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旅行記、世相独言

ピーテル あちこち ーサンクトペテルブルグー (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅5)

2015年08月30日 18時28分40秒 | 異文化体験_中・東欧
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ピーテル あちこち  2015.07.09

エルミタージュ美術館におよそ5時間ほどの滞在の後、向かったのは「血の上の救世主教会」。公式名:ハリストス復活大聖堂。

    
(左・中・右)グリボエードフ運河沿いに建ち、色とりどりの玉葱坊主を持つ「血の上の救世主教会」 

 モスクワ赤の広場の「ワシリー寺院」(ポクロフスキー聖堂)とよく似ているので混同されるようだが、ワシリー寺院は古く16世紀半ばの建設。血の上の救世主教会は、農奴解放令を出し解放者と言われたアレクサンドル2世が1881年テロリストの爆弾に倒れ、その息子アレクサンドル3世がその現場のグリボエードフ運河沿いの道路上に建設したのがこの教会。従ってワシリー寺院より先進の建築技術が駆使され、明るく広い内部空間となっている。

      
(左)総面積7000㎡と言われるモザイク壁画の内部  (中)天井にもびっしり  (右)中央クーポラの「全能者ハリストス」

      
(左)中央の主祭壇               (中)右側祭壇       (右)ネーステロフの原画による復活したキリストのモザイク画

                  
(左)保存されているアレクサンドル2世の暗殺現場   (右)皇帝、女帝姿のモデルたちがあちこちにいます

 玉葱坊主の石と煉瓦の色とりどりの外壁もさることながら、内部に入って圧倒されるのが総面積7000㎡と言われる全ての壁や柱を覆い尽くすモザイク壁画。とても幻想的な雰囲気を醸し出している。主祭壇の右側にネーステロフの原画による復活したキリストのモザイク画がある。また、中央クーポラ丸天井には「全能者ハリストス」と大天使が見下ろしている。
 大混雑の教会内、見事なモザイク壁画を見上げているうちに大事なものが無くなる名所でもあるとか。しっかり用心して観賞するべし。


  
(左)芸術広場前のお土産屋「ONEGIN」 (中)我が家の昔買ったマトリョーシカ   (右)今は店頭に多種多様な人気者マトリョーシカ

 次に向かったのは芸術広場近くのONEGINというお土産屋さん。ロシア土産と言えばマトリョーシカ、最近はプーチンや有名サッカー選手のものもある。皆さんがお買い物中、土産物屋の前の「芸術広場」を散策する。ここには「プーシキンの銅像」が立ち、その奥に「ロシア美術館」(ミハイロフ宮殿を使用)がある。この美術館には是非見たかったレーピン作の「ヴォルガの船曳き」があるのだが、残念ながら入口までで観賞する時間はない。

          
(左・右)ロシアで一番人気、芸術広場のプーシキン像(後方の建物がロシア美術館)

          
(左)ミハイロフ宮殿を利用した「ロシア美術館」       (右)見たかったレーピンの「ヴォルガの船曳き」


 次に向かったのは、宮殿橋の北詰「ストリェールカ」と呼ばれる場所。ここは広大なネヴァ川の左サイドに「ペトロパブロスフク要塞と122mの鐘楼が一際目立つその聖堂」、右サイドに「4つの建物がつながるエルミタージュ」を望む絶好のビューポイント。
 ここにはまた「ロストラの燈台柱」がある。船首を意味するロストラ、戦勝記念に敵の船首を切り落とし柱の飾りにしたという古代ローマの習慣だそうな。ここの柱には、4つの彫像がありロシアを代表する4つの大河(ネヴァ、ヴォルガ、ドニエプル、ヴォルホフ)を表している。

  
(左)ストリェールカから見るネヴァ川と両岸  (中)左岸の「ペトロパブロスフク要塞」     (右)右岸のエルミタージュ美術館

 ⇔ 「ロストラの燈台柱」 4つの彫像はロシアの4大河川


 最後に向かったのが、海軍省河岸通りから「青銅の騎士像」を左に見て「デカブリスト広場」の先の「イサク聖堂」。青年貴族たちが起こした反乱、デカブリストの乱に由来する広場には、ピヨートル大帝の後継者たるエカテリーナ2世が立てた大帝の有名な銅像「青銅の騎士像」がある。台座には「エカテリーナ2世からピヨートル大帝へ」と彫文されている。一方、イサク聖堂はロシアのシンボル的な大聖堂。写真撮影だけの小停車で見学は出来なかったが、この巨大聖堂建設に数万本の杭が打ち込まれ土台工事に5年を要したようだ。このイサク聖堂の前には、「ニコライ1世の馬上像」がある。

