まわる世界はボーダーレス

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テイラー・スウィフトの"the lakes"を聴きながら、英国の湖水地方に旅をしたいと思う

2021-03-29 16:06:39 | 音楽
グラミー賞の年間最優秀アルバム賞を受賞したテイラー・スウィフトのアルバム“folklore”。その17曲目として、“the lakes”は、若干遅れて発表されたものです。アルバムの曲はどれも好きなのですが、この“the lakes”は特に好きでした。

2020年の8月の発表以来、この曲の歌詞について語りたいと思いながら、いつの間にか月日が流れてしまいました。ウェブを調べてみると、いろんな人がこの曲の歌詞を日本語に訳してくださっているのですが、どうもわかりにくい。おそらく言葉を訳すだけでは、テイラー・スウィフトが伝えたかったことが伝わらないのではないかと思いました。

というわけで、英語の授業のように、歌詞を解説してみようと思ったわけです。と言っても、知識の及ばぬところもあり、自分独自の解釈などもありますので、間違っている部分もあるかもしれません。そういう部分はご容赦ください。この曲の歌詞の解明に少しでも役立てば幸いです。

まずは、オフィシャルのLylic Videoをご紹介しておきます。“folklore”のすべての曲に、シンプルな背景と歌詞だけの動画が公開されているのですが、これがまたグラフィック的に素晴らしい。



特に、文字のタイポグラフィーが秀逸なのですが、これは以前の記事をご参照ください。

https://note.com/wings2fly/n/n8cf9012ceadc


“the lakes”というタイトルについて

まず、この曲のタイトルの“the lakes”ですが、どこにでもある「湖」という一般名詞ではありません。イングランドの北西部にある“the Lake District”という特定の場所です。日本語では、「湖水地方」と訳されますが、大小の湖の点在する風光明媚な観光地で、国立公園になっています。



ウィリアム・ワーズワース(Willian Wordsworth)や、サミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge)など19世紀のいわゆる「湖畔詩人」たちが住んでいた地域でもあります。また後に、「ピーターラビット」で有名なビアトリクス・ポターが移り住んだ場所としても有名です。こちらが、ワーズワースです。



18世紀後半から19世紀にかけて、産業革命が進展しますが、大都市はどんどん住みにくくなっていきます。そのアンチテーゼとして注目されたのが、都会の喧騒から遠く離れた湖水地方でした。ワーズワースはもともとこの地方で生まれていますが、他の湖畔詩人や、ビアトリクス・ポターなどがここに移り住んだのも、都会の喧騒から逃れ、自然が豊かな場所で生涯を過ごしたいという思いからでした。



つまり、この場所は、救いを求めて何かから逃れてくる場所ということなのですが、テイラー・スウィフトの“the lakes”には、そういう意味が込められているのだと思います。彼女の個人的な過去や、エンターテインメントビジネスのゴタゴタなど、忘れ去りたいことが山ほどあったのでしょうが、逃避先の象徴として、この“the lakes”が使われています。

この作品は、個人的な経験をもとにしている部分もあるのですが、“folklore”(民間伝承)というアルバムタイトルでも伝えようとしているように、私小説ではなく、物語であり、フィクションです。この物語の中の主人公と作者とはある程度の距離で離れています。自分を遠くから客観視しているような、そんな視点を感じるのです。

この美しい英国湖水地方の風景は、まさに“folklore”というアルバムの最後を飾るには相応しい気がします。ボーナストラックという位置付けでもよいので、どうしてもこの曲をアルバムの中に入れて、“folklore”を完結したかったテイラー・スウィフトの思いがわかるような気がします。

Is it romantic how all of my elegies eulogize me?

最初の歌い出しです。“Is it romantic”というのは、「それはロマンチックなのか」ということなのですが、作者自身は、それをロマンチックとは思っていないというニュアンスがあります。もし賛同しているのならば、“Isn’t it romantic”となりますね。

その後の、“how all my elegies eulogize me”の部分ですが、「自分が作ったエレジー(哀歌)が自分自身を褒め称えるものになる」という意味になります。“how”があるので、「そんなプロセス」という感じになります。“eulogize”というのは、賛美するという意味もありますが、もともとは、葬儀の時の弔辞を述べるという意味もあります。自分が作ったエレジーが、自分自身の弔辞になってしまうというのは、皮肉なことですが、それってロマンチックなことなのかという問題提議となっています。

