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旅行記、世相独言

本場でバレエ(白鳥の湖)を初体験  -ピーテルー (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅8)

2015年09月17日 15時46分30秒 | 異文化体験_中・東欧
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本場でバレエ(白鳥の湖)を初体験  2015.07.10

 ペテルゴフの噴水芸術を堪能し、ピーテルに戻る車中、今宵のバレエ観賞の説明があった。料金は旅行代金に含まれているが、公演内容や劇場は定かでなかった。説明によるとミハイロフスキー劇場での白鳥の湖を観賞、開演は7時半、39名ものツアー客だけに席はばらけるとのこと。とりあえず、早く市内のレストランに着いて、夕食を済まさなくては。

            
(左)ペテルゴフからの帰路の高速料金所           (右)ネフスキー大通りのカザン聖堂

            
(左)ネフスキー大通りのゴスチーヌイ・ドヴォール      (右)同じくポールチク

 フォンタンカ河畔のサーカス(改装中)向いのレストランで、壺焼きシチューをメインとする夕食だが、スタッフが少ないのか食事の提供にムラがあり、開演時刻が迫ってきているので食後の飲み物をパスして、ミハイロフスキー劇場に向かう。

            
(左)フォンタンカのサーカス                     (右)夕食のレストラン「デジャヴ」

  
                  (左・中・右)壺焼きシチューをメインとする夕食

            
(左)ミハイロフスキー劇場近辺の施設:グランドホテル        (右)同じくロシア民族学博物館


 1833年創設のミハイロフスキー劇場は、1783年創設のマリインスキー劇場には及ばないが、ピーテルでは2番目に歴史のあるオペラ・バレエ劇場である。

  
(左)ミハイロフスキー劇場                (中)白鳥の湖(イメージ)            (右)マリインスキー劇場

 「白鳥の湖」は、チャイコフスキーにより作曲されたバレエ音楽、およびクラシックバレエ作品、1877年にモスクワ・ボリショイ劇場バレエ団が初演した。今でこそ「眠れる森の美女」、「くるみ割り人形」と共に3大バレエと言われるが、初演当初は極めて不評で一度はお蔵入りした作品。チャイコフスキーは1893年に没するが、その2年後1895年 サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場バレエ団が蘇演、その後演出家たちによる様々な版が誕生し、今日的名声を得るようになったのだが、チャイコフスキーは残念ながらこのことを全く知らない。

        
(左)劇場演目ポスター前で記念撮影のロシア娘 (中)演目ポスター(SOLD OUTの襷が)    (右)今宵のチケット

 通常、清純な白鳥オデットと妖艶な黒鳥オディール役は、同じバレリーナが演じる。衣装(オデット=白、オディール=黒)が違うが如く、全く性格の違う2つの役を一人で踊り分けるのはバレリーナにとって大変なこと。特に32回連続のフェッテ(片足はつま先で立ち、もう一方の足をむちのように蹴り出して旋回する技法)など、優雅さと演技力、表現力、技術、体力、スピードすべてに高いレベルが要求される役である。

            
       (左・右)1833年建造のミハイロフスキー劇場

  
(左・中・右)愛称はマールイ劇場(小劇場) ちなみにボリショイ劇場(大劇場)はマリインスキー劇場

            
(左)お隣ボックス席には跨いでいける              (中)幕間の小休止・売店コーナー

            
(左・右)ボックス席の扉は、オートロック。そのカードキイ。なのにボックス席同士の境界は跨いで行ける

 今宵のオデット/オディール役は、第12回モスクワ国際バレエコンクールのメダリストで、ボリショイバレエで3年経験を積み昨年ミハイロフスキーに移籍、今はファーストソリストとして活躍する「アナスタシア・ソボレワ」。ジークフリード王子役は期待の若手「ヴィクトル・レベデフ」。

      
(左)「アナスタシア・ソボレワ」 (中左)今宵のキャスト  (中右)「ヴィクトル・レベデフ」  (右)20ルーブルの英語パンフ


 帝室ミハイロフスキー劇場として誕生し、ソ連時代はレニングラード国立歌劇場と呼ばれ、ピーテルの人々に愛され続けているこの劇場。小生は3階のボックス席から観賞。定員3人のボックス席、部屋の扉は何とオートロック式。しかし、隣のボックス席へは境界を跨いでいけば難なく行ける。カードキイを貰ったがどういう意味があるのだろう。正装して観賞する人もいれば、我々のようなラフな旅行姿のものもいる。

