まわる世界はボーダーレス

世界各地でのビジネス経験をベースに、グローバルな視点で世界を眺め、ビジネスからアートまで幅広い分野をカバー。

あつまれインドのWOODの森—ボリウッドだけがインド映画じゃない

2021-10-31 06:46:00 | インド

インドは世界で最も映画製作本数が多い国として有名です。2017年のユネスコのデータでは、世界の映画製作本数のランキングはこのようになっています。



インドの年間映画製作本数は1986本。2位の中国を大きく引き離しています。

また、こちらは映画入場者数の国別ランキング。



こちらもインドがトップです。

さて、インド映画というとボリウッド(Bollywood)なのですが、実は、映画の製作拠点はインド中にあります。映画産業としては、ボリウッドのムンバイが圧倒的に大きいですが、ボリウッドに倣って、何とかウッドと呼ばれる場所はいくつもあります。上の画像が各地で何とかウッドと名乗っている映画産業の拠点を示しています。

まず、ボリウッドなのですが、なぜそう呼ばれるかに関して、説明しておきましょう。ムンバイは、イギリスの植民地時代からボンベイ(Bombay)と呼ばれていましたが、1995年にムンバイという古来からの名前に戻すことにしました。(マドラスからチェンナイに、カルカッタからコルカタに、バンガロールからベンガルールにというのも同じような動きです)

映画と言えば、世界的にはハリウッドなので、ボンベイのハリウウッドということでボリウッドと呼ばれることになりました。そこから影響されて、各地の映画も何とかウッドと呼ばれることになります。

各地に映画産業が分散しているのは、インドの言語の複雑さがその理由です。インドというとヒンディー語を思い浮かべますが、ヒンディー語の人口は2011年の国勢調査によれば(こんな古いデータが未だに一般に使われています)、ヒンディー語を母語とする人は全人口の約44%です。母語ではないが話せる人の数を入れれば、57%になりますが。逆に言えば、それ以外の人はヒンディー語がわからないということになります。実はインドには、タミール語、ベンガル語など、無数の言語が存在します。

こちらの写真はインドの200ルピーの紙幣の一部です。



英語と、ヒンディー語では大きく200ルピーと書いてあるのですが、四角の中にずらっと列挙されているのが、15の言語での200ルピーの表記です。これらが割とメジャーな言語ということになります。
文字も全く違っています。日本の方言どころの違いではありません。

何年か前に、「チェンナイ・エクスプレス」という映画がありました。ボリウッドのシャールク・カーンとディーピカ・パドゥコーンが主演し大ヒットしたアクションコメディ映画です。主人公が間違って、チェンナイに行くことになってしまうのですが、言葉が全く通じないということが面白おかしく表現されています。同じインドでも地域が違えば、そんな感じです。

こちらが「チェンナイ・エクスプレス」のトレーラーです。



ヒンディー映画なのですが、タイトルは英語で書かれています。これは、言語展開する時に、ヒンディー語で書いてしまうと、いちいちその部分のフィルムを作り替えないといけなくなり、大変なコストになるからです。

インドの言語別の映画製作本数がこちらのリストに出ています。



左の欄が言語ですが、数なくともこの言語の数だけ、映画産業の拠点があるということになります。そして、何とかウッドという名前がそれだけ存在することになるのです。

一番上の画像にある、何とかウッドを、あらためて列挙しておきたいと思います。

Lollywood (ロリウッド): パキスタンのラホール、言語はウルドゥ語
その昔は、パキスタンのラホールがインドの映画の供給地として重要拠点だったらしいのですが、1940年代にムンバイの映画産業が成長するのに合わせて、多くの映画人がラホールから移動したそうです。ラホールは今でもウルドゥ語映画の拠点になっています。

