まわる世界はボーダーレス

世界各地でのビジネス経験をベースに、グローバルな視点で世界を眺め、ビジネスからアートまで幅広い分野をカバー。

カヌーのスラローム女子カナディアンシングルで金メダルを獲ったジェシカ・フォックス

2021-07-31 18:07:17 | オリンピック
現在開催されている東京オリンピックは、いろんな競技種目があり、各国の選手がそれぞれの夢を叶えようと集まってきています。日本でテレビ放送されているのはほんの一部で、日本選手が活躍しそうにない種目、視聴率が取れそうにない種目は放送もされないし、新聞とかで報道されることもありません。

しかし、日本のマスコミでは報道されない選手にも、いろんなドラマがあり、そういうのを少しでも知ってほしいと思ったりします。もちろん、自分の情報源は限界があり、そんなにいろんな話を知っているわけではないのですが、たまたま自分が知ったことを中心にご紹介していきたいと思います。

7月29日カヌー・スラローム女子カナディアンシングルで、オーストラリアのジェシカ・フォックスが金メダルを獲りました。まずはこの方に関してのお話です。

実は、2016年に仕事でオーストラリアのシドニーに行ったのですが、その時、ジェシカ・フォックスに会っていたのです。たまたま撮影の仕事で、オーストラリアのスポーツフォトグラファーに仕事を依頼したのですが、彼が手配した被写体の一つがカヌーのスラロームでした。

その時まで、カヌーに関しては全く何も知らなかったのですが、カヌーには、スプリントとスラロームという種類があり、それぞれがカヤックとカナディアンという種類があります。カヌーに関しての詳細は、こちらの動画にわかりやすくまとまっているので、こちらをご覧ください。

https://2020.yahoo.co.jp/video/player/2333856

シドニーの西の郊外にペンリス(Penrith)という町があり、そこにPenrith Whitewater Stadiumというカヌーのスラロームの競技設備がありました。



2000年のシドニーオリンピックの時に作られた設備なのですが、それがオリンピック以降、カヌーの練習設備として活用されてきていたのです。



カヌーのスラローム用の設備をその時初めて見たのですが、広大な敷地の中に人工的に作られたものでありながら、激しい渓流を作り出すテクノロジーに驚きました。長さは320メートルくらい、高低差が5.5メートルの渓流が見事に作られています。一般の人も利用できるようですし、ラフティングなどもできるのですが、オーストラリアのカヌー選手はここを練習の拠点にしていたのです。

ちなみにこちらが今回の東京のスラローム設備。オーストラリアに比べると、ちょっと窮屈な感じはしてしまいますね。



カヌーのスラロームの撮影モデルとして、そこにやってきたのは、ノエミー・フォックス(Noemie Fox)というまだ十代の少女でした。今回の東京オリンピックで金メダルを獲ることになるジェシカ・フォックスの妹でした。



ノエミー一人のためだけに、水流がセットされ、何度もスラロームを行いました。間近で見ていたのですが、激しい水しぶきの中を鮮やかに漕いでいくノエミーの姿に感動しました。

途中、クラブハウスでお茶を飲みながら休憩していると、そこに通りかかったのが、ジェシカ・フォックスでした。当時21才でした。その時はすでに、ロンドンオリンピック(2012年)で銀メダルを獲っていて、その年に開催されるリオでも銅メダルを獲ることになる有名アスリートだったのです。

その時はそんなすごい人だとは知りませんでした。ジェシカ・フォックスは1994年の6月11日にフランスのマルセイユで生まれます。父親のリチャード(Richard)は英国人、母親のミリアム(Myriam)はフランス人で、二人ともカヌー選手でした。母親は1996年にフランス代表として銅メダルを獲っています。父親は国際カヌー連盟の2代目のバイスプレジデントで、オーストラリアのカヌーの強化マネージャーを務めています。