            
(左)幕後の拍手・喝采に答える舞台       (右)左よりミハイル・ベンシチコフ アナスタシア・ソボレワ ヴィクトル・レベデフ

 全4幕、2時間半の公演がブラボーの嵐の中で終わったが、今宵のミハイロフスキー劇場バレエ団、何と2016年新春来日公演が決まっているそうだ。

            
(左)終演後の劇場前広場(NOフラッシュ撮影)             (右)白夜の中をホテルに戻る

 10時過ぎのミハイロフスキー劇場前には、興奮気味の人達が次々出口から出てくる。サンクトペテルブルグの夜はまだまだ薄明りの白夜状態だが、バレエ鑑賞の余韻に浸りながらホテルに戻る。

 明日の朝は早い。次なる目的地モスクワに移動だ。

噴水の都 ・ ペテルゴフ   -ピーテル- (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅7)

2015年09月10日 17時49分46秒 | 異文化体験_中・東欧
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噴水の都 ・ ペテルゴフ  2015.07.10

 サンクト・ペテルブルグから西へ29km、噴水芸術の都「ペテルゴフ」がある。
 今回の旅行でエルミタージュに次ぐ訪問してみたいサイトである。土木工学の語源が築土構木なら、さしずめ築土構水、土水工学という言葉があってもいいのではと思うが。
しかし、原理は芝居小屋の水芸と何ら変わらないので、それを広大な大地をキャンバスに描いたところに面白さがある。

⇔ 噴水を詳述した日本語解説本 (黄金像は「獅子の口を裂くサムソン」) 

 フィンランド湾の南岸に夏の離宮としてピヨートル1世自らが宮殿建築のみならず、噴水庭園の設計・建設に加わったというペテルゴフ。創設以来、200年をかけて様々な時代に10棟を超える宮殿や1000㏊に及ぶ庭園と150基に及ぶ噴水が建造されてきた。

 ⇔ ペテルゴフ入口 夏宮の宮殿教会側から入る(宮殿内撮影禁止)

宮殿はエルミタージュ(冬宮)やエカテリーナ宮殿同様、夏の離宮として供せられ、よく似た内容だが撮影禁止である。

夏の観光客の興味は、やはり宮殿の外の世界にある。そこで、300年にわたり動き続けている噴水、そのメカニズムと水遊びの精神に少しでも触れてみたい。

まず、ペテルゴフの全体を鳥瞰してみよう。宮殿のある高台に設けられた庭園を上庭園、高台の下の庭園を下庭園と呼ばれている。
この地をペテルゴフ建設に選んだ理由は、南およそ20kmのところに地下水脈を源とする泉が沢山あること、そこから水を引き寄せることが可能であること、が主な理由。

            
(左)ペテルゴフの案内図                     (右)ペテルゴフの上空写真 (いずれも日本語本より)

1721年、ロプシャ高地の泉から上庭園の貯水池へ水を引き込む閘門と掘割の工事が始まった。全く人為的力を加えることなく、水が流れ込み、上庭園の噴水に配水されるが、上庭園で創り出せる水柱高さは水圧の関係で大したものではなかった。 一方、高台の下庭園では16mの落差を利用した水圧で、多くの噴水にもかかわらず見事な飛沫となって空高く舞い上がっている。

15m高さまで噴き上がる噴水、一見贅沢の限りに見えるが、ここには節約の技術も取り入れられている。水柱の中は実は空洞となっており、噴射部の水管に円錐が逆さに嵌め込まれ、高い水圧の水がこの噴射部水管と円錐の間の円形隙間から勢いよく出る仕掛けになっている。

  
(左)「大滝とペテルゴフ大宮殿」1845水彩画      (中・右)宮殿前のテラスから大滝、海の運河を望む

 何といっても圧巻は、カスケード「大滝」。現在我々が見ている大滝になるのに、100年ほどの年月が費やされているようだ。「海の運河」は1715年の宮殿建設と共に工事が始まり、離宮への海からの玄関として当初から構想されたもの。1723年ロシア宮廷付フランス大使は以下の言葉を残している。
「ピヨートルは我らを運河の岸で迎えり。この運河、宮殿と海を繋ぎ、長さが1000歩、横が20歩、伸びること一直線をなす。石を組んで作られしものなり。水門も擁す。船団の出入りに極めて便利なり。水は素晴らしき噴水よりとうとうと流れ込み、この噴水もまた、様々な金箔の像にて彩られし様、運河に相応しく豪華なり。」

  
(左)撮影スポットに必ずいます   (中)16mの高低差を持つカスケード「大滝」  (右)大滝 下半円形プールからの眺め

            
(左)大滝の中心は5つの下洞窟(写真では3つが見える) (右)「獅子の口を裂くサムソン」下公園の最強噴水(解説本表紙)

