まわる世界はボーダーレス

世界各地でのビジネス経験をベースに、グローバルな視点で世界を眺め、ビジネスからアートまで幅広い分野をカバー。

ソアリン・ファンタスティック・フライト・ミュージアムをより深く鑑賞するために

2023-01-10 16:53:55 | トラベル
2019年7月、東京ディズニーシーにオープンした人気アトラクションの「ソアリン・ファンタクティック・フライト」。架空の乗り物「ドリーム・フライヤー」に乗って、世界各地の名所の上空をバーチャルに飛んでいくというアトラクションです。とてもリアルで、本当に上空を飛んでいるような感覚を味わうことができます。

しかし、今回ご紹介したいのは、「ドリーム・フライヤー」に至るまでの導入部である「ファンタスティック・フライト・ミュージアム」についてです。導入部ではありながら、ミュージアムとしての見どころが満載。展示物に関する詳細を知っていると、待ち時間が何十倍も楽しくなるので、ご紹介しておきたいと思います。

実は、ここに行ったのは昨年の5月のゴールデンウィークが終わって少しした頃でした。ディズニー・マニアの妻に誘われて行ったのですが、噂で聞いていたソアリンは以前からずっと体験してみたいと思っていました。そして、実際に体験してみて、それは想像以上の素晴らしさでした。しかし、そ以上に感動したのが、ファンタスティック・フライト・ミュージアムの展示だったのです。

2022年の春頃はコロナ禍がまだ継続していて、ディズニーシーも、まだ比較的空いていました。ソアリンのアトラクションは通常は何時間も待たないといけないこともありますが、この頃は、待ち時間はそれほど長くなく、この日は短時間に2回も入ることができました。だから、ミュージアムの展示物を細かく確認することができたのです。

それでは、まず、ソアリンのミュージアムについて述べる前に、このミュージアムのロケーションについて述べてみたいと思います。

ソアリンがあるのは、メディテレーニアン・ハーバーのポルト・パラディーゾというエリア



ディズニー・シーはいくつかのエリアに別れていますが、入口を入ってすぐのエリアが「メディテレーニアン・ハーバー(Mediterranean Harbor)」です。「地中海」を英語にすると「メディテレーニアン・シー」なのですが、「メディテレーニアン・ハーバー」というと、「地中海の入り江」という意味になります。

メディテレーニアン・ハーバーは、明確に表示が出ているわけではないのですが、3つの区域でできています。メインゲートから左の区域は、「パラッツォ・カナル(Palazzo Canals)」。水の都ヴェネツィア (ベニス)の雰囲気です。運河にかかる橋やゴンドラがポイントですね。「パラッツォ」というのは英語の“Palace"と同じような意味ですが、さしずめ「宮廷運河」というような意味になりますね。

メインゲートから右の区域は、「ポルト・パラディーゾ(Porto Paradiso)」。イタリア語の読み方は「ポルト・パラディーソ」なんですが、ディズニー公式サイトでは「ゾ」になっているので、それに従います。英語にすると、“Port Paradise"、つまり「楽園港」ですね。この区域は、イタリア西北部、ジェノア県の港町のポルト・フィーノ(Porto Fino)や、世界遺産のチンクエ・テッレ(Cinque Terre)などをイメージして作られているようです。ソアリンのアトラクションのあるファンタスティック・フライト・ミュージアムは、この区域の右奥にあります。

メディテレーニアン・ハーバーの対岸に昔の帆船(ガレオン船)と要塞のような建造物が見えますが、この区域は、エクスプローラーズ・ランディングと呼ばれる区域です。コロンブスとか、マゼランが活躍した大航海時代のスペイン、ポルトガルのイメージです。同じ地中海地域ですが、他のエリアと少し雰囲気が異なります。



パラッツォ・カナルもそうですが、ポルト・パラディーゾのエリアは建築物の雰囲気がまさにイタリア。実際に、イタリアに旅行に来たような錯覚になります。通りの表記もちゃんとしたイタリア語になっていますし、「トイレ」の表記も“TOLETTA" (トレッタ)とイタリア語になっています。

また上の写真にも写っていますが、アーチを抜けてソアリンの建物に向かう小道は、“Calle Pippo" (カッレ・ピッポ)という名前。“Calle"というのは、英語の“Alley"、つまり「路地」とか「小路」というような感じです。“Pippo"というのは、英語では“Goofy”。「グーフィー」のイタリア語名称は「ピッポ」なのですね。なので、「グーフィー通り」。このように、ディズニーのキャラクターの名称のついた地名がいくつかあります。

ちなみにこのすぐそばにある“Via Paperino"というのは、イタリア語で「ドナルド通り」ということになります。

また壁に書かれているイタリア語の文字も意味がわかるともっと楽しくなります。例えば、上の写真にある、“Godiamoci la primavera tutti insieme"というのは「みんなで一緒に春を楽しもう!」という意味ですね。季節に合わせて書き換えているのかもしれませんが。

さて、ソアリンの「ファンタスティック・フライト・ミュージアム」は、ポルト・パラディーゾの奥のほうにあります。それでは、このミュージアムへの旅を始めることとしましょう。

ファンタスティック・フライト・ミュージアム



ソアリンに乗る前にも、“Buon viaggio" (ブオン・ビアッジョ)という呼びかけが使われますが、これはイタリア語で「よい旅を」という意味です。フランス語だと「ボン・ボヤージュ」ですね。

ソアリンのメインアトラクションのウェイティング・エリア全体が「ファンタスティック・フライト・ミュージアム」となっています。このミュージアムの時代設定は、20世紀初頭の1901年。この展示の主役であるカメリア・ファルコという女性はこの年にはすでに死去しているのですが、ミュージアムでは、「カメリア・ファルコ生誕100周年特別展」が開催されています。庭園から屋内に入って、まず最初に見ることになるのは、ミュージアム・ロビーの展示です。

ディズニーの世界は「夢と魔法の王国」と言われているように、このミュージアム自体も、その展示も、人物も、歴史も、すべて想像上のものなのですが、それが最終的な飛行体験を盛り上げるために効果的に機能しているのです。

この展示をより理解するためには、カメリア・ファルコという人物について知っておく必要があります。



上の図は、自分で作ったものですが、カメリア・ファルコの生誕から1901年までの歴史を整理したものです。カメリア・ファルコは、1801年に、チェリーノ・ファルコとジュリアーナ・ファルコの間に生まれました。正式名は、カメリア・ヴァレンティナ・ファルコ。生誕地は、ポルト・パラディーゾです。

