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旅行記、世相独言

アンデルセン童話を生んだ街 -オーデンセ-(異文化体験20 童話の国の旅2)

2012年02月25日 16時54分18秒 | 異文化体験_北欧
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アンデルセン童話を生んだ街 -オーデンセ-  1994.9.6~9.9

      
(左)右からスカンジナビア半島、シェラン島、フェン島、ユトランド半島    (右)フェン島のパンフ

 ユトランド半島とスウエーデンの間のシェラン島に位置するコペンハーゲンから半島寄りの隣の島、フェン(Fyn)島に位置するオーデンセ(Odense)まではデンマーク国鉄(DSB)の列車の旅。

 
(左)デンマーク国有鉄道(DSB)網          (右)動輪、羽、王冠からなるDSB徽章 

 コペンハーゲンを出てシェラン島の西端Korsфr(コルソー駅)からはフェリーで海を渡る。列車ごとフェリーに積み込まれ、フェン島のNyborg(ニューポー駅)から再び列車でオーデンセに向かう。

 
(左)コルソー駅のフェリーの甲板から撮影     (右)フェリーに積み込まれた列車

 
(左)フェリー内の案内看板  (右)ストアベルト沖合の両島を結ぶ建設中の橋(写真をクリックして下さい)

 両島の間をストアベルト(大海峡)と現地では言うが、現在両島を結ぶ橋とトンネルが建設中でフェリーからもその橋が見える。3年後の1997年に完成予定だそうだが、完成すると約1時間の列車の船旅が、わずか10分で結ばれるようだ。  


      
(左)オーデンセの会議場兼宿舎「ホテル・アンデルセン」  (右)オーデンセの地図 

 オーデンセの会議場兼宿舎のホテル名はアンデルセン。当地最大のホテルに夕刻チェック・インし会議登録も行う。今夕は歓迎レセプションである。

 
(右)童話の世界を巡るツアー出発点の市庁舎前広場  (右)アンデルセン生家近くの街の景観

 デンマーク第3の都市オーデンセは、かつて造船で栄えた町。緑豊かな自然と赤褐色の瓦屋根の家々が落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 7日のプログラムは、理事会メンバーのための徒歩によるオーデンセの街の見物。市庁舎から始まって、この市が誇る世界的に有名な童話作家アンデルセン(H.C.Andersen)の生家や幼少の家、博物館など、童話の世界を巡るツアーである。

      
(左)アンデルセンの生家、博物館になっている    (右)会議お土産の童話集(各国版を用意)

 1805年貧しい靴職人の子として生れた家が現在修復されて博物館として利用されている。また、2歳から14歳まで過ごした小さな貧しい家も作家ゆかりの品々が展示されている。 
 アンデルセンは非常に洞察力の鋭い人だったようだ。目で見た印象を素早く絵で表現する能力もあり数々のスケッチ、絵画も残されている。ちなみに理事会のお土産は各国語に翻訳された彼の6つの童話集であった。(マッチ売りの少女、皇帝の新しい着物、親指姫、モミの木、空とぶトランク、父さんのすることはいつも良し)。

 ツアーの締め括りのレストラン「Den Gamle Kro」

 ツアーの締め括りは、創業1683年の「Den Gamle Kro」というレストランで昼食・解散。


        
(左)1200年頃建設のNyborg城          (右)お城の案内パンフ表紙

 
(左)城の庭で中世の騎士による格闘デモンストレーション(参考写真) (右)今宵のディナー・メニュー

 今宵はNyborg城を借切ってのディナーパーテイ。食事の前にかがり火の焚かれたお城の庭で中世の騎士によるパフォーマンスを楽しむ。1200年から1549年にかけて順次増設されたお城である。


 翌8日午前は理事会。IGUのR新会長の初めての理事会である。
 ホテルでのIGU理事会風景


 役割のない午後は、お城の好きな同行者とEGESKOV SLOT(イーエスコー城)を訪れる。
        
(左)それほど大きくはないが綺麗なEGESKOV SLOT(イーエスコー城) (右)お城の解説

 1554年完成の小さな湖の中に建つお城は公園とあわせて15haの広さ。樫の木の森の木を全部使用したという杭の上に建設されたお城は部屋数66室、バスルーム6室を有し、優雅な姿を湖面に映し出している。

