まわる世界はボーダーレス

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もしもジュリエットが死ななかったら、という設定で始まる最高に楽しいミュージカル

2023-10-20 22:20:16 | シェイクスピア
2023年9月29日、中秋の名月がたまたまスーパームーンと重なった日、シンガポールのマリーナベイサンズのシアターで上演されていたミュージカル『&Juliet』を見ました。ロンドンのウェストエンドで上演され、ニューヨークのブロードウェイでヒットし、トニー賞にノミネートされ、オーストラリアで上演されていた後に、シンガポールでも上演されたものです。

約2年ぶりに、長年住んでいたシンガポールに旅行すると決めたのは、実は、このミュージカルがシンガポールにやってくるからと言っても過言ではありませんでした。ウェストエンドや、ブロードウェイでのトレーラーやインタビュー映像がYouTubeに上がっていたのを観て、この作品は何としても観たいと思っていたのです。

このチャンスを逃したら、ロンドンかニューヨークに行かなければならない。しかも一年中やっているわけではない。シンガポールでこのミュージカルが上演されるというタイミングは逃すべからざる運命的なタイミングだったわけです。

期待に違わず、というか期待以上に、この作品は素晴らしいものでした。あまりに素晴らしかったので、私と妻は、すぐに、滞在中にもう一度観ようと決め、結局、2度観ることになりました。

最初は、3階バルコニー席の最前列で観たのですが、もっと近くで観たいという気持ちになり、一階席の右の端の前から数列目の席を取りました。後ろを見ると、ちらほらと空席があるのが残念でした。シンガポールの人たちはこんなに素晴らしいものをなぜ観ないのか、と憤りさえ感じたのでした。

ジュリエットが死なず、自分の生きるべき道を見出すというストーリー



ネタバレになるので、ストーリーを知りたくない方はこれ以降は読まれないほうがよいかと思いますが、ストーリーを知っていてもこの作品の素晴らしさが損なわれるということは決してないと思います。

この作品はウィリアム・シェイクスピアが書いた『ロミオとジュリエット』を下敷きにしています。元のストーリーでは、運命の導きによって出会ったロミオとジュリエットは、お互いの家が敵同志なのに、恋に落ちてしまいます。途中は端折りますが、最後の悲劇的結末はあまりにも有名です。眠り薬で仮死状態にあっただけなのに、ジュリエットの死を目撃したロミオは服毒して死んでしまいます。やがて目覚めるジュリエット。ロミオが死んでしまっているのを知り、短剣で自ら命を絶つという運命のすれ違いの悲劇です。

実は、このミュージカルには、原作者のシェイクスピアとその妻、アン・ハサウェイが登場するのです。これがまた面白いのですが、『ロミオとジュリエット』の作品を書き上げたばかりのシェイクスピアが、妻の前で、あらすじを解説します。アンは、最後にジュリエットが死んでしまうという箇所だけが気にいらないと主張します。そして、夫のシェイクスピアにその箇所を強引に書き換えさせるのです。

ジュリエットは、短剣で自害する直前で躊躇し、生き延びてしまいます。シェイクスピアがそのように書き換えてしまったからなんですが、その後、ロミオの葬式があって、彼が生前付き合っていた元カノらが何人も(元カレも!)葬儀に参列したりします。軽薄な遊び人だったことがバレてしまいます。ジュリエットに囁いていたような愛の台詞を他の何人にも言っていたのです。ジュリエットもびっくりです。ジュリエットの両親は、ジュリエットに尼寺に行くよう命令を下します。もちろんジュリエットは尼寺で一生を終えたくははありません。

ここで、ジュリエットの友達として登場するのが、メイというノンバイナリーの登場人物。何でも相談できる親友という設定です。そしてもう一人、シェイクスピアの妻、アン・ハサウェイ自身がエイプリルという役で、もう一人のジュリエットの友達として登場してしまいます。ジュリエット、メイ、アン(エイプリル)は、乳母(ナース)のアンジェリークと共に、尼寺に送り込まれるのを避けるため、ベローナを抜け出して、パリに行く決断をします。

パリに行く馬車(というか自転車)の運転手として登場するのがシェイクスピア自身です。このミュージカルでは、シェイクスピア夫婦が至るところに登場するのが面白いのですが、この作家夫婦のギクシャクした関係の修復というストーリーももう一つのストーリーとして進行していきます。

パリにつくと、ある館でパーティーが開催されていて、そこにジュリエットたち一行が潜り込みます。パーティーを主催していたファミリーの父親はランス。そして気弱な息子のフランソワ。父親のランスは、息子のフランソワにパーティーで結婚相手を見つけるか、さもなくばスペインとの戦場に行けと命じています。フランソワはどちらも気乗りがしません。そんな中で出会ってしまうフランソワとジュリエット、そしてフランソワとメイ、さらにはランスとアンジェリーク(何とジュリエットの乳母のアンジェリークは前職ではランスの家で乳母として働いていた)。

