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旅行記、世相独言

ツアーの立寄りショッピングにはご用心 -香港- (異文化体験19 アジアの小龍の旅2) 

2012年01月26日 15時04分07秒 | 異文化体験_アジア
(写真はクリックで拡大します)

ツアーの立寄りショッピングにはご用心 -香港-  1994.8.12-8.14

       
 (左)香港観光局のマップ              (右)今回の宿舎「パーク・レーンホテル」

 このツアーの参加者は、我々夫婦と3人グループの5名。現地行動だけが一緒で、移動の飛行機は別々である。15シンガポール・ドル(1$=¥67)の空港税を払ってチャンギ空港を飛び立ったキャセイ710便は12時過ぎに啓徳空港に着陸。もう一組はUA便だそうな。コーズウェイベイの繁華街にありながら、お隣が広大なヴィクトリアパークという「パーク・レーンホテル」に早速チェックイン。


 
(左)クルージングディナー前に波止場にて       (右)維多利亞港(ビクトリア・ハーバー)の海上夜景(1)

 
(左)維多利亞港(ビクトリア・ハーバー)の海上夜景(2)  (右)船内ステージ(食事中の演奏、食後ダンスホールに)

 今夕は香港の夜景を海から楽しむクルージング・ディナー。啓徳空港に離着陸する飛行機がまるで海上に浮かぶ摩天楼に吸い込まれて行くように見える、そんなシーンを色きらびやかな夜景の中に見ながら食事を終えると、フロアーは一転ダンスホールと化し賑やかなこと。


     
   (上2枚)旧タイガーバウム・ガーデン(「オー・プン・ホゥ・ガーデン」)

 
 (左)ビクトリアピークからのビクトリア港を望む   (右)英国軍艦レパレス号に由来するレパレス湾で

 
     (上2枚)レパレス湾は現在海水浴場、鎮海楼公園に整備されている

 翌日午前は、日本からの様々なツアー客を混載した香港島1周観光。旧タイガーバーム・ガーデンとして有名な「オー・プン・ホゥ・ガーデン」、海抜550mほどの「ヴィクトリアピーク」、1840年代にこの湾で停泊した英国海軍軍艦「HMSRepulse」から名づけられた「レパレス湾」(日本占領時代は緑之浜、今は海水浴場となり鎮海楼公園が建設され、大きな天后娘と観音像がある)等を観光してショッピングにもご案内、お昼は「北海漁村レストラン」での飲茶、というのがツアーに盛り込まれているコース案内。


 
(左)「謝瑞麟珠寶有限公司(Tse Sui Luen Jewellery)」(HPより)  (右)店内入場パス 

 この「ショッピングにもご案内」が曲者である、特に夫婦で旅行する時には。
この時案内されたのは「謝瑞麟珠寶有限公司(Tse Sui Luen Jewellery)」という宝飾店。
 広い店内に様々な宝飾品がガラスケースの中に並べられている。男性客はほとんど興味がないので店入口に近い喫煙場所でタバコを吸うか、外で待っている。
 しかし、女性陣は一向に引き揚げる気配がない。何かいや~な予感がし始める。最初はあまり興味なさそうにしていた我が女房殿が熱心に品選びを始めている。お立ち寄りにしては時間が長過ぎるので、男性陣は添乗員に文句を言い始めるが、添乗員もペイバックがあるのだろう、いい加減な返事でごまかす。
 結局、我が女房殿もお気に入りの宝飾品を手に、「これ買って!」。


 
(左)ギリシャ復興様式の「フラッグスタッフ・ハウス茶器美術館」 (右)宜興紫砂の最高級茶器16C末

 昼食後は自由時間。お茶に興味があったので「フラッグスタッフ・ハウス茶器美術館」を訪問。この建物は1846年に建設されたギリシャ復興様式の建物で、名前どおり英国軍総司令官邸として使われていた。中国古代からの茶の入れ方の歴史や、唐代から清代に至る歴史的価値の高い様々な茶器・茶具を楽しむことが出来る。


 
 (左)女人街界隈の風景                  (右)夜のNathan Roadの賑わい

 その後、街を散策。女人街で男物のポロシャツを2枚買うが、女房殿はダイヤ、私は5百円のポロシャツ、わりの合わない買物であった。まあ、これも出張とは言え海外に出て様々な異文化体験をする機会の多い私のせめてもの罪滅ぼしか?


経済発展著しい香港も貧富の差が拡大、返還後はどうなる?

