自分がたずさわってきた教育現場でのことと関連づけながらこの番組を見てきたが、今日の3回目はまさに授業の核心にふれる内容であった。最近、講演会などではパワーポイントを使うことが大変多くなってきた。時間通りにおさまるし、内容も整理されていて分かり易いのは事実だが、何か物足りなさを感じることがある。話す人が聴く側の反応や空気を読み、アドリブを混ぜながら話を進めてくれた時は充足感を得ることができるが、話す側の一方的なペースで進められると心に響かない。
授業においてもIT機器の活用ということでずい分使われてきているのではないかと推察するが、表面上のスムーズさに満足してしまうと授業が無味乾燥なものになってしまう恐れがある。授業というものはその時その場限りのライブであるということに関しては能、狂言、演劇、落語などの芸能と相通じるところがある。もっといえば観ようという意思を持って集まってくる者を相手にするのではなく、行きずりの大衆を相手にする大道芸、実演販売などに近いと言える。
世阿弥の頃の能も今とは違って宴会の席や祭の余興という場所で演じられるものであったという。厳しい条件の中でいかに民衆の心をつかむかということに腐心してきた世阿弥の言葉には感ずることが多い。今回は4つの言葉が心に響いた。
1つめは

舞台に出る瞬間の大切さを説いている。自分の機を整えるのは言ううまでもないが観客の機を図って出ることが大事だという。観客が能を待ちかねて、今か今かと楽屋を見るちょうどその時、ここぞという瞬間をとらえて声を発すれば、観客全員の心はシテと一体になり、その日の能は何をやっても成功すると説く。
授業においては、教室への入り方を意識するということにつながる。チャイムというきっかけはあるが、その日の授業展開によってはチャイムの鳴る前に教室に入り板書を始め、気を遣う生徒には「今は休憩時間だから自由にしていていいよ」と声をかけ、チャイムが鳴った瞬間にパッと振り向き号令抜きで開始したり、チャイムと同時にドアを開けたり、体育の次などはちょっと間をおいて教室に入ったりと常に考える必要がある。そうすれば「時節」をとらえる感覚は磨かれていく。したがって、研究授業などで授業を見る時は開始の5分前には教室に入り、授業に入る瞬間をきちっと見るということが大事である。「時節」をつかまえることに鋭敏でなければ教育労働者としての力をつけていくことはできない。ほめたりしかったりする時もそのことは大切。
2つめが、

能の基本は序破急であるが、場は生き物だから時には基本にこだわらずに、その場の雰囲気に合わせて自分のリズムをつくることが大切だと説く。そうすれば結果として自分の芸をしっかりと相手に届けることができる。
このことは、教育実習生や新任者の研究授業などでよく指摘されることにつながる。指導案は導入、展開、まとめ、練習という形式に則ってつくられることが多いが、ともするとそれにこだわって、せっかく良い意見や質問が出ても取り上げずあくまでも自分の描いたシナリオ通りに事を進めてしまうということが多々ある。その場で発せられた生徒の言葉をうまく取り上げて展開すればもっといきいきした授業になったのにと思う場面によく遭遇した。

世阿弥が強く戒めたことである。
「機」ををとらえるために大切なこととして、世阿弥は次の2つの言葉をつくり出した。

我を忘れてのめり込んでは「時節感当」も「かるがると機をもちて」も到底かなわぬということである。サッカーでもプレーをしている自分や競技場全体を鳥瞰している自分を持っている選手は一流と言われる。授業でもそれが言えるだろう。これは言うは易し行なうは難しである。日々の研鑽の結果身につくもののような気がする。土屋さんのまとめの話には納得した。

授業の秘訣もさまざま語られてきたが、本当は言葉にできないものである。しかし、その言葉を聞くことで、自分の体験が客観視でき力となっていくのではないか。芸の道と同じで王道はない。実践と理論の間を往復しながら会得するしかない。と強く思った。