ジュリエットはフランソワの悩み(戦争には行きたくないということ)を解決するために、フランソワと結婚することを提案し、結婚式が行われることになってしまいます。でもジュリエットの親友のメイは、フランソワを気にいってしまっています。さらに、父親のランスは妻と死別していて、久々に会ったアンジェリークに恋心をいだいてしまいます。そんな状況で迎えるフランソワとジュリエットの結婚式。

そこに、何と、死んだはずのロミオが蘇って登場してきます。シェイクスピアの妻のアンの知らない間に、シェイクスピアが勝手に、ロミオの復活を書き足してしまうのです。実は、毒薬の効き目が弱く、眠りから覚めてしまったとの設定です。ボンジョヴィの『It's My Life』を歌いながら、満面の笑顔で上空から登場するロミオ。再び命を得たことの幸せ、そして再びジュリエットに会えた幸せを、身体いっぱいで表現して、この歌を歌います。

それを見て、ジュリエットが発する言葉が “Shit!”。絶妙な間です。こんなぐちゃぐちゃの状況の中で、何で、よりによって死んだはずのロミオまでが登場してくるんだというカオス状態。ジュリエットは気持ちの整理がつきません。

一方、結婚式を盛り上げるために男たち(フランソワ、ランス、メイ、そして変装して結婚式に潜り込んでいるシェイクスピアとロミオも)が歌うバックスリートボーイズの“Everybody"。ステージはハイテンションのコンサート状態です。しかしその後、花婿であるはずのフランソワがまさかの告白。自分が選ぶのはジュリエットではなく、メイだという爆弾発言、しかも自分の結婚式の最中に!

ジュリエットはいたたまれず、その場を逃げ出します。やがてロミオと出会い、打ち解けて話をします。その間に、これまでぎくしゃくしていたシェイクスピアとアンの関係も、このドタバタを通して修復していきます。

ジュリエットは、自分の道は自分自身で選ぶということを決意し、最後は見事なハッピーエンド!素晴らしいミュージカルでした。

90年代以降のポップスの名曲が絶妙なタイミングで登場するミュージカルはもはや音楽コンサート

ストーリーも面白いのですが、次から次へと登場する90年代ポップスが、ストーリーにぴったりで、絶妙なタイミングで登場します。バックストリートボーイズ、ブリトニー・スピアーズ、ボンジョヴィ、デミ・ロヴァート、ケイティ・ペリーなどのヒット曲が使われています。

実はこれらの曲、作曲したのは、マックス・マーティンというソングライター。この人がこんなにすごい曲を一人で作っていたのは驚きです。



上の画像の左側がマックス・マーティンです。数々の賞を受賞していて、米国でのヒットシングルの数は、ポールマッカートニーとジョンレノンに次いで多いとのこと。また、このミュージカルで登場する曲は、内容も歌詞もストーリーに見事にハマっているのです。まるでこのミュージカルのために書き下ろされた曲のような気さえしてしまいます。

こちらがこのミュージカルで登場する曲のリストです。



こちらは前半に使用された曲のタイトル、原曲の歌手名、そして劇中で歌うキャスト(オレンジ色)です。



こちらが後半の曲。歌詞が言葉がオリジナルとは違ったコンテキストで登場し、それが妙にマッチするので、めちゃくちゃうけていました。

たとえば、ブリトニー・スピアーズの“I'm not a girl"を、ジュリエットの友達のメイが歌うのですが、これも秀逸です。原曲が、少女(girl)と大人の女性 (woman) の狭間の存在を歌っているのですが、ノンバイナリーのメイが歌うと、歌詞がそのままで、女でもない、男でもない、その中間で悩む存在というメッセージになります。

たまたま私たちが観た観客も、ゲイの人やノンバイナリーの人がかなり目につきました。彼らから(彼女らから)したら、このミュージカルの内容はとても勇気づけられるものだったのではないかと思います。

命を与えられ蘇ったロミオが歌う“It's My Life"とか、ランスとアンジェリークの老齢カップルが歌う“Teenage Dream"など、どの曲も見事なタイミングで登場するので、実に面白かったです。

ステージの最初と最後にジュークボックスが象徴的に登場していますが、これらの曲がまるでジュークボックスから聞こえてきたかのような、そんなノスタルジックなイメージを持たせようとしていたんですね。

