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板門店の緊張緩和 -ソウル- 2004.05.25
初日に空港に出迎えてくれたハンナラ観光の姜さんに、今日の帰国日に板門店観光が時間的に可能かどうか聞くと大丈夫だと言うので手配して貰った。
ソフィテル・アンバサダーホテルから中央高速観光のバスが午前8時50分に出る。このツアーのパンフでは、大韓民国在郷軍人会と中央高速観光の共催ツアーのようである。
板門店全景(パンフより)
ソウルの北、約60kmの板門店は、1953年7月27日朝鮮戦争の停戦協定が結ばれた場所で、停戦協定で定められた軍事境界線を中心に南北に2km、全長241km(西側の漢江から東は北緯39度線の東海岸まで)の6400万坪の広大な非武装地帯(The Demilitarized Zone, DMZ)の上にある。
板門店には、南北会談の会議場があり、その本会議場を中心に直径800mの円形エリアが共同警備区域(Joint Security Area=JSA)である。
(左)板門店の施設配置図 (右)平和の家(Home of Peace)
ソウルと平壌を結ぶ自由路を1時間ほど走ったバスは、パスポートチェックを受けて板門店への入口の統一大橋を渡り、国連の陸軍支援団キャンプ・ポニファスに着く。
10時半に各方面からのツアーバスが集結し、ここで専用バスに乗り換える。
南北分断の歴史等JSAのスライド・ブリーフィングを受け、見学中の一切の出来事に関知しない旨の韓国政府および国連に対する誓約書にサインをさせられる。
その後、会談場やポプラ事件の起こった場所に立つモニュメント、第3警備所、帰らざる橋、北朝鮮のキジョン洞村の遠望等、JSAの中を見学する。
(左)キャンプ・ポニファス入口(キャンプ内で専用バスに乗換え) (中・右)誓約書(何があっても知らないよ)にサイン提出
(左)南北会談の会議場(後の建物が北朝鮮側の板門閣 屋上に見学者の人影が) (右)南北会談会議場(何やら話し合いが)
(左)会議場内(境界線上に立つ国連軍兵士との記念撮影場と化している) (右)場内奥が北朝鮮側への出入口
折りしも、我々のいる韓国側の「自由の家」の屋上から北朝鮮側の「板門閣」に同様の見学者達の姿が見える。
以前ここに来たのは1988年。ポプラ事件(1976.8.18)の12年後、4人の死者を出したソ連大学生越境事件(1984.11.23)の4年後という時期であり、数度の亡命事件が間近にあったりして、緊張感がひしひし感じられ凍りついたような雰囲気があった。
(左・中)ポプラ事件当時の写真(参考写真) (右)ポプラ事件の場所に立つモニュメント
(左)帰らざる橋方面の遠望(監視小屋が見える) (右)帰らざる橋
それに引き換え今回のJSAの雰囲気は、まさに観光名所そのもの。見学後はキャンプ・ポニフォスに戻って食堂で何とバイキング形式の昼食、更には土産物屋まで出来ている。とは言え、38度戦をめぐる朝鮮戦争は、正確には現在まだ準戦時下にあり、この南北間の緊張緩和は何事にも変え難いものである。
休戦記念碑(1953年7月27日 記念碑1km先の小さな建物で休戦協定が締結、と書いてある。国連軍の各国旗)
(左・中)北朝鮮の洞宣傳村方面の遠望 (右)洞宣傳村の広告宣伝塔がうっすら見える
ソウル市内に戻ったのは15時半頃。ミレニアム・ヒルトンに預けていた荷物を引き取って、早めに仁川国際空港に向う。仁川空港は金浦空港に比べ遠くなったので1時間半ほどかかる。
(左)ソウル市内 南大門 (右)ソウル市内風景
(左)ソウル駅(1988年の時は釜山からセマウル号で降り立った駅) (右)漢江沿いを国会議事堂を見ながら仁川空港へ
帰路はインチョン国際空港19時05分発大韓航空721便である。広大な空港内でお土産を物色しているとすぐに出発の時間がやってくる。無事20時45分関空着。