博物館が完成するのは1815年9月4日。1831年、カメリアが30歳の時、熱気球でザンベジ河の旅を行います。ザンベジ河というのはアフリカのザンビア、ジンバブエを流れ、モザンビークでインド洋に注ぐ長い河川です。この時代に、しかも女性で、気球でアフリカを旅するという設定はすごいですね。

そして1850年、父親の後を継いで、ファンタスティック・フライト・ミュージアムの二代目館長に就任。翌1851年には、S.E.A.の女性初の会員になるのです。S.E.A.とは、世界のディズニーワールドにおいて、探検家・冒険家である架空のキャラクターが所属する架空の団体、『Society of Explorers and Adventurers』(探検家冒険家学会)の略称です。詳しい展示は、フォートレス・エクスプロレーションにあるようですが、ヴァスコ・ダ・ガマ、コロンブス、マルコ・ポーロ、レオナルド・ダ・ヴィンチら実在の歴史的人物が名を連ねています。

ソアリンの乗り物である「ドリーム・フライヤー」はこの前後で発明されたと思われます。ライト兄弟が世界で初めて飛行機で飛んだのが1903年のことなので、ドリーム・フライヤーはかなり画期的な存在だったはずです。

カメリア・ファルコは1875年に亡くなります。1801年生まれなので75歳。今で考えればまだ若いですね。彼女の死後、このミュージアムは、S.E.A.に寄贈され、1901年にカメリア・ファルコ生誕100周年の回顧展が開催されるというわけです。

私たちが目撃するのは、1901年のこの回顧展の会場なのです。

ファンタスティック・フライト・ミュージアムの歴史



このミュージアム内の展示はすべて架空の物語ですが、ミュージアムロビーではその歴史が展示されています。細かい説明を見ていくと、とても面白いですね。

例えば、1807年の起工式では、父親のチェリーノ・ファルコ氏が土を掘っている絵があります。背後に奥さんと6歳の頃の娘が見えています。父親の肩に停まっているのがアレッタというハヤブサ。これは後にカメリア・ファルコに引き継がれることになり、ファルコ家の重要なメンバーとなります。最後の部屋にもこのハヤブサの彫像が置かれています。

実は、この一家の苗字の「ファルコ」(Falco)とは、イタリア語で「ハヤブサ」を意味しています。したがって、これらの絵の中に登場している鳥のハヤブサはファルコ家のシンボル的存在なんですね。

実はこの土地の斡旋と建物の施工を行なったのは、ザンビーニ・ブラザーズという会社。彼らはこのポルト・パラディーゾでは有力な地主だったんですね。ディズニー公式によると彼らは3人の兄弟のようですが、不動産業、建築業、ワイン畑、ワイン生産、オリーブオイルの生産、ホテル、レストランなど手広く経営する会社のようです。ザンビーニ・ブラザーズ・リストランテというレストランがありますが、これはこの会社所有のレストランだったんですね。

1815年9月4日に完成式典が挙行されますが、上の一番右がテープカットの絵です。後ろに奥さんと、14歳になったカメリアの姿があります。よく見ると、ハヤブサのアレッタは父親ではなく、カメリアの腕のところにいます。

テープの両端を持っている二人の紳士がひょっとしてザンビーニ兄弟なのかもしれません。

この時使用されたであろう鋏とテープの実物が展示されています。

ミュージアムには日本からの使節団も訪れていた!



ミュージアムロビーの壁面の一角に、世界各国からの訪問客を描いた絵が数枚展示されています。インドやロシア、アラビア、ハワイなど様々な国からの賓客の訪問の絵の中に、日本からの使節団が訪問している場面の絵があります。

日本からの数名の使節団を迎えているカメリア・ファルコ。その肩には、ハヤブサのアレッタが羽根を大きく広げています。この絵にはイタリア語でキャプションが付いていますが、これを日本語に訳すと、「やんごとなき身分に見える日本の紳士たちを迎えるカメリア・ファルコ(1872年)」という意味になります。

この年、カメリア・ファルコは71歳。日本風に深々とお辞儀をしています。日本側の一団を見ると、従者たちが洋装なのですが、先頭の代表者だけは和装で、独特の髷をゆっています。

後で調べてみたら、これは岩倉具視(いわくらともみ)のようですね。岩倉具視は幕末から明治の時代に生きた有名人で、500円札にもなったあの人です。

実は、この絵に描かれた1872年(明治5年)前後、岩倉使節団が欧米を訪問しているのです。日本を出発したのは明治4年(1871年)、各地を回り、日本に帰国するのが明治6年(1873年)、イタリアも訪問している記録があります。

上の写真の左下の写真は、ファンタスティック・フライト・ミュージアムとは関係がない写真で歴史の文献に出ているものです。使節団の記念写真のようですが、ここに写っているのは、左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通。明治の日本を支えた錚々たる面々です。

この写真の岩倉具視の髷の形と衣装、絵の中の人物と酷似しています。この絵は岩倉使節団の写真を参考にして描かれたものと推測されますね。建物の向こうには桜の花が咲いているように描かれています。

おそらく、これらの絵の一枚一枚にこうしたエピソードがあるのでしょう。

古今東西の飛ぶことへの夢が展示されている



ミュージアムのレセプションロビーから、博物館の受付を通ると、ドーム天井の広々とした展示室に誘われます。ここは常設展なのでしょう。中央部には古代エジプトにあるようなオベリスクが設置されています。オベリスクの4つの面は象形文字が刻まれています。オベリスクの下の部分には、冒険、発見、発明、ロマンスというS.E.A.の4つの主要ジャンルのプレートが嵌め込まれています。

壁面には世界各地での飛ぶことをテーマにした絵画がぐるりと展示されています。象が空を飛んでいたり、忍者が凧のように空を飛んでいたり、どれもありえない出来事ばかりです。それらが大真面目に展示されているところが面白いですね。

空飛ぶ絨毯の切れ端や魔法使いの箒も展示されている!



この常設展に展示されているアイテムは、つい見過ごされてしまいそうなのですが、よく見ると実に面白いものが多くあります。例えば、上の写真の左にあるのは、額縁の中に収められた絨毯の切れ端。イタリア語のプレートが付いているのですが、日本語に翻訳すると、こんな感じになります。「1001回目の飛行の後の空飛ぶ絨毯の破片(8世紀)」何と夢のある展示なんでしょう。

そして右のアンティークな額縁の中には、魔法使いの箒が展示されています。空中を飛行することへのありとあらゆる事象が展示されているんですね。

飛ぶことの夢は植物の種にも共有されている?