 香港の街は経済発展と共に貧富の格差が増大しつつあるという。その様は居住区の様相にも見ることが出来る。1997年に英国から中国に返還されるとなれば、香港の将来はどんなものになっていくのか、世界中が注目している。


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コカ・レストランとクラーク・キイ -シンガポール-(異文化体験19 アジアの小龍の旅1)

2012年01月20日 00時54分28秒 | 異文化体験_アジア
(写真はクリックで拡大します)

コカ・レストランとクラーク・キイ -シンガポール- 1994.8.9~8.12

 6年前の1988年に初めて来た時はオーチャード通りはイルミネーション合戦でクリスマス商戦が華やかな時だった。が、今回は正に真夏のシンガポール。アジアの小龍としてより一段と発展した都市になっている。

  今回の宿舎「ブールバード・シンガポール」

 今回の旅は、業務出張に非ず!女房殿と一緒の個人旅行である。成田からキャセイ航空で香港経由シンガポールに着いたのは19時半。早速ブールバードホテルにチェックイン。

  市内観光で訪れた植物園

 翌朝、午前中は市内観光で、植物園、マウント・フェーバー、チャイナタウン等を観光後、ネプチューン・レストランで昼食。以降、明後日の出発まで自由行動である。

 
(左)ジュロン・バード・パーク入園チケット(33SGD=2200円ほど)      (右)案内標識

 午後は会社・現地事務所の同僚がジュロン・バード・パークを案内してくれる。シンガポール西部のジュロン地区に熱帯雨林を活かした20ヘクタールの広大な園内に約600種以上8000羽を越える世界中の鳥たちが集められている。

 
    (写真左右)20ヘクタールもの広大な敷地で600種、8000羽の鳥を鑑賞できる

 巨大な嘴を持つ東南アジアのサイチョウ、オーストラリアの鮮やかなインコなど、珍しい鳥を沢山見ることが出来る。


    
(左)コカ・レストランのロゴマーク  (右)現地で人気の、日本人の口にも合うタイ・スキの店

 夕食は、現地事務所やPJで現地に来ている同僚達とコカ・レストランで会食。最近現地で流行のタイ・スキの店である。
 後日談であるが、この頃私は東京でわが業界の国際協力プログラムを開発する仕事もしていた。国の補助金も得て制度を発足させ、初めて招き入れたのが中国とタイからの若手官僚。特にタイから来た若手官僚は良家の子女。最初、スタッフが日本食中心の食生活を案内していたようだがどうも食が細いとの報告。大丈夫かと心配した私は、このシンガポールの店で、日本の六本木にもコカ・レストランをオープンさせたと聞いていたので、彼女を連れて行った。

   
(左)店の売りもの、これが決め手の「コカ・ソース」、辛い!   (右)我が同僚達と再会

 案ずることはない。淡白な薄味の日本食が口に合わず、日本人なら薄めて使うコカ・ソースに具材を直接浸して食べるわ、食べるわ。外国人の接待は、必ずしも日本食が喜ばれているわけではないことに留意すべし!である。


 
(左)シンガポール島とセントーサ島を5分少々で結ぶロープウェイ (右)マラッカ海峡を望む浜辺

 
(左)アンダー・ウォーター・ワールド入場チケット(10SGD=670円ほど)  (右)動く歩道で海底散歩

 翌日は終日自由行動。セントーサ島で遊ぶことに。シロソ辺りはマラッカ海峡を借景に椰子の木もありリゾート気分が味わえる。近くにアンダー・ウォーター・ワールドという海底水族館がある。巨大水槽の底に1周80mほどの透明トンネルの中を動く歩道に乗って様々な魚たちを見ることが出来る。ダイバーが潜って魚に餌づけをするショーも人気が高い。

 
(左)最近リバーフロント開発された「クラーク・キー」  (右)クラーク・キーの夜景

 シンガポール最後の夜は、最近出来たというクラーク・キイに行って食事をしようということに。この時はクラーク・キイの情報が不十分で、行ってみないとどんなところかよく分からない。
 クラーク・キイは、シンガポール川沿いの古い倉庫街を再開発し、19世紀の街並みを再現してお洒落なショップやレストランで構成。川に浮かぶ船のレストランや、果物の王様ドリアンのメニューばかり揃えた店、ショータイムが話題のクラブ、ボートに乗ってシンガポール川の歴史をたどるアドベンチャーライドなど、特色あるスポットが並んでいる。今宵は蟹のフライ等、シーフード系の食事を楽しむ。

