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旅行記、世相独言

古代遺跡都市エフェス(エフェソス)-エーゲ海沿岸③-(異文化体験31 東西文明十字路の旅4)

2013年06月30日 00時04分49秒 | 異文化体験_中・東欧
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古代遺跡都市エフェス(エフェソス) -エーゲ海沿岸③- 98.08.20

 今回の紹介はイズミールの南76kmのエフェス

 イズミールの南76kmにエーゲ海最大の古代遺跡都市エフェス(ギリシャ語でエフェソス)がある。

 紀元前11世紀にギリシャから移住してきたイオニア人が「アルテミス神殿」を中心に都市を建設。イオニア12都市として繁栄したが紀元前356年放火により神殿を消失。港湾都市として栄えたが土砂堆積やマラリアの発生等で衰退しかけ、ペルガモン王リシマコスがコレソス山とピオン山の間に新都市建設を行った。

 紀元前2世紀には共和制ローマ支配となり、アジア属州の首府となった。アントニウスとクレオパトラも当地に滞在したことが記録されている。

 古代七不思議の一つ「アルテミス神殿」の遺跡

 つい最近、クレオパトラの妹アルシノエの墓と骨がこのエフェス古代遺跡の街の真ん中で見つかったようだ。クレオパトラと王位継承を争ったアルシノエは、エジプトからここアルテミス神殿に幽閉されていたようで、この発見はクレオパトラ解明にも大いに参考となるようだ。
 セルチュクの街に近い現在のアルテミス神殿跡はローマ時代に再建されたもの。正面55m,奥115m,高さ19mの大理石の円柱127本を使用した巨大な神殿。「古代7不思議の一つ」とされる。


 それでは、「エフェス都市遺跡群」の主要遺跡を見て行こう。

 ドミティアヌス神殿の遺構(2階建て石柱)

 まず、2階建ての石柱を持つ皇帝ドミティアヌスを祭る50×100mの神殿跡。皇帝は暗殺され家臣達によって神殿は取り壊され土台部分のみ残っている。


 ヘラクレス門からケルスス図書館までのなだらかな石畳のメインストリートがクレテス通り。両側には様々な施設の遺跡が続いている。
 その一つがトラヤヌスの泉。102~104年に建造され皇帝トラヤヌスに捧げられたもの。

       
(左)石畳のメイストリート「クレテス通り」        (右)トラヤヌスの泉


 2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスに捧げられたハドリアヌス神殿は装飾が美しく、手前アーチ中央は女神ティケ、奥の門にはメドゥーサ、その左右の小壁にはエフェスの起源伝説が描かれている。遺跡見学の入場券に取り上げられている。

  
(左)遺跡チケット表面にハドリアヌス神殿が採用         (右)装飾美で他の群を抜く神殿

 2000年前の公衆トイレは、れっきとした水洗トイレ。腰を下ろして休憩するには最適である。ポンペイにもあったが娼婦の館がここにもある。いずれの時代・場所を問わずこの手の商売と施設は必要なようだ。


        
(左)2000年前のれっきとした水洗トイレ       (右)ポンペイでも見たが娼館への道標

 クレステ通りの突き当りにある見事な2階建てのファサードが、ケルスス図書館。ローマ帝国のアジア州執政官ケルススの息子が、父の墓室の上に建造したもの。正面に「知恵」「運命」「学問」「美徳」を象徴する女性像が置かれている。構造は下部がコンポジット式(コリント+イオニア式)の柱頭、上部がコリント式柱頭の大理石円柱。1万2千巻の書物が所蔵されていたようだ。

        
(左)圧倒的迫力のケルスス図書館の遺構 (右)細部に至る細やかな彫刻が2000年の時空を超えて・・・


 ここからマーブル通りを大劇場に向かって歩くと、先ほどの娼婦の館の道標が路面にある。
 大劇場はヘレニズム時代に建造、ローマ時代に拡張され、直径154m、高さ38m、収容人員24000人の半円形大劇場である。

