素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

第29回「食と健康を考えるシンポジウム・大阪」のお手伝い・1日目

2014年07月26日 | 日記
 行き帰りの道中は汗だくになったが、8:30~16:30の暑さの盛りの時は、天満研修センターの中で暑さ知らずであった。10:00~12:00の全体講演会は、尚絅(しょうけい)学院大学付属幼稚園園長・新日本医師協会会長の岩倉政城さんである。

 岩倉さんは歯学博士で、東北大学病院で30年余保健活動と診療に携わり、退官後、尚絅学院大学子ども学科教授を経て園長として保育現場で実践しながら、精力的に医療、子育て等の活動をなされている。今日のテーマは
         「"ボクってすごい!""アタシってすごい"と思える子――自己肯定感確立への道すじ」 参加者は350名余りであった。 日本の中学生・高校生への調査で、自己肯定感の低さが諸外国と比べて際立っていることにふれ、保護者、教育現場、教育行政を担う者にも「悪いことをした生徒は罰せられなければならない」という思想が根強く残っていることを指摘する。

 「教師による児童生徒への暴力行為」の調査を、わざわざ『体罰』調査と銘打って文科省が行なっている点や「指導」が教育界の日常用語になっていることを各年代の指導要領の中で使われている「指導」という文字の回数を数えることで見えてくるという。
 岩倉さんは、失敗したり誤った子どもはそれを繰り返さないように諭し(⇒教)、支え育てる(⇒育)べき存在だという。しかし、「指導要領」を見る限り、「教育」という文字が影をひそめ、代わりに「指導」が大手を振ってのし歩くことになってしまった。と嘆く。

 そして、子どもの輝きや個性に光をあてるゆとりもなく、成績という一軸だけで児童生徒が評価される「指導」学校で、居場所を失くしたり無気力になったり、自分はダメ人間だと感じる子どもが増えるのは当然だと言う。大学生から保育園児、障害を持った子などと接する機会を数多く持つ岩倉さんは、赤ちゃんが生まれて最初に接する養育者やその周辺から受けた重たい体験が「対人恐怖」や「低い自己評価」につながる様相を自身が行なったアンケートの結果や臨床例などからわかりやすく話してくれた。

 人との伸びやかな交流ができる三者関係(職場、学校、園などで日常的に接する他者との交流)を築く土台は二者関係(子どもとその中心養育者)の交流体験を通して培われるということを、生物の発達の過程をふまえながら説いてくれた。
   人が外界を感じるのは肌で触れる触覚、そしてその感覚が最も集中したのが「口」、この肌と口の感覚が外界、他者との交流の窓口となって外界への基本的信頼を育て、自己認知から自尊感情を育てていく。ということを歯科医として豊富な経験を持つ岩倉さんの話は説得力があった。精神分析家フロイトや発達心理学のエリクソンはこの事実に着目して、人の発達段階の最初を「口期」と説明したことも腑に落ちた。
  この2つの図が講演の結論部分だが、その前に「言葉」の持つ空しさを歌っているとして、中島みゆきの♪命の別名♪を流してくれたが、私はその時杏里の♪悲しみが止まらない♪を思い浮かべた。これは自分の友達に彼氏を紹介して、その友達に恋人を奪われてしまった女性の嘆きであるが、次の部分が「鋭く、スゴイ」とずっと思ってきた。
  ♪誤解だよって あなたは笑う
   だけどKISSはウソのにおい
   抱きしめられて気づいたの
   愛がここにないことを♪ 


 2時間余りの講演であったが、一方的な話ではなく聴衆も参加させながら豊富な事例と理論を交えながら進められたのであっという間に終わったという感じであった。その様子を紙上に再現することは不可能。それこそどんな言葉をもってしても表現できない極上のライブ公演と同じ。

 午後からの分科会のことは、明日まとめて話したい。
 

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猛暑日

2014年07月25日 | 日記
 朝から熱中症に気をつけてということが繰り返された。確かに暑い。家の中に昨日の熱がまだこもっている感じだった。8時30分にはすでに30℃になっていた。昨年の8月13日に高知の四万十で41℃を記録して話題になった。その時、星田駅の温度表示板も40℃であったということをブログに書いた。