 
(左)EGESKOV SLOT(イーエスコー城)を背景に      (右)綺麗に手入れされた庭園

 フェアウェルパーティは、郊外のレストラン。JGA事務局長席がJGA代表者席より上席となっており、慌てて変えて貰おうとしたが皆着席し始めており、時既に遅し。
 国際的な団体の事務局長という職は、日本での理解とは異なり極めて重職なのである。従って、小生は日本の業界のナンバー3という位置づけになり、たまに出向もとの社長より上席になる場合があるので、要注意である。
 日本の総理大臣がころころ変わる昨今、国際会議における席順は、さぞかし外務省の人間が会議事務局と必死にネゴをしていると思われる。当然、何度も顔合わせしている間柄が優先されるのは西も東も一緒である。

 フェアウェルパーティー(午後7-11時半まで同じ席で延々と)

 例によって延々と続くパーティ。翌日早く帰る組は徐々に退席を始める。我々も翌朝7時半の飛行機でコペンハーゲン経由パリに向かうことになっている。同行の氏とぼつぼつ引き上げるかとアンデルセンホテルに戻ったのは、午前零時。

 翌9日は、生憎の朝からの雨。小型のオーデンセ発コペンハーゲン行きの飛行機は理事会出席者で貸切状態。アンデルセン一色の印象深いオーデンセの理事会であった。




人魚姫との再会-コペンハーゲン-(異文化体験20 童話の国の旅1)

2012年02月18日 12時37分48秒 | 異文化体験_北欧
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 今回の旅は19日間といささか長い。欧州から中国を巡る出張である。一度日本に戻って、とも考えたが、欧州から戻って翌日また中国へというのであれば直行する方が楽と判断し少し長い出張となった。異文化体験20「童話の国の旅」と同じく21「改革解放の国の旅」として紹介する。


人魚姫との再会 -コペンハーゲン-  1994.9.6

     
(左)コペンハーゲンMAP(JAXAより)        (右)シェラトン・コペンハーゲン

 9月5日に成田を発ち、ロンドン経由で夜の10時過ぎにコペンハーゲンのシェラトン・ホテルにチェックイン。オデンセで開かれるIGU(世界ガス連盟)理事会への出席が目的である。

           
(左)マルガレーテ女王_1992(右)ストロイエ通りをコンゲンス・ニュートー広場へ向う近衛兵の行進_ポール・フィッシャー1925

 13年前の1981年に初めてコペンハーゲンを訪れた時には、JALの直行便があったが今は飛んでいない。デンマーク皇室は、日本の皇室とも親交があり、国民からの愛され支持されている。

  平坦な国土、省エネと健康づくりで自転車通勤

 朝のホテルの窓から見える街の通りには、リュックを背負った沢山の若者達が自転車を結構なスピードで走らせている。山のない国だけに省エネと健康を兼ねた交通手段として見直されているのだろう。
 午後のオデンセ行きの列車まで、コペンハーゲンの街を散策、タクシーの運転手に主要な名所を効率よく周ってもらうように交渉する。

      
(左)北欧神話の女神ゲフィオンの噴水   (右)市庁舎前Dragon_Fountain(1981年訪問時)

 最初に立ち寄ったのが、城塞の中にあるゲフィオンの噴水。北欧神話の女神ゲフィオンはスウエーデンの大地を掘ってシェラン島を創ったという言い伝えがある。
 噴水といえば、市庁舎前にも噴水がある。初めて来た時はストロイエ通りでの大捕物騒ぎと、この噴水(Dragon_Fountain)が非常に印象深く残っている。

 人魚姫の像(思った以上に小さな像)

 ランゲリニエ埠頭近くの波打ち際の岩の上に、世界的に有名な人魚姫の像がある。見落としてしまうほどの小さな像である。1837年に発表されたアンデルセンの「人魚姫」の物語を題材に1913年に彫刻家エドワード・エリックセンが製作、ビール醸造業者が市に寄付したものだそうだ。スンド海峡へと続く港の入口の方を物悲しそうな顔で見つめている人魚姫は、デンマーク人の国民性を表しているとも言われているようだ。


