まわる世界はボーダーレス

世界各地でのビジネス経験をベースに、グローバルな視点で世界を眺め、ビジネスからアートまで幅広い分野をカバー。

新型コロナ、CFR(致死率)という視点

2020-05-12 10:42:30 | 新型コロナウィルス
5月11日時点での日本の新型コロナでの死亡者は621人。日本のテレビでは、死者数を「こんなに低く抑えられている」と報道しています。しかし「低い」というのは、アメリカやヨーロッパに比較しての話。亡くなった人のことを思えば、この人数を少ないとは決して言えません。この数の中に、志村けんさんとか、岡江久美子さんなども含まれていますが、日本の高度な医療体制をもってして、どうして、こんなに多くの人々の命を救えなかったのかと疑問を感じます。

私は今、シンガポールに住んでいるのですが、日本のテレビでは「優等生と言われていたシンガポールが急に感染者数を伸ばしていて、中国に次いでアジア最悪の国になった」というのが最近の決まり文句となっています。シンガポールでは、バングラデシュなどの外国人労働者が大量に働いているのですが、彼らはいくつかの寮で集団生活をしていて、そこでの感染が広がり、毎日数百人規模での感染者が出ています。しかし、一般シンガポール人の市中感染は、ほぼ一桁に抑えられています。

そして、シンガポールでの新型コロナでの死者数は、現時点で累積で20人です。シンガポールでは医療崩壊の心配はなく、何としても命を守るよう、全力を尽くしています。これに比べてみると、日本の死者数は、何と多く見えることでしょう。日本は、感染拡大の数字だけを見て、シンガポールを見下しているのですが、命をどれだけ守れたかという数字で見てほしいと思います。

自分は専門家ではないので、中途半端にこういうことを書くと、いろいろお叱りを受けるかもしれないのですが、日本の死者数を眺めていると、重症化する前に、もっと早めに治療できていたら、あるいはその前に、感染者との接触を避けられていたら、命をなくす事もなかった人が多くいたのではと思うのです。

ヨーロッパに比べると、アジアは相対的に死者数が少ないのですが、アジア・パシフィックの国々で比較してみると、日本より死者数が多い国は、中国、インド、フィリピン、インドネシアくらいで、韓国も、台湾も、マレーシアも、タイも、ミャンマーも、オーストラリアも、ニュージーランドも日本よりはるかに少ない数です。

たまたま仕事の関係で、バングラデシュのデータを調べていたのですが、WHOのサイトを見ていたら、バングラデシュは、感染状況のレポートをかなり詳細に開示しているんですね。

COVID-19 Situation Report No. 10

PCRテストをどれだけやって、感染者数がどれだけいるか、何人退院したか、何人亡くなったか、などがきちんと出ています。日本の同様のレポートをWHOのサイトで探そうとしたんですが、日本のは残念ながら見つかりませんでした。

この中で、CFRという数字のことを初めて知りました。Case Fatality Rateの略なのですが、感染者のうち何人が死に至ったのかをパーセントで示す数字です。日本語では「致死率」というようですが、バングラデシュでは、5月4日時点で、これが1.79%。日本は、5月11日時点の数字で、3.93%。バングラデシュの2倍以上です。シンガポールは0.09%。日本は、PCR検査の数が少ないので、潜在感染者がかなりいるのだと思いますが、致死率に関して、現状ではバングラデシュにも負けています。



こちらのグラフは、縦軸が死者数、横軸が感染者数で国別にプロットしたものですが、斜めの点線がCFRを示しています。これをみると、日本のCFRの数値は決して低くはないというのがわかります。ヨーロッパ諸国は、感染者数も死者数も高いですが、CFRも高いレベルです。アメリカはずば抜けて感染者数、死者数が多いですが、CFRは日本と同レベルです。アジアの大半の国は日本よりも低いレベルです。シンガポールの優秀さが際立っていますね。このデータはこちらのサイトから引用させていただきました。

Current Case Fatality Rate
日本としては、今後、PCR検査を増やして、無症状の感染者を洗い出し、感染拡大を防ぎ、その一方で患者の命を徹底的に守っていくということが重要です。ハイリスクの高齢者とか、病気療養中の方には、絶対に感染させないという対応も重要です。コロナと共に生きるということをしばらくは継続させないといけないのでしょうが、コロナで亡くなる可能性のある命を、少しでも救っていただきたい、そして私たちは、感染が広がらないよう最大限協力をしていければと思います。
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世界は母親の愛への感謝であふれている (母の日によせて) 