 あの日を思わせるような暑さだった。ゴミ出しであった近所の人にそのことを話したら「そうかもしれない。2時ごろ確かめに行ったらどうですか?」と言われたが、ジムとの間を自転車で往復するだけで十分。こういう日はジムでゆっくり過ごすに限る。

 しかし、ジムも余り冷房が利かないということで27℃ぐらいだった。普通の運動ならばいいがランニングをすると少々きつい。せめて25℃ぐらいにしてほしかった。

 去年もサルスベリの写真をのせたが、こういう日でも元気に咲いている花には目が行く。四天王はサルスベリ、キキョウ、ムクゲ、ランタナといったところか。
    ランタナの花はきれいだけど非常に強い花でどんどん枝を伸ばして繁茂するので嫌われている。いささか不憫である。

 明日はもっと暑いという予報もある。食と健康のシンポジウムのお手伝いが避暑となる。
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「ちゃんちゃら」読み終わる

2014年07月24日 | 日記
 昨日、ジムを早く切り上げたのは体が疲れていたというのもあるが、「ちゃんちゃら」の残して置いた最後の2章をゆっくり読みたいということもあった。平凡に作庭に励んでいた「植辰」一家に降りかかってきた難事をどういう風に幕をひくのか楽しみであったが、いい意味で裏切られた。「一本取られた」という感じ。

 エンターテイメント小説の醍醐味は深みがあるのに、読みやすく面白いということであろう。人間同士が触れ合う機微が楽しめ、それを取り巻く情景の描写が巧みで心地よいというのが三浦しをんさん、有川浩さん、万城目学さん、池井戸潤さん、朝井まかてさんに共通するものである。

 「ちゃんちゃら」の中から3つの場面だけを紹介しておく。

 庭に敷く板石の裏に鑢(やすり)をかけているちゃらに、施主の娘お留都(おるつ)が土に向けて置く裏に鑢をかけて綺麗にしても、誰も見ないではないかという問いを発した後のやりとり。

 ・・・ちゃらは手を止めて顔を上げた。
「表は足が滑るといけねえんで、石肌をを生かして鑢はかけやせん。ですが土に触れる裏は綺麗に始末をつけることで、ここは清浄な土地になりやす。そいうものなんす。」
「報われないことをしているって思わないの」
「報われる、報われねえってことが、それほど大切だとは思わねえです。職人にとっちゃあ、今、ここでこうしている、そのことだけが大切です」

 店が打壊しにあい、ちゃらに助けられ、「植辰」の家にかくまわれることになったお留都とちゃらのやりとり。

 「静かね」
 お留都は、長い睫毛を伏せた。
 「お百合と福さんがいねえと、この家はほんとに静かだ」
 お留都がふっと笑うのが、ちゃらには嬉しい。
 「静けさって、音があって初めてわかるものね」
 音があってこそ、静寂がある。そうかもしれない。雨の音も木々の間を渡る風音もなければ、人はその静けさをそうだとは感じ取れないだろう。


 「植辰」に拾われるまでは、たった一人でこの世を彷徨い、生きるために地蔵に供えられた塩結びをも掠め取り命をつないできたちゃらへ投げつけられた「今のこの世のどこに慈悲がある」という問いに対してのちゃらの言葉。

 ちゃらは片足を前に一歩、踏み出した。
「子どもの頃、獣のようだった俺にも魂があったとすれば、その魂を見くびらずに対等に扱ってくれたのは親方だ。それが慈悲というものじゃねえんですか。この世に苦しみは満ちている。だが慈悲も満ちている。浄土とはそうやって、生きる苦しみも悲しみも全部引き受けて、いつか己が心に築くもんじゃねえんですかっ」 