Pollywood (ポリウッド): パンジャブ州、言語はパンジャビ
パキスタンに接する州。

Dhollywood (ドリウッド): グジャラート州、言語はグジャラーティ
ゴリウッド(Gollywood)とも言われる。

Bhojiwood (ボジウッド): ビハール州とウッタル・プラデシュ州、言語はボジプリ

Dhallywood (ダリウッド): バングラデシュのダッカ、言語はベンガル語

Tollywood (トリウッド): コルカタのTollygungeがその中心地、言語はベンガル語

Chakwood(チャクウッド): ミゾラム州や南バングラデシュ、言語はチャクマ語

Chhollywood (チョリウッド): チャッティスガル州、言語はチャッティスガリ

Ollywood (オリウッド): オリッサ州(オリッシャ)、言語はオディア

Sandalwood (サンダルウッド): カルなタカ州バンガロール、言語はカンナダ語


Tollywood (トリウッド): テランガナ州、アンドラ・プラデシュ州、テルグ語
ベンガル語のトリウッドと同じ呼び方をしていて紛らわしい。

Coastwood (コーストウッド): カルナタカ州、海岸付近、トゥールー語

Mollywood (モリウッド): ケララ州、マラヤラム語

Kollywood (コリウッド): タミルナドゥ州、タミール語

チェンナイのコダンバカンという地名からこの名前が。
日本で有名なラジニカーントはタミール映画の俳優。

これ以外にも、まだあるかもしれませんが、これだけでも随分あります。

インド映画の世界は内容もさることながら、言語だけでもこれだけの多様性があります。インド映画は何十本か見ていますが、本数が多すぎて、なかなかついていけません。おまけに一本の長さが2時間半くらいが平均的な長さで、映画館では通常途中に休憩が一回入るように作ってあります。毎回が壮大な大河ドラマみたいな感じなので、なかなかたくさん見るというわけにはいかないのですが、これでもかというほど色々詰め込まれているので、お得感はありますね。

インド映画についての話は、盛りだくさんすぎてお腹いっぱいという感じなので、この話はこれくらいにしておきましょう。
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Amazonの2020年ホリデーシーズン向けグローバルCMが感動的

2021-10-30 15:22:00 | 広告
Amazonの2020年ホリデーシーズン向けのグローバルCMのお話です。英国のエージェンシーが制作したこのコマーシャルは、2020年11月3日に英国で放映され、11月8日にアメリカで放映開始。その感動的なストーリーは、世界中に感動を呼びました。

ストーリーを簡単にご紹介しておきます。バレエクラスの年末公演の主役に抜擢された黒人のバレリーナ。家族も大喜びなのですが、すぐにコロナで学校が全国的に閉鎖するというニュースが。リモートで公演の準備をする少女。家の中や、近所で、練習に励みます。しかし、ある日、一通の手紙が…。なんとバレエの公演がキャンセルになったとの知らせ。ショックを受けて落ち込む少女。しかし、妹があることを思いつきます。手作りでポスターを一生懸命に作る妹。ミシンで娘のバレエの衣装を作る母親。妹は、手作りのお知らせを近所の家に配ります。おそらく、バレリーナの少女に思いを寄せている近所の少年にもその知らせが届きます。アマゾンで懐中電灯のようなものを注文する少年。アマゾンの箱からずっしりとしたライトを取り出します。そして、公演の当日。雪の降る中で、少女はソロでバレエを。少年がアマゾンで購入したライトがスポットライトとなって少女を浮き上がらせます。そして"The Show Must Go On"という文字、雪の中にアマゾンのロゴ。

"The Show Must Go On"というのは、1991年の10月14日にQueenがリリースした曲。すでにエイズが悪化していたフレディ・マーキュリーが、エイズに蝕まれようとショーは続けないといけないという渾身の思いを込めて歌い上げた名曲。この曲がリリースされた次の年の11月24日にフレディー・マーキュリーは亡くなります。コマーシャルを通して静かに流れている旋律は、実はこの曲です。何か聞いたことのあるメロディーだなと思っていたのですが、最後にそれがQueenのその曲だったとわかります。雪の中のバレエ公演のクライマックスで、この曲が流れるところが感動的です。偶然ですが、一昨日の11月24日がフレディ・マーキュリーの命日だったんですね。そんな思いも重なります。