この“romantic”という言葉、日本語の「ロマンチック」と同じ意味なのですが、「ロマン主義の」という意味もあります。ワーズワースや、コールリッジなどの湖畔詩人たち、シェリー、バイロン、キーツ、ブレイクなどは、英国ロマン主義としてグルーピングされます。ということで、「こういう考え方ってちょっと昔のロマン主義っぽいよね?」というニュアンスもあるのかなと思います。

I'm not cut out for all these cynical clones

この“cut out for”という熟語は「〜に向いている」という意味です。洋服を仕立てるときに使う型紙に由来して、ぴったり合うというところから来ているという説もあります。「これらすべての冷笑的な(皮肉っぽい)クローンたち」というのがどういう人たちのことを意味しているのかわかりませんが、同じような音楽を志向している音楽業界のことかもしれませんし、斜に構えた態度のステレオタイプの人々のことかもしれません。あるいはワーズワースなど湖畔詩人たちのことなのかもしれません。

歌詞は、芸術作品と同じで、一旦世の中に出ると、解釈は自由になります。読み手が勝手に理解すればよいので、この“cynical clones”はいろんな人々に当てはまるのですが、作者テイラー・スウィフトは、自分はそういうタイプの人間にはなれないと語っているわけです。

These hunters with cell phones

このフレーズは、上の文章を別の言葉で置き換えています。“cell phones”は、「携帯電話」のことですが、銃の代わりに携帯電話を持って狩猟をしている人々ということになります。有名人を追いかけるマスコミかもしれませんし、パパラッチかもしれません。テイラー・スウィフトにとっては嫌な存在です。“cut out for”はここに来て、「向いている」という意味から、「苦手」というニュアンスに変わっているのではないかと推測します。冷笑的なクローンの群れや、携帯を持ったハンターたちに辟易としている心情が伝わってきます。

“phones”は上の行の“clones”と韻を踏んでいます。これがまた、古典的な詩の伝統にのっとっていて、湖畔詩人の詩を連想させます。これら二つの言葉は最近の言葉で、これまでの詩には登場しない言葉なので、斬新な響きを感じます。

Take me to the lakes, where all the poets went to die

「詩人たちがそこで人生の終焉を迎えるために移り住んだという湖水地方に私を連れていって」という意味になります。イギリスの湖水地方は、日本の青木ヶ原樹海のように、自殺の名所というわけではありません。「すべての詩人が死ぬためにそこに行った」と訳すと、傷心して自殺するためにそこを訪れたという意味になってしまいます。そうすると、作者の自殺願望までイメージされてしまいます。

湖水地方に移り住んだ詩人たちは、あまりにもその土地を愛したが故、死ぬまでそこに住み、多くの詩を紡ぎ、そこで亡くなったというのが事実です。湖水地方は、詩人たちが都市文明に疲弊して、救いを求めて逃避してきた場所であり、現代のテイラー・スウィフトにとっても逃避すべき場所のシンボルでもあったと思われます。

ネットを調べていたら、かつてテイラー・スウィフトは英国人の恋人と湖水地方を訪れたことがあったと出ていました。その時の気持ちだったのかもしれません。

I don't belong and, my beloved, neither do you

「私はそういう人たちと同類ではなく、恋人よ、あなたも違うわね」というような意味と思われます。「死ぬまでそこに住もうと思って移住した詩人たち」と同じ考えを共有しているわけではないということですね。ここで、“my beloved”という言葉で、彼女が語りかけている恋人の存在が浮き彫りになります。彼女の恋人に、「あの湖水地方に私を連れていって。(死ぬまでそこに永住するわけじゃないけど)」とお願いをするわけです。

Those Windermere peaks look like a perfect place to cry

「あのウィンダミアの山々は泣くのには最適の場所のように見える」という意味になります。湖水地方で最も有名な湖の一つがウィンダミア湖で、湖から少し離れた場所にウィンダミアという町があります。周りには山々があり、“Windermere Peaks”というのは特定の山ではなく、周辺の山々全体を示すものと思われます。



I'm setting off, but not without my muse

“set off”というのは「出発する」という意味。湖水地方に旅立つということなのでしょう。「でも私のミューズと一緒でなきゃ嫌」というフレーズが続きます。「私のミューズ」とは、恋人のことなのでしょうが、もともとギリシャ神話で、芸術、学問を司る女神のことでした。音楽のMusicという言葉はこの「ミューズ」から生まれています。音楽のインスピレーションを与えてくれる恋人と二人で行きたいという意味かと思われます。