このミュージアムには、こんな植物学的な展示もあります。植物の種子の中には実際に大きな羽根を持っているものがあります。植物は子孫を残すために種子をできるだけ広範囲にばら撒く必要を持っていて、その目的のために進化している植物があります。まるで鳥や昆虫の羽根のような形になっている種子が実際にあるんですね。左上の書物にはタンポポが描かれているんですが、タンポポの種子がどうやって風に乗って遠くまで飛翔できるのかを科学的に説明しているようです。

実は、私は昨年までシンガポールにいたのですが、シンガポールのボタニックガーデン(植物園)にある「種の博物館」を見たことを思い出しました。植物の種子たちが生存競争を勝ち抜くために、種を遠くまで拡散する工夫を各植物がしているのです。それがアカデミックに展示されていてある意味感動的でした。



シンガポールのこのミュージアムは植物園の片隅にあるのですが、ガイドブックにも載っていないので、シンガポールにいる人もあまり知りません。私としては大好きなミュージアムの一つです。

ありえないイカロスの予備パラシュート



常設展エリアには、こんな壺も展示されています。古代ギリシャの壺のようで、何気なく通りすぎてしまいそうですが、よく見ると何か変です。これはギリシャ神話のイカロスが空から落下する場面なのですが、パラシュートのようなものをつけています。タイトルプレートのイタリア語の文字を見ると、「平壺に描かれたイカロスの壊れた翼のためのバックアップ(およそ紀元前5世紀)」と書かれています。

この壺の絵は、奥で飛んでいるのが父親の大工のダイダロス。手前のパラシュートで落下しているのは子供のイカロスです。

空飛ぶ羽根を作ったのは、大工のダイダロスですが、子供のイカロスにもそれを与えます。羽根は蝋で繋ぎ合わせているので、太陽の近くに行くと蝋が溶けてしまいます。ダイダロスは、決して太陽には近づくなとイカロスに忠告します。しかしイカロスは調子に乗って、太陽の近くまで飛んでいってしまうので、蝋が溶けて地上に落下して、死んでしまうというのがオリジナルのお話。

しかし、展示されているこの壺に描かれているのは、非常用のパラシュートをつけたイカロス。おそらく、こんなこともあろうかと父親のダイダロスが作っておいたものなのでしょう。父親の先見の明のおかげで、イカロスが死なずにすむというわけです。こういうちょっとしたユーモアもよいですね。

飛ぶことを目指した生物たち



こちらの展示物ですが、一番左のキャプションは「飛翔可能な生物たち」という絵。鳥や昆虫が飛べるのはよいのですが、この中にエイや、イカや、カエルなども入っているところがちょっと面白いです。ビジュアル的には飛べそうなのですが、本当は空を飛ぶことなどはできません。

真ん中の空飛ぶペンギンの絵。キャプションは「小さな翼に大きなハート」。ペンギンは飛ぶことはないのですが、空を飛んだペンギンもいたのかと思えてしまいます。この絵に「1870」という年号がついてるのですが、これはカメリア・ファルコが69歳の頃のものです。この常設展部分の展示は父親のチェリーノ・ファルコが作ったものだと思っていたのですが、1870年のこの作品は、明らかにカメリア・ファルコが入れたものですね。

カメリア・ファルコはどういう思いでこの空飛ぶペンギンの絵をここに飾ったのかを考えると、感慨深いです。

一番右の化石の展示ですが、始祖鳥の化石の下にトビウオの化石とアンモナイトの化石が混在しています。これもよく見ると変ですよね。トビウオが飛んだ状態で、しかも群れで飛んでいる状態で化石になるというのはありえないですね。

このミュージアムの展示物は、一見、歴史的なものが展示されているように見えながら、実は、すごいユーモアが盛り込まれているのですね。それがわかるととても楽しくなります。

このミュージアムを作った父親のチェリーノ・ファルコは、人類の空を飛ぶという夢をテーマに、古今東西のありとあらゆる絵画、文献、工芸品、生物学的、考古学的な品物を徹底的に収集したようです。ここまでマニアックによく集めたものだと思います。

飛行機が発明されるのが、このカメリア・ファルコ生誕100周年が開催されている1901年の2年後のことなのですが、このアトラクションの最終展示物であるソアリンの乗り物が、人類(動植物も含めて)の夢の上に構築されたものであることがわかります。ソアリンはただ空を飛ぶ感覚を楽しむというだけのアトラクションではないのです。

カメリア・ファルコ本人のブリーフィング

この常設展の展示を見終えると、私たちは、「カメリア・ファルコ生誕100周年記念展示」の部屋に誘われます。



この部屋には、カメリア・ファルコにまつわる様々な興味深い物が展示されています。しかし、残念なことに私たちは、その展示をじっくりと見ることはできません。「ドリーム・フライヤー」に乗るためのブリーフィングが行われるからです。機会があれば、この部屋の展示物をじっくりと眺めたいものですね。

正面にカメリア・ファルコの肖像画が飾ってあります。そしてその右側にはハヤブサのアレッタの彫像があります。室内が暗くなると、何と肖像画のカメリア・ファルコが動き出し、彫像であるはずのハヤブサのアレッタが上空に舞い上がり、カメリア・ファルコの腕に停まるのです。

この仕掛けは何度見ても素晴らしいですね。この生誕100周年記念展が行われている1901年には、カメリア・ファルコは生存していないはずです。1875年に74歳で亡くなっており、死後26年が経過しています。そんな彼女がまるで生きているかのように語り出すので驚いてしまいます。

ソアリン・ドリーム・フライヤーはカメリア・ファルコの、空を飛ぶことへの夢と情熱が創り出した作品です。それを私たちは実際に体験することになるのですが、そのブリーフィングを死んだはずの彼女自身が行うというのがまた感動的です。

そしてこのブリーフィングを締めくくる言葉が、“Buon viaggio"(ブオン・ヴィアッジョ)という言葉。イタリア語で「よい旅を」という意味ですが、この後、私たちが経験するのが、まさに世界旅行なので、これほど的確な言葉はありません。イタリア語の正確な発音で、この言葉の意味を味わいたいと思います。

エピローグに代えて — カメリア・ファルコとアメリア・イアハート



カメリア・ファルコは空想上の人物で、ディズニーのオリジナルの人物ですが、名前は20世紀初頭に女性飛行家として一世風靡したアメリア・イアハート(Amelia Earhart, 1897-1937)をモデルとしていると言われています。「カメリア」と「アメリア」、音が非常に似ていますね。

日本では、大西洋を単独飛行したチャールズ・リンドバーグは有名ですが、アメリア・イアハートは彼ほどは知られていません。しかしリンドバーグが大西洋横断単独飛行の記録を打ち立てた5年後の1932年、女性として初めて大西洋を単独飛行し、時の人となります。1937年、赤道上の世界一周飛行に挑戦するのですが、南太平洋で行方不明となります。欧米では非常に人気があったと言われています。

