まわる世界はボーダーレス

世界各地でのビジネス経験をベースに、グローバルな視点で世界を眺め、ビジネスからアートまで幅広い分野をカバー。

ビビアン・チョウと香港の思い出

2021-10-10 21:50:45 | 香港

この前の記事で、香港のチョンキンマンションの話を書いて、香港のことを思い出していたら、そういえば広東語のポップスにはまっていたことを思い出しました。

80年代の終わりの頃、出張で香港に行った際に、露店で売っていたカセットテープを適当に二つくらい買ったのがきっかけでした。歌手の名前とか曲とか全くわからずに買ったのですが、ラジカセから流れてきた女性歌手の広東語の歌に魅了されてしまったのです。

日本の曲のカバーも何曲かありましたが、ちょっとぶっきらぼうに聞こえる広東語の響がとてもエキゾチックで、全く違う曲に聞こえたのを覚えています。

90年代は、香港四天王と呼ばれる4人の男性歌手が有名でした。張学友(ジャッキー・チュン)、劉徳華(アンディ・ラウ)、郭富城(アーロン・クオック)、黎明(レオン・ライ)の四人です。

しかし、私が魅力を感じたのは、女性歌手の広東語の曲でした。サンディー・ラム、サミー・チェン、サリー・イップなど懐かしいですが、中でも特に気に入ったのは、ビビアン・チョウ(周 慧敏)でした。

アイドル歌手なのですが、1967年香港生まれの彼女は、タレントコンテストで柏原芳恵の『最愛』という曲を日本語で歌い、歌手デビューへと繋がっていきます。数年後、彼女は、この『最愛』を広東語でカバーし、香港でヒットさせます。

こちらがそのミュージックビデオです。



1984年に柏原芳恵が発表した曲で、作詞作曲は中島みゆき、第26回レコード大賞の金賞を獲っている曲です。ビビアン・チョウがカバーしたのは1993年のことでした。

ビビアン・チョウは、90年代にいくつかヒット曲を出していますが、北京語も覚えて、次々と北京語のヒット曲を出していきます。こちらはその一つ『心事重重』という曲です。



広東語だと、市場が香港だけなのですが、北京語だと、中国大陸、台湾、シンガポールなど一気に広がります。ビビアン・チョウも北京語曲を出して、ファン層を拡大していきます。

そして、デュエット曲の名曲の『流言』がこちらです。



これをデュエットで歌えるとかっこいいなと思って、一生懸命練習したことがるのを思い出しました。

今日は朝からビビアン・チョウの曲をずっと流しているのですが、なんだか昔の記憶が蘇ってきます。じっとりとした香港の空気、ものすごいスピードで歩く人々、エスカレーターのスピードの速さ。竹で編んだ工事現場、西洋と東洋が混在するSOHOの坂道、スターフェリー、真夜中に食べた火鍋の辛さ、北京ダックを朝食で食べたこと、英国風朝食、飲茶、亀ゼリー、マンゴープディング、フィリピンカラオケ、オフィスに上がる狭いエレベーター等々。記憶が次々と呼び覚まされます。

ビビアン・チョウは、やがて芸能界から距離をおき、結婚して、バンクーバーに移り住みました。現在も、若干のタレント活動はしているようですね。50を過ぎても、アイドル時代の美貌は衰えていません。こちらがフェイスブック。

https://www.facebook.com/VivianChowWaiMan2013

そしてこちらがユーチューブチャンネルです。

https://www.youtube.com/c/周慧敏vivianchow


香港は、変わっていっても、ビビアン・チョウや広東語ポップスは無くなってほしくはないですね。
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チョンキンマンションのカオス感とタンザニアと古きよき香港へのノスタルジー

2021-10-09 16:24:30 | 香港
シンガポールに「オンランサロン川端会議」という勉強会があり、月に2回ほど夕方オンラインのセミナー形式で開催されている会なのですが、2021年10月5日のテーマは、小川さやか著『チョンキンマンションのボスは知っている』という本から得たインスピレーションをもとに議論をするというものでした。



