昨日の18:30より、北区民センターにて最後の練習。細かい部分をチェックしながら通していった。暗譜で80%ほど参加できるようになった。「よくぞここまで」という思いにとらわれる。しかし、1ヶ月遅れで参加した分、間にあわなかったのは事実。
毎週、大阪市内によく通った。浪速区民センター、天王寺区民センター、中央青年センター、西成区民センター、いきいきエイジングセンターなど。一番多かったのが中央公会堂である。もう来ることはないので中ノ島周辺を写真に収めてきた。
御堂筋をはさんで大阪市役所
ベートーヴェンは、1770年に、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで生まれる。祖父は宮廷歌手として成功していたが、同じ宮廷歌手である父は酒に溺れていたため、祖父が生計を支えていた。3歳の時、祖父が亡くなり生活は困窮した。歌手としての生命が終わっていた父は、当時、天才音楽家として有名だったモーツアルトにヒントを得て、4歳の頃から苛烈を極める音楽教育を課した。
父の教育は成功していたとは言い難いものだったが、ベートーヴェンは早熟の天才として才能を開花させていき、10代の頃には、一家の生計を支えるようになる。16歳の時、ウィーンを訪れ、憧れのモーツアルトと対面を果たした。この時、モーツアルトは30歳。 モーツアルトに弟子入りを申し出て、許されたが、最愛の母親の訃報によって故郷に帰らざるをえなかった。この4年後に、モーツアルトは亡くなるので、弟子になることはできなかった。
母の死後は、アルコール依存症となり失職した父や幼い兄弟たちのために、仕事を掛け持ちして家計を支える苦悩の日々を過ごした。1792年7月、ウィーンに帰る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許された。 11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手として名声を博した。
24歳の時、初めて「ピアノ三重奏曲」を作曲し、少年演奏家から音楽家へと歩み始める。しかし、28歳ぐらいから、耳が聞こえづらいことに気づき、30歳になるころには中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から1802年に『ハイリゲンシュタットの遺書』を記し自死も考えたが、強靭な精神力でこの苦悩を乗り越え、演奏を中心とした音楽家から、作曲を専門にする音楽家へと転進することを決意。
1804年、交響曲第3番を発表したのを皮切りに、難聴と向き合ったベートーヴェンは次々と曲を作り上げていく。「エロイカ」「運命」「田園」などの交響曲やピアノソナタなどが作られ、生涯に作曲した約半分は、この時期の作品である。約10年にわたるこの時期を、「ベートーヴェンの生涯」を著したロマン・ロランは『傑作の森』と表現している。
40代に入ると、難聴が次第に悪化し、晩年の約10年はほぼ聞こえない状態にまで陥った。また、神経症とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥のカールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞した。そうした苦悩の中で、1822年から1824年にかけ『交響曲第九番』は作曲された。52歳から54歳の時である。その3年後、57歳で“嵐の一日のような”生涯を閉じる。
シラーの詩“An die Freude"(歓喜に寄す)は、シラー26歳の1785年に作られた。この詩に初めて作曲したのはケルナーという人で、1786年には、その旋律とともに、ベートーヴェンの住むボンにも入って、ボンの青年たちは、この長い詩を杯をあげながら歌ったという。
「歓喜に寄す」がベートーヴェンのスケッチ帳にあらわれるのは1812年、41歳の時である。しかし、作曲しようという気になったのは、それよりも20年前のことであったという。
淀屋橋より御堂筋のイルミネーション
「ベートーヴェンの生涯」の中でロマン・ロランは、「第九」の初演の様子をこう書いている。
1824年5月7日にヴィーンにおいて、『荘厳なミサ曲』と『第九交響曲』とが初演された。成功は凱旋的であった。それはほとんど喧騒にまで陥った。ベートーヴェンがステージに現れると、彼は喝采の一斉射撃を五度までも浴びせかけられた。儀礼的なこの国では宮廷の人々の来場に際しても三度だけ喝采するのが習慣であった。警官が喝采の大騒ぎを鎮めなければならなくなった。
第九交響曲は気狂いじみた感激を巻き起こした。多数の聴衆が泣き出していた。ベートーヴェンは演奏会の後で、感動のあまり気絶した