2020-05-09 18:40:36 | Life

母の日がやってきます。今年の母の日は、これまでと違ってStay Homeの母の日です。今年の母の日に向けて、いろんな動画がアップされていますので、いくつかピックアップしてみたいと思います。

まずはマイクロソフト。今年は、リモートワークで、家で仕事をするということが日常になったのですが、小さな子供がいる母親にとって、家で仕事をするということがいかに大変なのかというのがよくわかります。

MICROSOFT


テレビ会議に参加してくる子供、迷惑なんですが、微笑ましいですよね。次は、コースト・キャピタルというカナダの金融会社のコマーシャルです。今年の母親は特別に大変ということをアピールしています。

Coast Captal



今年は、特に家事の負担が大変ですね。次は、テレフローラというカリフォルニアの花屋さんのコマーシャルですが、今年の家庭生活の断片が色々と紹介されていますが、「やがてこの異常事態が終わり、子供達が2020年の春についてのストーリーを語るとき、世界は動き続けていたと語るだろう。それを動かし続けてくれていたのは、母の愛という原動力」という台詞が泣かせます。

Teleflora



ここで使われている動画は、飾り気のない日常風景なのですが、なんか愛らしいですね。さて次は化粧品のOlayの映像。女の子が自分の作文を読んでいるような雰囲気です。

Olay



母親の愛への感謝が感じられますね。次のは、サムスン。スマートフォンのギャラクシーのPRなのですが、サムスンの社員が、遠隔で自分の母親にメッセージを伝えるというもの。

Samsung



いいですね。さて、最後に、韓国ドラマファンにはとっておきの動画です。Swoonというのは韓国ドラマをYouTubeで観られるというサービスですが、既存の韓国ドラマで母親が登場するシーンだけを繋いだ映像。編集が見事です。

Happy Mother’s Day from Swoon



何度見ても泣けてきますね。素晴らしい。
私の母親は、ずっと前に他界しましたが、「産んでくれて、育ててくれて、ありがとう」と伝えたいです。今年は、何でもリモートなので、このメッセージも、天国まで届いているかもしれませんね。

今年は大変な年になってしまいましたが、Happy Mother’s Day!
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満月と新型コロナとテレサテン

2020-05-08 15:09:31 | 文学的な

昨日は、満月、フラワー・ムーンでしたが、こちらの写真は、実際の月ではなく、昨年、シンガポールのアート&サイエンスミュージアムで展示されていた巨大な月のインスタレーションで、ルーク・ジェラム(Luke Jerram, 1974 - )という英国のアーティストの”Museum of the Moon” という作品です。

数年前、このブログで、月にまつわるつきない話 (2013年9月21日)というタイトルで書いたのですが、満月で思い出すのは、「但願人長久」(タンイェンレンチャンジュウ)という曲です。最初に歌ったのは、アジアの歌姫、テレサ・テン(1953 – 1995)でした。こちらがその動画です。



月を見ながら遠く離れた相手に思いを馳せるという内容の歌です。歌詞は宋代の詩人の蘇軾 (そしょく、1036 - 1101)の詩をそのまま使っています。日本では平安時代ですね。

この歌詞を、大雑把に現代語にしてみると、こんな感じになります。かなり意訳していますが。

「酒で酔ったついでに聞くんだが、いつから名月がそこにあるの?天上の宮殿では、今夜の暦さえわからない。そろそろ風に乗って絢爛豪華な宮殿に帰ろうと思うんだけど、あそこは高いところにあって、寒くて嫌だなあ。自分が踊れば月影も踊る、こんな楽しみは人間界でしかできないよね。月の明かりは楼閣をめぐり、窓から部屋の中まで侵入してくるので、私は眠れない。お月さんよ、あんたに恨み言を言うつもりはないけど、どうして離れ離れになって淋しい時に限って満月なの?月が晴れたり曇ったり、満ちたり欠けたりするように、人には喜びや悲しみ、出会いや別れがある。こういうことは昔から、思い通りにならないよね。ただ願わくは、遠く離れているあなた、ずっとずっと元気で、そして地球のどこにいてもこの美しい月をともにに眺めることができますように」


もともとは遠く離れた弟を思う気持ちだったようですが、私にとっては、新型コロナの渡航規制のため会えなくなってしまった私の妻への思いでした。

私はシンガポールに住んでいて、妻は東京にいます。シンガポールも日本もともに渡航規制・入国規制をしていて、それまでのように、自由な行き来ができなくなってしまいました。夫婦の会話はリモートで、WhatsAppを使ってやっています。ソーシャル・ディスタンスを3260マイルくらい取っているリモート夫婦なのです。