What should be over burrowed under my skin

この主語は、what should be over”で、「克服すべきこと、忘れ去るべきこと」、それが「私の皮膚の下に潜り込んでしまった」という意味になります。“burrow”とは、うさぎや狐などが、穴の中に潜り込むという意味なのですが、忘れてしまいたいことが、自分の皮膚の下に潜り込んでしまった、というような感じです。

In heart-stopping waves of hurt

そして、それは、皮膚の下で心臓が止まるような痛みの波となっているということになります。忘れ去りたいことが辛い痛みの波となって心を苦しめているという感じです。

I've come too far to watch some namedropping sleaze

ここは、「あまりに遠くまで来てしまったので、人の名前を勝手に使って悪用するような不逞な輩を目撃することもなくなった」という意味になります。“namedropping”というのは、有名人の名前をあげて、知り合いだと言いふらすことという意味、“sleaze”というのは、不正、下品、あるいはそのようなことをする人という意味になります。

Tell me what are my words worth

私の言葉にどんな価値があるのか教えてほしいということなのですが、ここで登場する“words worth”という言葉は、明らかに19世紀の湖畔詩人のワーズワースを意識しています。

I want auroras and sad prose

コーラスに続いて、このフレーズが登場します。「私が欲しいのはオーロラと悲しい散文」。湖水地方では、実際にオーロラが見えることもあるそうです。“sad prose”というのは、「悲しい散文」ということですが、この文脈の中でこの単語が使用されれているのは、いまいち理解できていません。湖水詩人たちは、詩(韻文)だけでなく、散文の作品も残していますが。

I want to watch wisteria grow right over my bare feet

「藤の蔓が私の裸足の足の上まで伸びてくるのを見てみたい」ということです。

'Cause I haven't moved in years

藤の蔓が伸びてくるほど、何年もその場所に立ち尽くしているということになります。

And I want you right here

そして、あなたにここにいてほしい、との言葉。「あなた」を待ちながら、何年でもいいのでここにいるというメッセージ。ここが湖水地方なのか、どこなのかよくわかりませんが、求めている恋人はここには存在していないというのがわかります。

A red rose grew up out of ice frozen ground

「赤い薔薇が凍りついた地面から育っていた」という言葉が続きます。薔薇の花が凍てつく冬に咲くことはありえないことです。ありえないことの象徴としてこのフレーズが登場しています。「ロマンチック」および「ロマン主義」という言葉には、「空想的な」とか「非現実的」という意味もあるので、この表現はまさに「ロマンチック」です。

With no one around to tweet it

上の文章に続いて、「これについてツイートしようとする人は周りには誰もいない」という文章が続きます。せっかくのSNS映えする事象なのに、誰もそれを目撃し、ツイートすることがないという切なさです。

While I bathe in cliffside pools

「その間に私は崖の下のプールに入っている」というフレーズ。そんなことをしても誰も注目する人がいないので、のんびりしていられる、というような意味なのでしょう。「崖の側のプール」というのはこんな感じの場所と思われます。

https://getoutside.ordnancesurvey.co.uk/guides/wild-swimming-holes-in-the-lake-district/

With my calamitous love and insurmountable grief

そして、「悲惨な恋や 乗り越えられない悲しみ」という言葉が、上の“cliffside pools”あるいは“bathe”に掛かっています。つまりこんな場所で、悲恋や、乗り越えられない悲しみに浸っている自分というわけです。

No, not without you

「湖水地方に連れてい行って」というコーラスの後、最後に、このフレーズが。「あなたと一緒でないとダメ」ということで、この曲は、かつての恋人に対する未練であり、虚しいラブレターなのかもしれません。

湖水地方の動画がありましたのでこちらにアップしておきます。ウィンダミアピークスというのはこういう場所ではないかというのがよくわかります。



結局は、悲しい物語なのですが、冒頭に出てきた、「エレジー」の一つがこの曲だったんだなと思うと、切なさが残ります。

最後にテイラー・スウィフトのスタジオ演奏の動画をアップしておきます。

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ジュリアス・シーザーが暗殺されたのは3月15日だった

2021-03-14 22:53:56 | シェイクスピア
3月15日と聞いて、”Ides of March”という言葉を想起する人は、シェイクスピアに深く関わってきた人に違いありません。シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の戯曲の中で、ポンペイを破ってローマに凱旋したジュリアス・シーザーに対して、群衆の中から占い師が語りかける言葉が、”Beware the Ides of March” (3月15日に気をつけろ)。そして、この予言通り、3月15日にジュリアス・シーザーがブルータスらに暗殺されてしまうのです。

