素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

サボテンはたくましい

2024年09月23日 | 日記
 花や山野草の類は妻の領域、私は数鉢の多肉植物を育てているだけだが、仲間が増えた。家のまわりに置いているたくさんの鉢植えを点検していた妻が「このサボテン、転びそうだから支えをして!」とお呼びがかかった。

 見に行くと大きなサボテンの根の部分が枯れ始めていて横に倒れた状態でかろうじて隣の鉢に寄りかかって姿勢を保っていた。それがなければ自分の重みで鉢から抜け落ちていただろう。

 短い支柱をまわりに立てて支えるしかないがトゲがあるので結構作業はしづらかった。持ち上げてみて驚いたのは小さな子株をいっぱいつけていたこと。こうやって種をつないでいくのだなとたくましさに感心した。
せっかくなので、子株のいくつかを拝借して小鉢に移しちょうど1区画の空きがあった私のコーナーに加えることにした。

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朝焼け

2024年09月21日 | 日記
 5時前に目が覚めた。心身ともにスカっとした感じだったので中途半端に眠らない方がいいと思い、寝床を離れた。8月頃は5時も過ぎれば空は明るくなっていたが9月も半ばを過ぎるとまだ薄暗い。新聞にゆっくりと目を通していると夜が明けて来た。窓の外を見上げると空がオレンジ色に輝いていた。

 この夏、火の玉を連想する夕日は飽きるほど見てきたが朝焼けの見る機会はなかったので屋上に上がってみた。早起きは心にゆとりが生まれる。交野山方面から日が昇りつつあった。
  

 小倉百人一首の81番に「ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる」(後徳大寺左大臣)がaあるが、ちょうど西の空に目をやると有明の月がポッカリ浮かんでいた。
  古人が好んで詠んだ「有明の月」。何となくその気持がわかったような思いがした。百人一首には21番と31番にも「有明の月」が詠まれている。
㉑ 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな(素性法師)
㉛ 朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に 降れる白雪(坂上是則)

 この後の猛暑を一瞬忘れた早朝の景色だった。

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苔玉作り

2024年09月20日 | 日記
 妻が所属する枚方山草会の例会で、苔玉作りがあった。秋の山野草展(10/18~10/20)に向けての取り組みの1つである。
   ベテランの会員Hさんの指導で和気あいあいと苔玉作りに励んだとのこと。妻も2個持ち帰った。Hさんにいただいた「カサグルマソウ」が植えこまれていた。さっそく玄関の靴箱の上のスペースに鎮座。
    苔玉は乾燥させないように管理しなければいけない。今までにも何度も失敗してきた。展示会までしっかり管理していこうと思っている。 
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秋来ぬと・・・

2024年09月19日 | 日記
平安時代前期の歌人で、三十六歌仙の一人である藤原敏行の有名な歌に
   秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる(古今和歌集)がある。平安の昔から平成までは「秋が来たと、目にははっきりとは見えないけれど、爽やかな風の音で(秋の訪れに)はっと気付かされたことです。」という具合だったが、令和に入ってからは逆になったように思う。

 9月も半ばを過ぎたが「風の音にぞおどろかれぬる」とはならず、湿り気を含んだ熱風にうんざりする毎日である。それでも目にははっきりと秋の訪れを感じる。朝にプラごみを出しに行った時、栗の実や蜜柑の実が目に入った。
   
それらを見ると「猛暑、それでも季節は動いてる」である。
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3つの政治ショー

2024年09月18日 | 日記
 9月は3つの政治ショーでにぎやかだ。目玉は日本の総理大臣につながる自民党総裁選のはずだが9人もの候補者があるため散漫気味である。地方の一議会に過ぎない兵庫県知事のパワハラ疑惑をめぐる動きのほうが目立つ。立憲民主党の代表選は完全に埋没してしまっている。

 斎藤知事の議会やマスコミへの答弁の様子を見ていると森友学園での公文書書き換え問題での佐川局長とダブった。斎藤さんが「道義的責任を感じないのか?」という質問に対して戸惑った様子が印象的だった。それは責任を感じての戸惑いではなく、「道義的責任」という概念が理解できないというものだった。

 両氏とも、渦中に関係者の自殺を引き起こしているということに対して全く何も感じていない様子だった。あくまでも法的責任の有無のみで思考を組み立てているように思えた。百条委員会の結論が出る前に、不信任決議案が可決される見通しだが、その後の展開も予測不能で波乱含み。おかげで、地方自治の二元代表制の意味が良く学べた。

 国政も、自民党総裁と立憲民主党の代表が決まった後その2人で総理を決める国民投票でもあればもっと盛り上がるなあなんてことを空想した。自民党9人、立憲民主党4人に対して私は投票権がないので野次馬として眺めるだけである。

 政治ショーの幕が下りて、さて誰が舞台に残っているだろうか?石破さんと野田さんだったら昭和に戻った感があるとまたまた空想する。
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