まずは、このコマーシャルをご覧いただきましょう。


https://youtu.be/RJFReMY6Rgw

昨年、偶然見つけて、何度も見ているのですが、何度見ても感動してしまいます。このコマーシャルについては、音楽もそうなんですが、主演のバレリーナや制作スタッフに関しても説明したいことが山ほどあります。コマーシャル作品としての素晴らしさは、すぐにお分かりいただけると思いますが。ストーリーも、映像も、音楽も、編集も素晴らしいと思います。

アマゾンのCMなのですが、サービスに関連した画像は、近所の少年がライトを注文するシーンと、届いた荷物のダンボールのみ。




これだけで十分です。コロナの時代に困難を乗り越えて夢を実現したいという気持ちや、大切な人を応援したい人々の気持ち、そんな気持ちに寄り添うアマゾンの企業姿勢が伝わってきます。
そして最後の雪の中のアマゾンのロゴ。これもシンプルでいいですね。



よく聞くと、寒さの中での少女の息づかいが背景にかすかに聞こえています。これだけで言葉で伝える以上の大きなメッセージが伝わってきます。

じつは、このコマーシャルの素晴らしさの一つは、黒人のバレリーナを起用したというキャスティング。



バレリーナの少女を演じているのは、Taïs Vinoloというフランス生まれの17歳のバレリーナです。ネットに出ていたのですが、彼女のコメントがこちら。

「私はフランスの田舎で育ったのですが、黒人でバレエを勉強している子は一人もいませんでした。私のような髪をした女の子はいませんでした。テレビでも、世界中のどこにも、自分をアイデンティファイできるような人はいませんでした。今回、この撮影に参加して、非常に多くのものを得ることができました。自分が本当は何であったのがわかったし、どうなりたいのか、そして私という存在が何を示しているのかも把握することができました。このプロジェクトに参加できたことはとても光栄でした。この作品が伝えるメッセージは自分にとっても非常に重要なことだし、とくに今年のように世界が直面している困難の時代にはとくに意味のあることだと思います」

原文はこちら、“When I was growing up in the French countryside, there were no young Black girls studying ballet with hair like mine, or even on TV, meaning I had no one to identify myself with. Being on this shoot helped so much with this, enabling me to own who I really am, who I want to be and what I represent. I am so proud to have been part of this project since the message of it means a lot to me and even more so in this very difficult time that the world is going through.”



私たちは、黒人のバレリーナという存在自体、あまり考えたこともありませんでした。しかし、Taïs Vinoloのこの演技を見て、バレエに人種の限定を与えるのは間違っていたと痛感したのでした。



このコマーシャルの中で、黒人の女の子が窓から眺めて感動している光景が一瞬映りますが、この子のように、人種に関係なくバレエを追求してもよいんだ、夢を追いかけてもいいんだと勇気付けられた女の子たち(男の子も)は実に沢山いたのではないかと思います。



そして、このコマーシャル作品を作ったのは、Melina Matsoukasという女性の監督。ビヨンセや、Rihannaのミュージックビデオとかで数々の賞を受賞している映像ディレクターです。



この方も黒人だったのですね。だからこそ、彼女もこの作品を通して伝えたかったメッセージは山ほどあったのだと思います。

そして、この作品の撮影監督を務めたのは、Rina Yangというロンドンで活躍する中国系の女性。



経歴を見ると、日本の田舎町で育ち、日本でスチルと映像の勉強をしたらしいのですが、ご存知の方はお知らせください。いずれどんどん有名になっていく人だと思います。映画の「ボヘミアン・ラプソディ」でもカメラマンとして参加していたようです。彼女のサイトhttps://rinayang.comを見ると、映像もスチルも両方とも仕事しているようですが、今回のアマゾンの映像は、何と35ミリフィルムで撮影しているようです。デジタルの時代の今、35ミリフィルムに拘って撮影したその姿勢に大拍手をおくりたいです。だからYouTubeにアップされているこのコマーシャルの動画は16対9の比率ではなくて、35ミリフィルムの比率になっていたのですね。