 
(左)王宮として使われているアマリエンボー宮殿   (右)16世紀のローゼンボー城                   

 
(左)ローゼンボー城 ルイーゼ王妃の像を掲げる間  (右)現国会議事堂のクリスチャンボー城

 市の中心部の方に戻り、1794年以来王宮として使われている八画形の内庭を持つロココ調のアマリエンボー宮殿を経て、広大な王立公園の中にあるローゼンボー城に立ち寄る。クリスチャンⅣ世が建てたルネッサンス様式の建物で、16世紀に建てられ今日まで外観をそのままに残している唯一の建物である。王の庭を散策すると椅子に腰掛けて見る者に語り掛けるようなアンデルセンの像にもお目にかかれる。その後、アマリエンボー宮殿以前に王宮として使用され、現在国会議事堂となっているクリスチャンスボー城を経て、チボリ公園前でタクシーを捨てる。

 1843年開園のチボリ公園 TIVOLI 逆は I LOV IT

 チボリ公園は欧州随一の公園で、TIVOLIのスペルを逆に綴ると「I LOV IT」となる。1843年8月15日に開園されたこの公園は、ゲオー・カーステンセンによって創設されたが、創設当時は必ずしも評価されず、文化人仲間にも入れて貰えなかったとか。開園後は海外に身を置き、母国に戻った時には一入園者として入場料を払わなければならないほど、忘れ去られた存在となっていたようだ。150年の間に3億人の人を迎え入れている。

アンデルセン坐像 これからいざ、生地オデンセに!

 11時から24時までの開園時間は、日本のテーマパークとは明らかに違う欧州人が好むチボリのコンセプトに符合したものと理解できる。開園間もない公園内はひっそりとしており、わずか30分ほどの滞在で、オデンセ行きの列車に乗るため、駅に向かう。




マラソン・スケート競技 -デン・ハーグ- (異文化体験7 世界一周の旅3)

2010年07月07日 23時34分16秒 | 異文化体験_北欧
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マラソン・スケート競技 -デン・ハーグ-  1985.2.21~22


 ストックホルムを午後飛び立ったKLMオランダ航空機は、夕刻スキポール空港に着く。
機内アナウンスで「200km、スケーティング、22年」等々の断片的な言葉がブンブンうなるエンジン音に混じって聞こえてくる。何を言ってるのか良く分からないまま、ハーグのプロムナードホテルにチェックイン。

デン・ハーグの宿舎「プロムナードホテル」


    
(左)オランダ地図      (右)Elfstedentochtの11の市町村(左地図北部のLeeuwardenの位置を参照)


 ホテルロビーに設置されたTVの前は黒山の人だかりで、画面には運河を利用したスケート競争が放送されている。実はこれはオランダ最北部フリースランド地方の11の町や村を凍結した運河や川、湖沼、池等を利用して周遊する200kmに及ぶ長距離マラソンスケート競技「Elfstedentocht」である。22年間暖冬で中断していた競技が今年の寒波が幸いし、実に1963年以来22年ぶりに開催されているのである。

 競技の様子(Elfstedentochtのホームページより)

 国中が大変なお祭り騒ぎである。午前5時にスタートし、優勝者は既にお昼にはゴールインしたらしいが、数万人に及ぶ参加者がゴールインするのは午後10時を過ぎるのではないかと放送している。参加者の家族、知人等が22年ぶりの競技にTVに釘付けとなり、ほとんどの店は店を閉め、休日状態である。どうりで街が閑散としているわけである。

 マラソンスケート競技会のメダル


 Den Haag(デン・ハーグ). 伯爵の生垣という意味だそうな。13世紀、オランダの国名の由来となったホラント伯爵の狩猟地であり、政府官公庁、大使館等がその時以来集まって、オランダの首都ではないがほとんどの公的行事はここハーグで行われている。
 市内にはフェルメールの代表作「真珠の首飾りの少女」を収蔵するマウリッツハイス美術館やグラフィックアートのエッシャー美術館、平和宮(国際司法裁判所)、更に近郊にはライデン、シーボルトハウス、KLM機内で貰ったデルフト焼きの古都デルフト、等々見所も多い。

