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旅行記、世相独言

日本のゴルフ発祥の地 神戸ゴルフ倶楽部

2018年06月14日 22時14分06秒 | 異文化体験_日本
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日本のゴルフ発祥の地 神戸ゴルフ倶楽部

- 4000ヤード、Par61ながらなかなかの難コース -


 現在、わが国には2千数百のゴルフ場がある。私は300ケ所を制覇しようとゴルフを行っているが、残念ながら最近とみにゴルフ場の経営や名称変更等で、正確にフォロー出来なくなった。
 しかし、2千数百あるゴルフ場で、最古のゴルフ場が今なお伝統ある素晴らしいゴルフ場としてゴルフ愛好家に愛されている、それが六甲山の山の上に創られた「神戸ゴルフ倶楽部」である。

          
       伝統と格式のあるクラブハウス        グルームからの伝言(マナーブックのようなもの)

 1868年、英国人アーサー・ヘスケス・グルームが来日。日本をこよなく愛し、日本人の妻(宮崎直)を娶り、六甲山頂の別荘第1号「101」で、仲良し4人の茶飲み話の中で「ゴルフを為て見様じゃないか」となり、1901年手作りの4ホールで全てが始まった。
 1903年2月、神戸外国倶楽部で「神戸ゴルフ倶楽部」創立総会を開催。5月24日開場式が行われ、9ホール、会員120名でその歴史がスタート。このことは、遠くゴルフの本場ロンドンのゴルフ誌「Golf Illustrated」に紹介されている。翌年、18ホールが完成。
現3,4番ホール以外は、その時のレイアウトが現在の原型となっている。
(以上は、Kobe Golf Club グルームからの伝言より)

          
TYBとまでは行かないがコースガイド           専用バッグにクラブは10本 キャディが担いで帯同する

 平成30年6月4日、友人の計らいで神戸ゴルフ倶楽部でプレイする機会が得られた。開場後115年が経っている。
正直、こんな先にゴルフ場があるのかというほど細い道をゆっくり車を進め、やっとそれらしき建物と10数台の駐車場のある場所にたどり着く。こじんまりとした、それでいて歴史と風格を併せ持つクラブハウスである。
まず、ゴルフクラブの詰め替えを行う。ゴルフクラブは10本(パター込)に制限され、専用バッグに詰め替える。最長は396ydのミドル、最短は121ydのショート。
私はドライバー、7番ウッド、アイアンが6番からピッチングまで、52度と56度のウエッジ、パターの10本。
 このバッグをアルバイトのキャディが担いで帯同するという。気の毒に我々は4人組。4つのバッグを担いで歩くとなると大丈夫か? 神戸大学の学生さんだが、決して屈強の若者とは見えないが、慣れていると言う。しかし、大抵は2サムでのラウンドが多いようだ。

          
             スコアカード 裏面に英語表記のローカルルール(カード幅が6インチ)

 クラブハウスでスコアカード(さすが、ローカルルールは英語表示)とTYBのようなコース案内を受け取り、午前9時にOUTスタート。1番ホールは170ydのショートホール。ホール名はDumpie。ホールインワンするとグルームが愛したウィスキーDumpie1箱が倶楽部から贈られるようだ。幸い7番ウッドでワンオン・2パットでパー。出足好調のゴルフに見えたが、以降はボギーやダボの連続でOUT・Par30 1710ydが44の14オーバー。総じてブラインドホールはそれほどないが、左右傾斜のフェアウェイ、高低差の大きなかつ小さな砲台グリーン、しかも読み難いグリーンに手こずってしまった。

  
  3枚とも1番ホール170yd  幸いパーセーブ、全てがこのようなコースなら良かったのだが、知らぬは仏の1番ホール

          
#4は、ティグラウンドの下にステュクス川(三途の川)が流れていた   9番グリーンからはるか下のティグラウンドを見る(まるで若草山登り)

 1番ホール(Dumpie)から10番ホール(The Boundary)までプレイして、昼食休憩に。
倶楽部の歴史を語る写真やグルームの彫像、その他の記念品が、談話室とそれに続くレストランに飾られている。レストランからは、神戸の町並みと港の眺望を楽しむことが出来る。名物のカレーライスを頂戴し45分ほどの休憩後、残りの8ホールに向かう。

  

クラブハウスにて 左:レストラン  中:談話室(グルームの彫像が見える)  右:名物カレーライス(前の友人は餡かけ焼きそば)