ステージの中央部が回転するという仕掛けも何度かありましたが、これも昔のレコードのターンテーブルをイメージしていたのかもしれません。

キャストの演技力、歌唱力、ダンス力が素晴らしく、キャステイングもダイバーシティを意識



シンガポール公演は、オーストラリアのキャストを中心に構成されていました。ロンドンもブロードウェイも主役のジュリエットは黒人の女性でしたが、今回のジュリエットを演じたロリンダ・メイ・メリポールさんは、オーストラリアのクィーンズランド州の原住民族のクーンカリ(Kuungkari)という人種だそうです。アジア人っぽい雰囲気なのですが、素晴らしい演技力、歌唱力、ダンス力でした。発音、発声、声量、リズム感、セリフの表現力、演技力などすべてが素晴らしかったです。

当日、会場で買ったパンフレットを見ていて、一つ感動したのは、キャストの名前の下に(he/him) とか、(she/her) とか (they/them)という表記があることでした。以前、別の記事でノンバイナリーに関する話を書いたことがあるのですが、ノンバイナリーの人々は性別をはっきりさせるような代名詞を嫌がります。その場合、三人称単数のthey/themというのを使うのです。つまりthey/themと書いてあるだけでノンバイナリー(あるいはLGBTQ)という意味になるのです。。



これを見ると、ロミオもメイもthey/themです。他にも何人かthey/themがいます。フランソワ役は、意外にもhe/himなんですね。ランス役のヘイデン・ティーさんは、he/him/they/themという表記ですが、これはどういうことなんでしょうか?いわゆる両刀使い?バイセクシャル?ちょっと謎です。

あと上の画像の右下のベンボーリオ役のライリー・ギルさん。この人、女性かと思っていて、ロミオの親友ベンボーリオを女性という設定でやっているんだと思ったのですが、これを見ると、they/themなんですね。またこの画像では切れてしまっているのですが、解説を見ると、“Riley is a Queer non-binary performer"と書いてあります。クイアーでノンバイナリーのパフォーマー。LGBTQの最後のQです。

Rileyという名前が男の子の名前だけかと思って調べてみたら、女の子につけるケースも多く、中性的な名前のランキングのベスト5に入っている名前のようですね。

ロミオの親友も、ジュリエットの親友もあえてノンバイナリーという設定のこのミュージカル、実にダイバーシティーを意識しているんですね。

日本では味わえない西洋風のノリと、エレガントな開演前とインターミッションの雰囲気



観客に西洋人が多かったので、客の反応で客席とステージが一体化し、非常に盛り上がりました。ところどころ、音楽コンサートのような雰囲気になったりもしました。また最後はスタンディング・オベーションで、かなり多くの観客が踊り出していました。こういう雰囲気はなかなか日本の劇場ではない気がします。

また、開演前やインターミッションでの雰囲気も素敵です。これまで何度か西洋人の観客の多いミュージカルをシンガポールで観ていますが、開演前には、広々としたロビーで飲んだり、スナックをつまんだり、おしゃべりしたり、写真を撮ったりして過ごすのがとても楽しいです。

今回は、私は最初は白ワインとポップコーンを、2度目はシャンパンを飲みました。何かパーティーに参加しているような雰囲気がして、ちょっとワクワクします。こういう優雅な雰囲気はなかなか日本では味わえないですね。

ミュージカルの内容もそうなのですが、観客の雰囲気、始まる前からの雰囲気など含めて、素晴らしい体験でした。シンガポールで、日本人の知り合いや、シンガポール人の知り合いに「絶対見るべきだ」と言ったのですが、私がいくら言っても、残念ながら説得力がなかったです。

この演目は、言葉の問題もあり(そもそもこれらの洋楽の楽曲の歌詞は日本語翻訳では無理)、もし見事に翻訳できたとしても、これだけの演技力と歌唱力を持ったキャストを揃えることは難しいと思います。また、もし海外キャストをそのまま日本に連れてきて上演できたとしても、観客との一体感と反応を再現することは無理なのではないかと思います。

シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の原作からは大きく逸脱した作品ではありますが、シェイクスピアの喜劇で表現したかったことはこういうことではないのかと思えるような作品でした。シェイクスピアの時代にはなかった音楽と現代的な設定で再構築した、この新しい物語が与えてくれた感動は、シェイクスピア喜劇の本質のような気がしました。

シェイクスピアの時代は、言葉と演技力に頼るしかなかったのですが、今の時代はいろいろな要素を総合芸術として使うことができます。あらたなツールを使って、シェイクスピアが表現したかったものを現代に再生できたのではないか、とそんなことを感じました。

日本人でこのミュージカルをご覧になった方、あるいはこれからご覧になる可能性のある方は少ないかと思うのですが、あまりに素晴らしく、これは歴史に残しておくべき作品なのではないかと思ったので、ここに紹介させていただきました。これを再び、どこかで観ることができるのだったら、ロンドンにさえも飛んでいきたいという気持ちです。チャンスがある方は是非、ご覧になっていただければと思います。
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シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の悲劇的結末のきっかけとなった16世紀の感染症