「ブルータスよ、おまえもか?!」という台詞はあまりにも有名ですが、この3月15日というのは、戯曲の中の話だけでなく、史実でもあります。紀元前44年の3月15日に、シーザーは実際に暗殺されてしまいます。

“Ides”は「アイズ」と発音しますが、これは昔の暦で15日を意味していました。月により、13日を”Ides”としていた月もあります。月のほぼ中旬に設定されていました。古代ローマは「ローマ暦」を採用していましたが、ジュリアス・シーザーにより紀元前45年から「ユリウス暦」を採用することになります。「ジュリアス」をラテン語読みにすると「ユリウス」になります。ちなみに、7月は英語で”July”と言いますが、これはジュリアス・シーザーの誕生月で、自分の名前の「ユリウス」を月の名前にしたことから来ています。

それまで355日くらいであった一年が、ユリウス暦では現在とほぼ同じ365.25日になりました。ユリウス暦は16世紀後半ごろから、さらに調整を加えたグレゴリオ暦に変わっていきますが、イギリスがグレゴリオ暦を採用するのは、1752年のことで、シェイクスピアの時代の英国はユリウス暦が行われていました。

ローマの時代、3月15日は借金の最終返済期限だったらしいのですが、現代の日本でも確定申告の期限がこの日になっているのは何とも奇遇ですね。2021年はコロナ禍で申告期限が4月15日と一ヶ月延長になっていますが。3月の中旬は何かと節目になる時期なのですね。

グラミー賞の発表も3月中旬で、今年は14日になっています。日本では、ほとんど知らないこの言葉も、シェイクスピアが教養の一部となっている英語圏では、かなり多くの人が知っています。

「スーパー・チューズデー」という2011年公開のアメリカ映画があります。「正義を売った日」という副題が付いていますが、ジョージ・クルーニーが共同脚本、監督、主演をした映画で、アメリカ民主党大統領予備選挙を題材にしたものです。これの原題がじつは “The Ides of March”なのです。この言葉を聞くと、裏切りと反逆の政治劇ということがわかる人が多いということですね。

アメリカには60年代にこの名前のバンドも存在していたことがネットに出ていました。

私は大学時代、英文学科で、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の購読の授業を受けていたことがありました。シェイクスピア学者で、当時劇団「円」(えん)で演出もされていた安西徹雄教授が先生でした。”The Ides of March”という台詞を先生が朗々と読み上げられたのを今でも覚えています。

また、大学時代、シェイクスピア研究会という劇団に所属していて、舞台にも何度か立っていました。私が出演したのは、「夏の夜の夢」、「十二夜」、「ロミオとジュリエット」、「ヴェロナの二紳士」の4作で、「ジュリアス・シーザー」は授業で受けただけでした。

何年か経って、蜷川幸雄演出の「ジュリアス・シーザー」を埼玉の彩の国の劇場に見に行ったことがあるのですが、そこに出演していたのは、大学時代、シェイクスピア研究会で一緒に芝居をしていた吉田鋼太郎君でした。その後、彼は蜷川さんの後を継ぐことになるのです。



以前、働いていた会社の社内のゴタゴタがあったことがありました。その時の支えになったのが実はシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」でした。混乱の状況の中、会社再建を目指して活路を開く時、手に持っていたのが文庫本のこの本だったのです。

ところで、「シーザーサラダ」や「シーザードレッシング」の「シーザー」は、「ジュリアス・シーザー」に関連があるのかなと思っていて、調べたら、全く関連はないということがわかりました。メキシコのティファナという町のレストランのオーナーのシーザー・カーディーニという人の名前から来ているようです。あり合わせの材料で急場凌ぎに作ったさらだが、人気となったのだとか。

またアメリカのピザチェーンで、「リトルシーザーズ」というのがあります。20年前に日本にもあったのですが、すでに撤退していました。アメリカでは有名チェーンとなっています。ミシガン州の夫婦が始めたお店のようですが、こちらがその創業者の夫婦、Mike and Marian Ilitch。マイク氏のニックネームが、”Little Caesar”ということだったようです。




“The Ides of March”という言葉からあれこれさまよいましたが、この言葉を知っておくと何かの時に役立つこともあるかもしれません。
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シンガポール での2週間のホテル隔離・完結編