 IN・Par31 2141ydとOUTに比べ430ydほど長く、ドライバーの出番が多くなる。11番ホールはDoctor’s Nob(医者の頭)という名がついているが、初代プレジデントの大頭をもじって名付けられたようで、180ydのショート。ここはボギースタートとなった。日頃、カートでのプレイに慣れ切った私には、ここのホールごとのアップ・ダウンは正直こたえる。さすが、キャディ君、4バッグを担いで的確に指図をして坂を上っていく。後半唯一の救いは、H’cap1番の15番ホール396ydでパーがとれたこと。
 結局、IN Par31に対し43の12オーバー。Par61を87、16オーバーでプレイ終了。

  
レストランのトレイシート(全体レイアウトが良くわかる)  #12のだらだら上りと#15(隣)の下り   コースから神戸の街と海が見える

 こじんまりしたお風呂で、今宵の寝床で足が攣るのではないかと危惧しつつマッサージをしながら汗を流した次第。
 レストランで、飲み物片手に現在とはボールも道具も全く異なる状況下で、この厳しいコースをどのように先人たちは攻略していたのか、思いを馳せながら日本最古の名門ゴルフ場を後にした。

(注)幸い名門ゴルフ場が平日に限り、一般解放デイを設けているようだ。往復はがきで申し込む必要があるが、是非、一度体験されることをお勧めする。詳しくはホームページをご覧ください。
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さんふらわー de 九州北部の歴史旅 (その9)別府温泉・地獄巡り

2018年06月13日 16時34分52秒 | 異文化体験_日本
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さんふらわー de 九州北部の歴史旅    2018.5.16-20

その9.別府温泉・地獄めぐり


 別府の地獄めぐりは、55年前の高校の修学旅行時以来である。現在、別府の地獄めぐりと言えば別府地獄組合加盟の7つの地獄を言うらしい。近くに山地獄があるが加盟しておらず、どちらかと言えばミニ動物園に近いようだ。加盟7地獄は、個人大人2,000円で共通券を販売している。通常1割引クーポンがあちこちにあるので利用すること。

                    

 豊後風土記によると、鉄輪・亀川の地獄地帯は千年以上前から噴気・熱泥・熱湯などが噴出していたと記されている。

 まず、「海・鬼石坊主・かまど・鬼山・白池の5地獄」は、このうちのどこかに駐車すれば徒歩圏内で回って見れる。このうち「海・白池地獄」は国指定名勝である。

「海地獄」は、1200年間の鶴見岳爆発により出来たコバルトブルーの池で、98℃もあるという。また、熱帯性睡蓮が見事に開花している。

          
                   地獄巡りスタートの「海地獄」 駐車場も一番広い

  
                    熱帯性睡蓮(外池と温泉熱利用の温室)   

「鬼石坊主地獄」は、地名が鬼石、熱泥が坊主ということで名付けられたようだ。熱泥が大小の球状をなして沸騰するさまが見れる。620円で鬼石の湯に入ることも出来る。

          

「かまど地獄」
は、氏神竃門八幡宮の大祭に地獄の噴気でお供飯を炊いた習わしから名付けられたようで、泉温は90℃。煙の不思議実験が面白い。ここのお湯が青く見えるのは、数十~数百nm(ナノメーター)のシリカ微粒子が青い光を反射するためで、非晶質シリカが柱状成長した白い塊状析出物が見られる。

  
         かまど地獄は1丁目から6丁目まで、左:2丁目、中:4丁目、右:6丁目。煙の実験が不思議。

          
         3丁目、5丁目のコバルトブルーの原因は、ナノメータークラスのシリカ微粒子のせい

「鬼山地獄」は、別名ワニ地獄。大正12年に我が国初の温泉熱利用のワニ飼育はじめ、現在約70頭を飼育している。泉温は99.1℃。飼育中のワニの赤ちゃんも見れる。

          
          鬼山地獄は、地下187mから湧き出る沸騰泉99.1℃で、ワニの飼育も

          
        飼育中の子供ワニ                   本物の卵だそうです

「白池地獄」は、噴出時は無色透明の熱湯が、温度・圧力の経時変化で青白色に変化するようだ。泉温95℃で、ホウ酸食塩泉を含む。ピラニア等の各種熱帯魚が見れる。

  
           熱帯アマゾンに生息する肉食ピラニアから大王魚ピラルクまで、見ることが出来る

 次は、ここから車で5分、約3km走って、「血の池・龍巻の2地獄」へ。どちらも国指定名勝である。
「血の池地獄」は、豊後風土記に「赤湯泉」と記された日本最古の天然地獄。煮えたぎる赤い粘度は噴気まで赤く、この粘土で皮膚病に効く血の池軟膏が売られている。泉温は78℃。