                               
(左)金色に輝く装飾彫像の一つ「カリビゴスのヴィーナス」    (右)時間をかけてゆっくり近くで見たい芸術作品です

 海の運河によって102㏊の下庭園は、便宜上東・西サイドに分けられる。我々は、時間の関係で東サイドを中心に見学した。
 大滝から東に進むとすぐに噴水「碗(フランス噴水)」がある。ここから斜めに海側に進むと噴水「アダム」があり、これは海の運河の反対側の噴水「イヴ」と対をなすものである。

            
(左)東公園の噴水「碗(フランス噴水)」(後方は宮殿教会)  (右)噴水「アダム」(西公園には噴水「イブ」がある)

ここから更に森の中を東に進むとピヨートル1世像のある十字路に着く。不思議なことにこの辺りに生息するカラスが何と灰色と黒のツートンカラー。十字路の近辺には悪戯の噴水がいくつかある。「パラソル」や「小さなエゾマツ」等がそれである。

            
(左)この公園に生息するカラスは、ツートンカラー         (右)ピヨートル1世像

            
(左) 悪戯の噴水「パラソル」                      (右)悪戯の噴水「小さなエゾマツ」    

また、東側海の突端のモン・プレジール宮殿近くの噴水「太陽」は、極めて珍しい技術的にも複雑な噴水で、弧を描いて水を放つ16頭のイルカに囲まれた柱の頂部には黄金の回転円盤がありそこから放射状に飛沫が上がり太陽光線を思わせている。

            
             (左・右)  噴水「太陽」  技術的にも複雑な回転噴水

 ピヨートル像を南へ、離宮側に戻ると二つの「ローマ噴水」がある。大理石台座の上に巨大な円盤が鎮座し、5筋の水飛沫が上がっている。噴水に気を取られてスリの被害に会わぬよう注意看板が目につく。

         
(左・中)「ローマ噴水」大理石台座の上の巨大円盤から5筋の噴水(対で形成している)  (右)スリに注意の看板

 そして、そのすぐ南側にカスケード「チェス盤の丘」がある。ローマ噴水に水を送っているのもこの「チェス盤の丘」だ。上下両端に洞窟への入口があり、上の入口は3頭の龍で護られている。一瞬バルセローナ・ガウディのグエル公園が脳裏を横切った。両脇階段にはイタリア製の古代神の大理石像10体が立ち並ぶ。

            
          (左・右) カスケード「チェス盤の丘」(上のローマ噴水に給水している)

 ここから離宮出口方面に向かって坂を上っていくと、右手下の方に大温室が見える。この温室の前に温室庭園が整備され、その中央に「温室噴水」がある。トリトンに口を割り裂かれた海獣の口から勢いよく噴水が上がっている。

            
(左)大温室と温室庭園 中央に温室噴水            (右)出口すぐの売店 アイスクリームもよく売れる 

 午前のエカテリーナ宮殿、そして午後のペテルゴフと結構歩いた。今宵はこれからサンクト・ペテルブルグに戻り、夕食の後、本場バレーの観賞である。


ツァールスコエ・セローとエカテリーナ宮殿 -ピーテル- (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅6) 

2015年09月03日 18時50分56秒 | 異文化体験_中・東欧
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ツァールスコエ・セローとエカテリーナ宮殿  2015.07.10

 ホテルを9時半に出発し、ピーテルの南約25kmのツァールスコエ・セローに向かう。ロシアの高速道路は最高速度規制が110km/hだが、日本同様+20km位で走るのでどの車も130km以上のスピードが出ている。しかも結構年季の入った車も多いので衝撃映像を集めたTV番組でロシアの交通事故が多いのに納得する。

 ⇔ ロシアの高速道路制限110km/h, ゆえに130~140km/hで走行。

 公園宮殿ツァールスコエ・セローは、エカテリーナ公園とアレクサンドル公園という2つの巨大(300㏊)な公園に展開される公園芸術で、様々な宮殿は歴代皇帝の夏の住まいとして利用されてきた。その宮殿の代表格がエカテリーナ宮殿である。

             
(左)ツァールスコエ・セローの日本語本     (右)300ヘクタールに及ぶ広大なツァールスコエ・セロー

 最初の宮殿は1724年ピヨートル大帝の妃、エカテリーナ1世のために建設され、その名が宮殿名となっているが、その後何代にもわたって増改築がなされ、美術的全体像が出来上がったのは19世紀初頭とのこと。
 宮殿への入口は宮殿教会の横のゲートから入るが、ゲート前の路上には各国の音楽を奏でて小遣い稼ぎをする演奏家たちがいて、幸い我々のグループには日本の音楽を奏でたので中国人と間違われなかったと一安心。安心できないのは空模様。黒い雲が迫ってきて時折大きな雷鳴が聞こえる。