香港にある重慶大厦(チョンキンマンション)の話、そこでのタンザニア人のコミュニティのネットワーク構築の方法、信頼関係の話、また文化人類学的視点という、じつにファジーで、ごった煮的なテーマでした。チョンキンマンション自体がカオスなのですが、それに伴いこの議論もラビリンスの中を彷徨うような、知的脱出ゲームをしているような(?)経験となりました。

ここでの議論の出発点になった、香港のチョンキンマンションに関して、4年間香港に住んでいて、その後も数年間、時々訪れていた私としては、非常に思い入れがあり、懐かしく、語りたいことがいっぱいなので、この機会に語ってみたいと思いました。

チョンキンマンションのことを語るまえに、まず、きっかけとなった『オンラインサロン川端会議』のことをご説明しておきたいと思います。

私は、このオンラインサロンには、2020年の10月のスタート時から参加させていただいています。ASEANやアジアの様々な情報を、月に2度ほど、議長の川端隆史さん(元外交官、NewsPicsを経て、現在米国リスクコンサルティングファームのクロールのシンガポール支社のシニアバイスプレジデント)が、いろいろな切り口で、独自の視点で報告してくれる会です。

参加メンバーはシンガポールにいる人だけでなく、日本や、中国や、タイで仕事している方も何人かいます。たとえアジアの中にいても、刻々と変化するアジアの動きは捉えにくいので、こういうところでアジア情報を、マクロxミクロの視点でキャッチアップしていく必要があると感じて、この会に参加させていただいています。興味のある方はこちらをご覧ください。

https://www.oneandco.sg/ja/community/kawabatakaigi/

日本のマスコミの情報では報道されない情報や、視点を提供してくれるので、個人的にはとても楽しんでいます。前回は、元NHKのインド支局長だった広瀬公巳さんをゲストにお招きし、米印関係の歴史的整理をしていただき、またアフガニスタンに対するインドの関わりに関してまとめていただきました。目から鱗のことばかりで、インドの政治的な立ち位置を把握する上では非常に役立ちました。

前置きが長くなりましたが、本題のチョンキンマンションに関して語ってみたいと思います。

川端会議で取り上げられたのは、小川さやかさんの『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』という本です。

小川さやかさんは、学者として、香港のタンザニア人ネットワークに、チョンキンマンションのボスと呼ばれるタンザニア人を介して潜入調査をしていき、ファジーな信頼をベースにしたインフルエンサー経済、インフォーマル経済、「ついで」経済などの存在を確認していきます。

小川さんは、アフリカの専門家なので、タンザニア人コミュニティーに着目し、香港のチョンキンマンションにアプローチしていきます。いきなり脱線して恐縮ですが、タンザニアといえば、今年のノーベル文学賞は、タンザニア出身の作家、アブドゥルラザク・グルナさんが受賞しました。グルナさんは1948年生まれ。インド洋のザンジバル島で育ち、60年代末に難民として英国に渡り、21歳の時に亡命者の立場で執筆活動を始め、母国語のスワヒリ語ではなく英語を用いたのだそうです。これまで発表した作品の底流にあるのは、難民の混乱というテーマということです。



タンザニアは、アフリカ東岸で、ケニアの南にある国ですが、タンガニーカとザンジバルという二つの国が併合して出来た国です。現在でも正式国名はタンザニア連合共和国(United Republic of Tanzania)となっています。もともとはイギリスの植民地だった地域ですが、タンザニアとなったのは1964年の4月。最初の東京オリンピックの年です。オリンピックには、タンザニアではなく、タンガニーカとして参加していました。



ノーベル文学賞を受賞したグルナさんは、ザンジバル出身ということですが、ザンジバル出身で世界的な有名人といえば、クィーンのフレディ・マーキュリー。映画『ボヘミアン・ラプソディ』の中でも、ザンジバルの革命の中で、家族は命からがら難民となって生き延びたという過去が語られるシーンがあります。調べてみると、フレディ・マーキュリーが生まれたのは1946年、小説家のグルナさんが生まれたのは1948年。ほぼ同じ頃です。フレディ・マーキュリーもグルナさんも同じ時代、同じ場所で、困難を同時体験していたというのを考えると感慨深いです。

