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ジョホール・バルとクラーク・キイ、それにしても大阪人は!-シンガポール- 2015.05.13~16
(左)シンガポール地図 ジョホール・バルは地図上端 (中)約1kmのコーズウェイ (右)マレーシアからシンガポールへ給水パイプ
27年ぶり、2度目のマレーシア・ジョホール州の州都ジョホール・バルである。シンガポールとは約1kmのコーズウェイ橋でつながり、それぞれの橋のたもとに入出国管理所があり、結構シビアなチェックを行っている。朝はシンガポールに出稼ぐ通勤客や輸送貨物が多く、シンガポールの入国ゲートには長蛇の車列が形成される。以前来た時の審査は、バスの中に審査官が入ってきてチェックした程度だったんだが。
← ご当地で今なお語り継がれる「マレーの虎(マライのハリマオ)」山下将軍
当地では太平洋戦争で第25軍司令官としてマレー作戦を指揮した山下将軍、別名「マレーの虎」(「マライのハリマオ」)の逸話が語り草になっている。シンガポール戦の終結時に敵将イギリス軍司令官アーサー・パーシバル中将に対し「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話であるが、実際は落ち着いた紳士的な口調の会話だったという。
(左)ジョホール・バルの地図 (中・右)1988年訪問時のイスタナ・ブザール(王宮)、今回は入れなかった
マレーシアは、13の州と3つの連邦特別区で成立しており、ペナン、マラッカ、サバ、サラワク州以外の州にサルタンがおり、5年ごとの会議で国王が選出される。
ジョホールは16世紀初めにサルタン・ムハンマド・シャーが建国、1866年にはサルタン・アブ・バカールがジョホール王国の王に即位。マレー半島の他の州が英国植民地となるが、ジョホール王国は独立を維持し、その為スルタン・アブ・バカールは『近代ジョホールの父』と呼ばれている。
アブ・バカールが1866年に建てた壮麗なサルタン王宮イスタナ・ブザールは、50haもの美しい庭園に囲まれ、緑の芝生に黄金色の建物が映え、ジョホール水道を見下ろすビクトリア調宮殿は圧巻である。前回は内部見学出来たが、今は不可とのこと。
(左)アブ・バカール回教寺院 (中)回教寺院から見るジョホール水道とシンガポール (右)スルタン・イブラヒム・ビルディング
この近辺に同じくアブ・バカール回教寺院がある。立派なモスクだが、ここも信者のお参りの邪魔になるとのことで、今は中に入れず、外観のみ。
現在州の役所として使われているスルタン・イブラヒム・ビルディング。ジョホール・バルのランドマーク的建築物で、戦時中は軍司令部として使用されていたとか。
(左)昔はよく採取された天然ゴム・ラテックス (右)樹上の生物たち
(左・右)お粗末な文化村?でのバンブー音楽とマレーダンス (右)バティック制作のデモンストレーション
(左・中)このツアー唯一の大皿盛り料理でないブッフェ料理 バナナのフライは結構いける (右)ニューヨーク・ホテル
あとは、ご当地の様々な果物、植物が見れる文化村でマレー人に伝わる音楽と踊り、バティックの店等を回って、何故かニューヨークホテルでのブッフェランチ。大皿中華の取り合いに不満を募らせた我々にとって、高評価の昼食であった。でも、このオプショナル半日ツアー15000円はちと高過ぎる。
(左)シンガポール市内を走る水陸両用車 (右)オーチャード通り付近
午後シンガポールに戻り、オーチャード通りで2時間ほどの自由散策となる。この日のオプショナルツアーバスは、関東組との混載バス。ツアーガイドはもともと関東組に付いていたベテランのケンちゃんというガイド。朝出発の時から、ケンちゃんいわく「東京の人はいつも時間守ってくれるけど、大阪の人は結構守らない人が多いので、今日は時間厳守よ!」と関西組にお達しが。ケンちゃんには関東=東京、関西=大阪という構図が出来上がっているようだ。
