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戦場にかける橋 と クワイ河マーチ -カンチャナブリ- 2014.1.22
左)クワイ河橋 (中)泰緬鉄道 (右)アルヒル桟橋道
今日も朝が早い。映画「戦場にかける橋」で有名な第2次世界大戦下で建設・爆破された泰緬鉄道の橋があるカンチャナブリへ小生を含む3名が、アユタヤへ残り2名が、それぞれ観光に出発。
7時15分ホテルを出た車は、早速渋滞の中に吸い込まれる。
ガイドのおばさんによると、何と「戒厳令!」が出されているとのこと。聞き捨てならない話だが、どうも我々が普段イメージしている戒厳令とは少し異なるようだ。
デモ集会に対する爆弾テロがあったので、今後のことも考えて過激化分子の活動を抑え込むためのもので、デモ集会そのものをどうこうしようとするものではなさそうだ。
(左・中)戒厳令が発令された早朝の市内 ダウンタウンは閑散、裏道は大混雑 (右)一時間半かかってチャオプラヤ川を越える
早々とホテルを出た車は、遅々として動かない。やっとたどり着いたとある交差点で、運転手が描いていたラーマⅧ世橋を越えるルートが、橋の封鎖で迂回するようデモ隊から指示され、大きく時間をロス。チャオプラヤ川を越えるのに何と1時間半近くかかった。
カンチャナブリに行く前にナコンパトムで「ワット・プラパトム・チェディ」に立寄る。高さ120mの世界最大の仏塔を持つ寺院だが、渋滞の時間ロスで寺院の中には入らず外だけ見て、カンチャナブリを目指す。車はロスタイムを取り戻そうと結構なスピードで走り続けている。
(左)高さ120mの仏塔のワット・プラパトム・チェディ (中)いつもの参拝風景 (右)寺院のトイレ(便器の上から猫の陶像が覗き込む)
← カンチャナプリのシンボル 魚の像が分離帯に
カンチャナブリで乗る列車は11時発。何と、バンコク午前7時発で4時間がかりで129km離れたカンチャナブリに至るという。しかし、我々の車もデモ集会のおかげで似たり寄ったりで、街はずれに来た時はすでに11時5分前。果たして列車に乗れるのか?
(左)11時発の列車が今日は遅れずに到着 (中)「River Kwai Bridge」駅 (右)乗降客や見物客で駅から橋の上まで多くの人が
カンチャナブリのクウェー川(日本ではクワイ川)駅に到着すると、間髪入れず列車がホームに入ってきた。ここから乗車する人も多く、人種も様々で指定席の車内はほぼ満席。駅を出るとすぐに「戦場にかける橋」のモデルとなったクェー・ヤイ川に架かる橋を渡る。
列車に乗らない観光客達が線路脇の待避所から手を振って見送ってくれる。橋の下にはボートハウスのレストラン等があり、一大観光地となっている。
(左)鉄橋待機場所の見送人 (中)昔はジャングルの中の橋も今は観光地 (右)車内の多種多様な人種。西欧人特に英国人も多い
列車は、丁度収穫期を迎えたサトウキビ畑やあまり人影のない農村集落の間をひたすら走る。社内では記念グッズの物売りや軽食類の売り子がひっきりなしに売り歩きにくる。
(左)2時間の列車の旅。車窓にはのどかな農村風景が。 (右)この時期サトウキビ畑の刈入れが盛ん。
← 日本軍によりインドへの軍事輸送路の一環として作られた泰緬鉄道(640km)
この列車の最大の見せ場は3ケ所。
乗車すぐの「クェー川鉄橋」と乗車後2時間(約50km)ほどで到着した「アルヒル桟道橋」。 全長300mの桟道は、クェー・ノイ川の断崖絶壁にへばりつくように作られたS字カーブの木造高架橋で、列車は時速5kmまで減速して走る。
インドへの軍事輸送路の一環として作られた泰緬鉄道、ジャングルの中での建設作業の往時の過酷さが忍ばれる。
(左)断崖絶壁にへばりつく「アルヒル桟橋道」 (中)列車は時速5km。車窓の下は川しか見えない (右)「アルヒル桟橋道」
今一つは、我々を含む多くの観光客はアルヒル桟道橋の駅で下車するが、日本人が滅多に行かない施設がまだこの先にあるという。敷設当時の面影を色濃く残す「ヘルファイアー・パス(地獄の切通し)」がそれで、欧米人達の観光ルートとなっているようだ。
