できることはできる」、「できないことはできない」ときちんと答えていた。
政治家と官僚では、文化も行動の基礎となる「ゲームのルール」も大きく異なる。私が理解するところでは、鈴木宗男氏と外務省の軋轢のほとんどは、文化摩擦、もしくは「ゲームのルール」の相違から生じるもので、その点をお互いが理解すれば、問題はいつも解決した。霞が関(官界)と永田町(政界)は、隣町だが、その距離は実はいちばん遠い。なぜなら地球を反対側に一周しなくては行き着けないからである。
東郷氏と私が永田町に受け入れられていたとすると、そのわけは、霞が関と永田町の間の通訳能力をもっていたからではないかと思う。

通訳の具体例をあげてみよう。
官僚とちょっとした行き違いがあった後、政治家が「俺は気にしていないぞ」と言ったとする。この永田町言語を翻訳すると「俺の方ではなく、お前の方で深く反省して、何か言ってこい」ということだ。
「東郷局長は元気かな。忙しそうなので、今度俺の方から挨拶に行くよ」という永田町言語は「東郷は最近どうも他の政治家のところをうろちょろしているようだな。すぐに俺のところに顔を出せ」と翻訳しなくてはならない。
しかし、多くの外務省の同僚に、私や東郷氏の通訳能力は理解されなかった。

2000年秋以降、対露関係で、官邸絡みのいくつかの重要案件に関する指示が小寺ロシア課長を迂回して、東郷局長から私に直接なされるようになった。
私は東郷氏に対して、「このままだと、ただでさえ複雑な私のチームとロシア課の関係が一層複雑になります。その点について配慮してください」と要求した。これに対し東郷氏は、「ロシア課にはあなたを慕っている人も多いので、心配しないでよい。小寺は僕がきちんと抑える」と答えた。
仕事を遂行する上で、例えば「チーム」メンバーをモスクワに出張させる場合も、本当の目的を言うことができない。そこで、関係部局から「不必要な出張ではないか」とストップがかかる。業務について説明することが、東郷局長によって厳禁されているので、私は各部局の担当者や課長に納得できないならば、とにかく上にあげてくれ」というしかない。しぶしぶ各課が上にあげると、そこでは東郷氏による根回しが済まされているので、簡単に決裁される。そうすると、当然、事情を知らない人々からは「外務省上層部がどこかから圧力を受けている。佐藤たちは一体何をしているのか」という疑念を招くことになる。
特に2000年12月25日、クレムリンで行われた鈴木宗男自民党総務局長とプーチン大統領最側近のセルゲイ・イワノフ安全保障会議事務局長との会談については、事前にロシア課には課長を含めその計画を一切知らせていなかったので、私と小寺課長の関係は決定的に悪化した。
私は、「東郷さん、このような体制で仕事をいつまでも続けることはできません。チーム員の負担が大きすぎます。作業の一部をロシア課に移管すべきです」と訴えたが、東郷局長は、「あと2、3ヵ月だ。平和条約への道筋ができれば、みんな理解してくれる。まずは成功することだ」と言った。
ある意味で東郷局長の主張は正しかった。しかし、私にとっても東郷氏にとっても不幸だったのは、その正しさが成功によってではなく、失敗によって証明されたことだ。結局、平和条約への道筋をつけることはできなかったのである。それゆえに東郷氏も私も「チーム」も外務省の同僚たちからは理解されず、反感だけが蓄積されたのだった。そして、それは巨大なマグマのうねりのように地中で蠢き始めていた。これが、田中眞紀子外相誕生前夜に、私たちが置かれていた状況だったのである。

 

 


解説
私にとっても東郷氏にとっても不幸だったのは、その正しさが成功によってではなく、失敗によって証明されたことだ。結局、平和条約への道筋をつけることはできなかったのである。それゆえに東郷氏も私も「チーム」も外務省の同僚たちからは理解されず、反感だけが蓄積されたのだった。そして、それは巨大なマグマのうねりのように地中で蠢き始めていた。これが、田中眞紀子外相誕生前夜に、私たちが置かれていた状況だったのである。

なるほど、当時の背景がよく分かります。

 

獅子風蓮