 24000人収容の大劇場

劇場の先は、アルカディアン通り。港と大劇場を結ぶ幅11m、長さ500mの大理石道路で、往時は両側にお店が並び、夜は街灯も灯されていたという。

    
 アルカディアン通り、(左)往時は港に直結した通りで港方向 (右)大劇場方向


 ここでオリンポスの神々(ギリシャ12神)を紹介しよう。人間味臭い神々である。

 オリンポスの12神(Wikipediaより)

ゼウス     :ラテン語ジュピター。天空の支配者。浮気っぽい。ベルガモンの「ゼウス大祭壇」
ヘラ       :ゼウスの姉で正妻。結婚の神様。
アテナ      :ゼウスの頭から生まれた女神。知恵と正義の神様。
アポロン     :ゼウスの子。光明、医療、芸術、予言の能力を持つ太陽神。
アルテミス    :ラテン名ディアナ。アポロンと双生児。狩猟を司る月の神様。エフェ(ソ)スの「アルテミス神殿」
アフロディーテ :ラテン名ヴィーナス。愛と美の神様。エロスは彼女の息子。
ヘパイストス  :ゼウスの子。鍛冶の神様。
アレス      :ラテン名マルス。軍神。
ヘルメス     :商業の神様。
ポセイドン    :海と地震と馬の神様。
ディオニュソス  :別名バッカス。ゼウスの子。葡萄酒の豊饒をあらわす神様。
デーメーテール  :大地母神。

 さあ!エフェス古代遺跡群見物の後は、聖母マリアの家に寄って、パムッカレの世界遺産に、楽しみだ!


遺跡はどうあるべき?ベルガマ-エーゲ海沿岸②-(異文化体験31 東西文明十字路の旅3)

2013年06月23日 00時11分19秒 | 異文化体験_中・東欧
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遺跡はどうあるべき? ベルガマ  -エーゲ海沿岸②- 1998.8.19

 今回はベルガマ!です。

 チャナッカレからバスで走ること3時間半、ベルガマに着く。途中休憩の道端の露店には名産のピスタチオが売られている。

 車内ではピスタチオを齧りながらベルガマへ

 ベルガマは、かつてはベルガモンと呼ばれ、ヘレニズム文化が大きく花開いた遺跡都市。アレキサンダー大王の死後、分割された領土はフィレタイロスがここにベルガモン王国を築いた。

 ベルガモン遺跡は丘を利用し神殿、大劇場などが建設された「アクロポリス」と医療施設を備えた町の中心地「アスクレピオン」から成る。

        
(左)アスクレピオン地区の聖なる道(後方の丘がアクロポリス)(右)古代医療センター兼神殿の北回廊の列柱

 まず我々が降り立ったのは「アスクレピオン」地区。アスクレピオスというギリシャの医療の神の名に由来する古代医療センターと神殿を兼ね備えた跡地である。140mの聖なる道の先に北回廊の列柱が聳え立っている。広場には蛇の彫刻を有する円柱が残っている。医療のシンボルとして脱皮する蛇の姿が健康回復のイメージと結びつけられたようだ。


       
(左)健康回復と蛇のイメージは一致する?      (右)医療センター側の小劇場、治療しながらの娯楽殿堂?

 2千数百年前の図書館、聖なる泉、治療棟、劇場などの施設が、炎天下の日差しに耐えて当時の社会の有り様を我々に物語っている。


 丘の上の「アクロポリス」は、かつてのヘレニズム文化が最も栄えた場所の一つ。ベルガモン王国時代の王宮跡地にローマ皇帝ハドリアヌスによって造営されたトリアヌス神殿。その6×9柱のコリント式神殿は、すべて大理石で造られ、青空に白い神殿がよく映えている。

 青空に映える真っ白な大理石のトリアヌス神殿

 図書館は、紀元前2世紀にエジプト・アレキサンドリア図書館に対抗して造られ、当時は20万冊の蔵書を誇っていた。伝説によると脅威を覚えたエジプトがパピルスの輸出を禁止したため、ベルガモン王エウメネス2世が羊皮紙を発明したと言われているそうだ。ちなみに「羊皮紙の独語名ペルガモントは、当地に由来」するそうだ。

