2020年のオリンピック開催地の東京招致に成功して以来、「昭和」という単語をとみに目にするようになった。”「昭和」は輝いていた”的なトーンが主流である。『新潮45・12月号』の特集も‟「昭和」が消えてゆく”である。今使っている「昭和」は戦後、高度成長期と呼ばれた時期を指していると思うが、それは「昭和」という時代の三分の二にすぎない。残り三分の一は全く別の「昭和」があった。このことが「昭和は~」という言葉を聞いた時に小魚の骨がのどにひっかかったみたいな違和感を引き起こす。
おそらく丸谷才一さんの「大きなお世話~日づけのある随筆~」(文春文庫)の中にある《一世多元のすすめ》を読んでいなかったら、自分の生まれ育った「昭和」への郷愁に単純に浸っていただろう。1970年9月4日の日付のついたものだから40年以上前の文章である。ただ、明治、大正、昭和の元号ぐらいしかピンときていなかった私には元号は天皇の崩御、即位と一致しているという感覚しかなかった。そこに、「それは違うよ!」と教えてくれたのが丸谷さんの一文であった。
元号はもともと中国渡来のものだが、本家の中国では清朝滅亡以来使われていないし、日本と同じように中国の真似をして元号を採用した周辺の国々もすべて消え、日本だけが世界中で唯一用いている。という書き出しから元号存続論者の見解=「元号は、人間の精神的活動による無形の文化財という意味で意義がある」を紹介している。
丸谷さんは、この見解をチンプンカンプンでよくわからないと言いながら、「元号によって時代相がパッと頭に浮かんで調法だ、ということを勿体ぶって言ったものらしい」と推定している。そのことに一定の理解を示しながら、だが、しかし。と持論を展開する。
だが、しかし、ここで一つ注意しなければならないことがある。それは、こういう種類の、時代相と密着した元号は、一世一元ではなかったということである。 (中略) という具合に、祝儀不祝儀のたびに元号を変えるのが昔の方式であった。こうすることによって、人心を一変したり、あるいは時代の変化に即応したりしたわけで、そういう工夫があるからこそ、元号が意味を持ち得たのである。
ところが、一世一元なんて、たかが一個人の生理にもとづいていたのでは、うまい具合に時代を追いかけることは不可能である。逆に言えば、一世一元ということを決めた明治の政治家たちはあれこれと有能ではあったかもしれないけれど、なにぶん成上りの悲しさで、一世多元という仕掛けの持つ「文化」的「意義」がわかっていなかった。彼らの眼中にはごく単純な能率の問題しかなかったのだ。
そして、次のように断じる。
本来なら、関東大震災が起ったらそこで早速、改元すべきであった。そうすれば、震災前と震災後の相違がもっとずっとくっきりして、この上なく調法であったにちがいない。また、アメリカとの戦争に敗けたら、八月十五日をもって何か別の年号を制定すべきであった。そうすれば戦後という一時代の姿はじつに鮮かになって、これまたすこぶる具合がよかったろう。
ただ、少し想像を働かせればわかることだが、変化の激しい現代において一世多元をしようとすれば実に頻繁と改元の必要が生じる。そのたびに紙幣や切手など実にわずらわしい事務作業が生じる。そこで丸谷さんは「これはやはり西暦一本にしぼるしか手はあるまい」と揶揄を込めて締めくくっている。
そのことはともかく、「昭和」を戦前と戦後で明確にするということは大切だと思う。今、世間的には「昭和」(戦後)に対する憧憬のようなものがつくり出されているが。その空気の中で、安倍さんら政府与党の方々は「昭和」(戦前)への回帰を目論んでいるように思えてくる。
丸谷さんにはもう少し長生きしてもらって今の世相を切って欲しかったと、かなわぬ願いを持つ今日この頃。
おそらく丸谷才一さんの「大きなお世話~日づけのある随筆~」(文春文庫)の中にある《一世多元のすすめ》を読んでいなかったら、自分の生まれ育った「昭和」への郷愁に単純に浸っていただろう。1970年9月4日の日付のついたものだから40年以上前の文章である。ただ、明治、大正、昭和の元号ぐらいしかピンときていなかった私には元号は天皇の崩御、即位と一致しているという感覚しかなかった。そこに、「それは違うよ!」と教えてくれたのが丸谷さんの一文であった。
元号はもともと中国渡来のものだが、本家の中国では清朝滅亡以来使われていないし、日本と同じように中国の真似をして元号を採用した周辺の国々もすべて消え、日本だけが世界中で唯一用いている。という書き出しから元号存続論者の見解=「元号は、人間の精神的活動による無形の文化財という意味で意義がある」を紹介している。
丸谷さんは、この見解をチンプンカンプンでよくわからないと言いながら、「元号によって時代相がパッと頭に浮かんで調法だ、ということを勿体ぶって言ったものらしい」と推定している。そのことに一定の理解を示しながら、だが、しかし。と持論を展開する。
だが、しかし、ここで一つ注意しなければならないことがある。それは、こういう種類の、時代相と密着した元号は、一世一元ではなかったということである。 (中略) という具合に、祝儀不祝儀のたびに元号を変えるのが昔の方式であった。こうすることによって、人心を一変したり、あるいは時代の変化に即応したりしたわけで、そういう工夫があるからこそ、元号が意味を持ち得たのである。
ところが、一世一元なんて、たかが一個人の生理にもとづいていたのでは、うまい具合に時代を追いかけることは不可能である。逆に言えば、一世一元ということを決めた明治の政治家たちはあれこれと有能ではあったかもしれないけれど、なにぶん成上りの悲しさで、一世多元という仕掛けの持つ「文化」的「意義」がわかっていなかった。彼らの眼中にはごく単純な能率の問題しかなかったのだ。
そして、次のように断じる。
本来なら、関東大震災が起ったらそこで早速、改元すべきであった。そうすれば、震災前と震災後の相違がもっとずっとくっきりして、この上なく調法であったにちがいない。また、アメリカとの戦争に敗けたら、八月十五日をもって何か別の年号を制定すべきであった。そうすれば戦後という一時代の姿はじつに鮮かになって、これまたすこぶる具合がよかったろう。
ただ、少し想像を働かせればわかることだが、変化の激しい現代において一世多元をしようとすれば実に頻繁と改元の必要が生じる。そのたびに紙幣や切手など実にわずらわしい事務作業が生じる。そこで丸谷さんは「これはやはり西暦一本にしぼるしか手はあるまい」と揶揄を込めて締めくくっている。
そのことはともかく、「昭和」を戦前と戦後で明確にするということは大切だと思う。今、世間的には「昭和」(戦後)に対する憧憬のようなものがつくり出されているが。その空気の中で、安倍さんら政府与党の方々は「昭和」(戦前)への回帰を目論んでいるように思えてくる。
丸谷さんにはもう少し長生きしてもらって今の世相を切って欲しかったと、かなわぬ願いを持つ今日この頃。