素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

たわいのないことだけど

2014年01月26日 | 日記
 庭の花木に水をやっている時、『薔薇の木に薔薇の花咲く なにごとの不思議なけれど』という北原白秋の言葉が頭をよぎることがままある。それぞれの植物が自然の流れをキャッチしながら当たり前のように花や実をつけていく。花の少ない時期に目を楽しませてくれるのがジュリアン、ポリアンタの類い。ホームセンターの園芸コーナーに行けば、たくさんの種類のものが色とりどりの花をつけている。見慣れた花なのでさほど気にもとめないのだが、我が家でも昨年末に2鉢玄関に置いている。
 水をやっている間に、次から次へ花茎が出てきて途切れることなくきれいな状態を保っていくことにちょっとした感動を覚えながら見るようになってきた。何もないところから花やハンカチなどを次から次へ出していくマジックと同じように思えるのである。もう2ヶ月近くになる。いつまでこのショーは続くのだろうか?たわいのないことだけど楽しんでいる。

 大相撲初場所、いきなり稀勢の里がつまづいたのでどうなることかと思っていたが、意外な展開で結構面白かった。ひしめいていた大関陣もいつのまにか数も減り、琴奨菊は満身創痍、稀勢の里も綱取り大関からカド番大関へと奈落の底に、じわじわと第三勢力が台頭してきたという印象を持った2014年の初場所であった。
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NHK土曜ドラマ《足尾から来た女》見応えがありました

2014年01月25日 | 日記
 先週と今週に渡りNHK総合で21:00より《足尾から来た女》が放映された。重く難しいテーマを実にうまくまとめていた。久し振りにテレビでドラマらしいドラマを見たように思った。

 昨秋、ツアーで渡良瀬渓谷鉄道にも乗って足尾の近くを通っているだけに感ずることが多かった。その時のツアーでは八ッ場ダムによって消失する吾妻渓谷の地域も通った。個人旅行で水没する予定の旅館に泊まって宿の主人から色々な思いを聞いたことも思い出された。

 成田国際空港建設、沖縄の基地問題、福島の原発問題、核燃料の最終処分地問題と100年前の鉱毒問題は形を変えて現代まで続いている。国策と民意、やっかいな問題だが避けて通ることはできない。

廃村から100年
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春の選抜出場校決まる。わが母校選ばれず。

2014年01月24日 | 日記
 春の選抜出場校の選考委員会が開かれた。今回は21世紀枠候補の9校の中に、母校の伊勢が入っていたのでどうなるかなという楽しみがあった。結果は補欠校にも引っかからない残念なものとなった。公立で練習時間や場所に恵まれていないというハンディーを克服して昨秋に好結果を残したというだけではもう1つインパクトに欠けたのだろう。選ばれた、小山台(東京)・海南(和歌山)・大島(鹿児島)にはプラスαのものがあり、納得の結果である。
 今年は、実績のある伝統校が多いような気がする。

 春の選抜出場校が決まり、プロ野球のキャンプインとなるといつもながら「始動」ということを実感するのである。政治もしかり。とりあえず東京都知事選が終わるまではというところ。先行きはまだ不透明。

 昼前に、りそな銀行の外交担当の1人Yさんから電話があった。投資信託の買い替えは昨年末にしているし、新年の挨拶にしては時期を逸している。若く見えていたがYさんであるが1月31日をもって定年退職をするという。その退任の挨拶であった。「お仲間ですね」というと「何をしたらいいですか」とたずねてきた。「何かしなければいけないと思わず、当面ゆっくりされたらどうですか」と答えた。

 おおざっぱに定年後の生き方には2つのタイプがあるように思う。社会貢献タイプと自己実現タイプと言えばよいのかな。大切なことはどちらが良いということではなくて、自分の心にストレスのかからない方を進めばよいのではないかというようなことを話した。仕事では自分の意に反したことでもやらなければいけないことは多々ある。しかし、仕事から解放された後は「~しなければならない」という呪縛を解き、自分の内なる声に従ったらいい。
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ジムで「ボクササイズ」にもチャレンジ

2014年01月23日 | 日記
 ジムでのスタジオレッスンで月、水にあるピラティスは習慣化してきた。月曜日のトレーナーは腹筋系のメニューが主で、水曜日は背筋系が主となっている。別に打ち合わせているわけでもなく偶然そうなっているのだが2つでバランスがとれて好都合である。背筋系が私の課題である。何もなければ水曜日はいつもの2倍近くの時間をジムで過ごすことができるので各トレーニングもみっちりできる。

 そこで、今年は木曜日にジムに行った時はちょっと違う過ごし方をして変化をつけてみようと思った。ちょうど13時05分~13時50分に「ボクササイズ」というスタジオレッスンがあるのでチャレンジすることにした。ボクシングのストレート、フック、アッパーにエルボーやキックなどを組み合わせたエアロである。今日で2回目になる。腕の動きは中学生の頃からシャドーボクシングが好きでずっとやってきたのでついていけるが足のステップがテンポについていくのが厳しい。最初はいいが後半はスタミナ切れ、情けないがべた足になってしまう。