  
              55年前はもっと赤々としていて気味悪い感じだったが。

「龍巻地獄」は、天然の間欠泉で市指定天然記念物になっている。地下の150℃の熱水が約30~40分間隔で、105℃の熱湯と噴気となって約6~10分噴出する間欠泉である。

          
                到着時に丁度間欠泉が噴出するグッド・タイミング

 天台宗僧侶で大阪水間寺住職であった今東光氏(もはや若い人には馴染みがなかろうが)が、別府の地獄を地獄讃として記している。



 2時間半ほどで地獄巡りを終え、杉乃井ホテルに戻る。
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さんふらわー de 九州北部の歴史旅 (その8)別府温泉・幼児のレジャーランド 杉乃井ホテル

2018年06月12日 11時53分27秒 | 異文化体験_日本
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さんふらわー de 九州北部の歴史旅    2018.5.16-20

その8.別府温泉・幼児のレジャーランド 杉乃井ホテル


 西日本で最も人気があるという杉乃井ホテル。単に温泉に浸かるだけでなく温泉プール、造波プール、棚湯と結構楽しめると言うことで決めたが、いやはや・・・。

 まず、別府湾を見下ろす本館に到着すると、荷物を下ろして、車は丘の下の専用駐車場に持って行かなければならない。戻りは循環バスを利用とのこと。チェックイン時に説明を受けるが、3つのホテル棟やプール等のアミューズメント施設への移動が坂道と連絡通路工事中のため、循環バス移動となる。何とも不便そうだが、ひっきりなしに来るので不便さは軽減される。
宿泊客は、翌日もプールや棚湯等の付帯施設を利用できるとのことで、明日は午前中に地獄めぐりを行い、夕刻出発までこれらの施設を楽しむことにした。

  
別府市内の観光地図(主要部分)            杉乃井ホテルの案内図             ホテル施設を循環するバス          

 我々の客室は本館12階の別府湾を見下ろす部屋。早速、地下一階のみどり湯で別府の湯を楽しむ。地下1階と言えども丘の上だけに、開放的な風呂からは別府湾が一望できる。タオルやバスタオルはすべて施設側に完備されており、手ぶらで利用できるのは有難い。

  
         本館最上階一つ下の12階の部屋と部屋からの眺望                  本館地下1階のみどり湯       

 夕食は、本館地下1階の巨大バイキングレストラン「シーズ」。他には、スギノイパレス館にワールドバイキング・シーダパレスと和食の花水木、本館にイタリアンのアズーリがあるようだ。
 この時期、シーズでは蟹祭りを目玉にしており、ステーキ、握り寿司、その他多種多様なメニューが提供されており、料理の質も高い。ただ、静かな雰囲気で食事をと言うわけにはいかない。幼児連れの夫婦、孫連れの熟年者、それに声高の異国人グループ等々、会場はごった返している。

  
 バイキングレストラン「シーズ」              一皿目                      何皿目か不明

 夜は、スギノイパレスのザ・アクアガーデンでレーザーショー、プロジェクトマッピングショーがあるというので、幼児気分で出かける。部屋に帰ってから、もう一度別府の夜景を見ながら温泉に浸かって就寝。

  
     ザ・アクアガーデンのレーザー・噴水ショウ (プロジェクトマッピングショーはアクアビート館壁を使って行われる)


 翌朝、バイキング会場で提供される日本人名の名札の中国人女性が作るフワトロ・オムレツが美味しかったので、作り方を聞くと卵に牛乳・生クリームが入っているとのこと。早速、帰宅したらチャレンジせにゃと記憶に留める。

  
別府湾の朝(既に今夕乗船するさんふらわーが到着)         フワトロ・オムレツの作り方を聞き出す


 荷物をフロントに預け、10時過ぎチェックアウト地獄めぐり(内容は、その9で紹介)に出発し、午後1時過ぎにホテルに戻る。
レジャープール・アクアビートは、緩やかな造波プールで子連れの家族客で賑わっている。3時間千円のソファーを借りて、施設内を一巡する。孫を連れて来ればさぞ喜ぶだろう。