おそらく同じように難民となったザンジバル出身のタンザニア人が香港のチョンキンマンションのネットワークにも数多くいたのではないかと推測されるのですが、タンザニアというこれまであまり注目してこなかった国が急に身近に感じられます。小川さやかさんの本にも出てくる「チョンキンマンションのボス」と呼ばれるカラマという人物も、「ザンジバル出身のオマーン系アラブ人の父と、アフリカ系ザラモ人の母との間に生まれ、35歳の時、天然石ビジネスのため香港にやってきた」
ということだそうです。

で、いよいよ、本題のチョンキンマンションのことに関して語りたいと思います。私自身は、2007年から4年間香港に住んでいて、その後も東京の広告代理店の香港現地法人の責任者を続けていたので、3ヶ月に一度くらい香港に通っておりました。

仕事で、インドの広告キャンペーンにも関わっていて、インドの映画やエンタメに関していろいろ調べていたので、チョンキンマンションにあるインド系のDVDショップにはよく通っていました。他の国ではなかなか入手できないインド映画が、最新ヒット作も、マイナーなものも含めてほぼ揃っているのです。ここで毎回かなりの数のDVDを買い付けていたのですが、インド映画は、3時間、4時間と長いのが多く、買ったはいいけどなかなか見る時間がないという状況でした。

チョンキンマンションは、中国語では重慶大厦と漢字表記になっていますが、北京語ではChóngqìng dàshà (チョンチン ダーシャー)という発音になりますが、広東語ではチョンヘン ダーイハーという音になります。英語では、Chungking Mansions となります。

香港の九龍側のネイザンロードという観光地として有名な通りに面して立つ16、7階建てのビルなのですが、1961年にできたもので、一等地にありながら、上の階には安宿が数多くあり、入り口付近には両替屋がひしめき、地上階とその上の階にはインド人経営する携帯電話、DVD、食材、雑貨、レストランなどのお店が雑多にあるカオスな世界です。

ここ数年行っていないので、最近の状況はわかりませんが、コロナ禍で旅行者が激減しているので、両替や、宿泊もかなり影響を受けているものと思われます。

私自身は、チョンキンマンションは、インド人のネットワークの拠点と認識していました。地上階とその上の階は、ほとんどインド系のお店ばかりでした。インド料理屋にもいくつか行って食事したことがありました。

たまたま、私は、2012年に、日経リサーチのサイトで「世界の街角ライブラリー」という小コラムを連載していたことがあるのですが、そこで、チョンキンマンションとインド人ネットワークのことにちょっと触れていましたのでこちらにリンクを貼っておきます。

世界に張りめぐらされたインド人ネットワーク

日経リサーチ グローバル・マーケティング・キャンパス

 


この記事の中でも触れていますが、映画『恋する惑星』(原題“Chungking Express”)という作品があります。金城武や、フェイ・ウォン、トニー・レオンなどが出演していますが、この中で、チョンキンマンションの場面も登場するのですが、疾走するカメラワークが斬新でかなりの衝撃を受けたことを覚えています。
こちらがその映画のトレーラーです。



また、チョンキンマンションは沢木耕太郎さんの『深夜特急』でも登場してきていて、80年代後半に発表されたこの作品によって、チョンキンマンションはバックパッカーの聖地にもなりました。

何年か前に、CP+というカメラ関係の展示会で、沢木耕太郎さんがニコンブースで講演されたことがあり、たまたまお話を伺ったことがありました。その頃、写真家のキャパに関する本を出されたので、その話がメインでしたが、考え方も、佇まいもすごくかっこよかった印象があります。

香港は1997年に英国から中国に返還され、中国でありながら中国とは一線を画し、通貨も、パスポートも、言語も、文字も違う特別行政区という位置付けで自由を謳歌してきたのですが、年々強まる中国政府の圧力で、ここ数年は自由が次々と剥奪されていくという歴史でした。

2014年の雨傘運動の時にも、香港に行きましたが、高速道路を埋め尽くした学生たちのテントを見て、まさに「レミゼラブル」の光景と同じだなと感じたものでした。「学民の女神」として民主化運動でも活躍した周庭(アグネス・チョウ)さんは2020年に刑務所に収監され、その後釈放されましたが、りんご日報の廃刊などとともに、香港の自由がどんどん磨り減っていくという歴史を私たちは目撃してきました。