充実した3日間のソウルの旅であった。
板門店の緊張緩和 -ソウル- 2004.05.25
初日に空港に出迎えてくれたハンナラ観光の姜さんに、今日の帰国日に板門店観光が時間的に可能かどうか聞くと大丈夫だと言うので手配して貰った。
ソフィテル・アンバサダーホテルから中央高速観光のバスが午前8時50分に出る。このツアーのパンフでは、大韓民国在郷軍人会と中央高速観光の共催ツアーのようである。
板門店全景(パンフより)
ソウルの北、約60kmの板門店は、1953年7月27日朝鮮戦争の停戦協定が結ばれた場所で、停戦協定で定められた軍事境界線を中心に南北に2km、全長241km(西側の漢江から東は北緯39度線の東海岸まで)の6400万坪の広大な非武装地帯(The Demilitarized Zone, DMZ)の上にある。
板門店には、南北会談の会議場があり、その本会議場を中心に直径800mの円形エリアが共同警備区域(Joint Security Area=JSA)である。
(左)板門店の施設配置図 (右)平和の家(Home of Peace)
ソウルと平壌を結ぶ自由路を1時間ほど走ったバスは、パスポートチェックを受けて板門店への入口の統一大橋を渡り、国連の陸軍支援団キャンプ・ポニファスに着く。
10時半に各方面からのツアーバスが集結し、ここで専用バスに乗り換える。
南北分断の歴史等JSAのスライド・ブリーフィングを受け、見学中の一切の出来事に関知しない旨の韓国政府および国連に対する誓約書にサインをさせられる。
その後、会談場やポプラ事件の起こった場所に立つモニュメント、第3警備所、帰らざる橋、北朝鮮のキジョン洞村の遠望等、JSAの中を見学する。
(左)キャンプ・ポニファス入口(キャンプ内で専用バスに乗換え) (中・右)誓約書(何があっても知らないよ)にサイン提出
(左)南北会談の会議場(後の建物が北朝鮮側の板門閣 屋上に見学者の人影が) (右)南北会談会議場(何やら話し合いが)
(左)会議場内(境界線上に立つ国連軍兵士との記念撮影場と化している) (右)場内奥が北朝鮮側への出入口
折りしも、我々のいる韓国側の「自由の家」の屋上から北朝鮮側の「板門閣」に同様の見学者達の姿が見える。
以前ここに来たのは1988年。ポプラ事件(1976.8.18)の12年後、4人の死者を出したソ連大学生越境事件(1984.11.23)の4年後という時期であり、数度の亡命事件が間近にあったりして、緊張感がひしひし感じられ凍りついたような雰囲気があった。
(左・中)ポプラ事件当時の写真(参考写真) (右)ポプラ事件の場所に立つモニュメント
(左)帰らざる橋方面の遠望(監視小屋が見える) (右)帰らざる橋
それに引き換え今回のJSAの雰囲気は、まさに観光名所そのもの。見学後はキャンプ・ポニフォスに戻って食堂で何とバイキング形式の昼食、更には土産物屋まで出来ている。とは言え、38度戦をめぐる朝鮮戦争は、正確には現在まだ準戦時下にあり、この南北間の緊張緩和は何事にも変え難いものである。
休戦記念碑(1953年7月27日 記念碑1km先の小さな建物で休戦協定が締結、と書いてある。国連軍の各国旗)
(左・中)北朝鮮の洞宣傳村方面の遠望 (右)洞宣傳村の広告宣伝塔がうっすら見える
ソウル市内に戻ったのは15時半頃。ミレニアム・ヒルトンに預けていた荷物を引き取って、早めに仁川国際空港に向う。仁川空港は金浦空港に比べ遠くなったので1時間半ほどかかる。
(左)ソウル市内 南大門 (右)ソウル市内風景
(左)ソウル駅(1988年の時は釜山からセマウル号で降り立った駅) (右)漢江沿いを国会議事堂を見ながら仁川空港へ
帰路はインチョン国際空港19時05分発大韓航空721便である。広大な空港内でお土産を物色しているとすぐに出発の時間がやってくる。無事20時45分関空着。
充実した3日間のソウルの旅であった。