  
本館から見たスギノイパレス・アクアビート館方面     レジャープール「アクアビート」 一定時間毎に造波プールとなる

 大人向きにはウォータースライダーがある。身長制限があるようだ。女房と二人でチャレンジコースに挑んだが、真っ暗のチューブの中をジェットコースター並みの滑走で、心臓に悪い。着水面に出た時はさすがにほっとした。ということで、時間もたっぷりあるのでもう少し緩やかなBコースに。今度は明るいチューブの中を滑走するので、恐怖感は和らぐが、それでも幾度と振り回されて放り出されるのではと恐怖心が。

          
身長制限、年齢制限(75歳)のあるウォータースライダー(一人乗り、二人乗りがあり、コースもスリル度に応じて3コースほどある)

          
夫婦二人で恥ずかしげもなく子供たちに混じって、1回目はチャレンジコース、2回目は明るい心臓に優しいコース。

 3時頃に引き上げて、水着専用通路を通って温泉の棚湯に向かう。別府の街を見下ろす空と一体化した広大な露天風呂で、一番前の寝湯の辺りは丁度シンガポールのマリーナベイサンズの雰囲気に似ている。1時間ほど楽しんで、帰る準備に。
ゆっくり温泉気分を味わいたい旅行客には、不向きな古賀乃井ホテルだが、子連れ、孫連れには楽しめるホテルだ。

 棚湯 シンガポールのマリーナ・ベイ・サンズの屋上プールを思い出す。 

 帰りのさんふらわーは、午後7時35分の出港。少し早いが午後5時頃ホテルを出て、別府港に。乗船手続きをして、待つこと30分ほどで乗船。帰路は2階に駐車誘導される。ということは下船に時間がかかるかも。

          
丘の上の杉乃井の建物の3つのシルエット         大阪南港ATC(アジア・太平洋トレードセンター)

 翌朝、7時35分、見慣れたATCの近くの岸壁に着岸。案の定、下船は一番最後になってしまった。
 4泊5日の北九州の歴史旅は午前9時に帰宅で終了しました。
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さんふらわーde九州北部の歴史旅 (その7)征明の拠点 肥前名護屋城跡

2018年06月10日 21時40分09秒 | 異文化体験_日本
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さんふらわー de 九州北部の歴史旅    2018.5.16-20

その7.征明(文禄・慶長の役)の拠点・肥前名護屋城跡


 嬉野温泉を出発しようとすると、一転雷鳴が轟き豪雨となった。しばし小雨になるのを待って出発。予定では有田・伊万里の窯元見学等も考えていたが、出発を遅らせたのでパスすることにし、ナビの案内する最短コースで一路、名護屋城跡に向かう。
 嬉野温泉からおよそ55km、東松浦半島の山道を1時間半ほど走って波戸岬の付け根に位置する名護屋城跡に到着したのは11時頃。

          
   東松浦半島の名護屋城の位置                名護屋城跡に到着(左上の建物が博物館)

 九州の一般的な観光ルートから離れていることもあり、名護屋城跡や県立名護屋城博物館を訪れる人は少ないようだ。しかし、関西人の私にとってこの城跡(文禄・慶長の役)は、関ケ原や大阪冬・夏の陣に多大な影響を与えた所であり、まさに徳川天下を造り出した所と考えられるのだ。

          
  観光案内所で貰った名護屋城案内書              観光案内所から見る弾正丸方面景色 

 名護屋城跡観光案内所で歴史遺産維持協力金100円を支払い、肥前名護屋城の解説パンフを貰って、大手口に向かう。この辺りから見る城跡は城のかげ溜池や弾正丸方面の景色だが、その大きさに驚かされる。

          
   名護屋城の見取り図                  肥前名護屋城図屏風より  

 名護屋城博物館が、城と陣跡の特徴を簡単にまとめているので、若干の付言をして先にそれを紹介する。
●名護屋城は、豊臣秀吉の征明・朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際しての出兵拠点としてわずか5ケ月(主要部分)で築かれた城である。
●1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となった。
●城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇った。
●城の周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされている。
●現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されている。
●名護屋城は、関ヶ原の戦い後、寺沢広高が唐津城を築城した際、一部の遺材を使用したが、1615年の一国一城令で人為的に破却さ
 れた。

 「大手口」から緩やかな登りを終えると「東出丸」、それに続くのが本丸を守る要の「三の丸」。「馬場」を介して「二の丸」にも通じている。三の丸の上に「本丸」が続くが、かつて三の丸から本丸の入口に二層の豪壮な「本丸大手門」があったようだ。伊達政宗が青葉城の大手門に移築し国宝でもあったが、空襲で焼失したようだ。