そんなカヌー選手一家に生まれ、スラローム施設のすぐそばのペンリス市内に住み、こんな恵まれた設備で思う存分練習できるのでは、メダルを取れて当然だという気がします。

2016年に訪れた時、シドニーオリンピックから16年も経っていたのですが、このカヌー・スラローム設備をはじめ、競技場が素晴らしい状態で維持されていて、市民やアスリートが練習できるようになっているという話を聞いて、さすがだなと思いました。

7月30日のシンガポールの新聞に出ていた記事がこちらです。この日は、卓球のユ・メンユが三位決定戦で負けてメダルを撮れず、前回リオで金メダルを獲った水泳バタフライのジョセフ・スクーリングが敗退したというニュースが大きく扱われていたのですが、そんな中に出ていたのがこのジェシカ・フォックスの金メダルの記事でした。



ちなみにこの記事のヘッドラインのFOX OUTFOXES SLALOM TO WINという意味なのですが、「フォックスが過去の自分に勝りスラロームに勝利」というような意味になります。“outfox”という動詞は、「自分を出し抜く」とか「一枚上手」という意味なのですが、名前が”Fox”なので、この単語を使ったものと思われます。7月27日に行われたカヌー・スラロームの女子カヤックシングルでは、予選ではトップだったジェシカ・フォックスは銅メダルに終わっていたので、カナディアンで獲得した金メダルでリベンジを果たしたということを意味しているのだと思います。

こちらのサイトに、彼女の動画が紹介されていますが、トレーニングの様子、母親がコーチであり、アトランタで銅メダルを獲ったこと、また犬が好きということなど紹介されています。

https://olympics.com/ja/featured-news/olympic-canoe-slalom-tokyo-2020-games-2021-five-things-preview

調べてみたら、カヌー・スラローム女子カナディアンシングルが種目として採用されたのは今回の東京オリンピックが初だったのですね。それまではこの種目は男子しかありませんでした。あまり注目されていないことですが、女子種目が増えて、ジェンダーの平等を進めていることは素晴らしいと思います。
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オリンピック開会式で流れたスーザン・ボイルの「翼をください」英語版

2021-07-29 19:21:16 | オリンピック
東京オリンピック開会式で、ピクトグラムの実演が世界的な話題になりましたが、その直前に上空から紙でできた鳩が舞い降りてくるという演出がありました。バッハ会長の演説に続いて、天皇陛下の開会宣言、そしてオリンピック旗の掲揚の後のことです。

一瞬の静寂があり、青っぽい照明の中で響いてきたのは、スーザン・ボイルが歌う“Wings To Fly”の曲。一瞬我が耳を疑いました。すごい!この曲がここで使われるとは!天空から聞こえてくる澄み切った歌声。それは紛れもなくあのスーザン・ボイル。そして、上空を舞う無数の紙の鳩。私にとっては、この開会式の演出の中で最も甘美なる一瞬でした。歌声はほんのワンフレーズだけだったので、もっと長く続けて欲しかったと思いました。



実は、私は昨年2020年の1月22日に、シンガポールで自分の会社を登記したのですが、その会社名がWings2Fly Pte. Ltd. (ウィングズ・トゥー・フライ・プライベート・リミテッド)で、自分の中でのテーマ曲が、スーザン・ボイルの“Wings To Fly”だったのです。

コロナ感染が世界に拡大する直前のことで、まさか世界がこんな状況になるなどとは思ってもみなかったのですが、大学を卒業してから約40年お世話になった広告代理店を退職し、シンガポールで再びチャレンジしてみようと思いました。遠く離れた異国の市場に、クライアントの願いを届けるための翼に自分自身がなりたいということで、この名前を社名としたのです。

クライアント自身が、わざわざ移動しなくても、私が代わりに翼となり、目指す市場で広告活動の実施をお手伝いしますよというメッセージでした。そして自分に与えた役職が、Chief Navigation Officerというものでした。水先案内人のようなイメージでした。

このようなことを考えながら、検索をしていたら、スーザン・ボイルの“Wings To Fly”に出会ったのです。もちろんこの曲のオリジナルがフォークグループ、赤い鳥の「翼をください」というのは知っていました。こちらが、スーザン・ボイルの“Wings To Fly”の動画です。