(左)免税店「Galleria」前の様子 (右)Galleria の表口 バスは裏口にひっきりなしに出入りする
ケンちゃんがこの辺りで散策して!と近辺案内をして解散。我々夫婦は伊勢丹斜め向いのアイオンに向かう。結構地下街が発達していて、ウインドショッピングしながら地下4階の巨大フードコートに到達。ゆっくりお茶でもと思うがどこも満席状態。地上に戻り近くのスターバックスでコーヒーブレイク。時間になり集合場所の免税店Galleriaへ。
(左)伊勢丹の入るビル (中)奇抜な外装のION(アイオン) (右)満席状態の地下4階のフードコート
「二人足りない!」。ケンちゃんが探し回っているが見当たらない。バスの停車場所には後続バスが次々入ってくるので、ゆっくり止まっておれない。仕方なくケンちゃんをおいて、バスは近隣の駐車可能な場所に移動。待つこと20分。あの夫婦が戻ってきた。そう!海外通を自称する大阪の夫婦。道に迷ったらしいが東京組はあきれ顔、大阪人の肩身が狭くなる出来事でした。
(左)プラナカン料理の店「ブルー・ジンジャー」 (右)さほど大きくない店の2階の様子
(左・右)ブルー・ジンジャーのホームページより
今宵の夕食は、プラナカン料理。ガイド本にこの料理の人気店として紹介されている「ブルー・ジンジャー」での夕食。さほど広くない店の2階を我々が占拠。プラナカンとは、近隣国・地域からシンガポールに渡ってきた中国移民が、地元マレー人と結婚して生まれた子孫たちのこと。プラナカン料理は、「ニョニャ」料理とも言う。ニョニャとは、社会的に地位の高い女性に対する敬意と愛情を表すマレーの古い言葉だそうだ。
シンガポールのプラナカン料理は、ココナッツミルクが多用され、インドネシア料理の影響が色濃く反映されている。詳しくはブルー・ジンジャーのホームページをご覧下さい。( http://www.theblueginger.com/ )
(左)リバークルーズの案内書 (中)クラーク・キイ乗り場周辺 (右)クルーズの航路案内
食後は、シンガポール最後の夜をクラーク・キイからのボート遊び。クラーク・キイは、シンガポール川沿いの古い倉庫街を再開発し、19世紀の街並みを再現したお洒落な場所。21年前に来た時はオープン直後でまだ一部工事中だったが、川に浮かぶ船のレストラン、果物の王様ドリアンのメニューだけを揃えた店、ショータイムが話題のクラブ、ボートに乗ってシンガポール川の歴史をたどるアドベンチャーライドなど、特色あるスポットが並んでいた。今は更にマリーナ地区へのボート発着場として更に賑やか場所となっている。遊覧ボートは、クラーク・キイからマリーナ・ベイを往復40分で遊覧する。大人24ドル。
(左)高層ビル群の真下を通って (中)フルトンホテルの壮麗な姿を見て
(左)マリーナに出るとマーライオンの噴水が間近 (中)対岸にマリーナベイサンズのシルエット (右)遅くまで賑わうクラーク・キイ
林立する高層ビルやフルトンホテルの夜景を見ながらマリーナ・ベイに船が入るとマーライオン吐き出す噴水を真正面から見、反対側にマリーナ・ベイ・サンズホテルの200mのシルエットを見るに及んでこの遊覧ボートのクライマックスとなる。
(左・右)1994年訪問時のオープン直後のクラーク・キイ。20年経って新たな機能も付加され進化するクラーク・キイとシンガポール
まさに、巨大エンターテイメント都市に変貌したシンガポール。日本を手本に成長し、今や日本を追い抜かんばかりの国民一人当たり経済力。若い力を喪失した日本が彼らにとってどのようなお手本に映っているのか、10年後にもう一度訪れたい街、いや国である。