  
       大手口の石碑              大手口の解説案内              東出丸(千人枡曲輪、遠く呼子大橋が見える)

  
 三の丸(馬場を介して二の丸に通じる)          三の丸解説盤                 三の丸の井戸

 本丸は、東西130m・南北125mで、玄界灘を一望する西北の隅に「天守閣」が置かれていた。巨大な五層天守で、大坂城と同じ入母屋破風、千鳥破風、唐破風などを多用し金箔も施された贅を尽くした豪華な天守だったようだ。
天守閣からは壱岐・対馬も眺望できたとか。ここから遠く朝鮮方面を遠望していたのだろう。本丸跡には元帥東郷平八郎による名護屋城址の石塔が建っている。また、昭和初期に建造された俳人・青木月斗句の碑「太閤が 睨みし海の 霞かな」も置かれている。

  
 広大(130×125m)な本丸跡            本丸跡中央の石碑(東郷平八郎書)        天守閣横の青木月斗句碑

  
本丸西北隅の天守台跡(岬突端を介して朝鮮方面を遠望)     視界の解説盤           天守台跡からの眺め

  
 名護屋城から北方面の航空写真        城周りの主要武将の陣跡            本丸石碑に見る「内務省」

 海縁の高台で風が強く、時折雨も降る天候なので、元来た道を引き返し、隣接する「佐賀県立名護屋城博物館」に向かう。

          
   佐賀県立名護屋城博物館                     博物館で貰う案内書

 1993年10月に開館した名護屋城博物館、訪ねてみて驚いた。まず、施設の立派さ、展示内容の濃さ、そして入館料が無料、おまけにイヤホンガイドの貸し出しも無料。
 2階が展示スペースになっており、「名護屋城以前」、「歴史の中の名護屋城」、「名護屋城以後」、「特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」」の4つのコーナーで大陸との原始・古代から中世、江戸、近・現代の交流を詳しく展示している。

  
  2階展示スペースの展示配置          入口すぐの名護屋城の復元模型         名護屋城復元模型

 また、巨大な名護屋城のパノラマや、文禄の役では秀吉軍が陸戦では優位に戦いを進めるも、李舜臣率いる朝鮮水軍にことごとく破れ補給路を断たれて南海岸まで撃退させられたが、その際の日本水軍の安宅船と朝鮮水軍の亀船の復元模型など、見るべきものは多い。是非ホームページを一度チェックしてみて下さい。
 http://saga-museum.jp/nagoya/nagoya-castle/

  
日本水軍の安宅船(左)と朝鮮水軍の亀船(右)    文禄・慶長の役で築かれた倭城         蔚山倭城跡

 文禄・慶長の役が、秀吉子飼いの武将たちのその後の関係を大きく変え、関ケ原の戦い、更には大阪冬・夏の陣で、誕生することのなかった徳川天下を誕生せしめた重要な出来事であったことは、多くの歴史家が書いていることである。朝鮮半島の南岸には多くの倭城が建設されたが、特に蔚山倭城の籠城等を通じた心理的変化は大きい。

 2007年韓国国立暜州博物館交流記念 特別企画展資料

 有意義な名護屋城跡の見学を終え、2007年10月から行われた特別企画展「秀吉と文禄・慶長の役」の解説書(1000円)を購入し、受付の女性に別府への帰路の案内を乞うて博物館を後にした。
 名護屋博物館から国道204号で唐津を抜け、国道203号で牧瀬から厳木多久有料道路へ、多久ICから長崎自動車道、鳥栖JCTから大分道で別府に戻る206km、3時間のドライブで、無事4時過ぎに別府・杉乃井観光ホテルに到着。
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さんふらわーde九州北部の歴史旅(その6)日本三大美肌の湯 嬉野温泉・嬉野館

2018年06月07日 17時40分10秒 | 異文化体験_日本
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さんふらわー de 九州北部の歴史旅    2018.5.16-20

その6.日本三大美肌の湯 嬉野温泉・嬉野館


 吉野ケ里遺跡から再び東脊振ICに戻り、長崎自動車道を55km走り嬉野ICで一般道に、数分も走れば今宵のお宿嬉野温泉・嬉野館に到着。別府港を午前7時過ぎに出て、旅館到着が午後4時過ぎ。走行距離は330km。

