隔週金曜日に精神科医の春日武彦さんの『心察室』が掲載される。いつも楽しみにしている。今日は“続・充実感”という題がついていた。
自分が一生を終える際に、「ああ、わたしの人生は充実感に満ちた有意義なものだった」と感じられる人は少数派であるような気がするということから、春日さんの臨床体験が語られる。
わたしのような仕事をしていると、往々にして、シリアスきわまりない顔で「人間は、どうして自分の命を自分の意思で捨ててはいけないのですか」などと問い詰められる。返答次第ではすぐにも自殺をしてしまいそうな勢いなので、当方としても適当な言葉で茶を濁すわけにいかない。
わたしの回答例としてはーたくさんの人たちが、自分の思いを遂げられないまま、不幸にして道半ばで倒れていきました。人生の時間が足りなかった、と悔しがり悲しんで亡くなっていった人は数えきれません。 こうしている今も、無念なまま人生を終えねばならない人がどれだけいることやら。 それを想像してみれば、自分に与えられた時間を道端に放り捨てるようなことをするのは寂しいことだし、今申したような多くの人たちにとって失礼じゃないですか。
私も同じ思いを持つ。いつからかと考えてみると、2つの本が大きな存在としてある。
1つは、小学校の高学年で読んだ「フランダースの犬」。読み終えた時のせつない悲しみは、生まれて初めての感情だったと思う。 もう1つは、高校の時、家の本棚にあった「きけわだつみの声」。タイトルの意味もわからずに、「何だろう?」という好奇心でページを開けた。雷にでも打たれたような衝撃があった。
といってもその後、私自身立派な生き方ができた。とは言えないが、少なくても自分に与えられた時間を、自分で捨てるということは考えなかった。
自分が一生を終える際に、「ああ、わたしの人生は充実感に満ちた有意義なものだった」と感じられる人は少数派であるような気がするということから、春日さんの臨床体験が語られる。
わたしのような仕事をしていると、往々にして、シリアスきわまりない顔で「人間は、どうして自分の命を自分の意思で捨ててはいけないのですか」などと問い詰められる。返答次第ではすぐにも自殺をしてしまいそうな勢いなので、当方としても適当な言葉で茶を濁すわけにいかない。
わたしの回答例としてはーたくさんの人たちが、自分の思いを遂げられないまま、不幸にして道半ばで倒れていきました。人生の時間が足りなかった、と悔しがり悲しんで亡くなっていった人は数えきれません。 こうしている今も、無念なまま人生を終えねばならない人がどれだけいることやら。 それを想像してみれば、自分に与えられた時間を道端に放り捨てるようなことをするのは寂しいことだし、今申したような多くの人たちにとって失礼じゃないですか。
私も同じ思いを持つ。いつからかと考えてみると、2つの本が大きな存在としてある。
1つは、小学校の高学年で読んだ「フランダースの犬」。読み終えた時のせつない悲しみは、生まれて初めての感情だったと思う。 もう1つは、高校の時、家の本棚にあった「きけわだつみの声」。タイトルの意味もわからずに、「何だろう?」という好奇心でページを開けた。雷にでも打たれたような衝撃があった。
といってもその後、私自身立派な生き方ができた。とは言えないが、少なくても自分に与えられた時間を、自分で捨てるということは考えなかった。