そして、そして、このアマゾンのCMの仕事を扱っていたのは、Lucky Generalsというロンドンの広告代理店。2013年に創業して、数々のクリエイティブ作品を生み出し、TBWAが完全買収をしようとした代理店ですが、このエージェンシーのCEOはHelen Calcraftという女性。



アマゾンは以前からのクライアントのようです。他の作品も実に素晴らしいので、また別の機会にご紹介したいと思います。

ということで、このアマゾンのコマーシャルには、こんなにすごい女性たちが関わっていて、それぞれの熱い思いがこのコマーシャルを作り上げていたのだと思います。コロナだけでなく、黒人という人種の困難、そして女性というハンディキャップ、それらの壁を乗り越えて世界にメッセージを伝えたいという気持ちがこの作品に凝縮されています。そういう観点で見ると、この作品が実に輝いて見えてくると思います。ベランダから少年が照らすスポットライトのように。


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わずか七粒のコーヒー豆から始まった物語

2021-10-29 13:41:06 | インド
小雨の降る土曜日の午後、珈琲館の
門前仲町店に行ったら、ババブーダンと
いうインドのコーヒーが期間限定で出て
いた。「チャンピオンズが選んだ手摘み
スペシャルティーコーヒーシリーズ」と
いうことで5月の21日まで数量限定で
販売されているらしい。



インドのコーヒーはかねてから興味が
あったし、「期間限定・数量限定」と
言われると弱い。迷わずこれを注文した。

ココアのように香ばしい香りで、マス
カルポーネのような柔らかい酸味、
ライトなボディでクリーミーな舌触り、
スムーズなアフターテイストとメニュー
に書いてある。そう言われるとそんな
感じもするのだが、正直そんな微妙な
違いまではわからない。

丁寧に入れられた上質のコーヒーとい
う味わいはある。そして何よりも
「ババブーダン」という名前がこの
コーヒーに特別の風味を加えている。

どこかで聞いたことのあるような名前
だと思っていたら、つい先日、偶然調べ
たのだが、インドに最初にコーヒーを
もたらしたインド人の僧侶の名前だっ
たのを思い出した。

17世紀初頭、北部インドはムガール
帝国が領土を拡大し、ゴアはポルト
ガルの植民地となっており、南部で
はヴィジャヤナガル王国が末期を迎え、
マイソール王国が興る頃、イスラム教
の僧侶だったインド人のババブーダン
(Baba Budan)が、サウジアラビア
のメッカに巡礼に行く。

メッカに行く途中にモカで有名な
コーヒー産地のイエメンがあるが、
イスラム世界では当時、イスラム教
寺院の中だけで、門外不出の秘薬と
してコーヒーが飲まれていたらしい。
インドから来た僧侶のババブーダンは、
コーヒーの虜となり、持ち出すことが
禁止されているコーヒー豆を7粒だけ
隠してインドに帰ったのだとか。もし
見つかれば重い罰を受けたであろうが、
彼は何とかコーヒー豆を持ち帰ること
ができた。

アラブのコーヒーといえば、思い出す
のは「コーヒールンバ」の歌。西田
佐知子が1961年に歌った後、荻野目
洋子とか、いろんな人がカバーする
名曲だが、その歌詞の中に、
「アラブの偉い坊さん」という言葉
が出てきたりする。この歌の
おかげで日本ではモカが有名になった。
こちらは荻野目洋子のバージョン。



この曲、日本のオリジナル曲かと思っ
ていたら、オリジナルは、ベネズエラ
の作曲家ホセ・マンソ・ペローニ
(Jose Manzo Perroni)がコーヒーを
モチーフに1958年に作詞・作曲した
「Moliendo Cafe」(モリエンド・カフェ)
というのだそうだ。