 女が喜ぶと書いて嬉野、この歴史は非常に古く、神功皇后の西征の帰途に傷を負っている白鶴を見付け、心配していたところ、河原に舞い降りて湯浴みをすると再び元気に去っていくのを見て「あな、うれしいの」と感歎、この語が転訛したものという。

          
                  嬉野温泉のシンボル「公衆浴場 シーボルトの湯」

 日本三大美肌の湯といわれている嬉野温泉(残り2つは斐乃上温泉、喜連川温泉)の湯は、無色透明のナトリウムを多く含む重曹泉(ナトリウム-炭酸水素塩・塩化物泉)。温度は85℃~95℃、弱アルカリ泉(pH7.5~8.5)、ナトリウム含有量は試料1kg中400~500mgと多い。713年の「肥前風土記」には「東の辺りに湯の泉ありて能く、人の病を癒す」とあり、宿の効能書きには、角質化した肌をなめらかにし、みずみずしい肌をよみがえらせるとある。
 嬉野温泉は、江戸時代には藩営浴場がありシーボルトも利用したことがあるとか、大正時代にはドイツ人技師が設計した「古湯温泉」が街のシンボルとなったが、その後老朽化のため閉鎖、平成22年公衆浴場「シーボルトの湯」として新たに街のシンボルとなっている。
 確かに、ややぬめりのあるやさしいお湯は、お肌すべすべで気持ちの良いものだ。

          
                   湯快リゾート嬉野館 外観とお部屋

   
部屋からの眺め(天気は下り坂のようだ)          館内ロビー                  入口横の足湯

         
                    大浴場と露天風呂(お湯は最高!)    

 嬉野館は九州に二つある湯快リゾートの一つで、関西近隣の湯快リゾートを行き尽くした我々夫婦にとって久々の湯快リゾートである。結婚記念月であることを知った宿舎から夕食時にデザートプレートと写真のプレゼントがあった。

         
     レストラン                        結婚記念月のセレブレーションプレート

 食事は最近食べ過ぎるきらいからバイキングをやめて、極力会席料理に転じるようにしているが、今日はバイキング。そんな中で、嬉野を訪れたなら、ぜひ味わうべきなのがご当地牛の佐賀牛と名物温泉湯どうふ。特に、温泉湯どうふは温泉水で豆腐をコトコト煮込むと、あら不思議!煮汁が豆乳色に変わり、とろとろの豆腐に仕上がる。実はこれ、嬉野の温泉水だからこそできる奇跡だそうだ。温泉の絶妙な成分バランスが、豆腐のたんぱく質を分解し、とろりととろけさせるのそうだが、その食感と味わいはやみつきになりそうだ。

         
    食べ過ぎに注意!バイキング一皿目               名物「温泉湯どうふ」(ふわとろです!)

          
                   嬉野温泉周辺の観光処
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さんふらわーde九州北部の歴史旅(その5) 弥生人の声が聞こえる 吉野ケ里歴史公園

2018年06月07日 14時36分10秒 | 異文化体験_日本
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さんふらわー de 九州北部の歴史旅    2018.5.16-20

その5.弥生人の声が聞こえる 吉野ケ里歴史公園


 太宰府から再び九州自動車道・大宰府ICに乗り、鳥栖JCTで長崎自動車道に、東脊振ICで降りて4kmほどで吉野ケ里歴史公園に到着する。大宰府から37km、40数分のドライブだ。

  
                 吉野ケ里歴史公園の案内書                   利用料金(シルバー200円)駐車料金(普通310円)

とにかく広い。104ha(国営53、県営51)あるそうだ。東脊振ICから国道385号線でアプローチして直進すべきところを鳥ノ南交差点で右折したため、結局公園を一周して歴史公園センター(東口)駐車場にたどり着いた。

          
園内マップ(4つの見学ルート、我々はひみかの道片道1km)      綺麗に手入れされた歴史公園センター入口

 我が大阪府和泉市にも池上曽根遺跡という弥生時代の環濠集落遺跡があるが、この遺跡公園はスケールが全く違う。あまりゆっくりも出来ないので歴史公園センターで1時間程度のコース案内を乞うと「ひみかのみち」コースを勧められる。
環濠入口広場→展示室→南内郭→北内郭→甕棺墓列→北墳丘墓→巡回バスで戻る、という往路約1km、帰路園内循環バスのコース。
ちなみに、当遺跡は約700年続いた弥生時代のうち、後期後半(紀元3世紀頃)を復元整備対象としているそうだ。