 1万人収容の大劇場、すり鉢の底に降りるような恐怖感

 急峻な丘の斜面を利用して造られた劇場は収容人員1万人の大劇場。下に降りる時には目がくらむほどの斜面である。


 さて、エウメネス2世が戦勝記念に造らせた「ゼウスの大祭壇」というのがアクロポリスにあった。神々と巨人達の戦いがモチーフとして描かれた祭壇で、キリスト教徒からはサタン(悪魔)の祭壇として恐れられているが、今はその跡地に2本の大木が茂っている。
 じゃあ、祭壇は?というと、ドイツ・ベルリンの「ペルガモン博物館」にある。19世紀ドイツ発掘隊が発見し、運び去ったという。何故、そんな巨大なものを?と思うが、博物館に巨大祭壇が圧倒的迫力で再建されている。

ベルリン「ペルガモン博物館」に復元された「ゼウスの大祭壇」

 古代遺跡や美術工芸品が、様々な理由でもともとあった場所を離れ、離散してしまっている例が多々ある。
 この大祭殿のように立派に修復・復元されているものから、管理不十分でもはや破壊、消滅してしまったものまで、多種多様な履歴があるのだろう。
 今回の例を見る限り、古代施設は十分管理保存されているものの、残念ながらベルリンのペルガモン博物館の大祭殿からは、その「臭い」を嗅ぎ取ることは出来ない。

 ベルガモンの他の古代遺跡との調和の中で、初めてゼウス大祭殿が「2千年前の臭い」を発するのである。探険家や戦勝国が持ち去った戦利品は、現地の管理能力を前提として、もとあった場所に戻されることが真の世界遺産と言えるのではなかろうか。

      
(左)ベルリンのベルガモン博物館 (右)パンフレット表紙を飾るゼウスの大祭壇の東フリーズの部分図「女神アルテミス」

 ちなみに、ペルガモン博物館は古代美術コレクション、西南アジア博物館の2大要素を有しており、ベルガモン以外にバグダード近郊バビロンの遺跡も復元されている。
(異文化体験25 中・東欧の旅その6「オッシーとベッシー」参照)


 ベルガモン観光を済ませ、1時間半のバスの旅でトルコ第三の都市イズミールへ。今宵の宿舎はIsmiraという三ツ星ホテル。夕食後、同じグループの若い女性達と美味しい珈琲を求めて夕暮れの街を散策する。イズミル湾に面したジェムフリエット広場まで歩いたが、結局らしき店もなくホテルに戻る。


    
(左)今宵の宿舎「ホテル・イスミラ」
(中)美味しい珈琲を求めてジェムフリエット広場まで来たけれど・・
(右)前夜は暗闇でよくわからなかったが、この像は建国の父ケマル・アタチュルクの像


トロイ遺跡とシュリーマン -エーゲ海沿岸①-(異文化体験31 東西文明十字路の旅2)

2013年06月14日 18時08分55秒 | 異文化体験_中・東欧
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トロイ遺跡とシュリーマン -エーゲ海沿岸①- 1998.08.18

 本日未明にホテルチェックインして、朝8時には出発という強行スケジュール。
 イスタンブールを出たバスは、ヨーロッパ側を南下してエセアバートへ、ここでヨーロッパとアジアを隔てるダーダネルス海峡を30分ほどフェリーに乗って対岸(アジア)のチャナッカレに至る。
 チャナッカレはトロイ観光の基点として多くの観光客が訪れる町。イスタンブールからの所要時間は5時間ほど。

     
(左)ダーダネルス海峡を渡るフェリー(30分ほど)   (右)夏の日差しの強いアジア側エーゲ海

 昨年の真夏のアンダルシアもお鍋の底と言われる地域だけに暑さにうんざりしたものだ。ここトルコも特にこれから行く中部アナトリア地方も同様と聞いてきたが、早くもその片鱗がうかがえる。しかし、日本のような湿気がない分、日陰に入ると爽快でもある。

    
(左)トロイの街(想像図:立地環境の良さから同じ所に9回再建されている)  (右)トロイ最盛期の城壁跡
 
 トロイ文明は紀元前3000年頃から始まるが、紀元前2500~2000年にエーゲ海岸の交易の中心地として栄えた。トロイの栄枯盛衰は9層(第1市から第9市)にわたる都市遺跡を形成している。