  
 (左)平和宮(国際司法裁判所)            (右)フェルメール「真珠の首飾りの少女」

 夕食は数少ない開店している海鮮料理屋に足を運ぶ。マラソンスケート競技のお陰でレストランのお客はゼロ。貸切である。お店の前に魚、海老、貝類等、その日すぐそばの海岸の市場から仕入れたネタがいっぱい並べてある。みつくろいで串刺しや嬉しいことに塩焼きまでやってくれる。なんせ貸し切り状態だから、そのメリットを最大限活用、知らず知らずのうちに食欲も進み、気付いた時はテーブルのローソクも燃え尽きていた。
 デザートにお隣の国のベルギーのチョコが出た。貝の形を精巧に模った白と茶のツートンカラーのチョコである。空港に売ってるからお土産に良いよとマスターが薦める。確かに日本ではまだ売っていない。結局、空港で2箱買ったが木箱に入った結構場所を取るお土産となった。

 オランダと言えばデルフト焼き。KLM機内ではお土産に家の形の焼き物をプレゼント


 食後、夜の町に繰り出すが、マラソンスケート競技の余波で9時だというのにゴーストタウン。所詮、政治都市である。予定ではここに2泊することになっているが、これでは面白くない。明日はアムステルダムに行って泊まることに予定を変更。アムスまではわずか63kmである。
 そんな相談をしている居酒屋は、薄暗いランプの明かりの中に我々以外に一組のお客が見出せる小さな店。カンパリをジュースで割ったカンパリオレンジがいま流行っているので一度試してはというような話をしていると、10代と思しき女の子が数人入って来た。奥のビリヤード台でゲームを始めた。珍しい東洋人にちらちら視線を向けるが、それ以上の進展もなくホテルに戻る。

 マラソンスケート競技の中継は、まだ延々と続くハーグの夜であった。



            マラソンスケート競技会・Elfstedentochtの昔の写真
 2009年に1963年大会を素材に映画化され、そのポスター。

〔参考:Elfstedentochtについて〕
 11市周遊アイススケートマラソン大会は、公式には1909年から優勝者記録がある。
1985年の優勝者はEvert van Benthem氏で所要時間6時間47分。レース競技出場者が約300人、周遊ツアー目的参加者が約1万6千人、開催には最低15cmの厚さの丈夫な氷が必要で、毎年フリースランドの人たちは、今年は出来るか?とやきもきするそうだ。1985年以降開催された年は、1986年、1997年である。2009年にはこの大会を題材にした映画が制作された。題名は「DE HELL VAN ’63」。



迷路の館 - アムステルダム - (異文化体験7 世界一周の旅4)

2010年07月06日 11時25分15秒 | 異文化体験_北欧
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迷路の館 -アムステルダム-  1985.2.22~23


 オランダ経済省の訪問を終え、左右に風車を見ながらハイウェイを一路アムステルダムに向う。ホテル・オークラにチェックイン後、早速夕刻の町の探訪を始める。

  
  (左)ホテル・オークラ・アムステルダム      (右)オランダといえばダイヤモンドの世界的集散地


  
  (左)街中にはハイネケンの工場も     (右)街にはりめぐされた運河は氷結しているが、一部融けている所も

 160の運河と1000以上の橋が、北のベニスと呼ばれるこの街の景観を盛り上げる。市電の走るライツェ通りやスピーヘル通り界隈をぶらつき、民芸木靴や木製のワイングラスを購入。世界的に有名なダイヤモンドのウィンドショッピングやハイネケンの工場を遠目にしながら3kmの道を再びホテルに引き返す。市内の運河だけに氷は所々溶け始めており、それでもスケーターは安全な場所を選んで楽しんでいる。しかし、中には溶け始めた氷の割れ目から水中に落ちる頓馬なスケーターもあとを絶たぬとか。


 レストランFive Flies (D_VIJFF_VLIEGHEN)の入口棟(左5棟が一体レストラン)

 夕食は「Five Flies」(「5匹の蝿」)という名のレストラン。1627年のオランダ建築をそのままにルネッサンス様式の家具で囲まれた7つのダイニングルームを有するレストランである。5匹の蝿という名前は、このレストランが外見上5つの連なった館で構成されることからきた名前なのだろう。