2021-03-10 16:24:32 | トラベル
2021年2月21日、東京からシンガポールに到着し、ホテルでの2週間の隔離が終わりました。渡航の準備から、シンガポールへの到着、そしてホテルに入って数日経ったところまでは前回のブログでご紹介いたしました。15日目の3月7日の日曜日に無事に隔離が終了して、シンガポールの自宅に戻ることができました。

来る前は2週間という時間の長さが不安でした。また、部屋から一歩も外に出ることなく、一定の場所に留まるという、これまでの人生の中で一度も経験もしたことのない事だったので、心配でいっぱいでした。外の空気を吸えなくて、大丈夫だろうか?同じ環境の中で飽きることはないだろうか?食事は飽きないだろうか?閉塞感で精神的におかしくならないだろうか?など不安のオンパレードでした。

おまけに夫婦二人で同じ部屋に四六時中 x 2週間いるということがどういうことか、想像すらできませんでした。「一人の時間も必要なんだよ」とよく言っていた妻が果たして、狭い空間に閉じ込められ、時間と空間を共有せざるを得ない状況の中でどうなるのかを考えると、少々不安でした。もしも機嫌が悪くなった場合に、ホテルの部屋では逃げ場がありません(汗)。



でも人間、何とか適応できるものです。2週間が終わってみると、あっと言う間でした。幸いにして、滞在したホテルが、シンガポールのリージェントホテルという五つ星ホテルで、部屋は思ったより広々としているし、バルコニーは無いけれど窓は大きくくて景色は良いし、食事は美味しいし、ホテルのサービスも良いので、滞在はとても快適でした。

2週間の隔離が終わって、ここを去るのが寂しくなったくらいです。住めば都というように、この平和な空間に慣れてしまうと、隔離空間が心地よく思えてしまいます。2週間を指定された場所で過ごすというのは強制的な義務なのですが、この経験はユニークな体験でした。リゾートに旅行に行っても、何だかんだ忙しいのですが、この2週間は、自分で予定を決めたり、手配をする必要もなく、何を食べるのかを考える必要がなく、料理をする必要もなく、外の世界のストレスを感じることもなく、平和な時間だけが過ぎてゆきました。

この2週間の滞在の中で、いろいろなことを経験したり、発見したことがあるので、それを書き留めておきたいと思います。また、これからシンガポールに入国するために隔離をする方もおられると思いますので、持ってきてよかった物などについても記しておきたいと思います。参考になりましたら幸いです。

ホテルに関して

どのホテルになるのかは全く運によります。同じ日の朝に到着した人は、キッチナーロードのパークロイヤルだったようですし、別な日に到着した人は、隣のJENだったり、シティーホールのスイソテルやJWマリオット、フェアモント、あるいは、グランドコプソーンや、シェラトン、シャングリラといういう人もいました。

2月21日の夕方、50人以上の人がリージェントホテルに来て、15日目の3月7日に全員が出て行ったので、数日中に。また多くの人たちがこのホテルにやってくるのでしょう。それがいつになるのかは、ホテル側の準備もあるし、他のホテルとの調整や、到着者の数などいろんな調整で決まるので、どのホテルになるのかは全くわかりません。

私たちが隔離で2週間を過ごすことになったのは、オーチャードロードから少し外れた静かなエリアにあるリージェントホテルでした。シンガポールのホテルの値段は高いので、このような五つ星のホテルに泊まれたことは非常に幸運でした。



あくまでも個人の感想ですが、隔離施設としては非常にレベルの高いものでした。6階の窓の部屋の景色はとても平和な感じだし、食事やサービス対応も非常に満足のいくものでした。

このホテルには宿泊したことはないのですが、宴会場や、レストランや、バーには何度か訪れたことがありました。シンガポール日本商工会議所が毎年行っている新年会はこのホテルの一階の宴会場で行われているので、何度も来たことがあります。一昨年には、このホテルに入っている天ぷらの天信や、アジアトップ50バーの一位を獲得したことのあるマンハッタンというバーにも来たことがありました。さらに、イタリアン・レストランのバジリコや、中華料理のサマー・パレスはシンガポールでも有名なレストランとなっています。

景色という点では、高層のスイソテルから見える景色はとても魅力的だし、フェアモントや、JWマリオットとかも設備がよさそうだったのですが、結果的には、リージェントになってとてもよかったと思います。自分で選択することはできないので、比較してもあまり意味はありません。どのホテルになるのかは運で、到着する時間帯やどの航空会社、どの国から来た便なのかは全く関連がないようです。