若い人はスーザン・ボイルと言ってもご存知ない方も多いかもしれません。ちょっと説明しておきますが、スコットランドで1961年に生まれています(おっと自分より年下でした!)2009年4月11日に放送されたイギリスの素人オーディション番組の「ブリテンズ・ゴット・タレント」に出演し、見かけは田舎のおばさんのような風采なのに、レミゼラブルの「夢破れて」を見事に歌い上げたことで世界中の話題をさらいました。こちらがその時の動画です。



一昔前の出来事ですが、何度見ても感動します。無名の女性が、その才能を世界に認めさせた瞬間です。東京オリンピックの開会式で一瞬流れた曲は、この人が歌っていたのです。

東京オリンピックの開会式にスーザン・ボイルの曲が使われたというニュースは英国のマスメディアで話題になりました。こちらのサイトには、実際のオリンピックの開会式のシーンの動画も引用されています。

https://www.classicfm.com/artists/susan-boyle/unexpected-olympics-wings-to-fly-stole-show/

また、上の記事にも出てきますが、スーザン・ボイルも自身のツイッターで、この“Wings To Fly”の楽曲の使用許可を東京オリンピック委員会から打診された際の喜びを表明しています。



こちらが最近のスーザン・ボイルの写真ですが、随分垢抜けてしまいましたね。



オリジナルは「翼をください」という日本の曲です。もともとはフォークグループの「赤い鳥」が1971年に「竹田の子守唄」のB面曲として発表。作詞は山上路夫さん、作曲および編曲は村井邦彦さんですが、1970年に三重県志摩市の「合歓の郷」(ねむのさと)で開催された「合歓ポピュラーフェスティバル」のために作られた曲です。



私が高校生の頃は、フォークブーム全盛期で、「翼をください」はあちこちで歌われていました。その後、いろんなミュージシャンにカバーされました。1998年サッカーの日本代表がフランス大会を目指す時のテーマソングにもなっていたんですね。こちらの映像も懐かしいです。



フランス大会出場を決めたのは、マレーシアのジョホールバルで行われた試合だったのですが、その時シンガポールにいた私は、この試合を見に行ったのを思い出しました。

その時のことを書いたブログ記事はこちらです。

https://blog.goo.ne.jp/singaporesling55/e/4b37834b72835508d4ea14a6e22e2d7a

この「翼をください」の曲は、劇場版エヴァンゲリヲンにも使われていました。空から降ってくる破片は、開会式の時の鳩のようでもありますね。開会式を演出をした人はこれを意識していたのでしょうか。



この曲はいろんなところで使われていたんですね。オリンピックの開会式の中の一瞬の出来事でしたが、この機会に記録しておかないと記事にするチャンスを逸してしまうと思いましたのでここにまとめてみました。

よろしければ、私の会社のWings2Flyのフェイスブックにもお立ち寄りください。

https://www.facebook.com/wings2fly.co
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オリンピック関係者よ、バッハ会長の演説に学べ!

2021-07-24 19:11:21 | オリンピック

2021年7月23日の東京オリンピックの開会式。直前まで、いろいろとゴタゴタがあり、どうなることかと心配しておりましたが、開会式の映像を見て、感動しました。オリンピック開催にはどちらかと言うと反対でしたが、困難を乗り越え東京に集まった世界各国のアスリートの嬉しそうな笑顔を見ていたら、実現できてよかったと思いました。どんなに非難を受けようが、諦めなかった関係者の皆さんに賛辞を送りたいと思います。また、これに関わったボランティアの皆さん、ありがとうございました。

開会式に関しては、よかったところもあり、悪かったところもあり、いろいろと書きたいところではありますが、話を広げすぎると結局論点がボケてしまうので、一つのことだけに絞って書きたいと思います。

それは、アナウンスで何度も登場した、“Ladies and gentlemen”という呼びかけでした。オリンピックでは伝統的にフランス語と英語が使われますが、フランス語で、“Mesdames et messieurs”と言った後に、“Ladies and gentlemen”が来るというのが慣例でした。