  
(左)レンブラントのエッチング画が残されたレンブラントの間 (右)トレードマークの5匹の蝿

 食後、満員の7つのダイニングルームを見学させて貰う。迷路さながらに2階に上がったり、狭い廊下の先に大きな部屋があったりで、まあその広いこと。他のお客は一体この東洋人達は何をしているのかといった目つきで我々を見る。出口を見失った我々はウエイター氏のお世話になって無事店外に脱出出来た。
入口から想像できない空間の広がり、中世欧州の建物は京都の町屋を連想させる。

   
   レストランの御由緒書 左の表紙の絵の通り5連棟のレストラン(入口は右端)



 レストランを後にした我々は、夜の歓楽街「飾り窓の女」のいるライツェ、レンブラント広場一帯を散策する。いる、いる。通りに面した建物の1階1坪ほどの小部屋に、様々な色の蛍光灯で照らし出された下着姿の女の子。白人に混じって黒人の女の子もいる。客待ちもいれば値段の交渉中のもいる。カーテンの引かれている部屋は目下進行中。夜目、遠目、笠の内とは良く言ったもの。何やら欲情をそそる怪しげな雰囲気が辺りに充満している。興味がありながら、なさそうな顔で目だけはしっかり彼女達の裸身を捉え通り過ぎる。欧州のビデオは日本ではそのまま再生出来ない。アダルトショップのお兄ちゃんが、「2本だけ日本式のが残ってるよ!」と言葉巧みに誘う。かつて放棄同意書を書いたことのある小生。立ち読みが一番。

  
  (左)夏の飾り窓界隈の風景(参考)            (右)飾り窓の女 ざっとこんな感じ

 翌朝、国立美術館にレンブラントの絵を訪ねる。最大の作品「夜警」は大きな部屋に単独展示されている。全体に暗い色調の中、躍動美を感じさせるこの作品は、永らくその複製画が我家の応接室を飾ることになる。

 
   (左)国立美術館        (右)レンブラントの代表作「夜警」、永らく複製画が我が家のリビングを飾る

 アンネ・フランク・ハウス。アンネの日記で一躍世界的に有名になった舞台である。アンネがナチの執拗な迫害から身を守るため1942.7~1944.8の発覚まで隠れていた家は現在アンネ・フランク財団によって保存されている。迷路のようなこの隠れ家は1635年の建造。

 
(左)アンネ・フランク・ハウス  (右)アンネとその日記(財団HPより)


 当時建物の価格が表通りの間口幅で決められたので、人々は奥行きを深くすることで広さの確保を図ろうとしたようだ。このため、アムステルダムの古い街並みは間口の狭い、それでいて奥行きの異常に深い建物が立ち並んでいる。この種の家は採光のため、中庭をはさみ表の本館と裏の別棟(ANNEXという)を渡り廊下で結ぶ形式のものが多い。

 Anne Frank Huis, Five Flies等々, 「迷路の館」の謎のムックである。



初体験は痛いもの? -ストックホルム- (異文化体験7 世界一周の旅2)

2010年06月27日 17時11分03秒 | 異文化体験_北欧
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初体験は痛いもの? -ストックホルム-  1985.2.19~21

夏のストックホルム旧市街(絵葉書より)


 またしても冬のスウェーデン、しかも今年のスウェーデンは前回と違って強烈な寒波の真最中である。

 ストックホルムの街の北東の公園に一際聳え立つ150m高さの放送タワーがある。名をカクネスタワーと言い国営TVと市とが管理している。空港からそのタワーに直行する。

  
  150mのカクネスタワー(放送タワー)とタワーからの白銀世界の眺望

  
                  冬の白銀の世界(左)と夏の森と湖の世界(右:参考写真)


 冬のこの時期、展望台に来る物好きは我々以外にいるはずもない。しかし、ここから見下ろす銀世界一色の景色は圧巻である。メーラレン湖、サントショーン湖、バルト海等の湖沼海と真下の公園に続く街並みが、境界のない白一色の一体世界を創りだし、その間に針葉樹の森、一筋の足跡、かなたの街並み等をはさんで、澄み切った北欧の空とが絶妙なコントラストを描いている。