リージェントホテルは、現在ほ隔離用の施設として使われています。下のレストランや宴会場は営業しています。バルコニー付きの部屋もあるのですが、私たちに与えられた部屋はバルコニーのない部屋でした。バルコニーがあると、外の空気を吸えてよいし、開放感があるので、バルコニー付きの部屋だったらいいなと思っていたのですが、普通の部屋でした。でも、天井も高いし、窓も大きいので、外に出られなくても全く閉塞感はありませんでした。

同じホテルでも建物のどの面の部屋なのか、また何階なのかによって風景は変わるのですが、与えられた6階の部屋で十分満足することができました。馴染みのあるタングリンモールのすぐ裏手だし、静かな住宅地が見えています。自分が住んでいるコンドミニアムが遠くに見えているのも、何か不思議な縁を感じました。

ホテルの食事

ホテルの食事は非常に満足のいくものでした。到着した日に、2週間分のメニューの選択をしなければならないのですが、何を選んだのかはすぐに忘れてしまいました。忘れないようにスマホで撮っておけばよかったと後で思いました。朝食は固定なのですが、昼食と夕食は、二種類の中からの選択です。イタリアンやローカルフードが並んでいましたが、片方どちらかがベジタリアンになっていました。



イタリアンは、パスタはペンネやラビオリで、ベジタリアンになっていました。ベジタリアンと言っても、いろんな野菜が入っていて、チーズもかかっていてとても美味しかったです。イタリアンのパスタだと、ベーコンなどが入っていることを期待してしまうのですが、ベジタリアンだけでもきちんとした料理として成立するのだということをあらためて思い知らされました。



あと、夜は必ずスープが付いてくるというのもよかったです。コーン、マッシュルーム、豆、ブロッコリーなど日替わりで暖かいスープが出ました。



朝食も、デニッシュが二つ(一つはクロワッサンの時が多い)で、バターとジャム、ヨーグルト、ジュース、フルーツのセットですが、ヨーグルトは日替わりでストロベリー、アップル、アプリコット、アロエ、マンゴなど、ジュースもオレンジ、マンゴ、アップル、フルーツはバナナ、リンゴ、みかん、プラム、洋梨など日替わりになっていました。



ランチには、オレオやリッツなどのお菓子が付き、夜は小さなロールケーキや、デザートが付いていました。





料理の味つけは、濃過ぎず、薄過ぎず、ちょうどいい感じでした。また、どのメニューも野菜が多めで、野菜の種類も豊富で、非常にバランスがよかったと思います。生野菜がなくても、野菜は十分取れ、健康に配慮してくれていることを感謝したくなるようなメニューでした。

料理も温かい状態で届けられ、美味しく食べられました。

このホテルには、バジリコという有名なイタリアンが入っているのですが、このイタリアンの食事はこのレストランのキッチンで作られているのではと思われました。それほどまでに美味しかったです。



また、チキンライスなどのローカルフードも素晴らしかったです。



こちらの食事は、BioPakという紙の容器と、木製のスプーン、フォーク、ナイフのセットで供給されました。他のホテルの食事は、プラスチックのものがほとんどなのに、このホテルのこの環境意識は非常に感心しました。



持ってきて役立ったもの

日本から沢山のものを段ボールで持ってきたのですが、役立ったものをいくつかご紹介したいと思います。

1) 乾燥野菜とスープ、味噌汁など
ホテルで出る食事で野菜不足になることはありませんでしたが、ランチには野菜スープや味噌汁を付けることにしました。

2) ルームスプレーと消臭除菌剤



こちらのスリーフという身体に安全な消臭除菌スプレーを妻が持ってきて、食後などに時々シュッとやって部屋ににおいがこもらないようにしていました。

またこちらの商品を妻が持ってきましたが、朝や寝る前とかに心を落ち着かせることができました。いろいろなタイプがあったそうなのですが、妻が自分の好きな香りのものを選んで購入したら、「愛と調和」というシンボルワードのものでした。おかげで2週間、平和に過ごすことができました。





3) ポータブルDVDプレーヤー
こちらは、以前、シンガポールで買ったものですが、妻が韓国ドラマを見るのに使いました。ホテルにはDVDプレーヤーなどはついていないので、これが役立ちました。



4) 体温計
これは必需品です。1日3回体温を測り、FWMOM/Careというアプリで報告しなければならないので、体温計がないとこれができません。

5) 延長コード
スマホの充電などで電源が沢山必要だろうと延長コードを持ってきたのですが、ホテルの部屋にはデスクに3個、ベッドサイドに4個、壁面に2個あり、これだけで十分な数がありました。しかもデスクとベッドサイドの電源は、日本タイプのもシンガポールタイプのもアダプターなしで、どちらでも入るのでこれは便利でした。