 30秒ほどの水分補給を3度ほど入れるだけで動き続けるので汗びっしょりになる。10ラウンドぐらいパンチを打ち続けた見当になる。他のエアロエクササイズもあるが私には一番合っている気がする。

 普段の生活がどんどんゆったりリズムになっているので1週間に1度ぐらいアップテンポのリズムを体に注入するのも脳の刺激になるかとも思う。

 東京都知事選の立候補者が出そろい、本格的な選挙戦に今日から突入した。なんか立候補者の顔ぶれに世阿弥ではないが「花」がない。田中投手のヤンキース決定のニュースに完全に食われてしまった。
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『100分de名著 風姿花伝』第3回では4つの言葉が

2014年01月22日 | 日記
 自分がたずさわってきた教育現場でのことと関連づけながらこの番組を見てきたが、今日の3回目はまさに授業の核心にふれる内容であった。最近、講演会などではパワーポイントを使うことが大変多くなってきた。時間通りにおさまるし、内容も整理されていて分かり易いのは事実だが、何か物足りなさを感じることがある。話す人が聴く側の反応や空気を読み、アドリブを混ぜながら話を進めてくれた時は充足感を得ることができるが、話す側の一方的なペースで進められると心に響かない。
 授業においてもIT機器の活用ということでずい分使われてきているのではないかと推察するが、表面上のスムーズさに満足してしまうと授業が無味乾燥なものになってしまう恐れがある。授業というものはその時その場限りのライブであるということに関しては能、狂言、演劇、落語などの芸能と相通じるところがある。もっといえば観ようという意思を持って集まってくる者を相手にするのではなく、行きずりの大衆を相手にする大道芸、実演販売などに近いと言える。
 世阿弥の頃の能も今とは違って宴会の席や祭の余興という場所で演じられるものであったという。厳しい条件の中でいかに民衆の心をつかむかということに腐心してきた世阿弥の言葉には感ずることが多い。今回は4つの言葉が心に響いた。

1つめは 舞台に出る瞬間の大切さを説いている。自分の機を整えるのは言ううまでもないが観客の機を図って出ることが大事だという。観客が能を待ちかねて、今か今かと楽屋を見るちょうどその時、ここぞという瞬間をとらえて声を発すれば、観客全員の心はシテと一体になり、その日の能は何をやっても成功すると説く。

 授業においては、教室への入り方を意識するということにつながる。チャイムというきっかけはあるが、その日の授業展開によってはチャイムの鳴る前に教室に入り板書を始め、気を遣う生徒には「今は休憩時間だから自由にしていていいよ」と声をかけ、チャイムが鳴った瞬間にパッと振り向き号令抜きで開始したり、チャイムと同時にドアを開けたり、体育の次などはちょっと間をおいて教室に入ったりと常に考える必要がある。そうすれば「時節」をとらえる感覚は磨かれていく。したがって、研究授業などで授業を見る時は開始の5分前には教室に入り、授業に入る瞬間をきちっと見るということが大事である。「時節」をつかまえることに鋭敏でなければ教育労働者としての力をつけていくことはできない。ほめたりしかったりする時もそのことは大切。

 2つめが、  能の基本は序破急であるが、場は生き物だから時には基本にこだわらずに、その場の雰囲気に合わせて自分のリズムをつくることが大切だと説く。そうすれば結果として自分の芸をしっかりと相手に届けることができる。

 このことは、教育実習生や新任者の研究授業などでよく指摘されることにつながる。指導案は導入、展開、まとめ、練習という形式に則ってつくられることが多いが、ともするとそれにこだわって、せっかく良い意見や質問が出ても取り上げずあくまでも自分の描いたシナリオ通りに事を進めてしまうということが多々ある。その場で発せられた生徒の言葉をうまく取り上げて展開すればもっといきいきした授業になったのにと思う場面によく遭遇した。

 世阿弥が強く戒めたことである。

「機」ををとらえるために大切なこととして、世阿弥は次の2つの言葉をつくり出した。
    我を忘れてのめり込んでは「時節感当」も「かるがると機をもちて」も到底かなわぬということである。サッカーでもプレーをしている自分や競技場全体を鳥瞰している自分を持っている選手は一流と言われる。授業でもそれが言えるだろう。これは言うは易し行なうは難しである。日々の研鑽の結果身につくもののような気がする。土屋さんのまとめの話には納得した。
    授業の秘訣もさまざま語られてきたが、本当は言葉にできないものである。しかし、その言葉を聞くことで、自分の体験が客観視でき力となっていくのではないか。芸の道と同じで王道はない。実践と理論の間を往復しながら会得するしかない。と強く思った。
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