 街の高台から見渡した景色、寒さに慣れず5分が限度

 案内役の髭のおじさんがソルトショーン湖をはさんで市の中心街を見渡せる高台も、最高の景色を見ることが出来ると薦めるので早速行ってみる。流氷に覆われた水面には船が通った跡をしのばせるクラックが入り、市街地が澄み切った空にくっきりと浮かんでいる。なんとも旅情を掻き立てる風情なのだが、ものの3分も立っていると足の先から凍っていくのではないかと恐怖感が沸いてくる。最年長のN氏はいち早く車に戻って手を擦り、足踏み状態。


 多くの湖沼を持ちバルト海に面したスウェーデンは、1600年代初頭強大な勢力を誇っていた。当時建造された戦艦ヴァーサ号は処女航海への出航直後に突風に襲われ、あえなく沈没。その後海底に眠ること330年、1961年海底から引揚げられ、ほぼ当時の姿のままで博物館に展示されている。現存する世界最古の完全船である。一人用の海中ステーションとでもいうべき鉄のお椀に空気を送り込み作業をした当時のサルベージ技術にも興味は尽きない。

 
            1631年突風で出航直後に沈没する様子と引き揚げられたヴァーサ号

 メーラレン湖に面した市庁舎は、1923年に建造され「黄金の間」の正面の壁に「メーラレンの女王」が金のモザイクで描かれており、壁面の金箔と床のブルー大理石のコントラストが異様な雰囲気を生み出している。この広間でノーベル賞受賞祝賀パーテイが開催される。

 市庁舎前の湖は一面氷結し、スケートする人も。

   
     有名な市庁舎内「黄金の間」、ノーベル賞の受賞記念パーティ会場となる


 夕刻、ホテル周辺の散策と前回買い忘れた1600年代の海図を買うべくハムンガーター通りに歩を進める。
 アクリルと綿の混紡下着に厚手のセーター、ジャケット、オーバーコート、皮の手袋、イヤーバンドの完全装備にもかかわらず、自然は厳しいものである、夕刻ともなれば風も出てきて気温はぐんぐん下がる一方。頭髪はたっぷりあるが頭の先から湯気が出て、毛編み物のイヤーバンドは効果なし。2分もすれば耳が痛くなり、続いて頭が痛くなってくる。しかし、負けてはおられない、海図を買うまでは。

 
  (左)外はマイナス40℃の世界  (右)地図屋さんで見つけた大航海時代の海図、永らく我が家の玄関を飾る


 目指す地図屋さんに駆け込んで手頃な大きさのものを物色し購入。日本に持って帰ると言うと、なんと長さ1.5m、直径10cmの硬い筒に入れてくれて、さあ、持って帰れと言う。お陰でこの後3週間続く世界一周の旅はこの筒がずっと相棒となったのである。
 翌日聞くと、昨夜は氷点下40℃であったとか、この温度は小生にとって初体験である。なるほど、初体験とはかくも痛いものか!

 
   オペラハウス兼レストランの「オペラ・チューラレン」、天井の高い空間で本場のサーモンを。

 ホテルは前回と同じく「ホテル・シェラトン・ストックホルム」。そのホテル近くのレストラン「オペラ・チェーラレン(OPERAKALLAREN)」で夕食を取ることに。1787年にグスタヴ3世によって建てられたオペラハウス兼レストランで出演者たちの憩いの場となってきたようだ。バロック式のインテリアが美しく、天井の高い広大な空間を持つ最高級レストランだ。

今はレストランだけ、昔は出演者の憩いの場であったとか。

 本場のサーモンを食ベて見る。サーモンピンクとはこういう色を言うのかと形容しがたく、かつ日本ではお目にかかれない色であった。



水の都とフリーセックス - ストックホルム - (異文化体験2 アルコールの旅6)

2010年02月11日 17時38分53秒 | 異文化体験_北欧
(このブログでは写真は原則クリックで拡大します)