人々が熱狂したのは作品の素晴らしさもあるが、当時の社会的な背景もあったのではないかと思う。昨日の最後の練習でも、二ヶ所で、指導者が「ここは一度、隣の人と腕を組むなり、肩に手をまわすなりして歌ってみましょう」と言われた。「ばらばらになっていた者が連帯していく、その喜びを表現していく気持ちを忘れないで欲しい」とのこと。
当時のヨーロッパは転換点にさしかかっていた。1760年頃よりイギリスでは産業革命が起こり、1776年にアメリカ独立宣言がなされ、1789年フランス革命開始。ベートーヴェンも多感な時期、強く関心を寄せていた。1804年ナポレオンが皇帝に即位。1814年には失脚、ウィーン会議で復古的なウィーン体制がしかれる。この保守主義の風潮に対して、各国のブルジョワジーは自由主義で対立した。
今までの植民地、帝国が分離独立して、社会が近代国家へと生まれ変わっていくダイナミックな動き、大きな地殻変動があった時代である。文化面でも古典主義の表現形式の規制を打破して、自我の自由な表現を追求しようとしたロマン主義への転換があった。1814年のヴィーン会議を境にして、ヴェートーベンは栄光の時期から最も悲しく、惨めな時期を迎えるのである。
人々は政治に心を奪われて芸術を忘れた。音楽の好みはイタリア派のために毒された。そして、すっかりロッシーニにかぶれた新流行が、ベートーヴェンを頑なな理屈屋だといい出した。ベートーヴェンの味方であり擁護者だった人々は、そのあいだに散り散りになったり死んだりした。(中略)「自分は一人も友を持たない。世界中に独りぼっちだ」と1816年の『手記』の中に書いている。
一番多く通った中央公会堂
ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』の最後は、次のように締めくくられている。
不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出すーそれを世界に贈りものとするために。彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す。そのことを彼は次の誇らしい言葉によって表現したが、この言葉の中には彼の生涯が煮つめられており、またこれは、雄々しい彼の魂全体にとっての金言でもあった。
『悩みをつき抜けて歓喜に到れ!』Durch Leiden Freude
第九の合唱は、バリトンのソリストのFreudeを受けての私のパートであるベースのFreudeから始まる。ベートーヴェンの苦悩に比べれば、私の苦悩などけし粒みたいなものだが、この3ヶ月の思いと彼のこの作品へ到る歩みを胸に、思い切り『Freude!』(歓喜よ!)とシンフォニーホールに響かせたい。
毎週、大阪市内によく通った。浪速区民センター、天王寺区民センター、中央青年センター、西成区民センター、いきいきエイジングセンターなど。一番多かったのが中央公会堂である。もう来ることはないので中ノ島周辺を写真に収めてきた。
御堂筋をはさんで大阪市役所
ベートーヴェンは、1770年に、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで生まれる。祖父は宮廷歌手として成功していたが、同じ宮廷歌手である父は酒に溺れていたため、祖父が生計を支えていた。3歳の時、祖父が亡くなり生活は困窮した。歌手としての生命が終わっていた父は、当時、天才音楽家として有名だったモーツアルトにヒントを得て、4歳の頃から苛烈を極める音楽教育を課した。
父の教育は成功していたとは言い難いものだったが、ベートーヴェンは早熟の天才として才能を開花させていき、10代の頃には、一家の生計を支えるようになる。16歳の時、ウィーンを訪れ、憧れのモーツアルトと対面を果たした。この時、モーツアルトは30歳。 モーツアルトに弟子入りを申し出て、許されたが、最愛の母親の訃報によって故郷に帰らざるをえなかった。この4年後に、モーツアルトは亡くなるので、弟子になることはできなかった。
母の死後は、アルコール依存症となり失職した父や幼い兄弟たちのために、仕事を掛け持ちして家計を支える苦悩の日々を過ごした。1792年7月、ウィーンに帰る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許された。 11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手として名声を博した。
24歳の時、初めて「ピアノ三重奏曲」を作曲し、少年演奏家から音楽家へと歩み始める。しかし、28歳ぐらいから、耳が聞こえづらいことに気づき、30歳になるころには中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から1802年に『ハイリゲンシュタットの遺書』を記し自死も考えたが、強靭な精神力でこの苦悩を乗り越え、演奏を中心とした音楽家から、作曲を専門にする音楽家へと転進することを決意。