 アジアの発展著しい小龍の一つ「シンガポール」

 前回来た時に驚いたのは何よりもエスカレーターの動く早さであった。つまりそれだけこの国の世代人口は若さに溢れ、様々な都市間競争を勝ち抜く政策を次々に打ち出し、それを実践し、都市の集客魅力を維持・増強させているのである。この姿はこれから益々高齢化社会に突入、成熟化する日本とは対照的である。



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世界文化遺産「下鴨神社」と花街新春「北野をどり」

2012年01月13日 22時28分09秒 | 異文化体験_日本
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世界文化遺産「下鴨神社」と花街新春「北野をどり」 2012.01.07

 
(左)下鴨神社(賀茂御祖神社)境内図          (右)櫻門入って直ぐの舞殿

 京都・鴨川の下流に祀られているお社から下鴨さんと呼ばれる下鴨神社、正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。3万6千坪の広大な境内には、古代の山背原野の名残をとどめる「糺の森(ただすのもり)」を擁し、国宝の本殿2棟、重要文化財53棟が平安様式を今に伝える。

 
(左)この御手洗社で新年の御祓いを受けました       (右)みたらしの池と御手洗社

 また、新春には初神楽、「蹴鞠はじめ」、御粥祭が、また新緑の季節には流鏑馬神事から始まる「葵祭」、土用の丑の日には「みたらし祭」(御手洗社(みたらししゃ)前の「みたらしの池」に足をつけると無病息災で過ごせる)、そして名月管絃祭等、1年を通じて有名な行事が執り行われている。ちなみに「みたらし団子」は、当神社が語源となっていると言う。

 参拝者が言社で夫々の干支の守護神に御参り

 縁結びの神様として有名だが、最近では干支の神様としての信仰も多く、言社(ことしゃ)には一言社から三言社まで夫々の干支の守護神が祀られている。

 参拝したのは1月7日だが、当日は重要文化財「大炊殿(おおいどの)」と「葵の庭(カリンの庭)」が初公開されていた。大炊殿は神饌(お供えもの)を調理する社殿。


   
(左)特別公開の重要文化財「大炊殿」(右)入口土間のおくどさん、台所(中の間)、御神料盛付け(奥の間)

 葵の庭(カリンの古木が有名)



 昼食後、学問の神様「菅原道真公」で有名な北野天満宮にも立ち寄った。

 
(左)立ち寄った学問の神様、北野天満宮     (右)山門に架かる三輪晃久画伯筆の大絵馬


  北野天満宮のほん近くに「上七軒歌舞練場」がある。今回はここで新春特別公演の「北野をどり」を観賞するのが主たる目的の一つである。

 
 (左)上七軒歌舞練場の正面入口       (右)大規模木造劇場として今も活躍する劇場内部

 天満宮に参拝する人の七軒の茶店に由来する上七軒に、歌舞練場が出来たのは明治時代。罹災や進駐軍のダンスホール等の変遷を経て、昭和26年に現歌舞練場となったようだ。

 京都には先斗町等いくつかの歌舞練場、踊りがあるが、大規模な木造劇場と共にもっとも歴史のある歌舞練場としてその歴史を今に伝えている。

 それでは、以下の写真で地方、芸妓、舞妓の演ずる新春踊りの雰囲気を味わっていただきましょう。

 

          
 
 長唄「末広狩」から始まり、端唄「七福神」、「祇園小唄」、小唄「今年しゃ何だか」等々、最後は4月の北野をどりのフィナーレを飾る総をどり「上七軒夜曲」まで、新春に相応しい演目を1時間弱楽しんだ。

 
(左)フィナーレの総をどり「上七軒夜曲」     (右)歌舞練場中庭(右手が劇場内部)

 中庭では時折白いものが舞う中、舞妓さん、芸妓さんが我々を見送ってくれて、身近に花街の雰囲気を少し味わった一日であった。

 

 (上二枚)お見送りの芸妓さん(左)と舞妓さん(右) (左)演目解説


今回の「世界文化遺産下鴨神社と花街新春北野をどり」を評価下さい

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えべっさん 2012 -今宮戎-

2012年01月09日 23時16分14秒 | イベント
(写真はクリックで拡大します)

えべっさん 2012 -今宮戎-  2012.01.09

 夜間の「えべっさん」風景(参考)

 大阪ではお正月の3ケ日が過ぎ、商売人の新年の挨拶回りが始まるとすぐに、商売繁盛の神様えべっさんが始まる。十日戎と言って9日から11日の3日間、今年の福を求めて商売人達が参拝する。
我が家も息子の会社の商売繁盛を祈願して毎年御札を貰いに参拝している。