原田マハさんが、「翼をください」という作品を書いていますが、これはアメリア・イアハートを題材にしています。あと、今年のNHKの朝ドラの「舞い上がれ!」で、大学のサークル「なにわバードマン」の由良先輩が、アメリア・イアハートのことを何度か語る場面があります。

由良先輩が、アメリア・イアハートの言葉として紹介するのが、「一番難しいのは、やろうと決意すること。あとは諦めずにやるだけ」という言葉。感動的ですね。おそらく、ソアリンを作ったカメリア・ファルコもそんなことを思っていたのではないかと思います。

不可能と思われていた空を飛ぶという夢。ライト兄弟は20世紀初頭に飛行機という形で実現するのですが、カメリア・ファルコはそれより前にイマジネーションと情熱の力でソアリンを完成させていたんですね。

19世紀のイタリアの港町、ポルト・パラディーゾで、飛行マニアの父親の影響を受けながら育ち、周りには「女だてらに」と言われながら、飛行冒険家の道を進み、「ドリーム・フライヤー」を完成させたカメリア・ファルコ。その存在は、イマジネーション上の人物でありながら、リアルな一人の人間として、私たちに感銘を与えています。ソアリンの体験がバーチャルでありながら、本当の飛行体験と感じられるのは、彼女のおかげかもしれませんね。
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2023年の手帳の色に込められた思い

2023-01-03 22:31:08 | トラベル
今年の手帳はどうしようかと悩んだあげく、結局「ターコイズ」にしました。青と緑の中間的な色ですが、宝石のトルコ石(ターコイズ)の色ということでこう呼ばれています。「ターコイズブルー」とも、「ターコイズグリーン」とも言いますが、「ターコイズブルー」の印刷の色はC(シアン)80、M(マゼンタ)0、Y(イエロー)20、K(ブラック)0という組み合わせ。写真で撮影しても本物の色が正確に再現できていない気がします。

2022年の手帳の色も一見同じような感じなのですが、こちらは「ピーコックグリーン」という色。ぱっと見はほとんど違いがわかりません。2021年の手帳を見たら、こちらも「ターコイズ」でした。

2020年以前は、ネイビーが多かったのですが、ダークブラウンのもありました。数年前から同じブランドの同じシリーズの手帳を使っていて(昨年はちょっとだけデザインが違っていましたが)、「日経WOMAN」のロゴが帯に小さく印刷してあるので、女性をターゲットにしたデザインかと思いながら、それに惑わされることなく使っていました。

実は、今年はこれまでと雰囲気変えて、ブルー系にしてもよいかと思っていました。大晦日に書店の文房具売り場で、いろいろと見比べたのですが、一瞬良いと思ったネイビーやダークグレーも、何か暗いなと思ってしまったのです。それに比べて、「ターコイズ」の色が明るく輝いてみえました。これから一年付き合っていくのは、やはりこの色しかないと思い、結局、この色にしたのでした。



この色から感じたのは、南の太陽の光溢れるビーチリゾートの海の色でした。そこにあるのは、自由、リラックス、ワクワク感などです。実際に訪れたいくつかのビーチの思い出とともに、心が解き放たれる雰囲気が好きで、この色を選んだのです。

まず心に浮かんだロケーションは、バブルの時代に出張の途中に寄ったフランスのコートダジュールでした。



スマホもインターネットも存在しない時代であり、海外出張も今では信じられないくらい余裕がありました。一緒に出張に行った上司が、せっかくヨーロッパに来たからということで、マルセイユから電車で南フランスを旅することにしました。ガイドブックを調べて、コートダジュールをうろうろしたのですが、ニースの近くのカーニュ・シュルメールという海辺の町で一泊しました。とても雰囲気のある町で、魚介類は美味しいし、ヨーロッパの贅沢な雰囲気をまだ20代の若造が楽しむことができました。



90年の終わり頃からよく行ったのがプーケットでしたが、プーケットから船で行けるピピ島のビーチの美しさは感動的でした。



サムイ島も何度か行きましたがここの海も素晴らしかったですね。



シンガポールに全部で15年以上いたのですが、シンガポールは周りを海に囲まれていながらもダイビングを楽しむためにはマレーシアとかに行かなければなりませんでした。マレーシアのティオマンはシンガポールから最寄りのダイビングスポットでした。



フロリダ半島の先端部の道路をキーウェストまで行ったことがありますが、これもビーチの思い出です。



インドのゴアも撮影で行ったことがあります。ちょっとエキゾチックですが、ゴアのインド料理はすごく美味しかったです。



ハワイの海もいろいろと行きましたが、ビーチリゾートとしてはやはり秀逸です。



トロピカルリゾートというわけではないですが、三宅島はダイビングをしに何度か行きました。

というわけで「ターコイズ」の色にはこんな様々な記憶がまとわりついているのです。

最後に、この手帳についていたカードのコピーが印象的ですので、ご紹介しておきましょう。



「何かをやりたいと思う気持ちは、ひとつの奇跡だと思う。誰かに強制されるでもなく、心に湧き上がる衝動。きっと、その衝動こそが、人生を自分の色に染めていく。この手帳に嘘はいらない。小さくてもいい、らしくなくてもいい。やりたいことこそ、やるべきこと。ノルティと歩む一年が、あなただけの彩りで満ちますように」

何て勇気付けられる文章なのでしょう。これがまた私がこのブランドの手帳が好きな理由の一つです。

今年一年がわくわくするようなスケジュールで満ちますように。
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110階から見えていたマンハッタンの景色—あれから20年

2021-09-13 00:46:10 | トラベル
あの日から20年が経った。2001年の9月11日のあの事件が起きる約一ヶ月前の金曜日の朝、私はニューヨークのワールドトレードセンターの展望台にいた。この上の写真が110階の展望台から私が撮影した写真だ。

朝霧がかかった景色の中央に、エンパイヤステートビルがかすかに見えていた。そのずっと上はセントラルパーク。手前の低い建物が立ち並ぶ地域は、グリニッジビレッジや、ソーホー、トライベッカと呼ばれる地域。右手はチャイナタウン。

ここはマンハッタンがまさに一望できる場所であった。まさか、この一ヶ月後にこの場所が消えてなくなるなんて誰が予想できただろう。このビルの中にいて、命を失った多くの人たちは、こんな景色を見ながら仕事をしていた。やがて恐ろしい事件が起こるなんて想像することもなく。

もしも、その日が一月ほど早まっていたとしたら、あるいは、私のニューヨーク出張の予定が一月ほど遅れていたとしたら、と考えると恐ろしい。この展望台を訪れていることは、どこにも記録に残っていないから、行方不明者リストにも載らずに、失踪ということになっていたのかもしれない。

