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トゥトアンクアムン(ツタンカーメン)との再会 ―カイロ― 2008.12.25
渋滞の始まらない時間帯にギザ郊外のホテルを出て、カイロのランドマーク 「ガーマ・ムハンマド・アリ」 に向かう。
← カイロのランドマーク 巨大モスク「ガーマ・ムハンマド・アリ」
1857年に完成したこの大型ドームを持つモスクは、イスタンブールのモスク(537年に完成を見たアヤ・ソフィア大聖堂、大型ドームの起源)を手本にしている。
ペンデンティブドームという建築手法が直径30mというアヤ・ソフィアの大ドームを可能ならしめたわけだが、ビザンチン形式の建築史における最大の貢献と言われている。
ビザンチンの材料は煉瓦とモルタルが基本であり、ドームの工期短縮というメリットはあったものの、一方で滑落等による修復の繰り返しという短所もあった。このため、ベネツィアのサン・マルコ寺院(11世紀)の例もあるが、中期以降のビザンチン建築においてドームそのものは小型化していく。
(左)フランス政府によるオベリスクの返礼の時計 (右)無数のランプに照らされた巨大空間
中庭北端にルクソール神殿のオベリスクのお返しに仏政府が贈った時計が飾られているが、今は動いていない。内部空間はシャンデリアや無数のランプ等の光が赤い絨毯に吸収され、荘厳な雰囲気を醸し出している。
← 「ガーマ・ムハンマド・アリ」から見るカイロ市街
いよいよこの旅の最期の見学場所、「エジプト考古学博物館」にやってきた。それほど大きな博物館ではないが、見るべきものは多い。
← 多様な人種が訪れるカイロ考古学博物館
1Fの42号室は、おなじみの「書記坐像」。50cmほどの石灰岩で彫られた像である。かつら?を被り目は水晶、縁は緑青が塗られている。同室の「カ・アペル像」は無花果の木で彫った立像の僧。
143号室は、クフ王坐像。象牙で出来た親指ほどの像に、大勢の見物人が群がる様は、あの最大のピラミッドを造った偉大な王と対照的である。さらに部屋は定かでないが、「神官セネプと家族の像」は往時の庶民的な家族像を推し量ることの出来るものである。ここまでが古王朝の展示品。
(左)書記座像(約50cm大) (中左)建築王クフ王座の像(親指大) (中右)神官セネプと家族の像 (右)トトメス3世立像
26号通路には中王朝時代の2mほどの大きさの「メンチュヘテプⅡ世坐像」がある。砂岩で足太に彫られ、下エジプト帽子を被り、赤、黒、白で彩色されている。
12号室は新王朝「トトメスⅢ世立像」がある。エジプトのナポレオンと言われ領土をどんどん拡大、と共にビールとワインも拡げた王。鶏をシリアから持ってきた王でもある。紀元前1500年頃のことで、9本の足(当時の領土域の数)を持つ。
さて、いよいよ2Fはお目当てのツタンカーメンとミイラ室である。
ミイラ室に入るのに100L.E.必要という事前アナウンスが徹底されていたので、皆ドルではなくエジプト・ポンドを残していた。
ラムセスⅡ世のミイラは有名だが、数十体のミイラが2部屋に分割展示されている。皆、それぞれの時の王や王妃である。まさか今日、こんな形で人前にさらされようとは思ってもいなかったろうに。
← ラムセスⅡ世のミイラ
ツタンカーメンとの再会。これには二つの意味がある。日本が高度成長期を迎えた1965年。我が国に初めてツタンカーメンのマスクがやってきた。多くの日本人がその精巧な出来栄えに驚嘆したが、私もその一人であり、今回が43年ぶりの再会である。
もう一つの意味合いは、王家の谷に眠るトゥトアンクアムン(ツタンカーメン)のミイラに会ったのが12月20日、5日ぶりのあの場所にあった副葬品の数々との再会である。
ツタンカーメンの黄金のマスク(Funerary mask of Tutankhamun)にとどまらず、その周辺に展示されている副葬品の芸術的、工芸的、デザイン的、材料的、色彩学的出来映えは、とてもとても3500年前のものとは思えない。また、これだけの原材料を集めることが出来た当時の社会の仕組みとは、どんなものであったのだろう。
博物館で購入した「ツタンカーメンの秘宝 48選」からいくつかを紹介しよう。
← 「ツタンカーメンの秘宝 48選」表紙
(左)ツタンカーメン王の真ん中の棺(204L,78H,68W) (右)日本にもやってきた「黄金のマスク」
(左)ツタンカーメン王の王座(104H,足置きの長さ63.5cm) (右)王座(椅子にくつろぐ王に王妃が香油を塗っている)
(左)豹の背に乗ったツタンカーメン王(85.6H) (右)太陽と月のシンボルを戴く胸飾り(14.9H,14.5W)
「5000年の時空を超える旅」を締め括る素晴らしい作品とその背景を偲ばせる時空間であった。
トゥトアンクアムン(ツタンカーメン)との再会 ―カイロ― 2008.12.25