6) ハンドソープ
ホテルには石鹸や、シャワージェルはあるのですが、ハンドソープを持ってきました。手洗いをする機会も多いので、これは便利でした。

7) トイレ掃除用の流せるシート
滞在中はホテルの掃除は入らないので、トイレを清潔に保つために流せるシートを持ってきたのですが、これは便利でした。他にも除菌シートや、掃除用のシートなども便利でした。

8) ナイフ
フルーツをカットしたりする場合に使いました。

9) 洗濯用洗剤
下着などを洗うための洗剤は必要ですね。あとハンガーもあると便利です。ホテルのクリーニングに出してもよいのですが、下着などは洗ってバスルームにかけておけば1日もせずに乾きます。

10)サランラップやジプロック
洗った果物を置いておいたり、飲みかけの飲み物に蓋をするような場合に便利でした。また、朝食でついてくるバターやジャムなど使わなくて溜まっていくものを冷蔵庫に入れておくのにジプロックは便利でした。

11)シャンプーやコンディショナー、シャワージェルなどは、ホテルにロクシタンのものがついていたので、それを使わせてもらいました。

12)本は何冊か持ってきたのですが、結局読む時間はほとんどありませんでした。

13)カップ麺や梅干しなど日本の食材を持ってきたのですが、ホテルの食事が美味しいのであまり出番がなかったです。でも、ペヤングの焼きそばと、カップヌードルは懐かしかったです。

14)ゴミ袋
ゴミはドアの外に出しておけば回収してくれます。ホテルから袋ももらえるのですが、部屋にゴミを溜めたくなかったので、持ってきたゴミ袋が役にたちました。

15)ラジオ(ブルートゥーススピーカー)

テレビにもスマホのスポティファイを飛ばせましたが、時々ラジオでローカルのラジオ番組などを聞きました。また夜寝る時には、スポティファイに入れてある睡眠用の音楽をブルートゥースで繋いでかけていました。

隔離生活の日常に関して

2週間の間は、部屋の掃除とかベッドメーキングなどのサービスはありません。バスタオルやバスマットは、電話で頼むと新しいのを持ってきてくれました。ピローケースなども取り替えてくれたし、掃除機は一度借りました。トイレットペーパーも電話すればすぐに補充してくれますし、インスタントコーヒーや紅茶も補充してくれました。部屋の外の椅子の上に置いてくれて、ドアベルや、ノックで知らせてくれます。手渡しで受け取るということはありません。最初はどこまでお願いしていいのかよくわからなかったのですが、必要なものはどんどん頼んでいいんだと思いました。

滞在中に、シンガポールのMOM (人材開発省)から何度も電話がありました。全部で数回かかってきました。最初のうちは、名前、ホテル名、部屋番号、IDナンバーなどを聞かれ、一人で滞在しているのかなども聞かれました。アプリで体温を3回報告しているかなどの念もおされました。健康状況も尋ねられることもありました。隔離も後半になると、隔離の終わる日の確認と、Swab Test (PCR検査)の日時の確認などが加わりました。

毎回違う人がスマホに電話してきて、かなりシンガポール訛りの強い(いわゆるシングリッシュ)の人も多いので、シンガポールの英語に慣れていない人には最初は聞き取りにくいのではないかと思いました。

また、スマホがないとシンガポールに来るのは無理だというのを痛感しました。PCR検査などの結果は、スマホにメッセージで連絡がきますし、最後のPCRの検査結果を受け取ったらそれをスクリーンショットにしてホテルに転送しなければなりません。また、ホテルに着いたら、FWMOM/Careというアプリをダウンロードして、2週間毎日、1日3回、計測した体温を報告しないといけません。



さらに、MOMからの連絡もすべてスマホです。これほどまでにスマホが重要な役割を果たすのだとあらためて痛感しました。

最後のPCR検査とチェックアウトに向けて

11日目の夕方にHPB(Health Promotion Board)というところからスマホにメッセージが入ってきて、PCR検査の日時と場所を知らせてきました。

隔離12日目、ホテルのマネジメントからレターが届きました。15日目に隔離が終了するので、その段取りと、チェックアウトに関してのお知らせでした。事務的なレターなのに、その書き方がとても温かい気がしました。下の画像がそのレターなのですが、印象に残った箇所を赤枠で囲っておきました。