この階から少し下のほうに飛行機が突っ込み、火炎が迫ってくる。窓から真下を見下ろすと、目がくらみそうな高さだ。このビルにいて、亡くなった方達の目に、この景色はどのように映っていたのだろう。考えるだけでも恐ろしい。同時多発テロで犠牲になった多くの方々のご冥福をお祈りいたします。

その出張で私がニューヨークに入ったのは8月3日。広告写真の撮影のためだった。前日までインドで某カメラメーカーのコマーシャルの撮影をしていたが、シンガポールで一泊し、東京トランジットでニューヨークに到着した。



ニューヨークは以前、出張ではよく来ていたが、もう5年ぶりくらいになる。これまで何度もマンハッタンに滞在したが、この時初めてマンハッタンの南の地区のトライベッカに宿を取った。撮影場所がまさに、ワールドトレードセンターだったので、その近くがよいということで、コスモポリタンホテルという小さなホテルに宿泊した。



その撮影は、某日系ビジネス機器メーカーのインド向けの広告キャンペーンのものだった。国際的なイメージをアピールするために、様々な国籍の人間を100人集めて、ワールドトレードセンターをバックに撮影するというものだった。ニューヨークに入ってから、キャスティングの調整で、数日かかっていたが、撮影は8月6日の月曜日に無事に行われた。



広告は9月頭にインドの新聞や雑誌で出稿することになったが、同時多発テロを受けて、すぐに背景のワールドトレードセンターの画像を、別の建物に差し替えるということになった。この作業は淡々と行われ、広告はすぐに差し替えられ、広告はまもなく出稿された。



ホテルのそばに、消防署があった。何度もその前を通ったが、訓練をしている姿も目撃した。同時多発テロの時、この消防署の署員は真っ先に救助に向かったに違いない。救助に向かって命を落とした消防署員も多数いたと聞いている。

撮影の前に日本から来たスタッフと一緒に、ワールドトレードセンターの展望台に上がり、展望台のカフェで打ち合わせをすることにした。トップの写真はその時のものだ。建物に入る時、飛行場にあるようなX線チェックがあった。テロに対する警備がすでに強化されていたようだ。

スタッフの一人が持っていた日本からのお土産の缶入りのお菓子がX線でひっかかり、けたたましい音が鳴った。お菓子だということを説明し、建物に入れてもらえた。こんな厳しい警備をしていたが、飛行機が直接建物に突っ込んでくるなんて誰が想像できたろう。

110階の展望台には、土産物屋があり、コーヒーショップもあった。私たちは、クリームチーズのベーグルとコーヒーを飲みながら、そこで撮影の段取りの打ち合わせを行った。まだ朝の時間だったので、人はあまりいなかった。

911が来ると、その時のことをいつも思い出す。あれから20年。この事件で命を失った多くの人々のことを思うといたたまれなくなりますが、こういうことは二度と起きないことを祈ります。



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シンガポール での2週間のホテル隔離・完結編

2021-03-10 16:24:32 | トラベル
2021年2月21日、東京からシンガポールに到着し、ホテルでの2週間の隔離が終わりました。渡航の準備から、シンガポールへの到着、そしてホテルに入って数日経ったところまでは前回のブログでご紹介いたしました。15日目の3月7日の日曜日に無事に隔離が終了して、シンガポールの自宅に戻ることができました。

来る前は2週間という時間の長さが不安でした。また、部屋から一歩も外に出ることなく、一定の場所に留まるという、これまでの人生の中で一度も経験もしたことのない事だったので、心配でいっぱいでした。外の空気を吸えなくて、大丈夫だろうか?同じ環境の中で飽きることはないだろうか?食事は飽きないだろうか?閉塞感で精神的におかしくならないだろうか?など不安のオンパレードでした。

おまけに夫婦二人で同じ部屋に四六時中 x 2週間いるということがどういうことか、想像すらできませんでした。「一人の時間も必要なんだよ」とよく言っていた妻が果たして、狭い空間に閉じ込められ、時間と空間を共有せざるを得ない状況の中でどうなるのかを考えると、少々不安でした。もしも機嫌が悪くなった場合に、ホテルの部屋では逃げ場がありません(汗)。



でも人間、何とか適応できるものです。2週間が終わってみると、あっと言う間でした。幸いにして、滞在したホテルが、シンガポールのリージェントホテルという五つ星ホテルで、部屋は思ったより広々としているし、バルコニーは無いけれど窓は大きくくて景色は良いし、食事は美味しいし、ホテルのサービスも良いので、滞在はとても快適でした。

2週間の隔離が終わって、ここを去るのが寂しくなったくらいです。住めば都というように、この平和な空間に慣れてしまうと、隔離空間が心地よく思えてしまいます。2週間を指定された場所で過ごすというのは強制的な義務なのですが、この経験はユニークな体験でした。リゾートに旅行に行っても、何だかんだ忙しいのですが、この2週間は、自分で予定を決めたり、手配をする必要もなく、何を食べるのかを考える必要がなく、料理をする必要もなく、外の世界のストレスを感じることもなく、平和な時間だけが過ぎてゆきました。

この2週間の滞在の中で、いろいろなことを経験したり、発見したことがあるので、それを書き留めておきたいと思います。また、これからシンガポールに入国するために隔離をする方もおられると思いますので、持ってきてよかった物などについても記しておきたいと思います。参考になりましたら幸いです。

ホテルに関して

どのホテルになるのかは全く運によります。同じ日の朝に到着した人は、キッチナーロードのパークロイヤルだったようですし、別な日に到着した人は、隣のJENだったり、シティーホールのスイソテルやJWマリオット、フェアモント、あるいは、グランドコプソーンや、シェラトン、シャングリラといういう人もいました。

2月21日の夕方、50人以上の人がリージェントホテルに来て、15日目の3月7日に全員が出て行ったので、数日中に。また多くの人たちがこのホテルにやってくるのでしょう。それがいつになるのかは、ホテル側の準備もあるし、他のホテルとの調整や、到着者の数などいろんな調整で決まるので、どのホテルになるのかは全くわかりません。

私たちが隔離で2週間を過ごすことになったのは、オーチャードロードから少し外れた静かなエリアにあるリージェントホテルでした。シンガポールのホテルの値段は高いので、このような五つ星のホテルに泊まれたことは非常に幸運でした。



あくまでも個人の感想ですが、隔離施設としては非常にレベルの高いものでした。6階の窓の部屋の景色はとても平和な感じだし、食事やサービス対応も非常に満足のいくものでした。