渋滞の始まらない時間帯にギザ郊外のホテルを出て、カイロのランドマーク 「ガーマ・ムハンマド・アリ」 に向かう。
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1857年に完成したこの大型ドームを持つモスクは、イスタンブールのモスク(537年に完成を見たアヤ・ソフィア大聖堂、大型ドームの起源)を手本にしている。
ペンデンティブドームという建築手法が直径30mというアヤ・ソフィアの大ドームを可能ならしめたわけだが、ビザンチン形式の建築史における最大の貢献と言われている。
ビザンチンの材料は煉瓦とモルタルが基本であり、ドームの工期短縮というメリットはあったものの、一方で滑落等による修復の繰り返しという短所もあった。このため、ベネツィアのサン・マルコ寺院(11世紀)の例もあるが、中期以降のビザンチン建築においてドームそのものは小型化していく。
(左)フランス政府によるオベリスクの返礼の時計 (右)無数のランプに照らされた巨大空間
中庭北端にルクソール神殿のオベリスクのお返しに仏政府が贈った時計が飾られているが、今は動いていない。内部空間はシャンデリアや無数のランプ等の光が赤い絨毯に吸収され、荘厳な雰囲気を醸し出している。
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いよいよこの旅の最期の見学場所、「エジプト考古学博物館」にやってきた。それほど大きな博物館ではないが、見るべきものは多い。
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1Fの42号室は、おなじみの「書記坐像」。50cmほどの石灰岩で彫られた像である。かつら?を被り目は水晶、縁は緑青が塗られている。同室の「カ・アペル像」は無花果の木で彫った立像の僧。
143号室は、クフ王坐像。象牙で出来た親指ほどの像に、大勢の見物人が群がる様は、あの最大のピラミッドを造った偉大な王と対照的である。さらに部屋は定かでないが、「神官セネプと家族の像」は往時の庶民的な家族像を推し量ることの出来るものである。ここまでが古王朝の展示品。
(左)書記座像(約50cm大) (中左)建築王クフ王座の像(親指大) (中右)神官セネプと家族の像 (右)トトメス3世立像
26号通路には中王朝時代の2mほどの大きさの「メンチュヘテプⅡ世坐像」がある。砂岩で足太に彫られ、下エジプト帽子を被り、赤、黒、白で彩色されている。
12号室は新王朝「トトメスⅢ世立像」がある。エジプトのナポレオンと言われ領土をどんどん拡大、と共にビールとワインも拡げた王。鶏をシリアから持ってきた王でもある。紀元前1500年頃のことで、9本の足(当時の領土域の数)を持つ。
さて、いよいよ2Fはお目当てのツタンカーメンとミイラ室である。
ミイラ室に入るのに100L.E.必要という事前アナウンスが徹底されていたので、皆ドルではなくエジプト・ポンドを残していた。
ラムセスⅡ世のミイラは有名だが、数十体のミイラが2部屋に分割展示されている。皆、それぞれの時の王や王妃である。まさか今日、こんな形で人前にさらされようとは思ってもいなかったろうに。
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ツタンカーメンとの再会。これには二つの意味がある。日本が高度成長期を迎えた1965年。我が国に初めてツタンカーメンのマスクがやってきた。多くの日本人がその精巧な出来栄えに驚嘆したが、私もその一人であり、今回が43年ぶりの再会である。
もう一つの意味合いは、王家の谷に眠るトゥトアンクアムン(ツタンカーメン)のミイラに会ったのが12月20日、5日ぶりのあの場所にあった副葬品の数々との再会である。
ツタンカーメンの黄金のマスク(Funerary mask of Tutankhamun)にとどまらず、その周辺に展示されている副葬品の芸術的、工芸的、デザイン的、材料的、色彩学的出来映えは、とてもとても3500年前のものとは思えない。また、これだけの原材料を集めることが出来た当時の社会の仕組みとは、どんなものであったのだろう。
博物館で購入した「ツタンカーメンの秘宝 48選」からいくつかを紹介しよう。
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(左)ツタンカーメン王の真ん中の棺(204L,78H,68W) (右)日本にもやってきた「黄金のマスク」
(左)ツタンカーメン王の王座(104H,足置きの長さ63.5cm) (右)王座(椅子にくつろぐ王に王妃が香油を塗っている)
(左)豹の背に乗ったツタンカーメン王(85.6H) (右)太陽と月のシンボルを戴く胸飾り(14.9H,14.5W)
「5000年の時空を超える旅」を締め括る素晴らしい作品とその背景を偲ばせる時空間であった。