水の都とフリーセックス -ストックホルム-   1981.1.31~2.3

 真冬のストックホルム


 スウェーデンが歴史上に登場するのはバイキングの時代(西暦1000年頃)とか。首都ストックホルムが建設されたのは1252年というから中世都市の一つと言える。
13からなる島を橋で一つ一つネットワーク化し、バルト海に面したメーラレン湖をはじめ多くの湖に広がるこの都市は、北欧のベニスと呼ばれている。特に太陽が冬の低い角度にある時間帯は、湖畔のこの街の建物を見るのが最も美しい時である。
 また朝日が湖面に反射し、その反射光が中世の湖畔の建物と大小様々なヨットを照らし出す様は、冬の薄暗い雰囲気の中でスポットライトを浴びた舞台俳優の様に似ている。

 1560年のストックホルム

 
                          朝日に映えるストックホルムの街

 
                          夕方・薄暮のストックホルムの街


 冬の日曜日の早朝、私はそのような風景を水鳥達と一緒に堪能した。潮が動き、氷塊が流れ、その上に羽を休める水鳥達は、人の接近を拒まずまるで日曜日を楽しんでいるかのように見える。

1→4→3→2散歩ルート 海辺の水鳥たちの餌場 

 休日の朝は美術館めぐり。国立美術館に足を向けるとドレスデンの陶磁器展をやっていた。スウェーデンでドイツの焼き物を見るのも如何なものかと思いつつも、寒さには勝てず中に入る。


(左)国立美術館(DRESDEN ROMANTIKの特別展) (右)狭い石畳の路の両側にお店が続く旧市街(Gamla Stan)
 
 Gamla Stan(ガムラ・スタン)と呼ばれる旧市街には、13世紀頃からの建物がそのままの家並みを残している。迷路のような石畳の狭い路地の両側には古い陶人形のお店が並んでいる。路地はいつしか広場に通じて、そこが王宮だと言う。

あどけない顔の近衛兵が家族の前で緊張顔の交替式

 太鼓の音に導かれて歩を進めると、3階建ての王宮の中庭では、近衛兵の交替式が進行中である。10代のまだあどけない顔をした近衛兵が家族の見守る中、緊張した顔で儀式に臨んでいる。スウェーデン国王はこの環状の王宮の中で生活しており、一人で車を運転して出掛けることもあるという。(テロによって国王が新市街で亡くなったのはこの数年後のことである)
 

 フリーセックスがスウェーデンの代名詞になったのは、いつ頃のことであろうか。期待と興味が先行してこの街を歩き回ったが、むしろ三島由紀夫がいうように「スウェーデン娘は人形のように美し過ぎて味気がない」というのが実感である。ツーリストにとってこの町は、何かを拒絶するような気配すら感じられる。

 
            シェラトンホテル・ストックホルム(左:海から、右:ホテル前の橋から)

 ホテルで週末の夜に開催されたディスコ・パーティ、良家の子女を目当てにホテルの入口には着飾った娘達で溢れている。ベルボーイ達が彼女らのもぐり入場に目を光らせている。興味があってパーティ会場に行ってみたものの、同行した米国人もためらった程の打ち解け難さ。
 好きになった同士が簡単にセックスまで発展するのは何もこの国だけでなく、欧米先進国では当たり前になってきている。どうも、ヒッピーがこの国に流れ込んで、ある種の集団形成がなされ、その中でのフリーセックスがこの国の代名詞になったのではなかろうか。
 ある説によるとフリーセックスとは、開放的にセックスについて話し合うという70年代の学校での性教育改革が、なんと日本では自由にセックスが出来ると誤って伝わったようである。

「Fem Sma Hus」 

 地元で有名な面白いレストランがあった。名前を「Fem Sma Hus」という。「Five Small House 五つの小さな家」という意味だそうな。5軒の家の地下をぶち抜いて作られたレストランで、1969年の開業。1694年当時、このブロックでとても有名な専売違法酒場があり、その店の夫人の名前を冠した"Kalvfilé Anna Lindberg"というフィレステーキがこの店の創業時からの名物料理。

 長らく海外で食事していると麺類が欲しくなるもの。幸い中華料理は何処の国に行っても食することが出来る。ワンタン麺が食べたくなって、とある中華料理屋に入った。亭主曰く、「ワンタンはあるがワンタン麺はない」と。然らば、ワンタンとヌードルを注文し、それを一緒にして頂戴!と言うと特注のワンタン麺が出てきた。しかし、料金はなんとワンタンの2倍。「明日からメニューに加えるときっと売れるよ!」と店主を指導。
でも2倍じゃねえ????