『チョンキンマンションのボスは知っている』の著者の小川さやかさんが香港に滞在して、チョンキンマンションの取材をしたのは、2016年10月からの半年間。香港は雨傘運動が終わり、立法会議員選挙が行われ、民主派の議員たちがまだ自由を取り戻すことを夢見て頑張っていた時代です。おそらくその頃もチョンキンマンションは昔ながらの、自由な香港の中にあって、さらに治外法権的な、なんでもありのカオス的自由を謳歌していたと思われます。

その後、2019年から2020年にかけて民主化運動とその弾圧がエスカレートし、中国政府の力が圧倒的になったと同時にコロナが訪れました。

今年の東京オリンピックで、香港の張家朗選手がフェンシングの男子フルーレ個人で金メダルを獲得した時、香港の旗が掲げられたにも関わらず、演奏された曲は中華人民共和国の国歌だったということで、香港の人々の反発を招いたという出来事がありました。香港というシステムの中に中国がどんどん入り込んできているという象徴でした。

チョンキンマンションが今、どのような状況なのかわかりませんが、無法地帯だった場所に、法律が入り込み、かつてのおおらかな自由が失われる過程にあるのか、それともアンダーグラウンドの部分を死守できているのか、その辺はなんともわかりません。中国になってしまったら、かつてのチョンキンマンションという蜃気楼のような存在も、過去の物語になってしまうのではないかと心配です。

香港には、私の同僚で、フィリピン人と結婚し、カラオケバーをやっていた人間もいて、チョンキンマンションとは別のアンダーグラウンドな世界との間で、小説に出てきそうな人生を送った日本人もいます。数年前、香港のランタウ島の自宅でおそらく酒が原因で客死したのですが、そんなのもいたり、香港島のセントラルのマンダリンホテルで自殺したレスリー・チャンのこともあったり、映画『慕情』に影響されて、香港で『慕情』という名の日本食レストランを何十年も前に始め、レスリー・チャンがよく一人で食べに来ていたと語るオヤジさんもいたり、いろんな思い出がいっぱいあります。

古きよき、自由な香港は、いつまでも無くなってほしくないですね。
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なつかしき香港への慕情

2020-07-05 17:17:29 | 香港

7月1日から香港で「国家安全維持法」が施行されました。

私は2007年から2011年まで4年間、香港に住んでいたので、この出来事はとても心が痛みます。

日本のニュースを見ていたら、映画『慕情』の曲が一瞬流れてきて、香港での一つの時代の終焉を伝えていました。

『慕情』は、1955年に封切られたアメリカ映画です。第二次世界大戦の後の香港を舞台に、ウィリアム・ホールデンと、ジェニファー・ジョーンズが主演した甘く悲しい恋の物語です。原題は、"Love Is A Many-Splendord Thing"、直訳すれば、「恋とは、多くの輝きを持つ物」という感じになります。

こちらが、その映画です。一部抜粋ですが。



ビクトリア・ピークや、レパルス・ベイ、アバディーンなどの風景が懐かしいです。英国植民地時代の香港です。

『慕情』と聞いて思い出したのは、香港島のハッピー・バレーにある日本食レストラン『慕情』です。



関西出身の店主が日本に居た時、映画の『慕情』を見て、いたく感動。すぐに、映画の舞台となった香港に飛びます。彼は香港で日本料理店を始め、その名を『慕情』とするのです。という話を店主から直接聞いたことがありました。

何度かお邪魔したのですが、数年前、私が別のブログで書いた記事があります。

レスリー・チャンの愛した香港の日本料理店


2008年4月の記事ですね。レスリー・チャンが訪れていて、ファンの間では、有名になっていました。

あれからしばらく経っているので、お店はどうなっているかなと思って検索してみたら、フェイスブックにまだ今年の様子がアップされていたので、安心しました。

慕情日本料理 Bojyo Japanese Restaurant

私が、この店に行ったのは、実は、昔、同じ会社で働いていたH林さんの紹介がきっかけでした。

H林さんは、香港で失踪し、会社を辞めてしまうのですが、数年後、ジャフィーロードでフィリピンカラオケのマスターをしているのがわかります。そこを何とか探り当て、奇跡的に再会するのです。その店に出入りしていたのが、『慕情』の店主でした。角刈りで、サングラスをかけていたので、怖い人かと思ったのですが、H林さんは「兄貴」と慕っていました。それから度々、『慕情』に行くことになりました。