ババブーダンがインドに7粒のコーヒー豆
を持ち帰ってから、約400年経った現在、
インド南部のカルナタカ州(バンガロール
がある州)は、インドで最大のコーヒー
産地となっている。インドは、紅茶の
イメージが強いが、実はコーヒーの生産
額も世界8位(1位はブラジル、インド
は世界の5位や6位になった年もある)。

2012年に、インドにスターバックスが進出
したが、都市部を中心にコーヒー店が
どんどん増えている。こちらは一番
店舗数が多い、Cafe Coffee Dayの
プネー郊外のお店の中。

かなりお洒落だ。
そしてこちらは、2012年にムンバイに
進出したスターバックスの一号店。


インドで最大規模のチェーン展開をして
いるCafe Coffee Dayも、インドの
スターバックス(タタ・グループ)も、
巨大なコーヒー生産地をカルナタカ州
に持っている。

インドのコーヒーは、ヨーロッパには
輸出されていたらしいが、日本では
あまりなじみがなかった。
珈琲館の「ババブーダン」などを見る
と、インドのコーヒーが急に出回り
始めているようだ。

アラビア半島から、ヒヤヒヤしながら
インドにコーヒーを持ち込んだババ
ブーダンも、自分の名前がはるか異国
のコーヒーにつけられているのを知っ
たらさぞびっくりするにちがいない。

こちらもよろしくお願いいたします

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ビビアン・チョウと香港の思い出

2021-10-10 21:50:45 | 香港

この前の記事で、香港のチョンキンマンションの話を書いて、香港のことを思い出していたら、そういえば広東語のポップスにはまっていたことを思い出しました。

80年代の終わりの頃、出張で香港に行った際に、露店で売っていたカセットテープを適当に二つくらい買ったのがきっかけでした。歌手の名前とか曲とか全くわからずに買ったのですが、ラジカセから流れてきた女性歌手の広東語の歌に魅了されてしまったのです。

日本の曲のカバーも何曲かありましたが、ちょっとぶっきらぼうに聞こえる広東語の響がとてもエキゾチックで、全く違う曲に聞こえたのを覚えています。

90年代は、香港四天王と呼ばれる4人の男性歌手が有名でした。張学友(ジャッキー・チュン)、劉徳華(アンディ・ラウ)、郭富城(アーロン・クオック)、黎明(レオン・ライ)の四人です。

しかし、私が魅力を感じたのは、女性歌手の広東語の曲でした。サンディー・ラム、サミー・チェン、サリー・イップなど懐かしいですが、中でも特に気に入ったのは、ビビアン・チョウ(周 慧敏)でした。

アイドル歌手なのですが、1967年香港生まれの彼女は、タレントコンテストで柏原芳恵の『最愛』という曲を日本語で歌い、歌手デビューへと繋がっていきます。数年後、彼女は、この『最愛』を広東語でカバーし、香港でヒットさせます。

こちらがそのミュージックビデオです。



1984年に柏原芳恵が発表した曲で、作詞作曲は中島みゆき、第26回レコード大賞の金賞を獲っている曲です。ビビアン・チョウがカバーしたのは1993年のことでした。

ビビアン・チョウは、90年代にいくつかヒット曲を出していますが、北京語も覚えて、次々と北京語のヒット曲を出していきます。こちらはその一つ『心事重重』という曲です。



広東語だと、市場が香港だけなのですが、北京語だと、中国大陸、台湾、シンガポールなど一気に広がります。ビビアン・チョウも北京語曲を出して、ファン層を拡大していきます。

そして、デュエット曲の名曲の『流言』がこちらです。



これをデュエットで歌えるとかっこいいなと思って、一生懸命練習したことがるのを思い出しました。

今日は朝からビビアン・チョウの曲をずっと流しているのですが、なんだか昔の記憶が蘇ってきます。じっとりとした香港の空気、ものすごいスピードで歩く人々、エスカレーターのスピードの速さ。竹で編んだ工事現場、西洋と東洋が混在するSOHOの坂道、スターフェリー、真夜中に食べた火鍋の辛さ、北京ダックを朝食で食べたこと、英国風朝食、飲茶、亀ゼリー、マンゴープディング、フィリピンカラオケ、オフィスに上がる狭いエレベーター等々。記憶が次々と呼び覚まされます。