2021-06-13 19:34:35 | シェイクスピア

私たちは今、パンデミックの最中にあります。感染者は減ったかと思えば増え、人々は感染と死の恐怖に怯え、生活や仕事は大きく制約を受けています。しかし、これは今の時代に限ったことではないというのを知った時、人類の存在の脆弱さを痛感せずにはいられません。医学や科学技術が進化しているはずなのに、人類は感染症に苛まれ続けてきました。そしてそれは今も昔と変わっていないのです。

人類史上、大規模な感染症は何度も生じています。英国も16世紀後半から、17世紀初頭まで、ペストが何度も流行します。その頃は、シェイクスピア(1564―1616)の生きていた時代に重なり、感染拡大防止のため、劇場が何度も閉鎖されます。有名なグローブ座ができたのは、1599年。感染が少なくなっていたつかの間のことでした。そのグローブ座もシェイクスピアが名作を書き続けていた間も、何度か閉鎖を余儀なくされてしまいます。

「ロミオとジュリエット」が最初に上演されたのは1595年頃と推測されています。1592年から93年のペストの大流行が一旦収まった後のことでした。今の時代も、劇場や俳優は、コロナ禍で大変な犠牲を強いられていますが、シェイクスピアの時代も大変な状況であったと推察されます。

私は学生時代に、シェイクスピア劇を原語で上演する「シェイクスピア研究会」というグループに所属していました。「ロミオとジュリエット」を上演したのは1978年の5月のことでした。その時、ロミオを演じたのは、今では著名な俳優になっている吉田鋼太郎君でした。私はロミオの親友のベンボーリオと、ロレンス神父の二役を演じました。

これは、運命に翻弄される若き男女の悲劇なのですが、悲しい結末をもたらすきっかけにペストが関わっていることをつい最近知りました。自分で演じている時には全くピンときていなかったのですが、コロナのパンデッミックや隔離を経験した今、あらためてこの作品を振り返ってみると、実は感染症が関わっていたと知り、単なる遠い昔の話などではなかったんだと気付きました。

ロレンス神父は、ロミオとジュリエットを結婚させてしまった手前、パリスとの結婚を回避するため、ジュリエットに薬を処方し、仮死状態にするという作戦を実行します。その間、マンチュアという町に追放になっているロミオに状況を説明する手紙を書き、彼らが再び会えるような段取りをします。で、その手紙を仲間のジョンという修道士に託します。



こちらの写真は1968年の映画「ロミオとジュリエット」の中で、手紙を託すシーンです。右がロレンス神父、左が修道士のジョンです。



映画の中では、ジュリエットの葬儀を目撃したロミオの召使いのバルサザーが、ジョンを追い越して先にロミオにジュリエットの死を知らせるという流れになっています。このすれ違いがまた切ないのですが、原作はこの部分が異なっています。

原作では、ジュリエットが墓所に送られた後少したって、ジョンがロレンス神父を訪ねてくるシーンがあります(5幕2場)。「ロミオは何て言っていた?ロミオからの手紙とか持ってないの?」とロレンス神父はジョンに尋ねます。するとジョンは「実は、マンチュアに行こうとしていたんだけど、一緒に行こうと思っていたやつが、行く前にちょっと病人を訪ねないといけないと言って、寄っていくんだね。その後、検疫官に質問を受けて、あなた方はペスト患者の濃厚接触にあたるので、在宅隔離が必要です、と言われ、家に閉じ込められて、外出ができなかった」と言うのです。

「じゃあ、誰が手紙をロミオに届けてくれたのかな?」と訪ねるロレンス神父に、ジョンは、「手紙はここにある。これをこちらに送り返そうにも、みんな感染を怖がって誰も協力してくれなかったんだ」と答えます。ロレンス神父は、「なんということだ!」ということで、42時間後に仮死状態から目覚める予定のジュリエットをしばらく自分のところで匿い、別途ロミオには新たな手紙を書くというプランBを計画するのです。ところが、バルサザーの報告を受けてロミオは一足先に行動に移していたということで悲劇の結末になるのです。

私は舞台で、ジョンの報告を受けた際には、正直あまり彼の言い訳がよくわかりませんでした。感染隔離のために家に閉じ込められて出られないなんて理由は、言い訳のための理由としてしか思えませんでした。「なんでこんなやつに頼んでしまったのかな」という後悔は感じていたのですが、今思えば、感染隔離が引き起こした悲劇だったわけです。今から思うと、ジョンの弁明がよく理解できます。今更ですが、理解が足らず申し訳なかった、とジョンの役をやった人に謝っておきたいと思います。

今も昔も感染症って大変ですね。皆さん、十分用心してこのパンデミックを乗り切りましょう。
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ジュリアス・シーザーが暗殺されたのは3月15日だった