前に「ノンバイナリー」の時代の英語表現に関して、触れたのですが、ダイバーシティやインクルージョンが重要なオリンピックやパラリンピックでは、“Ladies and gentlemen”はもう使われないのではないか、それをするとしたらこの東京2020が非常によいタイミングだと思っていました。しかし、残念ながら、それは実現しませんでした。



日本の国歌を歌ったMISIAさんの虹色の衣装は明らかにLGBTの「レインボーフラッグ」を連想させるものでした。今回のオリンピック・パラリンピックは「多様性と調和」がテーマになっていて、性的少数者(LGBT)だと公表した史上最多の選手が出場しているのだそうです。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/118827

このような時代にあって、“Ladies and gentlemen”という言葉を世界中に発してしまった東京オリンピックは、世界中から冷ややかな目で見られてしまうのが残念です。せっかく困難な状況を乗り越えて実現されたオリンピックという伝説ができつつある中で、このような汚点を残してしまうのを悲しく思います。誰かアドバイスできなかったのでしょうか。

2020年10月1日から、JALが空港や機内のアナウンスで“Ladies and Gentlemen”という表現を止めるというのがニュースになりました。東京ディズニーランドとシーの園内アナウンスも、2021年3月18日から“Ladies and Gentlemen, Boys and Girls”長年使っていた表現を取りやめ、「Hello Everyone」など性別を特定しない文言に変更し、性的マイノリティーの来園者などにも配慮した表現にしています。欧米では、すでに数年前から、公共交通機関で“Ladies and Gentlemen”という表現は廃止しているところも多いと聞いています。

今回の開会式で、バッハ会長の演説が長すぎたと非難を浴びていますが、バッハ会長の演説の出だしは、伝統を踏まえた上で、LGBTにも配慮した素晴らしいものでした。彼は、こんな感じでスピーチを始めます。

“Your majesty, the Emperor, dear athletes, dear Prime Minister Suga Yoshihide, dear governor Koike Yuriko, dear president of the organizing committee and fellow Olympian, Hashimoto Seiko, your excellencies, dear Olympic friends, welcome to the Olympic Games Tokyo 2020.”

天皇陛下、管首相、小池都知事、橋本オリンピック委員会会長など、列席されている方々の名前を並べるのは、英語のスピーチの定型ですが、最後に“your excellencies”ときたら、“ladies and gentlemen”と来るのが通例でした。それをバッハ会長は、“dear Olympic friends”と繋げます。

これは素晴らしいと思いました。“dear friends”というと、バッハ会長のことを快く思っていない人たちは、「あなたに友達と呼ばれる筋合いはないよ」と思ってしまいます。最近はバッハ会長のことを非難する人も多くいましたので、こう思う人は相当数いたと思われます。

ところが“dear Olympic friends”と言えば、バッハ会長の友達でなくとも、オリンピックを通して繋がっている全ての人というような意味になります。参加しているアスリートもそうだし、関係者やボランティアの人もそう、そして世界中でテレビを視聴してオリンピックや自国の選手を応援しているすべての人々が含まれます。

バッハ会長のスピーチのこの部分に着目している人はあまりいないと思うので、これは自分で解説しないといけないと思いました。バッハ会長のスピーチはちょっと長すぎたかもしれません。しかし、この導入の部分だけとっても、バッハ会長が“Ladies and gentlemen”を使わずに、オリンピック精神に則り、性的少数者にも配慮したという姿勢にスタンディングオベーションをしたいと思います。

オリンピック委員会の皆さん、この後、続く閉会式や、パラリンピック関係者の皆さん、まだ時間はありますので、この件、一刻も早く議論していただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
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“Quarantine”(検疫)という言葉の語源はイタリア語の40日間!