        
(左)トロイの木馬(復元物)    (右)何度も映画化されたトロイの戦争 
 
 トロイの木馬といえば、今やコンピュータウィルスの代名詞だが、我々の世代では子供の頃見た木馬の映画が鮮明によみがえるが、ホメロス作といわれる800年頃のギリシャ最古最大の英雄叙事詩「イーリアス」全24巻のトロイ伝説が有名。

 トロイの王子パリスがスパルタ王の妃ヘレネを奪ったことに端を発するトロイ軍対ギリシャ軍の10年に及ぶ戦争を描いたもの。パリスの放った矢がギリシャの英雄アキレウスの唯一の弱点であるかかとを射てアキレウスが倒れる話も有名である。

1975年に復元の木馬(イダ山の松で作られ、中に入れる)

 なかなかトロイを落とせないギリシャ軍はオデュッセウスが、ただ一人の生贄と巨大な木馬を神に捧げる形で残し、全員船に引き返させる。トロイ軍はこの木馬を場内に引き入れ大宴会を始める。寝静まった頃合に木馬内からギリシャ兵が次々と出て城に火を放ち、ついに10年戦争に決着が、ヘレネもめでたくスパルタ王の許に戻るという話。

    
  (左)トロイの町の周辺の風景             (右)オデオン(ローマ時代の小劇場)  

 ドイツ人シュリーマンは、この「イーリアス」が忘れられず、史実と信じて41歳から自費でトロヤ(トロイ)遺跡の発掘を始める。そしてヒサルルクの丘を発見し、彼自身第2市をトロイと断定、「プリアモスの財宝」を発見する。その後の発掘で第7市がトロイと判明したが、幼少期に聞いた叙事詩が忘れられず、史実と信じて取り組んだ執念には感服する。

              
(左)シュリーマンは第2市をトロイと断定(実際は7市) (右)儀式に使われた聖域

 シュリーマンという人、18ヶ国語を自在に操る人だったようで、シュリーマンの6週間独習法が以下の内容。執念というか、根気強さというか、人柄が偲ばれる。
「声を出して読むこと、訳さないこと、毎日勉強すること、毎日作文を書くこと、それを先生に添削してもらい、誤りを正しくしたら次のレッスンを暗唱すること」

      
(左)チャナッカレ近郊のホテル「Iris Otel」 (右)ホテルの前のきれいな海岸とプールで一泳ぎ

 ホテル前のエーゲ海に沈む夕日

 トロイ遺跡の見物後は一路ホテルへ。チャナッカレから15kmほど離れた大きなプールを持つ海辺のリゾートホテル「Iris Otel」が今夜の宿舎。早速水着に着替えて、プールで一泳ぎ。時差ぼけ解消も兼ねてしっかり泳げば今夜はよく眠れるだろう。折りしも水平線に赤く燃えた太陽が、明日の暑さを約束するようにゆっくり沈んでいく。



憧れの東西文明結節点へ -トルコ-(異文化体験31 東西文明十字路の旅1)

2013年06月09日 11時54分21秒 | 異文化体験_中・東欧
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憧れの東西文明結節点へ -トルコ- 98.08.17-08.26

 世界3大料理の一つとされるトルコ料理、チャイがなければ何も始まらない国、ベリーダンス、ブルーのタイルや数珠、水パイプやメアシャム・パイプ、何はなくともトルコ絨毯、タラソ(仏)、ヘナ(印)、あかすり(韓)、マッサージ(タイ)、そしてトルコのハマム。
 東西文明の結節点トルコには、数々の古代遺跡と共に興味深い独自の文化がある。

 オスマン朝の赤色をベースに月と星は民族の進歩と国家の独立

 昨年のアンダルシアの旅に続いて、今夏も東西文明の十字路トルコを旅することにした。イスタンブールを起点にエーゲ海沿岸のトロイやヘレニズム文化の諸都市を巡り、カッパドキア等の中央アナトリアからイスタンブールに戻る10日間のグループツアーである。