2021-03-14 22:53:56 | シェイクスピア
3月15日と聞いて、”Ides of March”という言葉を想起する人は、シェイクスピアに深く関わってきた人に違いありません。シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の戯曲の中で、ポンペイを破ってローマに凱旋したジュリアス・シーザーに対して、群衆の中から占い師が語りかける言葉が、”Beware the Ides of March” (3月15日に気をつけろ)。そして、この予言通り、3月15日にジュリアス・シーザーがブルータスらに暗殺されてしまうのです。

「ブルータスよ、おまえもか?!」という台詞はあまりにも有名ですが、この3月15日というのは、戯曲の中の話だけでなく、史実でもあります。紀元前44年の3月15日に、シーザーは実際に暗殺されてしまいます。

“Ides”は「アイズ」と発音しますが、これは昔の暦で15日を意味していました。月により、13日を”Ides”としていた月もあります。月のほぼ中旬に設定されていました。古代ローマは「ローマ暦」を採用していましたが、ジュリアス・シーザーにより紀元前45年から「ユリウス暦」を採用することになります。「ジュリアス」をラテン語読みにすると「ユリウス」になります。ちなみに、7月は英語で”July”と言いますが、これはジュリアス・シーザーの誕生月で、自分の名前の「ユリウス」を月の名前にしたことから来ています。

それまで355日くらいであった一年が、ユリウス暦では現在とほぼ同じ365.25日になりました。ユリウス暦は16世紀後半ごろから、さらに調整を加えたグレゴリオ暦に変わっていきますが、イギリスがグレゴリオ暦を採用するのは、1752年のことで、シェイクスピアの時代の英国はユリウス暦が行われていました。

ローマの時代、3月15日は借金の最終返済期限だったらしいのですが、現代の日本でも確定申告の期限がこの日になっているのは何とも奇遇ですね。2021年はコロナ禍で申告期限が4月15日と一ヶ月延長になっていますが。3月の中旬は何かと節目になる時期なのですね。

グラミー賞の発表も3月中旬で、今年は14日になっています。日本では、ほとんど知らないこの言葉も、シェイクスピアが教養の一部となっている英語圏では、かなり多くの人が知っています。

「スーパー・チューズデー」という2011年公開のアメリカ映画があります。「正義を売った日」という副題が付いていますが、ジョージ・クルーニーが共同脚本、監督、主演をした映画で、アメリカ民主党大統領予備選挙を題材にしたものです。これの原題がじつは “The Ides of March”なのです。この言葉を聞くと、裏切りと反逆の政治劇ということがわかる人が多いということですね。

アメリカには60年代にこの名前のバンドも存在していたことがネットに出ていました。

私は大学時代、英文学科で、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の購読の授業を受けていたことがありました。シェイクスピア学者で、当時劇団「円」(えん)で演出もされていた安西徹雄教授が先生でした。”The Ides of March”という台詞を先生が朗々と読み上げられたのを今でも覚えています。

また、大学時代、シェイクスピア研究会という劇団に所属していて、舞台にも何度か立っていました。私が出演したのは、「夏の夜の夢」、「十二夜」、「ロミオとジュリエット」、「ヴェロナの二紳士」の4作で、「ジュリアス・シーザー」は授業で受けただけでした。

何年か経って、蜷川幸雄演出の「ジュリアス・シーザー」を埼玉の彩の国の劇場に見に行ったことがあるのですが、そこに出演していたのは、大学時代、シェイクスピア研究会で一緒に芝居をしていた吉田鋼太郎君でした。その後、彼は蜷川さんの後を継ぐことになるのです。



以前、働いていた会社の社内のゴタゴタがあったことがありました。その時の支えになったのが実はシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」でした。混乱の状況の中、会社再建を目指して活路を開く時、手に持っていたのが文庫本のこの本だったのです。

ところで、「シーザーサラダ」や「シーザードレッシング」の「シーザー」は、「ジュリアス・シーザー」に関連があるのかなと思っていて、調べたら、全く関連はないということがわかりました。メキシコのティファナという町のレストランのオーナーのシーザー・カーディーニという人の名前から来ているようです。あり合わせの材料で急場凌ぎに作ったさらだが、人気となったのだとか。

またアメリカのピザチェーンで、「リトルシーザーズ」というのがあります。20年前に日本にもあったのですが、すでに撤退していました。アメリカでは有名チェーンとなっています。ミシガン州の夫婦が始めたお店のようですが、こちらがその創業者の夫婦、Mike and Marian Ilitch。マイク氏のニックネームが、”Little Caesar”ということだったようです。




“The Ides of March”という言葉からあれこれさまよいましたが、この言葉を知っておくと何かの時に役立つこともあるかもしれません。
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シェイクスピア研究会の頃