月というのは、物理的な存在物の中で、地球上で遠く離れた私たちがリアルタイムに共有できる最も身近な存在です。太陽や星は遠く離れ過ぎていますが、月はリアルな物体として認識できますね。

考えてみれば、「但願人長久」と言うタイトル、新型コロナの時代にはまさにぴったりのメッセージですね。「ただ願う、みんないつまでも健康で、元気で」と言う意味ですが、物理的に会うことができなかったり、感染のリスクがあちこちにある状態の中で、一番大切なのは、病気にかからないで、健康を維持すること。命さえあれば、何とかなる。

たまたま昨日の満月がきっかけでこの歌を思い出しましたが、皆様の健康を心よりお祈り申し上げております。次の満月も、その次も、ずーっと次の満月も、一緒に見られるように。
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「母の日」が「母の月」になった今年の5月

2020-05-06 17:03:06 | 故郷

母の日は通例では5月の第2土曜日なので、今年は5月の10日なのですが、今年は、新型コロナで非常事態宣言が出ているのを受け、5月10日の一日だけでなく、丸ごと一月を「母の月」とすることになったのだそうです。日本の花き業界の9団体で構成される日本花き振興協議会からの情報でそれを知りました。たまたま花について検索していたからわかったのですが、どれだけの人がこのことを知っているのかよくわかりません。少なくとも私にとって、これは寝耳に水でした。

「母の日」というのは、諸説ありますが、1907年の5月12日にアメリカのアンナ・ジャービスという女性が、亡くなった母に白いカーネーションを贈ったのが起源だと言われています。やがて5月の第二日曜日が母の日であると決められて、日本もそれにならったのだそうです。30カ国以上がこの日を母の日としているのですが、イギリス、アイルランドは3月だし、イスラエルは2月、中東諸国は春分の日としているし、フランス、スウェーデンなどは5月の最終日曜としています。タイは8月12日、ロシアは11月最終日曜、インドネシアは12月22なんですね。世界的には割とバラバラです。

母の日というと、日本では赤いカーネーションが定番ですが、世界的には、これまた色々あるんですね。日本も最初は母親が健在の場合は赤、亡くなっている場合は白のカーネーションだったらしいのですが、差別になるというので、赤に統一されたのだとか。



カーネーションの国も多いのですが、オーストラリアは何と菊。オーストラリアでは5月は秋で、菊の花が盛りなのだそうです。そして、菊は英語では「クリサンセマム」(Chrysanthemum)、言葉の最後に”mum”の音が。英語では、母親を、マムと呼びますが、アメリカ式のスペルが”Mom”で、イギリス、オーストラリアスペルが”Mum”なんですね(発音は同じ)。



菊というと、日本では、天皇家を象徴する恐れ多い花だし、白の菊は葬儀の時の花でこれまた神聖な感じがします。日常的には、何となく敬遠したくなる花なのですが、実は菊の花も、色や形が多様化しているようです。私の故郷は愛知県の渥美半島の田原市なのですが、花の生産額では日本一の都市です。また昔から、温室で栽培する「電照菊」が有名でした。戦後まもなく始まった「電照菊」のおかげで、田原市と豊橋市で、日本全体の菊の生産の3割を占めているのだそうです。こちらは、日本夜景遺産にも選ばれた渥美半島の温室の風景です。



田原市の市役所の農政課の知り合いに聞いたら、菊の花も最近はオシャレになってきて、丸っこい「マム」と呼ばれている花とかも人気だということでした。今年は、新型コロナの影響で、式典や葬儀なども自粛となり、花の生産者は大変な影響を受けているとのことです。飲食関係のお店の補償とか話題にはなりますが、花は投資金額を大きいし、売れなければ、日持ちもしないので、誰にも喜ばれず枯れていくだけです。花の買い手がつかず、花の出荷量は日々減少。売れ残った花が日々大量に廃棄されてしまう「フラワーロス」が問題視されています。せっかく誰かを喜ばせようとして咲いてきた花が、大量に廃棄されるという現実はとても悲しいものがあります。

花の販売で生計を立てている人々を助けるためにも、地元の生産者を助けるためにも、また、母親に感謝の気持ちを伝えるためにも、そして、花の廃棄を防ぐためにも、花を贈るというのはいかがでしょうか?幸いにも、今年は、母の日が31日間に拡張されたので、今週焦って手配する必要はありません。

さらに、今年は長距離の移動を自粛するということで、帰省したくてもできなかった人が多いのではないでしょうか。また、行楽シーズンでありながら、家に閉じこもることを余儀なくされた皆さんも多いのではないでしょうか。花で帰省しようというキャンペーンも行われています。