  
(左)「デカブリスト広場」と青銅の騎士像  (中)イサク聖堂とニコライ1世の馬上像   (右)ロシアのシンボル的大聖堂「イサク聖堂」

 どうしても青銅の騎士像の写真を撮りたい私は、写真小停車の間に500m離れた像まで駆け足。往復1kmを走って息せき切ってバスに戻ると、添乗員のS嬢が行方不明の私を探し回っている。少し、皆さんを待たせたようだ。というのも、この後は夕食レストランへ行く予定。美術館では軽食の昼食しか取れなかったので、皆さんお腹を空かせている様子。待たせて御免なさい!である。

  
(左・中)台座に「エカテリーナ2世からピヨートル大帝へ」と彫文されている「青銅の騎士像」  (右)夕陽の要塞を背景に記念写真? 

 今日の夕食、メインはサンクトペテルブルグのストロガノフ家の家庭料理、ビーフ・ストロガノフ。肉ときのこをホワイトソースでじっくり煮込んだ料理、マッシュポテトと共にいただいたが、お腹が空いていたので量がもうちょっと欲しいねとテーブルを同じくする者同士囁きあう。

          
(左)前菜と思われるピクルス類            (右)肉ときのこをホワイトソースでじっくり煮込んだビーフ・ストロガノフ

 明日は、郊外のエカテリーナ宮殿の大黒屋光太夫謁見の間、またペテルゴーフ(夏の宮殿)のポンプを使わない噴水芸術が待っている。

エルミタージュ2 王朝文化と買い漁った名画 -ピーテル- (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅4)

2015年08月22日 22時16分31秒 | 異文化体験_中・東欧
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エルミタージュ(2) 王朝文化と買い漁った名画   2015.07.09

 早速、エルミタージュ2階の名画たちを見てみよう。
 ほとんどの入場者が名画を何とか写真に収めようとするのだが、額縁のガラスに外陽が反射して多くの場合真正面からの撮影が出来ない。また、その数も多過ぎて最初は撮影に熱心なのだが、そのうち撮影をやめてしまう。かく言う私もその一人。

      
(左)冬宮2階のの空中庭園          (中)レンブラント「放蕩息子の帰還」   (右)初期イタリアホール

              
旧エルミタージュ レオナルドダヴィンチの間       ダビンチ「聖母と幼子」(左:ベヌアの聖母 右:リッタの聖母)

          
(左)ティツィアーノ「悔悟するマグダラのマリア」 (中)ラファエロのロッジア  (右)ラファエロ「聖母と幼子(コネスタービレの聖母)」

    
(左)作者? イルカと少年        (中)ミケランジェロ 「うずくまる少年」   (右)新エルミタージュ 大天窓の間

         
(左)ゴヤ「アントニア・サラテの肖像」  (右)エル・グレコ「使徒ペトロとパウロ」


 さて、比較的新しい19~20世紀の名だたる画家の名画は、一度エルミタージュから外に出て、旧参謀本部の中の新たな展示スペースでこれらの名画を観賞することになる。 
 これは、エルミタージュ250周年のプロジェクトの一つのようで、現在も展示スペース設置作業が進められている。

 ここに紹介した写真撮影された作品群で作者、作品名、画題がわからないものがあります。もし、ご覧になった人の中でご存知の方がおられれば、是非是非お教えいただきたいと願っています。ブログ・コメントでお願いします。

  
(左)冬宮を離れ旧参謀本部の新展示場へ     (中)ロシアの若者達の集団            (右)旧参謀本部の建物

              
(左)ドガ「踊り子」          (中)セザンヌ「煙草を吸う男」        (右)ピカソ 作品名?

        
(左)マチス 作品名?     (中)マチス「赤のハーモニー」             (右)ゴーギャン「パラウ・パラウ」

          
(左)ゴーギャン 作品名?             (中)ルノアール 作品名?     (右)ルノアール 作品名?

          
(左)モーリス・ドニ 作品名?   (中)アンリ・エドモンド・クロス 作品名?      (右)作者? 作品名?