やがて、不況の波を受け、香港のカラオケ店も続々と閉店して行きました。H林さんも仕事をなくし、最後は『慕情』で皿洗いのバイトをしていたそうです。私が香港を去った後の事です。店主から電話があって、H林さんが、住んでいたランタウ島の家で亡くなったと知りました。死因ははっきり覚えていませんが、大酒飲みだったので、身体に負担が来ていたのだと思います。

それから何年か経って、会社の総務関係を担当していたF津さんと、香港を訪れ、H林さんのフィリピン人の奥さんと面会するのですが、それがこの『慕情』でした。

香港のハッピーバレーにひっそりとたたずむ『慕情』は、レスリー・チャンといい、H林さんといい、いろんなドラマを引きずっているすごいお店なのです。
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11月の香港

2012-11-18 13:25:50 | 香港
11月に香港に戻ってきました。
暑くもなく、寒くもなく、ちょうどよい
気候でした。

成田空港では、こんな看板が出ていました。



「生きたままの上海蟹は日本への持ち込み
が禁止されています」とのこと。秋は上海
蟹の季節なのですが、日本に持ち込もうと
する人が多いんですかね?お店に売られて
いる上海蟹は紐で縛られているんで生きて
いる感じがあまりしないのですが、生きて
いるんですね。

ちなみに調理済みの姿はこんな感じになり
ます。



チムシャツイの上海料理屋で食べました。
このお店では一つ300ドル(約3000円)でした。

こちらは、コーズウェイベイの西苑の
チャーシュー。



何度も食べたことがあるんですが、美味しい!
ジャッキー・チェンの好物だとか。

香港の電気店を通ったら、HTCの携帯端末の
ディスプレーが。この女子グループは日本っ
ぽいなと思ってよくみたら、乃木坂46でした。



これは台湾の会社なのですが、HTC Jは日本
でも乃木坂46を使ってテレビCMをやってたん
ですね。香港とかで知名度あるのかな?

香港に行ったときいつも買いたくなるのが
リンゴです。



香港ではリンゴはとれませんが、世界中の
美味しいリンゴが入ってきています。
今回買ったのはフランス産のRoyal Galaと
いう品種。小ぶりで、表面も奇麗ではない
のですが、こういうのが実に美味しい。
日本にいると、日本のリンゴしか食べられ
ないのですが、世界の美味しいリンゴが
自由に食べられるのはよいですね。
今度の衆議院選挙で、いろんな政党がTPP
反対を表明しているのですが、反対して
いる根拠がなんかよくわからないと思う
のは私だけでしょうか。

さてこちらは、香港の空港です。



シンガポールのチャンギ空港、韓国の
インチョン空港と並んで世界のトップクラス
の空港となっています。

最後に、こちらは飛行機の模型。



東京で撮影してみました。脚の部分を
Photoshopで消したら、本当に飛んでいる
ように見えますね。

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杏仁豆腐をめぐる複雑な国際問題

2012-10-21 18:46:04 | 香港

先週の読売新聞に「杏仁豆腐はキョウニン
ドウフが正しい!」(根本浩著、中公親書
ラクレ)の紹介が出ていました。香港に
出張に来る前に、成田の本屋でこれを発見
したので、飛行機でパラパラと読みました。

疑いもなく「アンニンドウフ」だと思って
いたので、「キョウニンドウフ」という
発音には違和感を覚えました。さらにこの
タイトルの自信満々の断定に、本当にそう
言えるのだろうか?とちょっと検証して
みようと思ったのです。

中国大陸の標準語である北京語では、
これを[Xing Ren Dou Fu]と発音します。
「シンレンドウフ」です。豆腐の部分
は同じような感じですが、「杏仁」は全く
違います。「アンニン」とも「キョウニン」
とも関連性がなさそうです。最後に「ン」
の音がつくのは同じですけど。