「次はもっとハッピーな機会にこのホテルでお客様を再びお迎えできることを心待ちにしています」というメッセージですが、とても好印象でした。

13日目にホテルから部屋の電話に連絡があり、PCRテストの時間に関しては、人数が多いので、土曜日(14日目)の朝9時頃から部屋でスタンバイしておいてほしいとの連絡が入りました。HPBからのメッセージにあった時間ではないようです。ホテルの人間が部屋に来て、案内するので、それまで部屋で待機するようにとのことでした。

また、それと別にホテルから連絡がありました。15日のチェックアウトの段取りに関してでした。PCRテストの結果を15日に受け取ったら、そのスクリーンショットをホテルの電話に送る。そうするとチェックアウトの手続きに入るとのこと。荷物がどれくらいあるのか、タクシーは必要かなども聞かれました。

いよいよ14日目の午前9時から部屋でスタンバイしていましたが、10時過ぎに部屋をノックする音が。外に、防護服を着た女性が立っていました。私たちは、パスポートとIDカードだけ持って、部屋を出ます。エレベーターにはまた別の防護服の人がいて、エレベーターで11階まで上がりました。

エレベーターを降り、案内されたところが、リージェント・クラブという部屋。普段は豪華なクラブルームなのですが、部屋のテーブルや椅子は取り払われていました。下の写真が普段のホテルのサイトに出ているリージェント・クラブの様子です。



入り口に受付の机があり、パスポートとIDの確認と、鼻水などの症状がないかどうかの確認をさせられます。そしてそこから、バルコニーに設置された検査場所に。

何とそこはバルコニー。久々に触れる熱帯の空気、そしてシンガポールの風景。こんな素敵な場所で検査をしてくれるということに感激すら覚えました。防護服の担当者が、この検査の説明をします。空港で受けたのとはちょっと違って、鼻だけで行い、それもちょっと奥深くまで綿棒を入れる。それもすこし長い時間になるとのことでした。いわゆる鼻出しマスクの状態で、まっすぐ前を見ているようにとの指示。綿棒が鼻の奥まで届くのを感じます。口で息をするようにと指示されます。そしてさらに5秒くらい待って、綿棒が抜かれます。それを右と左で同じように行うのですが、痛さ等は特に感じず終わりました。

こんな素敵な場所でPCR検査を受ける機会はなかなかないんじゃないかと思いました。瞬間的ではあったのですが、外の空気と景色を味わえることの幸せを感じました。

結果が来たのは、翌日の15日目の午前10時ちょっと前。スマホのメッセージに送られてきました。



"NEGATIVE"(陰性)という文字にほっとしました。

これをスクリーンショットにして、ホテルに送らなければならないのですが、いろいろ試行錯誤の末、WhatsAppで送りました。隔離中の食事は15日目の朝食までですが、昼前にランチのフライドライスが届けられました。

チェックアウトが午後2時を過ぎる場合は、昼食が届けられるという情報が事前レターに書かれていました。ということは、チェックアウトは午後になるのかなと思っておりました。2時過ぎまで部屋で待っていたらホテルのフロントから電話が来て、結果はまだ届かないかとのこと。朝送ったと伝えましたが、どうやら確認がうまくできてなかったようです。

すぐにチェックアウトできたのですが、ホテルの下のフロアは普通にレストランは営業をしていて、宴会場では宴会をやっているようで、賑やかな声が聞こえていました。ホテル側でタクシーを呼んでくれて、雨の中、我々は久々の自宅に向かったのでした。

かくして、シンガポールでの2週間のホテルでの隔離生活が終わったのですが、こういう努力のおかげでシンガポールの市内感染はほぼゼロに抑えられています。シンガポールに向かう飛行機に乗る72時間前以内にPCR検査を受け、陰性証明を持っている人しかシンガポールに入国できず、さらに入国時に空港でPCR検査をして、その日のうちに結果が確認できるのにも関わらず、さらに2週間の隔離とその最後にまたPCR検査をするという念の入れようです。(入国前の準備からシンガポール到着、ホテルへのチェックインまでの様子はこの記事の前の記事で書いていますので、そちらを参考にしてください)

このおかげで、2週間の隔離という稀有な体験をすることができました。部屋から一歩も外に出る事なく、部屋の中で過ごした2週間は、忘れることのできない思い出となるでしょう。そして早くコロナが収束し、こんなことが昔話になることを祈っております。
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