          
               南内郭前の展示室にて(左:貫頭衣、右:甕棺内の遺骨)

 南内郭には、物見やぐら4棟、王たちの家等の居住施設20棟が復元されている。
北内郭には、吉野ケ里集落の中で最も重要かつ神聖な場所とされ、祭祀が執り行われた場所と考えられており、巨大祭殿等9棟の建物が復元されている。
全長300mに及ぶ甕棺墓列には、約500基の甕棺が再現されている。
北墳丘墓は、約2100年前の歴代の王など身分の高い人々が埋葬された特別な墓。この場所からは14基の甕棺が出土し、そのうち1基には青銅の剣とガラスの管玉が、7基の甕棺からは青銅の剣が副葬されていたそうだ。

  
 南内郭(物見やぐら4棟、居住建物20棟)              右2枚は、王の居住空間            

          
  物見やぐらの上から見た南内郭                  集落周りの環濠                 

  
                吉野ケ里集落の中で最も重要かつ神聖な場所(巨大祭殿と当時の祭りごと風景)

おりしも、ここでも岡山からの修学旅行生と鉢合わせ。弥生人の声が聞こえる吉野ケ里遺跡のはずが、元気な中学生たちの笑い声が付いて回った。ちなみに、わが孫も間もなく沖縄へ修学旅行だが、小遣いは規則で1万円とのこと。この岡山の中学生たちに聞くと彼らも1万円だそうで、どことも同じのようだ。

 吉野ケ里のマスコットキャラ「ひみか」

 時すでに3時30分。嬉野温泉までは60km、50分ほどのドライブ。もうひと踏ん張りだ!


 ついでに、わが和泉市の池上曽根遺跡を少し紹介しよう。遺跡総面積は約60ha、その中心部11haが国史跡指定されている。大型掘立柱建物や巨大な丸太くりぬき井戸、多種多様な遺物が出土、府立弥生文化博物館に展示されている。

          
左:いずみの高殿(大型掘立柱建物 80畳)                 右:竪穴住居

           
左:やよいの大井戸(井戸枠直径2.3m 1本の木をくりぬいた井戸)     右:大阪府立弥生文化博物館
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さんふらわーde九州北部の歴史旅 (その4)学生や近隣国客で大賑わい 太宰府天満宮

2018年06月06日 20時58分57秒 | 異文化体験_日本
さんふらわー de 九州北部の歴史旅    2018.5.16-20

その4.修学旅行生や近隣国客やらで大賑わい 太宰府天満宮


 宗像大社から一般道を経て九州自動車道若宮ICから太宰府ICで太宰府天満宮まで、50km弱、およそ1時間ほどで到着。神宮の駐車場がわからず、西鉄太宰府駅前の民間駐車場に駐車。

  
 太宰府天満宮境内略図                    ご案内書                    西鉄・太宰府駅前

 丁度お昼時である。さすが学問の神様、駅前参道は修学旅行生の団体に、近隣諸国からの観光客でごった返している。

        
              修学旅行生の列が途切れることなく続く

 筑紫万葉のふるさと大宰府は、7世紀後半から奈良・平安の時代を通じて約500年の間九州を治め、我が国の防衛や外国との交渉の窓口として重要な役割を果たした所で、その中心が大宰府政庁である。大宰府ICから天満宮に至る途中に「都府桜跡」の名で親しまれている大宰府政庁跡がある。

        
  鎌倉末期作、中世の大鳥居(その先が桜門)          桜門から見る御本殿(本殿右の緑が飛梅)

 太宰府天満宮は、菅原道真公(菅公)を祀る神社として有名だが、菅公の御墓所の上に社殿が造営され、その神霊を奉祀する神社である。学問の神、誠心の神として今日なお世の崇敬を集めている。

  
       さすが学問の神様 お参りする学生たちを一人一人同行カメラマンが撮影するがゆえに長蛇の列

 901年に右大臣から突如大宰府に流された道真は2年後、この地で亡くなった。御遺骸を牛車に乗せて進んだところ、間もなく牛が伏して動かなくなった。これは菅公の御心によるものだろうとその聖地に御遺骸を葬った。京より追従した門弟がここに墓所と神殿を創建、更に左大臣藤原仲平が勅を奉じて造営を進め、919年御社殿を建立した。その後、一条天皇の993年には、正一位左大臣、更に太政大臣を贈られ天満大自在天神(天神さま)と崇められた。