(左・右)我々は行っていないが「地獄の切通し(ヘルファイアー・パス)と呼ばれる英国人捕虜が切開いた難所(欧米観光客が主に訪問)
下車後、迂回して来た車に乗って昼食場所へ。ミャンマーに至る国道沿いのレストランでブッフェスタイルの昼食。バナナの唐揚げに人気があったようだ。
(左・右)アルヒル桟橋道で下車し、車で山腹のレストランでのランチ(バナナの唐揚げに人気)
今度は、車で再び出発地点のカンチャナブリの街に戻り、時間の都合でゆっくり出来なかった長さ300mのクェー川鉄橋を歩いてみる。
映画「戦場にかける橋」は、デビッド・リーン監督、ウィリアム・ホールデン、早川雪舟ら豪華キャストで1957年に制作され、第30回オスカーで7部門を総なめにした作品。ミッチミラー楽団のクワイ川マーチも有名である。
(左・右)車でカンチャナプリに戻り、クワイ河橋をゆっくり見物
(左)1957年制作の映画「戦場にかける橋」 (右)ラストシーンの爆破導線が見つかる場面 ウィリアム・ホールデンと早川雪舟
橋の近くには、泰緬鉄道建設中に犠牲となった全ての捕虜、労務者、日本人将校、軍属の霊を慰めるため、日本人によって建てられた「戦没者慰霊塔」がある。
(左)昭和19年2月 日本軍鐵道隊によって建てられた戦没者慰霊塔 (右)その碑文
更には泰緬鉄道建設に携わった日本軍の捕虜収容所の様子を再現した「JEATH戦争博物館」(J=Japan、E=England、A=Australia、T=Thailand、H=Hollandの頭文字)もある。博物館の建物は当時と同じ竹で造られ、兵士たちが残したスケッチ、日本軍が使っていた銃や剣などが展示され、過酷な収容所の様子がわかる。
(左)捕虜収容所を再現した「JEATH戦争博物館」 (中)再現された当時の収容所の悲惨な記録展示 (右)英国人捕虜が書いた本
観光も終わり、午後4時頃バンコクに向け出発。アユタヤ組とは今夕は中心繁華街の台湾小籠包の店に行こうと約束していたが、彼らは既に午後4時前にはホテル帰着したらしい。我々がホテルに帰着したのは午後7時頃。今からデモ集会の拠点近くのお店は危険ということで、ホテルのレストランで夕食を取る。
明日はまた朝の早いお迎えでのゴルフ。そして、夜には帰国の途に。
戦場にかける橋 と クワイ河マーチ -カンチャナブリ- 2014.1.22
左)クワイ河橋 (中)泰緬鉄道 (右)アルヒル桟橋道
今日も朝が早い。映画「戦場にかける橋」で有名な第2次世界大戦下で建設・爆破された泰緬鉄道の橋があるカンチャナブリへ小生を含む3名が、アユタヤへ残り2名が、それぞれ観光に出発。
7時15分ホテルを出た車は、早速渋滞の中に吸い込まれる。
ガイドのおばさんによると、何と「戒厳令!」が出されているとのこと。聞き捨てならない話だが、どうも我々が普段イメージしている戒厳令とは少し異なるようだ。
デモ集会に対する爆弾テロがあったので、今後のことも考えて過激化分子の活動を抑え込むためのもので、デモ集会そのものをどうこうしようとするものではなさそうだ。
(左・中)戒厳令が発令された早朝の市内 ダウンタウンは閑散、裏道は大混雑 (右)一時間半かかってチャオプラヤ川を越える
早々とホテルを出た車は、遅々として動かない。やっとたどり着いたとある交差点で、運転手が描いていたラーマⅧ世橋を越えるルートが、橋の封鎖で迂回するようデモ隊から指示され、大きく時間をロス。チャオプラヤ川を越えるのに何と1時間半近くかかった。
カンチャナブリに行く前にナコンパトムで「ワット・プラパトム・チェディ」に立寄る。高さ120mの世界最大の仏塔を持つ寺院だが、渋滞の時間ロスで寺院の中には入らず外だけ見て、カンチャナブリを目指す。車はロスタイムを取り戻そうと結構なスピードで走り続けている。
(左)高さ120mの仏塔のワット・プラパトム・チェディ (中)いつもの参拝風景 (右)寺院のトイレ(便器の上から猫の陶像が覗き込む)
← カンチャナプリのシンボル 魚の像が分離帯に
カンチャナブリで乗る列車は11時発。何と、バンコク午前7時発で4時間がかりで129km離れたカンチャナブリに至るという。しかし、我々の車もデモ集会のおかげで似たり寄ったりで、街はずれに来た時はすでに11時5分前。果たして列車に乗れるのか?