2021-07-22 19:32:55 | 新型コロナウィルス
2020年からのパンデミックにおいて、国境を超えて世界に「蔓延」した言葉はいくつかありますが、“quarantine”という言葉はその代表です。日本語では、空港や港湾などで「検疫」と訳されていて、「植物検疫」、「動物検疫」などのように、以前から使われていました。

英語では、“quarantine”と呼ばれます。フランス語で“quarantaine”、スペイン語で“cuarentena”、ポルトガル語でも同じく“cuarentena”、ドイツ語で“Quarantäne”、デンマーク語で“karantæne”、スウェーデン語でも“karantän”、ロシア語でも“Карантин”(発音はカランティンのような感じ)、マレー語でも“kuarantin”、インドネシアでも“karantina”。これ以外にもいろいろとあるのでしょうが、ほとんど同じような音です。元のルーツはイタリア語の“quarantena”。実はこれはもともと「40日間」を意味する言葉だったのです。

イタリア語で数字の40は“quaranta” (クワランタ)。ほぼ“quarantena”です。これが今、世界中で同じ意味で使われている。なぜ検疫のルーツがイタリアなのか、なぜ40日なのか、ちょっと不思議に思われるかもしれませんが、そのあたりを解説していきたいと思います。

なぜ検疫のルーツがイタリアなのか?

話は14世紀に遡ります。ベニス(ヴェネツィア)は地中海貿易のハブとして栄えます。その前提として、十字軍や、モンゴル帝国、その成果としてのシルクロードを経由しての東西交易などがあるのですが、まさにグローバリゼーションの時代でした。マルコ・ポーロ(1254ー1324)はベニスの商人でしたが、絹や、香辛料などヨーロッパでは珍しかった東洋の産物が船で運び込まれる港がベニスだったのです。

東洋の産物だけでなく、感染症も持ち込まれました。14世紀から数世紀に渡って幾度となく感染拡大を繰り返し、ヨーロッパ全土に蔓延したいわゆる黒死病(ペスト)も、イタリアを経由してヨーロッパ各地に広がりました。

シルクロードを通って、エジプトや、トルコや、地中海東岸から多くの船がベニスに到着するのですが、黒死病の水際対策として取られた対策が40日間の検疫でした。感染の可能性のある船舶は、ベニスの港に入る前に40日間の停泊が義務付けられたのです。

ウィルスの実態もわからず、治療法もわからなかったのですが、40日間検疫をすれば、感染拡大を防げるということは当時の人々も理解をしていて、これが検疫システムとして、徹底して行われることになります。これが、英語の“quarantine”の語源になったのです。

なぜ40日なのか?

検疫のシステムを作ったのは、ベニスだけではありませんでした。今のクロアチアにドブロフニクという風光明媚な都市があります。ここも東洋交易の拠点でした。その昔、ダルマチア国のラグーサ(Ragusa)と呼ばれていたのが今のドブロフニクです。



ラグーサ市内での感染を予防するための水際対策として、陸路で来た旅行者はCavtat(ツァウタット)という町で、船舶は近くのMrkanという島で、30日間の検疫を受け、30日を過ぎて問題なければラグーサの市内に入れるというシステムでした。

ベニスでも同様のシステムで展開され、15世紀には、検疫だけでなく隔離治療する施設が、ラザレット・ヴェッキオという島と、ラザレット・ヌオヴォという島に作られました。





ベニスでは、水際対策を強化するために30日ではなく、40日となるのですが、これにはキリスト教の影響が大きく関わっていると言われています。

40という数字は、聖書の中にたびたび現れるマジックナンバーだったのです。ノアの方舟の話で、雨が降り続くのが40日、イエスキリストが荒野での断食を行う期間が40日と、いろいろと40日が出てきます。また、キリスト教の四旬節(レント)というのがありますが、灰の水曜日からグッドフライデーを経て、イースターまでの期間が40日となっています。おそらくこれらに合わせて40日としたのではないかと言われています。

日本語の「検疫」と“quarantine”の意味の微妙な乖離

日本語では「検疫」と訳されているのですが、「検疫」というとニュアンス的には一時的な検査の感じが強いです。PCR検査とか、検査という行為に重点が置かれているような感じです。隔離という行為はそれほど含まれておらず、隔離が必要な場合は、「ホテル隔離」とか「自主隔離」というふうに使われています。「検疫」という概念は一時的なもので、そこを通過してしまえば後は大丈夫という雰囲気でとらえがちです。