           
(左)エカテリーナ宮殿正面                (右)エカテリーナ宮殿内部構成(右の宮殿教会の上が入口) 

           
(左)入口切符売り場横で小遣い稼ぎの演奏家たち      (右)宮殿教会の金色に輝く円屋根

  
(左)外壁300mとも言われる宮殿中庭を入口へ  (中)宮殿正面入口             (右)宮殿の外壁装飾

 早速、宮殿内部を見てみよう。現在30のホールが見物対象になっているが。最大の見どころは初期17の間で構成された「黄金のアンフィラーダ」。見どころは、特に「大広間」と「琥珀の間」の2つである。

 まず、中央階段を2階に上がっていく。エルミタージュの大使の階段ほどではないが、白壁に様々な装飾や時計が見事である。

           
(左)正面階段                            (右)正面階段北側壁の装飾時計

 まず最初の見どころの一つ「大広間」。ここは、井上靖著「おろしあ国酔夢譚」の大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に謁見した間として知られている。映画もここで撮影されたとか。大きな窓と鏡の連続性に風変わりな黄金の室内装飾、更にロシアの勝利をモチーフにした天井画、寄木細工の床等々、見事な大広間である。更に、これに美しい女帝(女帝とのツーショットは1枚につき200ルーブル=600円必要)まで加わると、当時の雰囲気が伝わってくる。しかし、この広間には長蛇の列が出来ていて、この広間の先の「琥珀の間」への入場クッションに使われもいる。

           
(左)大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に謁見した大広間         (右)黄金に輝く彫刻装飾

           
(左)黄金のアンフィラーダの中心 860㎡の大広間          (右)天井画(ロシアの勝利)

           
(左)左壁側に次の間見学の順番待ち列              (右)女帝との記念ツーショットは200ルーブル

 琥珀の間への間に、目覚める天使、眠れる天使の像や騎士の食堂の間、皇族の肖像画等がある。

  
(左)騎士の食堂の間             (中)眠れるキューピッド像        (右)白の主食堂

                     
(左)エリザヴェータ・ペトローヴナの肖像画(1758)      (右)エカテリーナ1世の肖像画(1726) 

 もう一つの見どころ「琥珀の間」は、部屋全体が琥珀で覆われた珍しい部屋。この琥珀は1716年プロイセン王がピヨートル大帝に贈ったものをエリザヴェータが冬宮からここに運び、装飾の手を加えて琥珀の間を作成したが、第2次大戦時ナチス・ドイツ軍が持ち去り行方不明となった。しかし、2003年5.7tの琥珀を用いて、琥珀細工、琥珀モザイク画が再現され、大きな話題を集め、今日の観光スポットとなった。

                  
(左)琥珀の間(写真撮影禁止ゆえ部屋に入る扉の前で撮影)    (右)モザイク装飾された琥珀の間(解説本より)

 絵画の間やアレクサンドル1世の客間等を経て、宮殿の外、エカテリーナ公園側に出る。このツアーでは公園を散策する時間はないようだが、宮殿の真正面にフランス式庭園が広がり、その先にエルミタージュも遠望できる。

   
(左)絵画の間    (中左)アレクサンドル1世の肖像画  (中右)緑の食堂     (右)給仕の間 見事な寄木床

 ⇔ 戦時中ドイツナチスにより荒れ放題の宮殿

  
(左)宮殿を出てエカテリーナ庭園側に出る    (中)宮殿正面のフランス式庭園    (右)庭園奥のエルミタージュの一部


 雲行きが怪しくなってきた。小雨がパラつき出し、依然として時折雷鳴も聞こえる。バスの駐車場に向かう途中で大粒の雨になった。一時避難で全員土産物屋に入っての雨宿り。しかし、路上には合羽や雨傘をさして大勢の人が入場待ちしている。何と辛抱強い人達よ!と感心して見ているが、雨は更にバケツをひっくり返した状態に。これが30分近く続くと、さすがに列も縮小したが、それでも頑張る人がいるのには驚いた。

 ⇔ 雨宿りのお土産屋で買ったキイホルダー

 昼食は、公園近くのお店で「ポルシチ」と「ピロシキ」それにご飯ものを食す。ピロシキは、大阪ミナミのグリコの看板で有名な戎橋南詰にロシア料理屋があり、ここのピロシキが美味くてよく買って帰ったが、日本では揚げパンのピロシキも本場では焼きパンだ。

           
(左・右)公園近くのレストランでランチ 店の名前は「ロシア紅茶?」 右写真がお店の入口です

           
(左)ビーツのスープ「ポルシチ」と焼きパンの「ピロシキ」     (右)メインのようです 名前不詳

 雨も上がり、午後はあの噴水芸術で有名なペテルゴフヘ、いざ出発。