このホテルには宿泊したことはないのですが、宴会場や、レストランや、バーには何度か訪れたことがありました。シンガポール日本商工会議所が毎年行っている新年会はこのホテルの一階の宴会場で行われているので、何度も来たことがあります。一昨年には、このホテルに入っている天ぷらの天信や、アジアトップ50バーの一位を獲得したことのあるマンハッタンというバーにも来たことがありました。さらに、イタリアン・レストランのバジリコや、中華料理のサマー・パレスはシンガポールでも有名なレストランとなっています。

景色という点では、高層のスイソテルから見える景色はとても魅力的だし、フェアモントや、JWマリオットとかも設備がよさそうだったのですが、結果的には、リージェントになってとてもよかったと思います。自分で選択することはできないので、比較してもあまり意味はありません。どのホテルになるのかは運で、到着する時間帯やどの航空会社、どの国から来た便なのかは全く関連がないようです。

リージェントホテルは、現在ほ隔離用の施設として使われています。下のレストランや宴会場は営業しています。バルコニー付きの部屋もあるのですが、私たちに与えられた部屋はバルコニーのない部屋でした。バルコニーがあると、外の空気を吸えてよいし、開放感があるので、バルコニー付きの部屋だったらいいなと思っていたのですが、普通の部屋でした。でも、天井も高いし、窓も大きいので、外に出られなくても全く閉塞感はありませんでした。

同じホテルでも建物のどの面の部屋なのか、また何階なのかによって風景は変わるのですが、与えられた6階の部屋で十分満足することができました。馴染みのあるタングリンモールのすぐ裏手だし、静かな住宅地が見えています。自分が住んでいるコンドミニアムが遠くに見えているのも、何か不思議な縁を感じました。

ホテルの食事

ホテルの食事は非常に満足のいくものでした。到着した日に、2週間分のメニューの選択をしなければならないのですが、何を選んだのかはすぐに忘れてしまいました。忘れないようにスマホで撮っておけばよかったと後で思いました。朝食は固定なのですが、昼食と夕食は、二種類の中からの選択です。イタリアンやローカルフードが並んでいましたが、片方どちらかがベジタリアンになっていました。



イタリアンは、パスタはペンネやラビオリで、ベジタリアンになっていました。ベジタリアンと言っても、いろんな野菜が入っていて、チーズもかかっていてとても美味しかったです。イタリアンのパスタだと、ベーコンなどが入っていることを期待してしまうのですが、ベジタリアンだけでもきちんとした料理として成立するのだということをあらためて思い知らされました。



あと、夜は必ずスープが付いてくるというのもよかったです。コーン、マッシュルーム、豆、ブロッコリーなど日替わりで暖かいスープが出ました。



朝食も、デニッシュが二つ(一つはクロワッサンの時が多い)で、バターとジャム、ヨーグルト、ジュース、フルーツのセットですが、ヨーグルトは日替わりでストロベリー、アップル、アプリコット、アロエ、マンゴなど、ジュースもオレンジ、マンゴ、アップル、フルーツはバナナ、リンゴ、みかん、プラム、洋梨など日替わりになっていました。



ランチには、オレオやリッツなどのお菓子が付き、夜は小さなロールケーキや、デザートが付いていました。





料理の味つけは、濃過ぎず、薄過ぎず、ちょうどいい感じでした。また、どのメニューも野菜が多めで、野菜の種類も豊富で、非常にバランスがよかったと思います。生野菜がなくても、野菜は十分取れ、健康に配慮してくれていることを感謝したくなるようなメニューでした。

料理も温かい状態で届けられ、美味しく食べられました。

このホテルには、バジリコという有名なイタリアンが入っているのですが、このイタリアンの食事はこのレストランのキッチンで作られているのではと思われました。それほどまでに美味しかったです。



また、チキンライスなどのローカルフードも素晴らしかったです。



こちらの食事は、BioPakという紙の容器と、木製のスプーン、フォーク、ナイフのセットで供給されました。他のホテルの食事は、プラスチックのものがほとんどなのに、このホテルのこの環境意識は非常に感心しました。



持ってきて役立ったもの

日本から沢山のものを段ボールで持ってきたのですが、役立ったものをいくつかご紹介したいと思います。

1) 乾燥野菜とスープ、味噌汁など
ホテルで出る食事で野菜不足になることはありませんでしたが、ランチには野菜スープや味噌汁を付けることにしました。

2) ルームスプレーと消臭除菌剤



こちらのスリーフという身体に安全な消臭除菌スプレーを妻が持ってきて、食後などに時々シュッとやって部屋ににおいがこもらないようにしていました。

またこちらの商品を妻が持ってきましたが、朝や寝る前とかに心を落ち着かせることができました。いろいろなタイプがあったそうなのですが、妻が自分の好きな香りのものを選んで購入したら、「愛と調和」というシンボルワードのものでした。おかげで2週間、平和に過ごすことができました。





3) ポータブルDVDプレーヤー
こちらは、以前、シンガポールで買ったものですが、妻が韓国ドラマを見るのに使いました。ホテルにはDVDプレーヤーなどはついていないので、これが役立ちました。



4) 体温計
これは必需品です。1日3回体温を測り、FWMOM/Careというアプリで報告しなければならないので、体温計がないとこれができません。

5) 延長コード
スマホの充電などで電源が沢山必要だろうと延長コードを持ってきたのですが、ホテルの部屋にはデスクに3個、ベッドサイドに4個、壁面に2個あり、これだけで十分な数がありました。しかもデスクとベッドサイドの電源は、日本タイプのもシンガポールタイプのもアダプターなしで、どちらでも入るのでこれは便利でした。


6) ハンドソープ
ホテルには石鹸や、シャワージェルはあるのですが、ハンドソープを持ってきました。手洗いをする機会も多いので、これは便利でした。

7) トイレ掃除用の流せるシート
滞在中はホテルの掃除は入らないので、トイレを清潔に保つために流せるシートを持ってきたのですが、これは便利でした。他にも除菌シートや、掃除用のシートなども便利でした。

8) ナイフ
フルーツをカットしたりする場合に使いました。

9) 洗濯用洗剤
下着などを洗うための洗剤は必要ですね。あとハンガーもあると便利です。ホテルのクリーニングに出してもよいのですが、下着などは洗ってバスルームにかけておけば1日もせずに乾きます。

10)サランラップやジプロック
洗った果物を置いておいたり、飲みかけの飲み物に蓋をするような場合に便利でした。また、朝食でついてくるバターやジャムなど使わなくて溜まっていくものを冷蔵庫に入れておくのにジプロックは便利でした。

11)シャンプーやコンディショナー、シャワージェルなどは、ホテルにロクシタンのものがついていたので、それを使わせてもらいました。

12)本は何冊か持ってきたのですが、結局読む時間はほとんどありませんでした。

13)カップ麺や梅干しなど日本の食材を持ってきたのですが、ホテルの食事が美味しいのであまり出番がなかったです。でも、ペヤングの焼きそばと、カップヌードルは懐かしかったです。