ビビアン・チョウは、やがて芸能界から距離をおき、結婚して、バンクーバーに移り住みました。現在も、若干のタレント活動はしているようですね。50を過ぎても、アイドル時代の美貌は衰えていません。こちらがフェイスブック。

https://www.facebook.com/VivianChowWaiMan2013

そしてこちらがユーチューブチャンネルです。

https://www.youtube.com/c/周慧敏vivianchow


香港は、変わっていっても、ビビアン・チョウや広東語ポップスは無くなってほしくはないですね。
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チョンキンマンションのカオス感とタンザニアと古きよき香港へのノスタルジー

2021-10-09 16:24:30 | 香港
シンガポールに「オンランサロン川端会議」という勉強会があり、月に2回ほど夕方オンラインのセミナー形式で開催されている会なのですが、2021年10月5日のテーマは、小川さやか著『チョンキンマンションのボスは知っている』という本から得たインスピレーションをもとに議論をするというものでした。



香港にある重慶大厦(チョンキンマンション)の話、そこでのタンザニア人のコミュニティのネットワーク構築の方法、信頼関係の話、また文化人類学的視点という、じつにファジーで、ごった煮的なテーマでした。チョンキンマンション自体がカオスなのですが、それに伴いこの議論もラビリンスの中を彷徨うような、知的脱出ゲームをしているような(?)経験となりました。

ここでの議論の出発点になった、香港のチョンキンマンションに関して、4年間香港に住んでいて、その後も数年間、時々訪れていた私としては、非常に思い入れがあり、懐かしく、語りたいことがいっぱいなので、この機会に語ってみたいと思いました。

チョンキンマンションのことを語るまえに、まず、きっかけとなった『オンラインサロン川端会議』のことをご説明しておきたいと思います。

私は、このオンラインサロンには、2020年の10月のスタート時から参加させていただいています。ASEANやアジアの様々な情報を、月に2度ほど、議長の川端隆史さん(元外交官、NewsPicsを経て、現在米国リスクコンサルティングファームのクロールのシンガポール支社のシニアバイスプレジデント)が、いろいろな切り口で、独自の視点で報告してくれる会です。

参加メンバーはシンガポールにいる人だけでなく、日本や、中国や、タイで仕事している方も何人かいます。たとえアジアの中にいても、刻々と変化するアジアの動きは捉えにくいので、こういうところでアジア情報を、マクロxミクロの視点でキャッチアップしていく必要があると感じて、この会に参加させていただいています。興味のある方はこちらをご覧ください。

https://www.oneandco.sg/ja/community/kawabatakaigi/

日本のマスコミの情報では報道されない情報や、視点を提供してくれるので、個人的にはとても楽しんでいます。前回は、元NHKのインド支局長だった広瀬公巳さんをゲストにお招きし、米印関係の歴史的整理をしていただき、またアフガニスタンに対するインドの関わりに関してまとめていただきました。目から鱗のことばかりで、インドの政治的な立ち位置を把握する上では非常に役立ちました。

前置きが長くなりましたが、本題のチョンキンマンションに関して語ってみたいと思います。

川端会議で取り上げられたのは、小川さやかさんの『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』という本です。

小川さやかさんは、学者として、香港のタンザニア人ネットワークに、チョンキンマンションのボスと呼ばれるタンザニア人を介して潜入調査をしていき、ファジーな信頼をベースにしたインフルエンサー経済、インフォーマル経済、「ついで」経済などの存在を確認していきます。