ステイ・ホームにも、そこに花があると安らぎがあり、ストレスも解消されるのではないでしょうか?今は、いろんな人が、いろんな状況で困っています。もしも、花が何かの助けになれるとしたら、花もどんなにか嬉しいのではないかと思います。

こちらは、地元田原市の道の駅のサイトです。こちらでオンラインで花を贈ることが可能です。これ以外にも、オンラインで花を贈れるところはいくつかありますが、皆さんよろしくお願いいたします。

https://tahara-michinoeki.com/product-category/tahara_ouen

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「ジョホールバルの歓喜」が残してくれたもの

2020-05-04 18:42:15 | シンガポール

1997年11月16日、岡野雅行が、延長Vゴール(ゴールデンゴール)で起用され、まさに「野人」という呼び名そのままに、誰よりも速いスピードでゴール前に走り寄り、何度かの失敗で観客を落胆させた後、中田英寿のシュートをイランのゴールキーパーが弾いたそのこぼれ球に本能的に反応して、勝利のゴールを決める。そこで日本の勝利が、そして、同時に日本の初めてのワールド・カップ出場が決まったのです。その時の歓喜の声は、今でも鮮明に覚えています。

その時、私は、ジョホールバルのラーキン・スタジアムのスタンドにいました。スタジアムはほとんど日本人で、イランの応援団はかなりの少数でした。日本からこのために駆けつけたファンに加え、シンガポールやマレーシアの現地駐在員も会社や様々な団体がチャーターしたバスなどで来ていました。ニュースキャスターの小宮悦子さんも現地に来られていて、試合前にお姿を拝見しました。

私は、サッカー・ファンというほどではなかったのですが、たまたまその年から、シンガポールで仕事を始めていました。日本の会社の駐在員だったのですが、出張者を含めて、日本人だけで5人ほどいました。ワールドカップの予選がジョホールバルで行われるという情報は入っていましたが、あまりの人気だったので、行くのは不可能だと思っておりました。しかし、たまたま、インターネットのシンガポールの掲示板で、観戦バスツアーの切符が余っているという情報を見て、すぐに連絡を取り、5人分のチケットを確保することができたのでした。それ自体が奇跡でした。

サッカーの試合を生で見るというのも初めてだったのですが、いきなり、三浦和良、中田英寿、中山雅史、川口能活、呂比須ワグナー、井原正巳、名波浩、城彰二、北沢豪、小野伸二というすごいメンバー。一眼レフカメラを持っていましたので、スタジアムから撮りまくっていました。デジカメではなく、フィルムカメラでした。その時の写真は、日本に置いてきてしまったので、残念ながらご紹介できません。

この日の試合で、三浦知良が、岡田武史監督に途中交代させられてしまいます。それまでは途中交代のなかったスター選手だったのですが、その後、日本代表からも外されてしまいます。三浦和良選手はその後も現役で、活躍を続けますが、ジョホールバルを境に彼の歴史も変わったのだと思います。

その年、アジアを通貨危機が襲います。山一證券などが破綻するのもその頃です。たまごっちがブームとなっており、小室サウンドのブームがそろそろ終焉を迎えようとしていた頃です。カラオケスナックはレーザーカラオケでしたし、オフィスでも家でも使うパソコンは全てデスクトップでした。時代は大きく変わろうとしていました。通貨危機が来るまでは、アジア経済は絶好調の成長期で、アジアで頑張ろうとしていた私の個人的な応援歌は、パフィーの「アジアの純真」と、安室奈美恵の「Don’t wanna cry」、マライヤ・キャリーの「Hero」などでした。

それから私は10年間、シンガポールで働き、その後、仕事の都合で、香港に移ります。香港には4年間住んでいました。2009年、偶然、岡野雅行が香港リーグ1部のTSWペガサスというチームに移籍していたのを知りました。1997年、日本のサッカーの歴史を大きく変えた男が、香港の田舎で疾走している姿を想像し、少し寂しさを覚えました。数ヶ月後に香港リーグのシーズン終了と共に、彼は日本に帰って行きました。

その後、私は日本に4年滞在し、2016年再び、シンガポールに戻ってきて、今に至ります。ジョホールバルの歓喜の時から23年、時代は大きく変わりました。あの時のサッカーの試合で、自分の人生も大きく開けました。日本人でも、頑張れば、世界の舞台で勝負できるんだ、遠慮する必要はない、正しく頑張れば、世界は認めてくれるんだと。そんなことを感じたものでした。

最後に、その試合の後のニュースステーションの番組をご紹介しておきます。


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