これらは、私が日頃思っていることを言葉にしてくれている。他にも共鳴する言葉が随所に、しかもさりげなくある。


 
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大暑の日、ピラティスに苦しむ

2014年07月23日 | 日記
 今日から8月6日までが大暑。遅れていた梅雨明け宣言もなされ、太平洋高気圧が張り出してきて夏本番となってきた。『旧暦で楽しむ日本の暮らし・七十二候と二十四節気2014年版』(宝島社)を見ると「大暑・三十四候 初候」は『桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ}』とあった。最初、「桐の花が咲く?ずれてるなあ」と思ったが、意味を見てすぐにまちがいとわかる。『桐の実がなり始める』ということ。これなら納得。寝屋川公園往復の新10㎞コースの途中にあるコブシ街道でこぶしの実とともに桐の大木についている実も観察していたからである。
 こぶしの花もいいが、実をつけた景色もなかなか良い。ひときわ高くそびえているのが桐である。成長が速いのが特徴の一つである。実がついた枝は生け花でも使われているという。
  

 昨夜もナイトランでここを走った。夜になると少々物騒な場所だが、人と出合わないことを願う。息を荒げて走る大の男は気味が悪いだろう。何が起こるかわからない物騒な世の中である。不審者と警戒されても仕方がない。

 そのナイトランの足の疲れが思いの外残っていて、今日のピラティスはきつかった。スタートのあぐらのポーズをした瞬間、左足の太ももがつってしまい、インストラクターのOさんから「大丈夫ですか?まだ何もやってませんよ」とつっこまれ、皆に笑いを提供した。その後のメニューが私の苦手な背筋系と股関節まわりを使うものがメインになったのでたびたび足をつらせ、まことにつらかった。終了した時、隣にいたMさんが嬉しそうに「つらそうでしたね。おかげで私はリラックスできました」と話しかけてきた。「他人の苦しみは蜜の味」なのである。腹筋の弱いMさんは腹筋系のメニューになると得意な私と立場が逆転するのだが、残念ながら今日はそれが少なかった。

 スタッフの「いつもより早く帰るんですね、今が一番暑いですよ!」という声に返す元気もなかった。 
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朝井まかてワールド第四弾は「ちゃんちゃら」(講談社文庫)

2014年07月22日 | 日記
火曜日は生協の日である。妻が用事で行けない時は私が近所のTさん宅に受け取りに行く。配送車の来る予定時間が14時だが都合で10分~20分遅くなることもよくある。この設定時間は、午後の予定を立てる時まことに中途半端である。商品を家に持ち帰りチェックをして冷蔵庫に収めるとだいたい14時35分~45分になる。

 昼食後から14時まで待ち、生協が終わるとジムへ出かける気力が失せる。少し涼しさを感じて元気な時は15時過ぎから外走りをすることもあるが、今日のような蒸し暑さでは到底そういう気にもならない。こういう時入り込むのが朝井まかてワールドである。今日は朝から暇を見つけては「ちゃんちゃら」を読む。

 江戸・千駄木町の庭師一家「植辰」で修業中の元浮浪児「ちゃら」が主人公。庭師の世界を軸に話は展開していく。構成は7つの章からなっている。
  序章:緑摘み  第一章:千両の庭 第二章:南蛮好みの庭 第三章:古里の庭 第四章:祈りの庭 第五章:名残りの庭 終章:空仕事

 序章はもう一つ物語の世界に入って行けなかったが、第一章の中頃からグイグイと引き込まれていった。職人の人間描写の巧みさはもちろんそのまわりの女性が魅力的というか私好み。今までの3冊にも共通する。生協をはさんで第二章、第三章と読みふけってしまった。帰ってきた妻がいつもの大相撲のテレビがついていなくて、あんまり静かなので驚いたぐらいである。

 夕食後はニュースも途中で消して続きの第四章から第五章の半ばまで読み進んだが、このままの勢いだと今日中に読み切ってしまうが、なぜかそのことがもったいない気がしてきて、先の展開が気にはなるが一晩あたためておくことにした。

 心身のバランスをとるために1時間ほどジョギングをした。夜風が気持ち良く、暑さは感じなかったが、それでも汗は滴り落ちてきた。持参していた500mlのペットボトルは空になった。走り終わった後のシャワーとスイカはほてった身体にしみいった。

 明日を楽しみに眠ることができる。
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