小川さんは、アフリカの専門家なので、タンザニア人コミュニティーに着目し、香港のチョンキンマンションにアプローチしていきます。いきなり脱線して恐縮ですが、タンザニアといえば、今年のノーベル文学賞は、タンザニア出身の作家、アブドゥルラザク・グルナさんが受賞しました。グルナさんは1948年生まれ。インド洋のザンジバル島で育ち、60年代末に難民として英国に渡り、21歳の時に亡命者の立場で執筆活動を始め、母国語のスワヒリ語ではなく英語を用いたのだそうです。これまで発表した作品の底流にあるのは、難民の混乱というテーマということです。



タンザニアは、アフリカ東岸で、ケニアの南にある国ですが、タンガニーカとザンジバルという二つの国が併合して出来た国です。現在でも正式国名はタンザニア連合共和国(United Republic of Tanzania)となっています。もともとはイギリスの植民地だった地域ですが、タンザニアとなったのは1964年の4月。最初の東京オリンピックの年です。オリンピックには、タンザニアではなく、タンガニーカとして参加していました。



ノーベル文学賞を受賞したグルナさんは、ザンジバル出身ということですが、ザンジバル出身で世界的な有名人といえば、クィーンのフレディ・マーキュリー。映画『ボヘミアン・ラプソディ』の中でも、ザンジバルの革命の中で、家族は命からがら難民となって生き延びたという過去が語られるシーンがあります。調べてみると、フレディ・マーキュリーが生まれたのは1946年、小説家のグルナさんが生まれたのは1948年。ほぼ同じ頃です。フレディ・マーキュリーもグルナさんも同じ時代、同じ場所で、困難を同時体験していたというのを考えると感慨深いです。

おそらく同じように難民となったザンジバル出身のタンザニア人が香港のチョンキンマンションのネットワークにも数多くいたのではないかと推測されるのですが、タンザニアというこれまであまり注目してこなかった国が急に身近に感じられます。小川さやかさんの本にも出てくる「チョンキンマンションのボス」と呼ばれるカラマという人物も、「ザンジバル出身のオマーン系アラブ人の父と、アフリカ系ザラモ人の母との間に生まれ、35歳の時、天然石ビジネスのため香港にやってきた」
ということだそうです。

で、いよいよ、本題のチョンキンマンションのことに関して語りたいと思います。私自身は、2007年から4年間香港に住んでいて、その後も東京の広告代理店の香港現地法人の責任者を続けていたので、3ヶ月に一度くらい香港に通っておりました。

仕事で、インドの広告キャンペーンにも関わっていて、インドの映画やエンタメに関していろいろ調べていたので、チョンキンマンションにあるインド系のDVDショップにはよく通っていました。他の国ではなかなか入手できないインド映画が、最新ヒット作も、マイナーなものも含めてほぼ揃っているのです。ここで毎回かなりの数のDVDを買い付けていたのですが、インド映画は、3時間、4時間と長いのが多く、買ったはいいけどなかなか見る時間がないという状況でした。

チョンキンマンションは、中国語では重慶大厦と漢字表記になっていますが、北京語ではChóngqìng dàshà (チョンチン ダーシャー)という発音になりますが、広東語ではチョンヘン ダーイハーという音になります。英語では、Chungking Mansions となります。

香港の九龍側のネイザンロードという観光地として有名な通りに面して立つ16、7階建てのビルなのですが、1961年にできたもので、一等地にありながら、上の階には安宿が数多くあり、入り口付近には両替屋がひしめき、地上階とその上の階にはインド人経営する携帯電話、DVD、食材、雑貨、レストランなどのお店が雑多にあるカオスな世界です。

ここ数年行っていないので、最近の状況はわかりませんが、コロナ禍で旅行者が激減しているので、両替や、宿泊もかなり影響を受けているものと思われます。

私自身は、チョンキンマンションは、インド人のネットワークの拠点と認識していました。地上階とその上の階は、ほとんどインド系のお店ばかりでした。インド料理屋にもいくつか行って食事したことがありました。

たまたま、私は、2012年に、日経リサーチのサイトで「世界の街角ライブラリー」という小コラムを連載していたことがあるのですが、そこで、チョンキンマンションとインド人ネットワークのことにちょっと触れていましたのでこちらにリンクを貼っておきます。