1804年、交響曲第3番を発表したのを皮切りに、難聴と向き合ったベートーヴェンは次々と曲を作り上げていく。「エロイカ」「運命」「田園」などの交響曲やピアノソナタなどが作られ、生涯に作曲した約半分は、この時期の作品である。約10年にわたるこの時期を、「ベートーヴェンの生涯」を著したロマン・ロランは『傑作の森』と表現している。
40代に入ると、難聴が次第に悪化し、晩年の約10年はほぼ聞こえない状態にまで陥った。また、神経症とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥のカールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞した。そうした苦悩の中で、1822年から1824年にかけ『交響曲第九番』は作曲された。52歳から54歳の時である。その3年後、57歳で“嵐の一日のような”生涯を閉じる。
シラーの詩“An die Freude"(歓喜に寄す)は、シラー26歳の1785年に作られた。この詩に初めて作曲したのはケルナーという人で、1786年には、その旋律とともに、ベートーヴェンの住むボンにも入って、ボンの青年たちは、この長い詩を杯をあげながら歌ったという。
「歓喜に寄す」がベートーヴェンのスケッチ帳にあらわれるのは1812年、41歳の時である。しかし、作曲しようという気になったのは、それよりも20年前のことであったという。
淀屋橋より御堂筋のイルミネーション
「ベートーヴェンの生涯」の中でロマン・ロランは、「第九」の初演の様子をこう書いている。
1824年5月7日にヴィーンにおいて、『荘厳なミサ曲』と『第九交響曲』とが初演された。成功は凱旋的であった。それはほとんど喧騒にまで陥った。ベートーヴェンがステージに現れると、彼は喝采の一斉射撃を五度までも浴びせかけられた。儀礼的なこの国では宮廷の人々の来場に際しても三度だけ喝采するのが習慣であった。警官が喝采の大騒ぎを鎮めなければならなくなった。
第九交響曲は気狂いじみた感激を巻き起こした。多数の聴衆が泣き出していた。ベートーヴェンは演奏会の後で、感動のあまり気絶した
人々が熱狂したのは作品の素晴らしさもあるが、当時の社会的な背景もあったのではないかと思う。昨日の最後の練習でも、二ヶ所で、指導者が「ここは一度、隣の人と腕を組むなり、肩に手をまわすなりして歌ってみましょう」と言われた。「ばらばらになっていた者が連帯していく、その喜びを表現していく気持ちを忘れないで欲しい」とのこと。
当時のヨーロッパは転換点にさしかかっていた。1760年頃よりイギリスでは産業革命が起こり、1776年にアメリカ独立宣言がなされ、1789年フランス革命開始。ベートーヴェンも多感な時期、強く関心を寄せていた。1804年ナポレオンが皇帝に即位。1814年には失脚、ウィーン会議で復古的なウィーン体制がしかれる。この保守主義の風潮に対して、各国のブルジョワジーは自由主義で対立した。
今までの植民地、帝国が分離独立して、社会が近代国家へと生まれ変わっていくダイナミックな動き、大きな地殻変動があった時代である。文化面でも古典主義の表現形式の規制を打破して、自我の自由な表現を追求しようとしたロマン主義への転換があった。1814年のヴィーン会議を境にして、ヴェートーベンは栄光の時期から最も悲しく、惨めな時期を迎えるのである。
人々は政治に心を奪われて芸術を忘れた。音楽の好みはイタリア派のために毒された。そして、すっかりロッシーニにかぶれた新流行が、ベートーヴェンを頑なな理屈屋だといい出した。ベートーヴェンの味方であり擁護者だった人々は、そのあいだに散り散りになったり死んだりした。(中略)「自分は一人も友を持たない。世界中に独りぼっちだ」と1816年の『手記』の中に書いている。
一番多く通った中央公会堂
ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』の最後は、次のように締めくくられている。
不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出すーそれを世界に贈りものとするために。彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す。そのことを彼は次の誇らしい言葉によって表現したが、この言葉の中には彼の生涯が煮つめられており、またこれは、雄々しい彼の魂全体にとっての金言でもあった。
『悩みをつき抜けて歓喜に到れ!』Durch Leiden Freude
第九の合唱は、バリトンのソリストのFreudeを受けての私のパートであるベースのFreudeから始まる。ベートーヴェンの苦悩に比べれば、私の苦悩などけし粒みたいなものだが、この3ヶ月の思いと彼のこの作品へ到る歩みを胸に、思い切り『Freude!』(歓喜よ!)とシンフォニーホールに響かせたい。