       
 (左)今回のツアーの主要な訪問地   (右)ヨーロッパ(左)とアジア(右)の結節点

  初回の今回は、旅行記は次回からということにして、自らの勉強も兼ねてトルコの歴史を少し振り返ってみたいと思いますので、歴史に興味のない方は是非次回からご覧下さい。

紀元前3000年頃:トロイは最盛期を迎え卓越した文化・芸術を誇っていた。

紀元前2000年~紀元前700年頃(ヒッタイト時代):アナトリア最初の統一国家「ヒッタイト古王国」が出現。ヒッタイトは黒海を渡って来た北方系民族。紀元前1285年ラムセスⅡ世率いるエジプト軍を撃退するほど強大であった。

紀元前547年:ペルシャが征服し全アナトリアを含む強大な帝国に発展。

紀元前334年~紀元395年(ヘレニズム・ローマ時代):200年のペルシャ支配の後、アナトリアは若き英雄「アレキサンダー」の支配下に入る。彼は一大帝国を建設し、死後彼の将軍達に分割された。その一つ「ペルガモン王国」はアナトリアの文化・経済の中心として栄えた。徐々に力をつけたローマは、ここを足掛かりにアナトリア全域を支配した。

395年~1071年(ビザンティン帝国時代):330年「コンチタンティヌス帝」はビザンティウムに遷都し、町の名を「コンスタンティノープル」と改名。以後、東西結節点として益々発展する。395年東西ローマ分裂で、アナトリアは東ローマ帝国の一部となる。徐々にローマ色が薄まり、東方的色彩が強まり「ビザンティン帝国」と呼ばれるようになった。8世紀にイスラム軍の侵入を受け、1071年セルジューク朝に破れ、アナトリアにトルコ族が入っていく。

 スレイマン大帝(Wikipediaより)

1071年~1922年(セルジューク朝、オスマン朝):スンニ派イスラムのトルコ系王朝「セルジューク朝」は、首都をコンヤに置く。セルジューク朝の内紛の中でオスマン・ベイは1326年ブルサを攻めそこに首都を置く。世界帝国「オスマン朝」の始まりである。勢力を伸ばし1453年コンスタンティノープルを占領、「イスタンブール」と改名。16世紀のスレイマン大帝時代に最盛期を迎える。彼の死後、度重なる戦争にことごとく敗戦し、19世紀にはエジブト、ギリシャ、ブルガリア等バルカン諸国が独立、第1次大戦では敗戦側に。

1923年10月29日:ムスタファ・ケマルがトルコ共和国を成立させ、初代大統領になり、首都をアンカラとした。アタトゥルク(トルコの父)と言われている。

    
                今回のイスタンブールでのホテル「RESIN TAKSIM」

 関空を13時10分に飛び立ったアシアナ航空OZ111便は、一路ソウルへ。3時間の乗り継ぎ待ちの後、18時05分ソウル発のアシアナ航空OZ551便は、無事イスタンブールに23時50分到着。市内のホテル「Eresin Taksim」には深夜のチェックインとなった。


カタルーニャ・モデルニスモと飛蚊症-バルセロナ-(異文化体験30 灼熱のアンダルシアの旅7)

2013年06月01日 21時59分04秒 | 異文化体験_西欧
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カタルーニャ・モデルニスモと飛蚊症 -バルセロナ- 97.07.27-07.29

    
             バルセロナのホテル「アポロホテル」とそのルーム・キイ

 夕刻のグラナダからバルセロナへ。今宵の宿はアポロホテル。モンジュイックの丘やバルセロナ港に近く、パラレル通りの地下鉄パラレル駅が最寄り駅である。
明日は、市内観光の後自由行動、夕食も自由である。スペイン最後の晩餐、さてどうするかなあ?


           
  バルセロナの眺望(左手にサグラダファミリア、右手の港は世界3大美港の一つ)

 1888年バルセロナで万国博覧会が開催され、モデルニスモ建築の幕開けとなった。スペインの近代建築は鉄骨構造をガラスと煉瓦でふさいだ「動物学博物館」を先駆けに、カタルーニャ・ルネサンスと言う民族主義の高揚の中で、伝統を生かした独自の建築表現を生み出した。