 ほとんど乗降客のない南海電鉄の今宮戎駅もこの日ばかりは押すな、押すなの大混雑である。特に今年は初日が成人の日と重なり、朝から大勢の人で賑わっている。

 
(左)祝日とあって初日朝から大勢の人出    (右)本殿前の混雑(老人・子供には少し危険かも)

       
(左)賽銭箱(エリア)は初日午前とあってまだ少ない?最前列は後から賽銭がどんどん飛んでくる 
(右)本殿横の福笹配布に異国の娘さんも活躍

 神社からは「商売繁盛で笹もってこい!」の鳴り物入りの掛け声が鳴り響いている。
人ごみをかき分けて本殿にたどり着くのに相当の体力が要る。商売繁盛祈願をしている間に、お賽銭が矢継ぎ早に後頭部をかすめて飛んでくる。祈願後、この人ごみから抜け出すのがまた大変。

 
(左)福笹に縁起物をつけて貰う人の列がお目当ての福娘の前に (右)様々な縁起物

 我が家の今年の福娘さん

 本殿横で福笹を貰って、今年の福娘達のところに行って縁起物をつけて貰う。1点およそ1500円程度の縁起物を数点つけて貰うと約1万円弱程度。これはという福娘のところには、カメラ片手のおじさんたちがたむろしてシャッターチャンスを狙っている。

 本殿後ろのドラ(ワッペンでドラが分かり難い?)

 
(左)切っても切っても同じ顔が出るので「えべっさんの飴」は同類の例えに用いられる
(右)熊笹など縁起物を売る店が沿道の軒を連ねる

 お参りの後は本殿うしろの左右のドラを「えべっさん、頼んまっせ!」と叩く人で押しくら饅頭状態。
 参道には、えべっさんの飴として有名な福飴や熊笹の縁起物を売る店が延々と続いている。

 今年こそ、経済状態が好転して欲しいものである。


今回の「えべっさん 2012」を評価下さい。

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「玉(ぎょく)」と「玉(たま)」

2012年01月05日 11時05分55秒 | イベント
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新年明けましておめでとうございます。  


「玉(ぎょく)」と「玉(たま)」

 お正月に相応しいお話を一つ。
「玉」という字、「ぎょく」と読みますか? それとも「たま」?
じゃあ、その違いは? と問われると、さてさてどう答えますか?

 昨秋、我が家の近くの和泉市立久保惣記念美術館で「装身具」をテーマに特別展が開催され、11月19日「関西文化の日」に、京都大学人文科学研究所の岡村秀典教授から「東アジア古代王権と身体装飾」というテーマで講演会がありました。

  

 先生の話によると、

 日本語の「装身具」、中国語では「装飾品」「服飾用品」、英語では「ACCESSORY」と言いますが、日本の身体に直接つける装身具は、7世紀~江戸時代までは稀で、明治以降洋服と共に習俗輸入されたようです。

     
(左)聖徳太子像(「唐本御影」)  (右)高松塚古墳 女子群像  (いずれもWIKIPEDIAより)
 
 じゃあ、古代はというと、
 日本では弥生時代は貝、古墳時代は石で、装身具、墳墓副葬品を製作していたが、5世紀中頃より、金・銀・きらびやかな装身具が出始めたようです。6世紀の藤ノ木古墳では金銅製の冠飾りが出土しています。
 7世紀 大阪府の野中寺、法隆寺から冠、イヤリング、ネックレス等が見つかっています。
 また、飛鳥寺の塔心礎の埋納品には、種々の色のガラス玉、勾玉、金箔、輪等が見つかっており、これらはガンダーラの傾向かもしれません。
 ガンダーラでは、2世紀の仏菩薩像、釈迦になる前の菩薩像は装身具を身につけています。

 当日レヂュメから 


 ところで、「ぎょく」と「たま」に話を戻すと、

 中国の「玉」・・日本読みで「ぎょく」。「玉器」の「玉」は土器の「土」、青銅器の「青銅」と同様、器物の材料を示しています。
艶やかで清純な「軟玉」をさし、色調は透明感のある黄色から緑色に近いそうです。
モース硬度が6~6.5(鋼鉄ナイフは5.5)でナイフでも刃が立ちません。

 一方、日本の「たま」・・三種の神器や古墳出土の「たま」は硬玉(翡翠)で、硬度は6.5~7.0。新潟県糸魚川産の硬玉が縄文時代から利用されてきました。中国では、硬玉が産出せず、18世紀になってミャンマー産を愛用しだしたようです。

 玉の加工風景

等々、興味深い話が聞けました。


今回の「玉(ぎょく)」と「玉(たま)」を評価下さい。

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