2021-01-17 12:55:35 | シェイクスピア

2021年1月15日(金曜日)のNHK『あさイチ』に、プレミアムトークのゲストとして俳優の吉田鋼太郎君が登場。大学時代、彼と一緒にシェイクスピア劇をやっていたので、懐かしい話が続々と出てきました。上の写真も紹介されましたが、1978年の5月に上智大学のシェイクスピア研究会で上演した『ロミオとジュリエット』の時の写真です。主役のロミオを演じた吉田鋼太郎君の向かって右にいるのが私で、顔にぼかしが入っていますが、ロミオの親友のベンボーリオの衣装を着ています。





しかし全国放送の電波でシェイクスピア研究会のことが紹介されたのはすごいことです。1969年に「シェー研」と呼ばれたシェイクスピア研究会ができて、10年の間に13本のシェイクスピア作品が上智小劇場で上演されました。日本語で上演された最後の一本を除いて、原語で上演されました。

私が大学に入学したのは1975年のこと。シェイクスピア研究会は1974年の公演後、活動を中止していましたが、たまたま同級生が、シェイクスピア研究会の公演を見ていて、その情熱のおかげで研究会が再興されることになります。その同級生に勧誘されて、シェイクスピアの「テンペスト」の読書会に参加することになり、その後、卒業までどっぷりと演劇活動に浸かることにななるのです。

1977年5月、私たちにとって最初のお芝居の “A Midsummer Night‘s Dream”(夏の夜の夢)の上演となります。私は妖精の王のオベロンを演じました。吉田鋼太郎君が入ってきたのはそんな時です。彼は、シェイクスピア研究会に入るために上智に来たというくらいで、すぐに参加してきました。

妖精の役が足りなかったので、妖精役として練習に参加したのですが、どうもイメージに合わないということで、裏方に回り、照明アシスタントをすることになるのです。

1977年の10月に “Twelfth Night”(十二夜)が上演されるのですが、私は道化のフェステを演じ、吉田鋼太郎君は、セバスチャンとして出演することになります。

1978年5月、”Romeo and Juliet”(ロミオとジュリエット)の上演となります。吉田鋼太郎君がロミオ、私はロミオの親友のベンボーリオと、ロレンス神父の二役を演じました。こちらが、その当時のチラシですが、これは私がデザインしたものです。



そして1979年6月、”Two Gentlemen of Verona”(ヴェロナの二紳士)が、それまでの伝統を破って初めて日本語で上演されることになります。この作品の台本は私が作り、吉田鋼太郎君が演出を行いました。

私はこの年の3月で卒業しているはずだったのですが、一般教養の単位が2単位不足していたという驚愕の事実が卒業の二週間くらい前に判明し、留年を余儀なくされます。自分の不注意が原因なのですが、就職が決まっていた地元の愛知県の公立高校に断りを入れたり、引っ越し先やアルバイト先を急遽探さないといけないという非常事態で、シェイクスピア劇の中の出来事かと思えるほどの現実でした。

卒業できないとわかった日の夕方、千葉県の岩井の民宿で行われていたシェイクスピア研究会の合宿所に何の連絡もなくたどり着くのですが、突然、亡霊のように現れた私を見て、吉田鋼太郎君は驚くとともに笑ってもいました。すぐに、私は公爵の役と、アントーニオの二役で舞台に立つということになります。



こちらがその時のチラシ。私がデザインしました。イラストも自分です。



これは上演パンフレットの一ページです。



ついでに公爵として出演中の私です。シェイクスピアも自分で書いた作品に自分も出演していたという噂もありますので、さらにシェイクスピアに近づいた気がしました。

この作品はそれまでのシェイクスピア研究会の伝統を破って日本語での上演を行ったのですが、これにはいくつか理由があります。

吉田鋼太郎君は、英語の台詞では言葉に自分の気持ちを乗せることに限界があると感じていました。また、シェイクスピア研究会のメンバーも英文科の学生は少なくなっていました。物理学科や、ドイツ文学科など雑多な集団になっていました。英語での上演に不自由さを感じるようになっていました。

私はまた別の意味で日本語での上演を考えていました。大学の4年で愛知県の教員試験に合格していたので、就職活動をすることもなく、少々余裕がありました。それで、シェイクスピア研究会の次の公演のための作品として、「ヴェロナの二紳士」の翻訳に取り掛かっていたのです。

この作品は、シェイクスピアの初期の喜劇作品なのですが、あまり評価されておらず、上演数も少ない作品でした。日本語の翻訳で読んでも、英語の原文で読んでも、わかりにくい表現が多い。当時は大受けだった冗談も意味不明になってしまっている。でも読み込んでみると、とても面白い作品だと思いました。

その面白さが時代の変化で伝わらなくなってしまっていました。それはとてももったいないことだと思った私は、シェイクスピアが当時、表現しようと思っていた笑いと、情熱と、若さを、蘇らせることが自分の使命だと感じたのです。