ところが英語の“quarantine”は、もともとの意味に「40日間」という期間が含まれていることからもわかるように、検査だけではなく、隔離という意味も含まれています。いろんな国で行われている“quarantine”はホテルなどの施設に一定期間閉じ込められ、その間に病気が発生するかどうかを見極める、それにより、不用意に感染が広がらないようにするという対策を意味しています。検査と隔離がセットになっている概念なのですね。さらにその単語は名詞でも使われるし、動詞としても使われるので、いろんな使われ方が可能です。

日本で水際の感染予防対策が徹底していないように思えるのは、このへんの言葉の意味の違いによるところがあったのではないかと言う気がしてなりません。日本が“quarantine”を「検疫」ではなく、日本人の好きなカタカナ語の「クォランティーン」としていたら、水際対策の意識も異なり、感染状況も多少違っていたのかもしれないと思ったりもしますが、今更の話ですみません。
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母校の校庭で静かに時代を見守る楷の木

2021-07-17 19:00:04 | 故郷
私の母校の愛知県立成章高校は愛知県の渥美半島の田原市(以前は渥美郡田原町と呼ばれていました)にあります。豊橋鉄道渥美線の終着駅の三河田原の駅から、1キロくらいの距離、標高約250メートルの蔵王山の麓にある高校です。

文武両道の県立高校ですが、高校野球の春の選抜には過去2回出場しており、私が高校在学中に一回目の出場を経験しました。現在ヤクルトスワローズで活躍している小川泰弘投手はこの高校の卒業生(高61回)で、21世紀枠で春の選抜に出場しました。それが二回目でした。

芸能関係では、オアシズの光浦靖子さんや、大久保佳代子さん(ともに高42回)がこの高校の卒業生です。その他、音楽関係、美術関係、書道関係、演劇関係、政治経済界などで活躍されている卒業生は多数おられます。

農業では生産高が日本でトップクラスでありながら、トヨタに代表される自動車産業の工場もあり、工業生産高でも愛知県内でも上位の自治体になっています。観光地としても有名ですが、太平洋岸はサーフィンの世界大会も開催されています。服部勇馬選手を擁するトヨタ陸上長距離部も田原市を拠点としています。

愛知県立成章高校は、1810年(文化7)にできた田原藩の藩校にルーツを持つのですが、1811年にその藩校は「成章館」と名付けられました。明治4年に廃藩置県で廃校となるのですが、明治34年(1901年)に成章館が再興されます。それが成章高校の学校創立の年とされています。

2021年の今年は、創立120年を記念してオオタザクラが植樹されました。植物画家(ボタニカルアート)の太田洋愛さん(この方も成章の卒業生です。中11回)にちなんで名付けられた八重桜です。こちらの動画にオオタザクラおよび太田洋愛さんのことが説明されています。



前書きが長くなりましたが、今回ご紹介したいのは、オオタザクラではなく、今から10年前、創立110周年を記念して植えられた「楷の木」(かいのき)のことです。たまたま2011年に行われた、110周年の記念式典のパンフレットがあったのですが、これに出ていた写真がこちらです。



その文章には「孔子にゆかりのある中国原産の珍木」で、「学問の木」と呼ばれていると書かれています。

楷の木はウルシ科カイノキ属の落葉高木で、秋には紅葉します。同じウルシ科のピスタチオとは同属とのこと。中国では、楷木、奥連木、黄連木と呼ばれ、台湾では欄心木(らんしんぼく)、和名は「ナンバンナゼノキ」または「トネリバハゼノキ」なのだそうです。

今から約2500年前、中国の春秋の時代、儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、多くの子弟に見守られながら世を去り、山東省曲阜の泗水のほとりに埋葬されました。弟子たちは3年間の喪に服した後、墓所のまわりに美しい木々を植えました。孔林という名前で今も残っているそうです。弟子の中で最も師を尊敬していた子貢(しこう)は、さらに3年、小さな庵にとどまって喪を続けました。子貢がその庵を離れる時に植えたのが、楷の木だったと言われています。