14)ゴミ袋
ゴミはドアの外に出しておけば回収してくれます。ホテルから袋ももらえるのですが、部屋にゴミを溜めたくなかったので、持ってきたゴミ袋が役にたちました。

15)ラジオ(ブルートゥーススピーカー)

テレビにもスマホのスポティファイを飛ばせましたが、時々ラジオでローカルのラジオ番組などを聞きました。また夜寝る時には、スポティファイに入れてある睡眠用の音楽をブルートゥースで繋いでかけていました。

隔離生活の日常に関して

2週間の間は、部屋の掃除とかベッドメーキングなどのサービスはありません。バスタオルやバスマットは、電話で頼むと新しいのを持ってきてくれました。ピローケースなども取り替えてくれたし、掃除機は一度借りました。トイレットペーパーも電話すればすぐに補充してくれますし、インスタントコーヒーや紅茶も補充してくれました。部屋の外の椅子の上に置いてくれて、ドアベルや、ノックで知らせてくれます。手渡しで受け取るということはありません。最初はどこまでお願いしていいのかよくわからなかったのですが、必要なものはどんどん頼んでいいんだと思いました。

滞在中に、シンガポールのMOM (人材開発省)から何度も電話がありました。全部で数回かかってきました。最初のうちは、名前、ホテル名、部屋番号、IDナンバーなどを聞かれ、一人で滞在しているのかなども聞かれました。アプリで体温を3回報告しているかなどの念もおされました。健康状況も尋ねられることもありました。隔離も後半になると、隔離の終わる日の確認と、Swab Test (PCR検査)の日時の確認などが加わりました。

毎回違う人がスマホに電話してきて、かなりシンガポール訛りの強い(いわゆるシングリッシュ)の人も多いので、シンガポールの英語に慣れていない人には最初は聞き取りにくいのではないかと思いました。

また、スマホがないとシンガポールに来るのは無理だというのを痛感しました。PCR検査などの結果は、スマホにメッセージで連絡がきますし、最後のPCRの検査結果を受け取ったらそれをスクリーンショットにしてホテルに転送しなければなりません。また、ホテルに着いたら、FWMOM/Careというアプリをダウンロードして、2週間毎日、1日3回、計測した体温を報告しないといけません。



さらに、MOMからの連絡もすべてスマホです。これほどまでにスマホが重要な役割を果たすのだとあらためて痛感しました。

最後のPCR検査とチェックアウトに向けて

11日目の夕方にHPB(Health Promotion Board)というところからスマホにメッセージが入ってきて、PCR検査の日時と場所を知らせてきました。

隔離12日目、ホテルのマネジメントからレターが届きました。15日目に隔離が終了するので、その段取りと、チェックアウトに関してのお知らせでした。事務的なレターなのに、その書き方がとても温かい気がしました。下の画像がそのレターなのですが、印象に残った箇所を赤枠で囲っておきました。



「次はもっとハッピーな機会にこのホテルでお客様を再びお迎えできることを心待ちにしています」というメッセージですが、とても好印象でした。

13日目にホテルから部屋の電話に連絡があり、PCRテストの時間に関しては、人数が多いので、土曜日(14日目)の朝9時頃から部屋でスタンバイしておいてほしいとの連絡が入りました。HPBからのメッセージにあった時間ではないようです。ホテルの人間が部屋に来て、案内するので、それまで部屋で待機するようにとのことでした。

また、それと別にホテルから連絡がありました。15日のチェックアウトの段取りに関してでした。PCRテストの結果を15日に受け取ったら、そのスクリーンショットをホテルの電話に送る。そうするとチェックアウトの手続きに入るとのこと。荷物がどれくらいあるのか、タクシーは必要かなども聞かれました。

いよいよ14日目の午前9時から部屋でスタンバイしていましたが、10時過ぎに部屋をノックする音が。外に、防護服を着た女性が立っていました。私たちは、パスポートとIDカードだけ持って、部屋を出ます。エレベーターにはまた別の防護服の人がいて、エレベーターで11階まで上がりました。

エレベーターを降り、案内されたところが、リージェント・クラブという部屋。普段は豪華なクラブルームなのですが、部屋のテーブルや椅子は取り払われていました。下の写真が普段のホテルのサイトに出ているリージェント・クラブの様子です。



入り口に受付の机があり、パスポートとIDの確認と、鼻水などの症状がないかどうかの確認をさせられます。そしてそこから、バルコニーに設置された検査場所に。

何とそこはバルコニー。久々に触れる熱帯の空気、そしてシンガポールの風景。こんな素敵な場所で検査をしてくれるということに感激すら覚えました。防護服の担当者が、この検査の説明をします。空港で受けたのとはちょっと違って、鼻だけで行い、それもちょっと奥深くまで綿棒を入れる。それもすこし長い時間になるとのことでした。いわゆる鼻出しマスクの状態で、まっすぐ前を見ているようにとの指示。綿棒が鼻の奥まで届くのを感じます。口で息をするようにと指示されます。そしてさらに5秒くらい待って、綿棒が抜かれます。それを右と左で同じように行うのですが、痛さ等は特に感じず終わりました。

こんな素敵な場所でPCR検査を受ける機会はなかなかないんじゃないかと思いました。瞬間的ではあったのですが、外の空気と景色を味わえることの幸せを感じました。

結果が来たのは、翌日の15日目の午前10時ちょっと前。スマホのメッセージに送られてきました。



"NEGATIVE"(陰性)という文字にほっとしました。

これをスクリーンショットにして、ホテルに送らなければならないのですが、いろいろ試行錯誤の末、WhatsAppで送りました。隔離中の食事は15日目の朝食までですが、昼前にランチのフライドライスが届けられました。

チェックアウトが午後2時を過ぎる場合は、昼食が届けられるという情報が事前レターに書かれていました。ということは、チェックアウトは午後になるのかなと思っておりました。2時過ぎまで部屋で待っていたらホテルのフロントから電話が来て、結果はまだ届かないかとのこと。朝送ったと伝えましたが、どうやら確認がうまくできてなかったようです。

すぐにチェックアウトできたのですが、ホテルの下のフロアは普通にレストランは営業をしていて、宴会場では宴会をやっているようで、賑やかな声が聞こえていました。ホテル側でタクシーを呼んでくれて、雨の中、我々は久々の自宅に向かったのでした。