連日、大学の図書室にこもり、この作品の日本語台本を書き始めたのです。翻訳を超えて、シェイクスピアの当時の思いを翻訳しよう試みました。本当はどういう思いだったのかは検証しようがなく、自分自身の勝手な思い込みだったのですが、不遜にも当時の私は、自分と同世代の頃のシェイクスピアと時間と空間を超えてシンクロしていた気分でした。

若いから何でもできたということかもしれませんが、原作の地方都市ヴェロナと大都市ミラノという設定を、自分の中では、豊橋(自分の故郷の近く)と東京という関係に置き換えて理解しました。また、召使いの一人を東北弁にし、もう一人を大阪弁にするなどして、笑いの表現を増幅させようと試みました。

当時、血液型の性格判断が流行っていましたが、以前のシェイクスピア研究会はA型が多く、芝居の雰囲気も重厚感がありました。ところが「ヴェロナの二紳士」の参加メンバーはB型が多く(ちなみに吉田鋼太郎君はAB型、私はO型)、雰囲気はがらりと変わっていました。登場人物の多くが、本心とは裏腹の言葉を語り、軽薄さがテーマの一つだったので、このB型チームはぴったりでした。重厚感はなくとも、軽妙でテンポが早く、爽やかさが残る作品となりました。

この年、関東地区の大学のシェイクスピア研究会の連盟の選考で、この「ヴェロナの二紳士」が作品賞を受賞しました。

この後、「終わりよければすべてよし」の上演を、これも日本語で準備していたのですが、残念ながら実現できずに終わりました。

「あさイチ」でも紹介されていましたが、発声練習や、ヨガ的な柔軟体操、ランニングなどはほぼ毎日やっていて、体育会系かと思えるくらいのトレーニングをしていました。この四谷の土手でも発声練習や、芝居の練習していましたね。



時間があまれば、手当たり次第に戯曲を取り出して、即興で読み合わせをしたりしていたのが懐かしいです。



吉田鋼太郎君は、その後、プロの俳優としての道を歩み、私は、海外向けの広告代理店で仕事をすることになります。それぞれ別の道を歩み、私は昨年シンガポールで広告の仕事で起業しました。

大河ドラマの「麒麟がくる」で1月10日に松永久秀役が自害するというシーンがありましたが、この大河ドラマの主役が松永久秀だったのかと思えるほどの豪華な死に際でした。私がこのシーンで見ていたのは、シェイクスピアでした。学生時代から延々と演じてきたシェイクスピアがこのシーンに凝縮されていた気がします。

私の場合、演劇とは別の方向に進みました。長年勤めた会社を辞めて、昨年シンガポールで起業しました。直後のコロナ禍で、先行きが心配な状況が続きますが、「なるようになる」という視点をシェイクスピアが教えてくれたような気がすると思っています。どんな困難な状況があろうとも、やがて解決がもたらされる。

今はコロナで大変な時期でありますが、やがて事態は収束し、時代は進んでいく。シェイクスピアのことを考えながら、徒然なるままにそんなことを考えていました。
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ドナルド・トランプとジュリアス・シーザー

2021-01-10 20:39:03 | シェイクスピア

2017年の5月にニューヨークのセントラルパークで上演されたウィリアム・シェークスピアの「ジュリアス・シーザー」が炎上したことがありました。もともとの設定はローマ時代なのですが、現代という設定で上演され、暗殺されるシーザーが、背が高く、金髪で、スーツに長めの赤いネクタイをしていました。見るからにドナルド・トランプです。

またシーザーの妻は、スラブ系のアクセントがあり、スロベニア出身のメラニア夫人を連想させること、さらに舞台に登場するバスタブが金色ということなど、ドナルド・トランプを風刺していることは明らかです。トランプ嫌いの人が見たら拍手喝采、抱腹絶倒の設定ですが、トランプ支持者からすると侮辱的で許すべからざる事態だったのでしょう。

こちらがその舞台を紹介した動画です。



トランプに似たシーザーが登場することに反感を感じた観客がインタビューされています。

そして間も無く、怒った観客が上演中に舞台に上がって抗議し、警備員に連れ出されるという事件も起こります。そしてそれを見ていた別の過激な観客が抗議の叫びをあげる動画がこちらです。



殺到する苦情を受けて、航空会社や銀行がスポンサーを降りることになりましたが、表現の自由に対する議論も沸き起こりました。

こちらの記事によると、アメリカ各地でシェイクスピアを上演している劇場のいくつかに脅迫メールが大量に届いたそうです。ニューヨークのセントラルパークの「ジュリアス・シーザー」とは全く関係がないのですが、シェイクスピアというだけで抗議の対象になってしまうとは、とんだとばっちりです。

https://www.bbc.com/news/world-us-canada-40332236

私は、大学時代、シェイクスピア劇の劇団に属しており、何度か舞台にも立っておりました。設定を現代にしたり、現代の風刺を織り交ぜることは共感でき、シーザーをドナルド・トランプ風にする演出というのは個人的には非常に面白いと思うのですが、身近な政治ネタだと反感を持つ人も多いのでしょうね。