この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に残っています。その後、「楷の木」は科挙の試験の合格祈願の木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』とも言われるようになったのだとか。

それまで楷の木は日本にはなかったのですが、大正4年(1915年)、当時、農商務省林業試験場の初代場長であった白沢保美博士が中国を訪れ、孔子の墓所から「楷の木」の種を採取し、日本で育てました。その後、湯島聖堂、足利学校、閑谷学校、多久聖廟など、孔子や儒学にゆかりのある学校に寄贈されたのが最初だそうです。

岡山県の閑谷学校(しずたにがっこう)の楷の木が最も大きく育っているそうです。実は、成章高校の110周年に植えられた楷の木は、岡山の閑谷学校から貰い受けたものというのを成章高校の関係者の方から伺いました。孔子の時代から綿々と繋がる由緒正しい楷の木だったんですね。

1670年に岡山藩主池田光政(みつまさ)が日本初の“庶民のための公立学校”を創立。谷深き地に建てられた学校は閑谷学校と名付けられました。講堂は国宝にもなっているのだそうです。

こちらが岡山県の閑谷学校の楷の木の動画です。



愛知県立成章高校の「成章」の名前は、実は、論語の中に登場する「斐然成章」という言葉に由来します。戦乱の絶えない春秋の時代、各地を放浪する孔子とその弟子たちですが、楚の昭王が亡くなった後に出てくるのがこの言葉です。

この箇所に関して、井上靖さんの「孔子」からその箇所を引用させていただきます。

いま、自分の胸は一つの想いでふくらんでいる。先刻、昭王の柩をお送りしたあと、あの夜道を歩いて、ここに来るまでに、私の胸に生まれ、ふくらみ、溢れるほどいっぱいになった思いがある。それを披露する。

こう仰言って、それから暫く、真暗い夜空を仰ぐようにして、ご自分の胸の想いを整理していらっしゃる風でしたが、やがて口をお開きになりました。

——— 帰らんか、帰らんか。
  我が党の少子、
  狂簡(きょうかん)にして、
  斐然(ひぜん)として章(しょう)を成すも、
  これを裁するゆえんを知らず。

二回、ゆっくりと口からお出しになり、それから、ご自分で、それを日常の言葉に置き換えられました。

——— 帰ろうよ、さあ、今こそ帰ろう。
  わが郷党の、魯(ろ)に遺(のこ)して来た若者たちは、
  みな大きな夢、大きな志の持ち主、
  みごとな美しい模様の布を織り上げてはいるが、
  仕立てるすべは知らないのだ。

それから、子は、
——— みんな、私を必要としている。帰ろうよ、さあ今こそ帰ろう。彼等の進むべき道を決めてやらねばならぬ。
と、仰言いました。

斐然(ひぜん)として章(しょう)を成す、というのは、見事に、美しい模様の布を織り上げているということ、つまり学問の基礎がしっかり身についているというような意味になるのですね。

岡山の閑谷学校から贈られた楷の木が成章高校の敷地に植えられたのは2011年のことでした。東日本大震災の年でしたが、あれから10年、あんなに頼りなかった苗木が、大きく育ちました。一番上の写真の中央の木が今年の楷の木の姿です。成章高校の関係者の方から送っていただきました。もうこんなに大きくなっていたんですね。と同時に10年の月日の歴史を感じざるをえません。

2011年、私はそれまで、シンガポールに10年、香港に4年駐在していたのですが、2011年に東京に帰ってきました。帰国後1週間後に東日本大震災を経験するのですが、フェイスブックを始めたのがちょうどその頃。成章高校の関東支部の関東成章会の総会の年次幹事にもなっていたので、フェイスブックを同窓会組織のために立ち上げたのが2012年でした。

この10年の間に、再びシンガポールに赴任したり、インドの会社を独資化したり、会社を退職して、シンガポールで起業したり、コロナが世界に蔓延して、これまでの世界が全く変わってしまったり、語りつくせぬことが、いろいろとありました。

楷の木は、すくすくと育っています。これからも私たちの歴史を見守ってくれているのでしょう。
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