ジョホール・バルとクラーク・キイ、それにしても大阪人は!-シンガポール- 2015.05.13~16
(左)シンガポール地図 ジョホール・バルは地図上端 (中)約1kmのコーズウェイ (右)マレーシアからシンガポールへ給水パイプ
27年ぶり、2度目のマレーシア・ジョホール州の州都ジョホール・バルである。シンガポールとは約1kmのコーズウェイ橋でつながり、それぞれの橋のたもとに入出国管理所があり、結構シビアなチェックを行っている。朝はシンガポールに出稼ぐ通勤客や輸送貨物が多く、シンガポールの入国ゲートには長蛇の車列が形成される。以前来た時の審査は、バスの中に審査官が入ってきてチェックした程度だったんだが。
← ご当地で今なお語り継がれる「マレーの虎(マライのハリマオ)」山下将軍
当地では太平洋戦争で第25軍司令官としてマレー作戦を指揮した山下将軍、別名「マレーの虎」(「マライのハリマオ」)の逸話が語り草になっている。シンガポール戦の終結時に敵将イギリス軍司令官アーサー・パーシバル中将に対し「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話であるが、実際は落ち着いた紳士的な口調の会話だったという。
(左)ジョホール・バルの地図 (中・右)1988年訪問時のイスタナ・ブザール(王宮)、今回は入れなかった
マレーシアは、13の州と3つの連邦特別区で成立しており、ペナン、マラッカ、サバ、サラワク州以外の州にサルタンがおり、5年ごとの会議で国王が選出される。
ジョホールは16世紀初めにサルタン・ムハンマド・シャーが建国、1866年にはサルタン・アブ・バカールがジョホール王国の王に即位。マレー半島の他の州が英国植民地となるが、ジョホール王国は独立を維持し、その為スルタン・アブ・バカールは『近代ジョホールの父』と呼ばれている。
アブ・バカールが1866年に建てた壮麗なサルタン王宮イスタナ・ブザールは、50haもの美しい庭園に囲まれ、緑の芝生に黄金色の建物が映え、ジョホール水道を見下ろすビクトリア調宮殿は圧巻である。前回は内部見学出来たが、今は不可とのこと。
(左)アブ・バカール回教寺院 (中)回教寺院から見るジョホール水道とシンガポール (右)スルタン・イブラヒム・ビルディング
この近辺に同じくアブ・バカール回教寺院がある。立派なモスクだが、ここも信者のお参りの邪魔になるとのことで、今は中に入れず、外観のみ。
現在州の役所として使われているスルタン・イブラヒム・ビルディング。ジョホール・バルのランドマーク的建築物で、戦時中は軍司令部として使用されていたとか。
(左)昔はよく採取された天然ゴム・ラテックス (右)樹上の生物たち
(左・右)お粗末な文化村?でのバンブー音楽とマレーダンス (右)バティック制作のデモンストレーション
(左・中)このツアー唯一の大皿盛り料理でないブッフェ料理 バナナのフライは結構いける (右)ニューヨーク・ホテル
あとは、ご当地の様々な果物、植物が見れる文化村でマレー人に伝わる音楽と踊り、バティックの店等を回って、何故かニューヨークホテルでのブッフェランチ。大皿中華の取り合いに不満を募らせた我々にとって、高評価の昼食であった。でも、このオプショナル半日ツアー15000円はちと高過ぎる。
(左)シンガポール市内を走る水陸両用車 (右)オーチャード通り付近
午後シンガポールに戻り、オーチャード通りで2時間ほどの自由散策となる。この日のオプショナルツアーバスは、関東組との混載バス。ツアーガイドはもともと関東組に付いていたベテランのケンちゃんというガイド。朝出発の時から、ケンちゃんいわく「東京の人はいつも時間守ってくれるけど、大阪の人は結構守らない人が多いので、今日は時間厳守よ!」と関西組にお達しが。ケンちゃんには関東=東京、関西=大阪という構図が出来上がっているようだ。