  
(左)カタルーニャ・モデルニスモの祖「動物学博物館」  (右) 装飾美が圧巻、カタルーニャ音楽堂

 カタルーニャ音楽堂の見事な装飾を生み出したモンタネール、イスラムもゴシックも全ての伝統を消化し全く独自の空間を創造したガウディといった建築家たち、更に旧市街の市壁を壊し近代都市へ生まれ変わらせるグエル(ガウディのパトロン)のような資本家たち(ちなみに「都市計画」という言葉は、このバルセロナ拡張の際に生まれたそうだ。)、今日のバルセロナの街に名建築家たちの作品は見事に溶け込んでいる。

 モンジュイックの丘のオリンピックスタジアム

 午前の市内観光は、まずモンジュイックの丘にのぼりオリンピックスタジアムやバルセロナ市内を展望、次にグラシア通りのカサ・バトリョ、カサ・ミラといったガウディの作品を車窓にグエル公園へ。グエルがガウディへ依頼した最初の作品がグエル別邸で、1887年のこと。初期のガウディの作品はスペイン・イスラムの影響が色濃く残っている。1914年に完成した12haに及ぶグエル公園の様々な幻想的な造形美と色彩はガウディ芸術の集大成である。

 ガウディ代表作「グエル公園」

グエル公園にて 


 最後の観光はサグラダ・ファミリア聖堂。ガウディがビリャールの後を継いで2代目の建築家となったのが1883年。グエル公園が完成した1914年以降この聖堂の仕事に専念し、1925年に聖堂の最終案が決定、ガウディ最後の傑作と言われる鐘塔華頂も完成したが、その翌年市電にはねられ死去した。

      
             (左・右)市民の浄財で遅々着々と建設の進む聖家族教会

北ファサード、イエスの誕生を表す東ファサード、イエスの受難を表す西ファサードはほぼ完成しているが本来は屋根がかかる予定である。またイエスの栄光を表すメインファサードのある南側は未完成である。完成すればイエスの12使途を象徴した12本の塔が立ち並ぶ、いや18本の尖塔が建つという説などあり、何が本当やら。完成予定はガウディ没後100年の2026年とまことしやかに言われているが、建造と修復が同時並行の大プロジェクト、無事完成を祈るのみである。

     
  (左)建設開始初期の参考写真           (右)完成予想モデル、この通りになるかどうか?

       
(左)建設中の塔の上からモンジュイックの丘方面を望む   (右)聖家族教会_受難のファサード

それにしてもこのカタルーニャという土地は、ガウディのみならず、奇才、天才を数多く世に送り出している。ピカソ、ミロ、ダリ、タピエス、カザルス・・・・。


 観光後は自由行動。息子に頼まれた財布を買いにカタルーニャ広場近くのロエベの本店に。リュックを背負ったラフな格好の日本人が入ってきてドアマンもあまりいい顔をしていないが、まあ、お許しあれ。

        
(左)バルセロナ1の繁華街ランブラス通り(参考写真)(右)コルドバ「花の小道」で見かけたサングラス犬

 ランブラス通りで遅めの昼食を済ませ、港の方向に歩こうと天を仰いだその時、目にはじけた様な閃光と闇が走り、右目に黒いものが浮遊している。
 何度も瞬きするがなかなか取れない。極めて不快な違和感がする。こりゃ、帰ってすぐ目医者に行かなくては。(帰国後、近所の眼医者で飛蚊症と判明。治るものではなく、気にならなくなるまで数週間かかると言われ、とりあえず一安心)
コルドバの「花の小道」にいた犬がサングラスをしていた理由?が分かった次第である。

 バルセロナ港のWF開発、レストランやショッピング等賑わい空間
 
 今夕は、スペイン最後の夜。再度フラメンコというのも考えたが、時間帯の早いフラメンコではいまいち。ホテルで聞くと最近ポルト・ベルやバルセロネータ等のウォーターフロントに雰囲気の良い美味しいシーフードレストランが沢山出来ているというので、そこに決定。バルセロナ港は世界3大美港のひとつ。海辺のレストランのテラス席で灼熱のアンダルシアの思い出を振り返りながら久々のシーフード料理を堪能し終えた頃には、すっかり夜の帳がスペイン旅行の終わりを告げていた。
  
翌日はKLMオランダ航空で11時25分バルセロナ発、アムステルダム乗換、関空30日午前9時35分着。
早速、目医者に行かなくては!!(以来、紫外線防止のサングラスをゴルフ等には常用するようになった次第)