第25週“奇跡”は病院の看護師と入院患者によるファッションショーを軸に展開された。今日はファッションショー当日の模様が中心であったが、しつこすぎることなくしかも押さえどころはピシッと押さえている展開の小気味よさが心地よかった。カメラワークと展開の巧みさは最初から最後までゆるむことなくできてきたように思う。来週は最終章、どう収めるのかとても楽しみである。
ファッションショーの場面を見ていて、6年前に亡くなった義姉のことを思い浮かべた。義姉は18歳の女子大在学中に関節リウマチを発病し、69歳で亡くなるまでの50年余りを病魔と闘い続けた。全身の関節機能を奪い取られ、一種一級の身体障害者として生きなければならないという現実を受け入れるまでの苦悩や“ひとりの自立した人間”として生きた証しを平成10年(1998)に『車椅子から天国の岸教授へ』というタイトルで自分史を自費出版した。61歳の時である。
妻の実家に帰るたび、義姉の入所している授産施設「たまも園」に立ち寄ったが限られた時間であったのでゆっくり話を聞く機会はもてなかった。本を通じて、初めて義姉のたどった道や内面にふれることができた。高校時代にアナウンサーか新聞記者になりたいと思っていた義姉は“書く”ことで社会との関わりを持っていった。本の中でこう述懐している。
「私が書くことをしていなかったら、ただの障害者として生涯人の世話になるだけで終わるだろう。重度障害者が自分の力で何かを世間に訴えるには、健常者の何十倍もの努力をしなければならない。幸いにして恵まれた時間を有意義に過ごして生かせることを今は感謝している。」
昭和61年(1986)8月、高松市民会館で開催される恒例の〈わたぼうしコンサート〉に出演することになった義姉は、ボランティアとしてこのコンサートに関わっておられた香川大学の岸先生と運命的な出会いをする。その後、岸先生は施設にとじこもりがちだった義姉を積極的に外に連れ出してくれた。
そのコンサートで初めてファッションショーが開かれたのである。流行から取り残されがちな障害者たちにもすてきなファッションを!との企画で、家に閉じこもらず、街に出て、出会いの機会を増やそうとの願いがこめられていた。
“ドレスでステージに”というタイトルの義姉の新聞投稿である。
「障害者と健常者が触れ合う“わたぼうしコンサート”で、今回初めての試みとして、全国でも珍しいファッションショーが八月十日、高松市民会館で行われた。
流行から取り残されがちな身障者も、ナウいファッションを楽しもう・・・。八人のモデルの一人として、松葉づえをつき私も緑のロングドレスを着て出演した。着脱しやすいように、前開きでボタンを使わずに面ファスナーで止めた。
その時の模様がNHKテレビで全国放映され、新聞各紙にも取り上げられたことから、見知らぬ方から多数のお手紙を頂いた。小学生の時、劇に出演して以来四十年ぶりのステージで、今年のわが家は、もっぱらこの話題に花が咲いた。」
出会いから6年余り、平成4年(1992)に岸先生との悲しい別れがあった。介助という関係を超えて人間として意気投合し、施設ではなく地域の中で生活をするという計画が実現する直前だっただけに義姉のその時の絶望感は察するにあまりある。二人の人生を書いた本を出版しようと約束した夢を果たすのを、生き甲斐にして義姉は先生の死を乗り越えた。6年後にこの約束を果たし本ができあがったのである。
本の中で〈自立への願い〉という章でこう書いている。
「先生を失った後も私は自立して生き甲斐をもち、社会的役割を果たしながら、老後を安心して快適に過ごしたいという夢を持ち続けている。
老いていく障害の身が施設生活で切実に感じるのは、誰にも煩わされない一人になれる空間がほしいということである。何にもしばられず、自分の意志で自由に生きる普通の暮らしはなんと素晴らしいんだろう。プライバシーが守れる自分の家があると生活が落ち着く。公営住宅に健常者と障害者が混在して住み、楽しさを分かち合うごく自然の人生を味わいたい。障害者が生きていく幸せは福祉の中ではない。健常者と共なる街の中なのだ。障害者が健常者と同じように暮らすノーマライゼーションの理念は私の生涯の究極の目標である。