(左)免税店「Galleria」前の様子 (右)Galleria の表口 バスは裏口にひっきりなしに出入りする
ケンちゃんがこの辺りで散策して!と近辺案内をして解散。我々夫婦は伊勢丹斜め向いのアイオンに向かう。結構地下街が発達していて、ウインドショッピングしながら地下4階の巨大フードコートに到達。ゆっくりお茶でもと思うがどこも満席状態。地上に戻り近くのスターバックスでコーヒーブレイク。時間になり集合場所の免税店Galleriaへ。
(左)伊勢丹の入るビル (中)奇抜な外装のION(アイオン) (右)満席状態の地下4階のフードコート
「二人足りない!」。ケンちゃんが探し回っているが見当たらない。バスの停車場所には後続バスが次々入ってくるので、ゆっくり止まっておれない。仕方なくケンちゃんをおいて、バスは近隣の駐車可能な場所に移動。待つこと20分。あの夫婦が戻ってきた。そう!海外通を自称する大阪の夫婦。道に迷ったらしいが東京組はあきれ顔、大阪人の肩身が狭くなる出来事でした。
(左)プラナカン料理の店「ブルー・ジンジャー」 (右)さほど大きくない店の2階の様子
(左・右)ブルー・ジンジャーのホームページより
今宵の夕食は、プラナカン料理。ガイド本にこの料理の人気店として紹介されている「ブルー・ジンジャー」での夕食。さほど広くない店の2階を我々が占拠。プラナカンとは、近隣国・地域からシンガポールに渡ってきた中国移民が、地元マレー人と結婚して生まれた子孫たちのこと。プラナカン料理は、「ニョニャ」料理とも言う。ニョニャとは、社会的に地位の高い女性に対する敬意と愛情を表すマレーの古い言葉だそうだ。
シンガポールのプラナカン料理は、ココナッツミルクが多用され、インドネシア料理の影響が色濃く反映されている。詳しくはブルー・ジンジャーのホームページをご覧下さい。( http://www.theblueginger.com/ )
(左)リバークルーズの案内書 (中)クラーク・キイ乗り場周辺 (右)クルーズの航路案内
食後は、シンガポール最後の夜をクラーク・キイからのボート遊び。クラーク・キイは、シンガポール川沿いの古い倉庫街を再開発し、19世紀の街並みを再現したお洒落な場所。21年前に来た時はオープン直後でまだ一部工事中だったが、川に浮かぶ船のレストラン、果物の王様ドリアンのメニューだけを揃えた店、ショータイムが話題のクラブ、ボートに乗ってシンガポール川の歴史をたどるアドベンチャーライドなど、特色あるスポットが並んでいた。今は更にマリーナ地区へのボート発着場として更に賑やか場所となっている。遊覧ボートは、クラーク・キイからマリーナ・ベイを往復40分で遊覧する。大人24ドル。
(左)高層ビル群の真下を通って (中)フルトンホテルの壮麗な姿を見て
(左)マリーナに出るとマーライオンの噴水が間近 (中)対岸にマリーナベイサンズのシルエット (右)遅くまで賑わうクラーク・キイ
林立する高層ビルやフルトンホテルの夜景を見ながらマリーナ・ベイに船が入るとマーライオン吐き出す噴水を真正面から見、反対側にマリーナ・ベイ・サンズホテルの200mのシルエットを見るに及んでこの遊覧ボートのクライマックスとなる。
(左・右)1994年訪問時のオープン直後のクラーク・キイ。20年経って新たな機能も付加され進化するクラーク・キイとシンガポール
まさに、巨大エンターテイメント都市に変貌したシンガポール。日本を手本に成長し、今や日本を追い抜かんばかりの国民一人当たり経済力。若い力を喪失した日本が彼らにとってどのようなお手本に映っているのか、10年後にもう一度訪れたい街、いや国である。