   
       境内の心の字を形どった心字池と朱塗りの3橋(太鼓橋・平橋・太鼓橋=過去・現在・未来を意味する)

 901年、時の左大臣藤原時平の讒言で左遷させられ、2月1日京を立つ時詠んだ歌、
「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」は有名であるが、その梅が菅公を慕って飛来したのが御本殿前の「飛梅」であると伝えられている。(本殿右側にある梅の木がそれ)

        
  本殿横でいただく御朱印          天満宮と言えば御神牛(ボケないように頭を撫でて)

        
門前町に軒を連ねる梅が枝餅の店の一つ「やす武」で熱々の古代米の餅を購入、もっと欲しいが一つで我慢

 御本殿で御朱印をいただき、来春高校入試を迎える孫のために合格祈願のお守りをいただいて、天満宮を退出する。参道には太宰府名物「梅が枝餅」を売る店がわれこそ元祖!と軒を連ねている。熱々の梅が枝餅を頬張りながら、次なる目的地「吉野ケ里遺跡」に向かう。
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さんふらわー de 九州北部の歴史旅(その3)世界文化遺産 宗像大社

2018年06月02日 20時40分09秒 | 異文化体験_日本
(写真はクリックで拡大します)

さんふらわー de 九州北部の歴史旅    2018.5.16-20

その3.世界文化遺産 宗像大社


  
九州本土の宗像大社から大島、沖ノ島方面のスカイビュー(沖ノ島は見えません)            大島から沖ノ島の遠望

 宇佐神宮から再び宇佐ICで東九州自動車道に乗り、北九州JCTで九州自動車道に、若宮ICで降り一般道をおよそ30分走って、昨年世界文化遺産に認定された「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の一つ宗像大社に到着。宇佐神宮より113km、1時間40分ほどのドライブである。

              
   宗像大社の解説                三宮の位置関係                 宗像大社の案内図

  
    本殿への参道                  本殿・拝殿                    高宮祭場(古代の神籬祭場)  

 宗像大社は、沖津宮(沖ノ島、田心姫神)、中津宮(大島、湍津姫神)、辺津宮(九州本土、市杵島姫神)の三宮からなり、辺津宮が総社・宗像大社である。
 天照大神の御子神である田心(たごり)姫神、湍津(たぎつ)姫神、市杵島(いちきしま)姫神の宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、「あなたたち三女神は、大陸との要衝である玄界灘に降臨し、歴代天皇を守護奉りなさい、さすれば歴代天皇があなたたちを祀るでしょう」という天照大神の神勅の下、皇室・国家の守護神として三宮に鎮まったと大社の解説書が説明している。

  
  沖ノ島(沖津宮)の解説          手つかずの自然に囲まれた社殿            古代の祭祀の跡

 玄界灘の沖ノ島の沖津宮は、周囲4kmの小さな島。周囲50km圏内に島はなく絶海の孤島である。定住者はなく宗像大社から派遣された神職が10日交替で365日勤務して祭祀を司っているとのこと。上陸時の海中での禊や、島からの何ものも持出禁止、女人禁制等、固く規律維持されている。一般人が沖津宮を拝礼するためには、大島の沖津宮遥拝所より行うとのことで、いずれにせよ海を渡る必要がある。

  
  大島(中津宮)の解説       本殿は辺津宮より12年古い1566年に再建           沖津宮遥拝所

 記紀の日本神話に登場する宗像大社は、全国有数の古社で、沖津宮の鎮座する沖ノ島は大和朝廷による国家祭祀の場でもあり、国宝級の多くの神宝が発見され、神宝館にて国宝8万点が収蔵展示されている。

  
8万点の国宝中心に神宝館に収蔵されている神宝       金製指輪               金銅製龍頭

 宗像神を祀る神社は、厳島神社、松尾大社、竹生島神社、江島神社、善知鳥神社など、全国に6200をかぞえるとか。

  
  社務所休憩処で解説VTRを拝聴             御朱印               社殿への参道 

 宗像大社の本殿・拝殿は、1557年に焼失したため1578年・1590年にそれぞれ再建された重要文化財である。社務所で御朱印をいただき、ビデオ解説等を見て、次なる目的地太宰府天満宮に向かう。

(本投稿で、実際に行ったのは宗像大社で、大島(中津宮)には行っておりません。宗像大社でいただいた解説書や世界遺産HP等を参考に
大島、沖ノ島について書いています。)
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