私は着脱衣・入浴・寝起きといった日常の身辺動作に介助を要するので、ケアの確保は地域で生活できるかどうかの分かれ目である。自立すれば、ライフワークとして現在書き始めている体験や見聞をふまえた本の出版を目指そう、と思っている。・・・・・」
第25週を見ながら義姉の本をもう一度読み返した。
ファッションショーの場面を見ていて、6年前に亡くなった義姉のことを思い浮かべた。義姉は18歳の女子大在学中に関節リウマチを発病し、69歳で亡くなるまでの50年余りを病魔と闘い続けた。全身の関節機能を奪い取られ、一種一級の身体障害者として生きなければならないという現実を受け入れるまでの苦悩や“ひとりの自立した人間”として生きた証しを平成10年(1998)に『車椅子から天国の岸教授へ』というタイトルで自分史を自費出版した。61歳の時である。
妻の実家に帰るたび、義姉の入所している授産施設「たまも園」に立ち寄ったが限られた時間であったのでゆっくり話を聞く機会はもてなかった。本を通じて、初めて義姉のたどった道や内面にふれることができた。高校時代にアナウンサーか新聞記者になりたいと思っていた義姉は“書く”ことで社会との関わりを持っていった。本の中でこう述懐している。
「私が書くことをしていなかったら、ただの障害者として生涯人の世話になるだけで終わるだろう。重度障害者が自分の力で何かを世間に訴えるには、健常者の何十倍もの努力をしなければならない。幸いにして恵まれた時間を有意義に過ごして生かせることを今は感謝している。」
昭和61年(1986)8月、高松市民会館で開催される恒例の〈わたぼうしコンサート〉に出演することになった義姉は、ボランティアとしてこのコンサートに関わっておられた香川大学の岸先生と運命的な出会いをする。その後、岸先生は施設にとじこもりがちだった義姉を積極的に外に連れ出してくれた。
そのコンサートで初めてファッションショーが開かれたのである。流行から取り残されがちな障害者たちにもすてきなファッションを!との企画で、家に閉じこもらず、街に出て、出会いの機会を増やそうとの願いがこめられていた。
“ドレスでステージに”というタイトルの義姉の新聞投稿である。
「障害者と健常者が触れ合う“わたぼうしコンサート”で、今回初めての試みとして、全国でも珍しいファッションショーが八月十日、高松市民会館で行われた。
流行から取り残されがちな身障者も、ナウいファッションを楽しもう・・・。八人のモデルの一人として、松葉づえをつき私も緑のロングドレスを着て出演した。着脱しやすいように、前開きでボタンを使わずに面ファスナーで止めた。
その時の模様がNHKテレビで全国放映され、新聞各紙にも取り上げられたことから、見知らぬ方から多数のお手紙を頂いた。小学生の時、劇に出演して以来四十年ぶりのステージで、今年のわが家は、もっぱらこの話題に花が咲いた。」
出会いから6年余り、平成4年(1992)に岸先生との悲しい別れがあった。介助という関係を超えて人間として意気投合し、施設ではなく地域の中で生活をするという計画が実現する直前だっただけに義姉のその時の絶望感は察するにあまりある。二人の人生を書いた本を出版しようと約束した夢を果たすのを、生き甲斐にして義姉は先生の死を乗り越えた。6年後にこの約束を果たし本ができあがったのである。
本の中で〈自立への願い〉という章でこう書いている。
「先生を失った後も私は自立して生き甲斐をもち、社会的役割を果たしながら、老後を安心して快適に過ごしたいという夢を持ち続けている。
老いていく障害の身が施設生活で切実に感じるのは、誰にも煩わされない一人になれる空間がほしいということである。何にもしばられず、自分の意志で自由に生きる普通の暮らしはなんと素晴らしいんだろう。プライバシーが守れる自分の家があると生活が落ち着く。公営住宅に健常者と障害者が混在して住み、楽しさを分かち合うごく自然の人生を味わいたい。障害者が生きていく幸せは福祉の中ではない。健常者と共なる街の中なのだ。障害者が健常者と同じように暮らすノーマライゼーションの理念は私の生涯の究極の目標である。
私は着脱衣・入浴・寝起きといった日常の身辺動作に介助を要するので、ケアの確保は地域で生活できるかどうかの分かれ目である。自立すれば、ライフワークとして現在書き始めている体験や見聞をふまえた本の出版を目指そう、と思っている。・・・・・」
第25週を見ながら義姉の本をもう一度読み返した。