スープがメインディッシュ -コペンハーゲン- (異文化体験2 アルコールの旅5)

2010年02月07日 13時20分23秒 | 異文化体験_北欧
スープがメインディッシュ -コペンハーゲン-   1981.1.29~31

 
(左)コペンハーゲンの街並み(Wikipediaより)(右)ホテルで貰ったシティマップ(真ん中にチボリ公園、市庁舎)


 ドイツを北上し、待望の海に面した北欧の入り口、人魚の像でも有名なデンマーク。
エッセンの木賃宿と異なりこの町では、高級ホテルのシェラトン・コペンハーゲン(今は名前が変わっている)。

←小さな人魚の像 シェラトンホテル→



 首都コペンハーゲンは北欧美人のメッカ。髪の毛がやわらかそうな金髪美人が目に付く。メキシコ湾流の影響か、寒さは予想以上に穏やかである。有名な海獣の像のある市庁舎前の広場から東にのびる市内随一の繁華街ストロイエには、防寒具に身を包んだ人達がゆっくりと買物をすませると、今度は足早に帰り道に着く。

 (左)市庁舎前にて (右)チボリ公園前にて
 

 
(左)ストロイエの賑わい          (右)いかにも北欧! 暖かいセーター
  

 お土産に買って帰った独特の北欧模様のニットセーター、ロイヤルコペンハーゲンの磁器、ジョージ・ジェンセンの銀製品等の店が、北欧の街のアイデンテイテイを盛り上げる。とあるインナーウエアーの店を覗くと、男性同伴の女性達がいろいろと品定めをしている。中には男性客も。意を決して中に入ると、落ち着かないものの楽しくもあり、また恥かしくもあり。


 豚に明け暮れたドイツから、海の幸が味わえるこの街に来ての夕食は、もちろん魚料理。「KROGs FISKE RESTAURANT、この名を告げると運転手が連れて行ってくれる」とホテルで薦められる。「でも高いぞ!」との付言。
 まずは食前酒をとブラディマリー。何はともあれ暖かいスープが欲しいものだとメニューとの格闘が始まる。デンマーク語のメニューなんぞ分かるはずもなく、スペルの感覚から決めた。よし、これだ!

 誰でも知っている有名レストラン


 でも二人以上で頼んでくださいと小さな字で書いてある。いささかメニュー疲れした同行者と同調し、人数分をオーダー。ウエイター氏曰く。「ベリーグッド」。何がベリーグッドか分からないが、「メインデイッシュは・・・」、と言おうとするとこのウエイター氏、怪訝な顔をしてスープが終わってからにしろと言う。

 ひとまず当面の大仕事を終え、パンをちぎりながらこの街談義。それにしてもスープが遅い。「まだなの?」「間もなく」の問答が数回行われた後、何を思ったか、かのウエイター氏、我々のテーブルの上にバケツを運んで置くではないか。??と思いきや、各人のお皿にバケツの中身をサーブし始める。赤っぽい魚、大きな海老、貝、・・・、なんとブイヤベースのお化けではないか。

 それからの2時間、我々4人はこのバケツと大いにストラッグルすることになった。結局少し残してギブアップ。「さてメインデイッシュに行きますか?」とウエイター氏のジョークに、「メインデイッシュはアイスクリーム」とこちらもジョークで返す。

 Krogs store bouillabaisse - fisk - skaldyr 375,-


  夜のメインストリートは賑やかなもの。突如聞こえるサイレン。我々のすぐ前で商店街に乗り込んできたパトカーが急停車。車から飛び出した警官がバンの車の荷台扉を開けると数匹の警察犬が勢いよく飛び出し、一目散に映画館のある地下街へ。あっという間の出来事に一体何事が?と見ていると、チェーンを持った若者達、金髪のかわいい、それでいてちょっと生意気そうな娘達が疾風の如く犬に追われて逃げ惑う。
 最期は全員御用となったようだが、冬の北欧の深夜の大捕り物、罪状はコソ泥だとか。