世界に張りめぐらされたインド人ネットワーク

日経リサーチ グローバル・マーケティング・キャンパス

 


この記事の中でも触れていますが、映画『恋する惑星』(原題“Chungking Express”)という作品があります。金城武や、フェイ・ウォン、トニー・レオンなどが出演していますが、この中で、チョンキンマンションの場面も登場するのですが、疾走するカメラワークが斬新でかなりの衝撃を受けたことを覚えています。
こちらがその映画のトレーラーです。



また、チョンキンマンションは沢木耕太郎さんの『深夜特急』でも登場してきていて、80年代後半に発表されたこの作品によって、チョンキンマンションはバックパッカーの聖地にもなりました。

何年か前に、CP+というカメラ関係の展示会で、沢木耕太郎さんがニコンブースで講演されたことがあり、たまたまお話を伺ったことがありました。その頃、写真家のキャパに関する本を出されたので、その話がメインでしたが、考え方も、佇まいもすごくかっこよかった印象があります。

香港は1997年に英国から中国に返還され、中国でありながら中国とは一線を画し、通貨も、パスポートも、言語も、文字も違う特別行政区という位置付けで自由を謳歌してきたのですが、年々強まる中国政府の圧力で、ここ数年は自由が次々と剥奪されていくという歴史でした。

2014年の雨傘運動の時にも、香港に行きましたが、高速道路を埋め尽くした学生たちのテントを見て、まさに「レミゼラブル」の光景と同じだなと感じたものでした。「学民の女神」として民主化運動でも活躍した周庭(アグネス・チョウ)さんは2020年に刑務所に収監され、その後釈放されましたが、りんご日報の廃刊などとともに、香港の自由がどんどん磨り減っていくという歴史を私たちは目撃してきました。

『チョンキンマンションのボスは知っている』の著者の小川さやかさんが香港に滞在して、チョンキンマンションの取材をしたのは、2016年10月からの半年間。香港は雨傘運動が終わり、立法会議員選挙が行われ、民主派の議員たちがまだ自由を取り戻すことを夢見て頑張っていた時代です。おそらくその頃もチョンキンマンションは昔ながらの、自由な香港の中にあって、さらに治外法権的な、なんでもありのカオス的自由を謳歌していたと思われます。

その後、2019年から2020年にかけて民主化運動とその弾圧がエスカレートし、中国政府の力が圧倒的になったと同時にコロナが訪れました。

今年の東京オリンピックで、香港の張家朗選手がフェンシングの男子フルーレ個人で金メダルを獲得した時、香港の旗が掲げられたにも関わらず、演奏された曲は中華人民共和国の国歌だったということで、香港の人々の反発を招いたという出来事がありました。香港というシステムの中に中国がどんどん入り込んできているという象徴でした。

チョンキンマンションが今、どのような状況なのかわかりませんが、無法地帯だった場所に、法律が入り込み、かつてのおおらかな自由が失われる過程にあるのか、それともアンダーグラウンドの部分を死守できているのか、その辺はなんともわかりません。中国になってしまったら、かつてのチョンキンマンションという蜃気楼のような存在も、過去の物語になってしまうのではないかと心配です。

香港には、私の同僚で、フィリピン人と結婚し、カラオケバーをやっていた人間もいて、チョンキンマンションとは別のアンダーグラウンドな世界との間で、小説に出てきそうな人生を送った日本人もいます。数年前、香港のランタウ島の自宅でおそらく酒が原因で客死したのですが、そんなのもいたり、香港島のセントラルのマンダリンホテルで自殺したレスリー・チャンのこともあったり、映画『慕情』に影響されて、香港で『慕情』という名の日本食レストランを何十年も前に始め、レスリー・チャンがよく一人で食べに来ていたと語るオヤジさんもいたり、いろんな思い出がいっぱいあります。

古きよき、自由な香港は、いつまでも無くなってほしくないですね。
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