(左)11時発の列車が今日は遅れずに到着 (中)「River Kwai Bridge」駅 (右)乗降客や見物客で駅から橋の上まで多くの人が
カンチャナブリのクウェー川(日本ではクワイ川)駅に到着すると、間髪入れず列車がホームに入ってきた。ここから乗車する人も多く、人種も様々で指定席の車内はほぼ満席。駅を出るとすぐに「戦場にかける橋」のモデルとなったクェー・ヤイ川に架かる橋を渡る。
列車に乗らない観光客達が線路脇の待避所から手を振って見送ってくれる。橋の下にはボートハウスのレストラン等があり、一大観光地となっている。
(左)鉄橋待機場所の見送人 (中)昔はジャングルの中の橋も今は観光地 (右)車内の多種多様な人種。西欧人特に英国人も多い
列車は、丁度収穫期を迎えたサトウキビ畑やあまり人影のない農村集落の間をひたすら走る。社内では記念グッズの物売りや軽食類の売り子がひっきりなしに売り歩きにくる。
(左)2時間の列車の旅。車窓にはのどかな農村風景が。 (右)この時期サトウキビ畑の刈入れが盛ん。
← 日本軍によりインドへの軍事輸送路の一環として作られた泰緬鉄道(640km)
この列車の最大の見せ場は3ケ所。
乗車すぐの「クェー川鉄橋」と乗車後2時間(約50km)ほどで到着した「アルヒル桟道橋」。 全長300mの桟道は、クェー・ノイ川の断崖絶壁にへばりつくように作られたS字カーブの木造高架橋で、列車は時速5kmまで減速して走る。
インドへの軍事輸送路の一環として作られた泰緬鉄道、ジャングルの中での建設作業の往時の過酷さが忍ばれる。
(左)断崖絶壁にへばりつく「アルヒル桟橋道」 (中)列車は時速5km。車窓の下は川しか見えない (右)「アルヒル桟橋道」
今一つは、我々を含む多くの観光客はアルヒル桟道橋の駅で下車するが、日本人が滅多に行かない施設がまだこの先にあるという。敷設当時の面影を色濃く残す「ヘルファイアー・パス(地獄の切通し)」がそれで、欧米人達の観光ルートとなっているようだ。
(左・右)我々は行っていないが「地獄の切通し(ヘルファイアー・パス)と呼ばれる英国人捕虜が切開いた難所(欧米観光客が主に訪問)
下車後、迂回して来た車に乗って昼食場所へ。ミャンマーに至る国道沿いのレストランでブッフェスタイルの昼食。バナナの唐揚げに人気があったようだ。
(左・右)アルヒル桟橋道で下車し、車で山腹のレストランでのランチ(バナナの唐揚げに人気)
今度は、車で再び出発地点のカンチャナブリの街に戻り、時間の都合でゆっくり出来なかった長さ300mのクェー川鉄橋を歩いてみる。
映画「戦場にかける橋」は、デビッド・リーン監督、ウィリアム・ホールデン、早川雪舟ら豪華キャストで1957年に制作され、第30回オスカーで7部門を総なめにした作品。ミッチミラー楽団のクワイ川マーチも有名である。
(左・右)車でカンチャナプリに戻り、クワイ河橋をゆっくり見物
(左)1957年制作の映画「戦場にかける橋」 (右)ラストシーンの爆破導線が見つかる場面 ウィリアム・ホールデンと早川雪舟
橋の近くには、泰緬鉄道建設中に犠牲となった全ての捕虜、労務者、日本人将校、軍属の霊を慰めるため、日本人によって建てられた「戦没者慰霊塔」がある。
(左)昭和19年2月 日本軍鐵道隊によって建てられた戦没者慰霊塔 (右)その碑文
更には泰緬鉄道建設に携わった日本軍の捕虜収容所の様子を再現した「JEATH戦争博物館」(J=Japan、E=England、A=Australia、T=Thailand、H=Hollandの頭文字)もある。博物館の建物は当時と同じ竹で造られ、兵士たちが残したスケッチ、日本軍が使っていた銃や剣などが展示され、過酷な収容所の様子がわかる。
(左)捕虜収容所を再現した「JEATH戦争博物館」 (中)再現された当時の収容所の悲惨な記録展示 (右)英国人捕虜が書いた本
観光も終わり、午後4時頃バンコクに向け出発。アユタヤ組とは今夕は中心繁華街の台湾小籠包の店に行こうと約束していたが、彼らは既に午後4時前にはホテル帰着したらしい。我々がホテルに帰着したのは午後7時頃。今からデモ集会の拠点近くのお店は危険ということで、ホテルのレストランで夕食を取る。
明日はまた朝の早いお迎えでのゴルフ。そして、夜には帰国の途に。