昔のブログを見ていたら2006年に書いた記事が出てきました。当時、シンガポールのブギスジャンクションにPARCOがあったのですが、その場所が一世紀以上前、遊郭街であり、日本人の娼婦が数多くいた場所だったという話です。シンガポール人でも知っている人はほとんどいないし、歴史の中で忘れさられるべき話で、ブログで書くのもちょっと躊躇するのですが、過去の事実として紹介しておきたいと思います。ということで、過去の記事をベースに、現在の状況をアップデートして記事にしてみました。
上の写真は、シンガポールのブギスジャンクションのショッピングセンターの風景です。以前、PARCOがあったのですが、ビクトリア・ストリートからノースブリッジ・ロードに向っていて、右側がインターコンチネンタルホテルになっています。綺麗に復元されていますが、昔ながらの建物が並ぶ通路の上は透明の屋根で覆われ、この通路を挟んだ一帯に様々な店舗や、飲食店が並んでいます。屋根があるので、この通りは雨でも全く問題がありません。
この写真の通りは、地図には載っていませんが、マレー・ストリート(Malay Street)と言って、昔の道路標識が残っているのでそれがわかります。ノースブリッジ・ロードとビクトリア・ストリートを縦に結んでいるのが、マレー・ストリート。インターコンチネンタルホテルの北側をビクトリア・ストリートに並行して通っているのがマラバー・ストリート(Malabar Street)、そして少し南に、ノースブリッジ・ロードと並行して通っているのがハイラム・ストリート(Hylam Street)です。こちらが、標識です。
向こう側にインターコンチネンタルホテルの裏口が見えています。下の写真は、マラバー・ストリートに向かう標識。建物にもマラバー・ストリートの地名のプレートが付いています。
下の写真は、ハイラム・ストリートの一角。
こちらの地図は、時代が特定できませんが、昔のシンガポールの地図です。
ブギスジャンクションのショッピングモールの片隅にあったので、撮影しました。ビーチ・ロードが本当に海岸通りで、ラッフルズホテルは、道を挟んで海に面した海沿いのホテルでした。西のほうも、テロック・アイヤーが海岸通りでした。シェントンウェイも、サンテックも、マリーナベイも海の底です。
この地図は、現代の地図に、三つの通りを書き入れたものです。右の地図は、以前、ラッフルズホテルの博物館(今は無い)で見たものです。三つの通りの名前がはっきりと表記されています。
この三つの通りは今のシンガポールの地図には載っていません。しかし、実はこの場所を発見するには、語り尽くせぬドラマがあったのです。シンガポールでも知ってる人はほとんどおらず、日本人でもほとんど知らないのではないかと思います。
山崎朋子さんという作家がいます。代表作は『サンダカン八番娼館』。映画にもなりました。
ボルネオ島(カリマンタン)の北のはずれのサンダカンという港町に娼婦として売られていった日本人女性が、故郷の天草に戻った後、その過去ゆえ村八分の扱いを受けている。山崎さんは、その女性を訪ねていき、女性の過去を取材するという話です。数年前に読んだのですが、実に感動的な作品でした。
その続編という形で山崎さんが書いたのが『サンダカンの墓』という本です。
この本は文春文庫で出ていたのですが、絶版となっているようです。山崎さんが、サンダカンとか、他の「からゆきさん」の足跡をたどって旅をする話となっています。
その中に、シンガポールの話が出てきます。大正時代から昭和の戦争前の時期にかけて、シンガポールに遊郭があり、貧しさゆえ日本の農村から売られていった「からゆきさん」がそこにもいたということでした。日本人たちはそこを「ステレツ」と呼んでいたという話が出てきます。英語のストリートが訛っての「ステレツ」でした。
山崎さんが取材をしながらたどり着くのが、先ほど紹介した三つのステレツ(ハイラム、マレー、マラバー)だったのです。山崎さんの本によれば、このステレツはチャイナタウンにあると書いてありました。
数年前にこの本を読んだとき、この通りは今はどうなっているんだろうと思って、東京の広告代理店のシンガポール現地法人に駐在員として滞在していた私は、チャイナタウンをぐるぐると探索しました。しかし、どこを歩いても、そのような名前の通りを見つけることはできませんでした。区画整理されてしまったのかなと思っていました。
たまたま会社に1980年代頃の地図がありました。その地図を見ていたら、何と、ハイラムとか、マラバーの名前があるではありませんか。それはブギスであり、その一帯を取り潰して商業施設になったのだということがわかりました。
実際に現地に行ってみて、山崎朋子さんがかつて訪れた3つの通りが、ちゃんと通りのネームプレートまできちっと残っているのを見て、感激しました。そして、建物の外観も昔の建築を綺麗に再現しているのです。今の人たちは、そんなことを全く知らずに、ショッピングや、飲食を楽しんでいる。その複雑なギャップを感じながら、この場所で、一世紀以上も前の日本とシンガポールの歴史に思いを馳せるのでした。チャイナタウンや、インド人街なども時代とともに場所が移動していたんですね。ちなみにミドル・ロードはかつて日本人街であり、日本の商店が立ち並んでいたそうです。下の写真が現在のミドルロード。右に見えているのがインターコンチネンタルホテルです。
日本人街だった頃の面影は全く残っていません。
山崎さんが「サンダカンの墓」を発表したのは1977年ですが、その中で、ステレツの名残を求め、苦労してこの三つの通りを探しあてます。その時には、すでに娼館はなくなっていたのですが、朽ち果てた娼館の名残を見て、彼女は、感慨にふけるのです。しばらくこの通りを歩いた後、ここを去る前に、ふと立ち止まって、もういちどその悲しみの街の名残を眼に焼き付けるという表現がその本の中に出てきます。具体的な表現は忘れてしまいましたが、それは映画のラストシーンのようであり、本を読んでから20年以上経っている今でも記憶に強く残っています。
2016年の12月に刊行された「シンガポール日本人社会百年史」(シンガポール日本人会刊)を見ていたら、シンガポールのからゆきさんの歴史が出ていました。最初は、1882年、黒金という女性が上海から四人の日本女性を連れてきて、馬来街(マレー・ストリート)二番に店を開いたのが始まりのようです。その後、1902年(明治35年)の記録では、「シンガポールには妓楼が82軒あり、本邦娼婦が811名在籍」となっています。その頃をピークに、日本人娼婦の数は減っていきますが、1920年、シンガポール日本人会と日本基督新嘉坡教会などの努力で廃娼が行われます。帰国せずに私娼となってシンガポールに残った娼婦も多かったそうです。
こちらの写真は、その百年史に出ていのを撮影させていただきましたが、ハイラム・ストリート(写真絵葉書)というキャプションがついています。娼館が無くなった後、日本の商店の看板が立ち並んでいるのがわかります。
私はたまたま山崎朋子さんの本を読んだので、このような歴史を知っているのですが、知らない人がほとんどではないかと思います。私たちの今の繁栄は、過去の悲しみの歴史の上に築かれているんだと思うと、のんきに浮かれてばかりもいられないのですよね。