かくして、シンガポールでの2週間のホテルでの隔離生活が終わったのですが、こういう努力のおかげでシンガポールの市内感染はほぼゼロに抑えられています。シンガポールに向かう飛行機に乗る72時間前以内にPCR検査を受け、陰性証明を持っている人しかシンガポールに入国できず、さらに入国時に空港でPCR検査をして、その日のうちに結果が確認できるのにも関わらず、さらに2週間の隔離とその最後にまたPCR検査をするという念の入れようです。(入国前の準備からシンガポール到着、ホテルへのチェックインまでの様子はこの記事の前の記事で書いていますので、そちらを参考にしてください)

このおかげで、2週間の隔離という稀有な体験をすることができました。部屋から一歩も外に出る事なく、部屋の中で過ごした2週間は、忘れることのできない思い出となるでしょう。そして早くコロナが収束し、こんなことが昔話になることを祈っております。
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シンガポールからコロナ禍の日本への入国体験談

2020-12-26 22:10:03 | トラベル

一時帰国のためシンガポールから東京に戻ってきました。約10ヶ月ぶりの飛行機です。それまでは毎月のように飛行機に乗っていたのに、コロナ感染拡大のため渡航が規制され、飛行機には気軽に乗れなくなっていました。本当はもっと早く帰国したいと思っていたのですが、ずるずると延びて、この時期になってしまったのです。

コロナ禍の渡航規制の中、国際線に乗るという経験はなかなかないと思うので、それがどんな感じだったかを、このブログでご紹介しようと思います。

一時は、外国人労働者専用の寮でのクラスターが拡大していたシンガポールですが、現在では寮でのクラスターも、市中感染も収束し、水際対策も徹底的にコントロールされています。そういう状況でも、マスクの着用や、ソーシャル・ディスタンス、コンタクト・トレーシングは継続的に管理されているのです。

そんなシンガポールから日本に渡航するのは正直かなり怖い感じがしていました。連日、感染者の記録を更新していて、それでいて対策が杜撰に見えます。シンガポールと比較すると、感染防止対策が甘い感じがして恐怖でした。

ANAのチェックインカウンターは、チャンギ空港のターミナル2からターミナル1に移動していました。早朝なので、人もまばらでしたが、久しぶりの空港なので緊張感がありました。

チェックインカウンターでは、大切なお知らせという紙を渡されました。日本の国土交通省の指示で、日本に入国する際に、質問票Webへの情報登録が必要と書いてありました。住所、氏名、連絡先や、航空便名、座席番号、入国後14日間の滞在先、空港からその場所への交通手段などを入力するものです。こちらは飛行機に乗る前までに入力をすませて、入力完了後に表示されるQRコードを、スクリーンショットで画像としてスマホに保存しておきました。

飛行機に乗ってからわかったのですが、同じ内容の書類を機内でも配布されたので、焦ってスマホで入力しなくてもよかったのかと思いました。機内で配布されるのは、紙の書類なので、それにペンとかで記入するだけなので、こっちのが楽だなと思いました。

カウンターでもらった「大切なお知らせ」には、次のような注意が書かれていました。

*事前整列並びに優先搭乗の一時中止
会員ステータス・搭乗クラスにかかわらず、後方窓側席のお客様よりグループ順にご案内いたします。
*前にお並びのお客様との適切な距離を保ってください。
*ご搭乗前の手の消毒とマスクの着用

また、ブッキングした際には、次のような注意もメールに書かれていました。

※ご搭乗に際してのお客様へのお願い※
・事前の検温、ならびに空港・機内でのマスク着用をお願いいたします。
・オンラインチェックインのご利用をお願いいたします。
・機内通路の混雑を避けるため、手荷物のお預けにご協力をお願いいたします。

飛行機の機内は、かなり空いていました。エコノミーの前半分の右側の真ん中あたりの席に予約を入れていたのですが、前半分の乗客は数名でした。オンラインチェックインの時には自分を入れて3人くらいしかいなかったのですが、実際には倍以上の乗客がいました。しかし、自分の周りは空席だったのでラッキーでした。

CAさんは、マスクと飛沫防止用の眼鏡を着用しています。着席すると、アルコールシートをくれました。それで、モニターやリモコン、テーブルなどを拭きました。事前に消毒はしてあるのでしょうが、念には念を入れたくなります。



また、離陸前のアナウンス映像で、機内は換気が十分行われていることが説明されます。機内の空気は3分ですべて入れ替わるよう換気が行われているそうです。機内は密室なので、換気が心配でしたが、これを聞いて安心しました。

食事や飲み物の間はマスクを取りますが、基本的にはマスク着用です。飲み物は紙コップでした。

やがて、飛行機は成田空港に着陸します。まずは、トランジットの乗客が降ります。日本で降りる乗客はそのまま着席しているように指示されます。驚いたのですが、後方のセクションからトランジット客がかなり降りてきます。インド人やいろんな人種がいて、フェイスシールドとかもつけている人もいました。

トランジット客が降機してしばらくしてから、我々の番になったのですが、全部で4人くらいでした。飛行機を降りたところで、誘導されたところにカウンターがありました。そこで、書類を求められたのですが、スマホにQRコードが入っていることを伝えると、次のカウンターに進むよう指示されます。

しばら進むと、カウンターに数人いて、それぞれがアクリル板で囲われているのですが、そこで、パスポートをスキャンし、スマホに入っているQRコードを機械にかざします。係員の女性が、「14日間はこちらの住所に滞在ですね?」という質問と、「空港からの交通手段はどうされていますか?」という質問がありました。交通手段に関してはハイヤーを手配しているので、そのように答えました。

移動に関しては、公共交通機関を使ってはいけないという指示になっているので、最初は妻が車を借りて迎えにくるということも考えたのですが、慣れていないので心配でもあるし、結局、ハイヤーにしました。都内までだったので、ハイヤーでなんとかなりましたが、地方まで行く人は、公共交通機関を使わずに帰ることはほとんど不可能なんだろうなと思いました。そういう人たちは一体どのようにするんでしょう。

シンガポールは、入国時のPCR検査を免除されている国の一つなので、あっという間に確認が終わり、また空港が非常に空いていることもあり、すぐにパスポート審査を終え、スーツケースをピックアップすることができました。

通関を終え、事前に知らせを受けていたハイヤーの運転手に連絡すると、すでに外の第3レーンで待っているとのことでした。きちんとしたハイヤーで、運転手の対応もよく、極めてスムーズに、そして快適に帰ってくることができました。

ハイヤーの窓から、東京の人混みを見ると、こんな状況でもマスクをしていない人が見えたりして怖くなりました。年末年始から当分は家でじっとしていようと思いました。今日も東京の感染者数は過去最多を更新しています。テレビを見ても、危機感がないなあと思ってしまいます。本当にこれで大丈夫なんだろうかと不安になります。みなさん危機感をもって、コロナ感染を減らすことにご協力よろしくお願いいたします。
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