しかし、ドナルド・トランプとジュリアス・シーザー、イメージがだぶるところも多いですね。ジュリアス・シーザー(紀元前100年7月12日、紀元前44年3月15日)は、共和制ローマ期の政治家、軍人であり、遠征によりローマの版図を拡大し、政治的にも様々な成果を残した人でした。カリスマ性があり、人民からも人気がありました。ちなみに7月がJulyと呼ばれるのは、彼がその後1600年以上使われることになる暦(ユリウス暦)を制定した際に、彼が7月生まれであったことで、名前のJuliusを7月の名前としたのだそうです。

「賽は投げられた」という有名な言葉がありますが、これもジュリアス・シーザーが起源です。「賽」とは、さいころのことで、「もう事は始まってしまった。やるしかない」という意味で使われます。古代ローマ時代、ポンペイウスと対立したシーザーがルビコン川を渡ってローマへ進軍するときに言った言葉です。ルビコン川を武装して渡ることは法律で禁じられていたのですが、これを犯すことは宣戦布告を意味していました。

権力を次々と手中に収め、終身独裁官となるのですが、敵も多く、最後は暗殺されてしまいます。「ブルータス、お前もか」という最後の台詞はあまりにも有名です。

「ジュリアス・シーザー」は、後世にシェイクスピアが作った戯曲ですが、この戯曲の一つのテーマは群衆心理です。私は大学で英文学を学んでいましたが、英文学者で劇団円で演出もされていた故・安西徹雄先生の授業で、「ジュリアス・シーザー」を教わったことがありました。先生は、群衆がいとも簡単に言葉に左右されるということに着目していました。シーザーから、ブルータスに、そしてアントニーに群衆心理は変化していきます。きっかけになるのはリーダーの用いる言葉であり、レトリックです。それが正しいかどうかではなく、仮に虚偽であっても、群衆の気持ちが動かされれば過激な行動にも走るのです。

群衆と書きましたが、英語ではMobという単語になります。「暴徒」とか「破壊的な行動をしかねない無秩序な群衆」という意味で使われます。

2021年1月6日にアメリカの連邦議会議事堂にドナルド・トランプの支持者らが侵入するという事件がありましたが、「議事堂を目指せ」、「選挙は盗まれたものであり、結果を覆されるべきである」という言葉を信じて、群衆が動くというのはまさに「ジュリアス・シーザー」に登場する「群衆」(“Mob”)と同じです。

リーダーであるドナルド・トランプの「議事堂に迎え」という言葉がトリガーとなり、まさに暴徒となった群衆は、歴史に残る行動をしてしまうのです。



大統領選挙に負けて、選挙を覆そうとする訴訟もうまくいかず、1月のジョージア州上院2議席の選挙も接戦で負け、精神的にどんどん追い込まれて行ったトランプ支持者ですが、このへんの心理は、江川紹子さんの記事に的確に書かれています。
選挙不正を言い募るトランプ支持の「カルト性」に警戒を

1月6日の事件を界にして、ドナルド・トランプから次々と腹心だった人たちが離れていきます。SNSも凍結されてしまい、弾劾や裁判に怯える何かシェイクスピアの悲劇のエンディングみたいですね。

選挙結果を否定するはずであった共和党の議員もこの事件で何人かが寝返ります。その一人がサウスカロライナのLindsey Graham氏。トランプに対して最も忠誠心を持っていた議員の一人ですが、6日の暴動の後に開催された議会で、選挙結果を認める側に移ってしまいます。トランプからしたら「Lindseyよ、お前もか!」という感じではないかと思います。その後、空港でトランプ支持者に罵倒されている映像も報道されました。こちらをご覧ください。



これを見るとまさにカルトですね。

6日は議事堂乱入という歴史的事件が発生していましたが、同じ日に東京でも1000人規模のデモが行われていました。



この上の画像は、アメリカではなく、日本のデモです。アメリカの選挙には関係のない日本で、選挙の不正をアピールするデモが行われていたのですが、この人たちは、今、何を思っているのでしょう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/662eaca5260feb6fb47c4894498aa8fdf3debf5d

日本の有名作家や学者までもが選挙の不正や、陰謀説や、トランプの勝利を信じているという不思議な現象があったのですが、彼らは今後どのようになっていくのでしょう。さらに過激なカルトとなっていくのかもしれません。

シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」は、シーザー暗殺の後の混乱を経て、アントニーが戦乱を制圧し、ローマの安定を示唆するエンディングとなります。まだいろいろとゴタゴタはあるでしょうが、この混乱を克服して、新たな平和な時代が到来することを祈るばかりです。
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