香港は広東語を使っているので、香港の
事務所の社員にどう発音するのか聞いて
みました。すると[Hang Yan Dau Fu]。
片仮名で書くと「ハンヤンドウフ」でした。
「アンニン」にちょっと近づいた気もする
のですが、まだ違います。

杏仁豆腐は中華料理のデザートとしては
あまりに定番なんですが、香港で実際に
チェックしてみました。My Wifeが何度か
行ったことがあるお気に入りのお店とかで、
銅鑼灣(コーズウェイベイ)の翠園甜品専科
という香港スイーツ専門店に行ってみました。



夜の11時過ぎだというのに人が一杯です。
店先に「精品推介・養顔潤肺・杏仁糊」と
いう貼り紙が。「お勧めの一品、美顔によく
肺にもよい」というのはわかるのですが、
「杏仁豆腐」ではなく、「杏仁糊」です。



このお店にはメニューには「杏仁豆腐」
はありません。ちなみにこちらがメニュー。



左側の上から4つめがそれですが、「養顔
杏仁糊」と「養顔」というのが付いてます。
で、「杏仁糊」を注文してみました。糊の
ようにどろっとしている物を想像したの
ですが、それはさらりとした豆乳のような
液状のものでした。こちらがそれです。



たしかにアーモンドのような香りがします。
「杏仁」というのは、アンズの種の仁という
部分のことのようですが、アーモンドと同じ
ようなもののですね。厳密に言うと種類は
違うようですが。

お店に「杏仁」の効能がいろいろ
書いてあります。何かすごく身体によさ
そう。じつはこのお店のメニューは、どれ
も身体によさそうな物ばかりです。医食
同源の伝統なのでしょうね。

スイーツと言っても、「杏仁糊」は温かい。
これを食した後は、顔や胸がほてってくる
感じです。いかにも身体によさそうです。
スイーツを食べながら健康になるという
香港の食文化もすごいですね。

ところで「杏仁」の発音のことですが、
ひょっとしてと思い、うちの上海事務所
の中国人に聞いてみました。そうしたら、
地元の上海語では、これを[An Nin Dou Wu]
(アンニンドウウ)と発音するのだそう
です。明治時代になって中華料理が増えた
時、上海あたりから杏仁豆腐が入ってきた
ようなのですが、「アンニン」のルーツは
上海あたりだったのですね。

そうすると、「キョウニン」ってどこから
来た音なんでしょう。その痕跡が今も
どこかの地方に残っているのかもしれません。
ご存知の方は教えてください。

ひょっとして、中国のある時代に話されて
いた音が日本に輸出された後に、本土で
はその発音が消滅し、日本だけでガラ
パゴスのように生き残ったのかもしれま
せん。

「杏(子)」(あんず)の発音は、「キョウ」
ではなく「アンズ」なので、杏の実の種の
「仁」という部分を使った「杏仁豆腐」は
「アンニン」というのがロジカルな気も
します。

「杏仁豆腐」自体が中国からの輸入物な
ので、この料理名に関しては「キョウニン
ドウフ」というより、原音重視で、「シン
レンドウフ」にしたほうが、中国政府も
喜ぶ(?)かもしれません。しかし、
そうすると日本語教育会も混乱して、
「杏子さん」という人が「しんこさん」
と呼ばれるようになり(実際、中国本土
では、シンツさんと発音されるのですが)、
大変な事態になるかもしれません。

さらに何とか諸島と同じように、中国が
杏仁豆腐の領有権を主張して来るかもし
れませんね。その時のために、香港の
ように杏仁豆腐に変わる定番デザートを
考えておくのがよいかもしれません。(笑)
中華料理全体の領有権、そして漢字、
そしてそれから派生した、片仮名、
平仮名すべてにわたって領有権および
継続使用をする場合のロイヤリティー
を要求してきたら、日本は公用語を
英語にしないといけなくなりますね。

これが必ずしも冗談で終わらない
可能性もありうるのが昨今の国際情勢。
日中友好関係の平和的修復を祈りながら
杏仁豆腐を食べましょう。

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