          
(左)旧参謀本部内に整備されつつある新展示場  (中)宮殿広場            (右)冬宮 宮殿教会のクーポラ装飾


 エルミタージュの美術品、芸術品は、他の多くの美術館や博物館のように戦利品、戦勝品として持ち帰ったものではない。何故、これだけの品々が王朝コレクションとして集められたのか、その背景を考えてみよう。

     
(左)新エルミタージュの男像柱のある柱廊玄関   (右)エルミタージュ劇場

         
(左)ロマノフ王朝 系図                      (右)エカテリーナ2世

 エルミタージュ美術館の中核をなす冬宮は、1754-1762年ピヨートル大帝の娘エリザヴェータ女帝の依頼でイタリア人ラストレッリが建設、エリザヴェータはその完成を見ることなく他界するが、以降歴代皇帝の居城となった冬宮には8人の皇帝が住んだ。
特に、大帝の孫嫁にあたるエカテリーナ(エカチュリーナと同じ)2世が、1764年に225点の西洋絵画を購入、これが今日のエルミタージュ美術館の創立日とされている。
その背景には、タタールの軛(くびき)によってヨーロッパ文化から切り離され、ヨーロッパからは野蛮な国とみなされたロシア、一方国内的にも依然としてごく少数の貴族と大多数の農奴の国であったロシアを一流国にしたいという想いがあったのだろう。

ピヨートル大帝そのものが、「ロシア的なもの」が充満するモスクワを離れ、サンクト・ペテルブルグ(ピーテル)をヨーロッパへの窓口とし、ヨーロッパへの仲間入り、西欧化政策を開始したが、そのような背景思想が受け継がれたのであろう。しかし、これらは貴族と農奴の国、かつ専制君主の国だからこそなせる業であったのであろう。

エルミタージュ1 王朝文化と買い漁った名画 -ピーテルー (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅3) 

2015年08月18日 16時59分28秒 | 異文化体験_中・東欧
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エルミタージュ(1) 王朝文化と買い漁った名画  2015.07.09

 「エルミタージュ(隠れ家の意)」を博物館というべきか、美術館というべきか。私はあえて博物館と言いたいのだが。300万点とも言われる美術工芸品もさることながら、かつての宮殿建築の素晴らしさも加味すれば、博物館が適しているように思う。しかし、一般には美術館で知られているので、ここでもエルミタージュ美術館と呼ぶことにする。

  
(左)宮殿広場右側に冬宮(エルミタージュ)      (中)エルミタージュ全景          (右)宮殿広場左側に旧参謀本部

 ホテルを10時に出発し、「宮殿広場」に到着したのは10時半ごろ。右手に「エルミタージュ」、左手に「旧参謀本部」の巨大な建物に囲まれた広大な広場の中央には、ナポレオン戦争の勝利記念の「アレクサンドルの円柱」がそびえている。

          
(左)美術館案内書(上から旧参謀本部、アレクサンドルの円柱、エルミタージュ)  (右)1階の案内

          
(左)2階の案内(見どころ沢山)               (右)3階の案内(多くは旧参謀本部内に移設展示)

 エルミタージュ美術館は、4つの建物から成り立っている。ピヨートル大帝の娘エリザヴェータ女帝によって建てられた「冬宮」を中心に、「小エルミタージュ」、「旧エルミタージュ」、「新エルミタージュ」からなる巨大複合美術館である。
ヨーロッパを訪問する機会の多かった私は、各国の名だたる美術館、博物館を見て回ったが、これほどの展示空間と展示内容が多彩な美術館は初めてである。

 エルミタージュ美術館の誕生は、一般的にエカテリーナ2世が1764年ベルリンの商人ヨハン・エルンストから西欧絵画コレクション225点を購入した時とされており、美術館では現在250周年記念行事が続いている。
(IBM支援による立派なHPが出来ている。ホームページ:http://www.hermitagemuseum.org/wps/portal/hermitage/)
 (左)エルミタージュ美術館のホームページ

 美術館入館に際し、いくつかの注意点がある。一つは大きなバッグ(A4大程度やリュックサック)は持ち込めずクローク預かりとなるので小型バッグを利用すること、写真はノーフラッシュであればほとんどの場所が撮影可能。宝物庫の見学には一般入場券とは別にチケットが必要、等々。

       
(左)美術館入館チケット(宝物庫11時予約)   (中)入口装飾             (右)日本語解説書(何種類かあります)

 我々の宝物庫の見学予約時刻が11時。それまでの間、新エルミタージュ1階の古代エジプトの間やユピテルの間を見学。これらの常設展示の説明は資格を持った外部説明員が可能のようだが、11時からの宝物庫の説明は美術館員が直接行う。我々のグループの美術館員は極めて熱心に長時間の説明をしてくれた。宝物庫の写真撮影は禁じられており、HPから一部ピックアップして掲載した。

  
(左)1階 ユピテルの間       (中)ローマ神話の大神ユピテル像   (右)アルタイ・コルィヴァニの大装飾瓶

  
(左・中・右)宝物庫(写真撮影禁止)の所蔵品の一部(ホームページより)

 エルミタージュ美術館には、レストランと称せられるものがなく、カフェで簡単なサンドウィッチと飲み物程度で済ますことになる。お昼時はインターネットカフェ周辺は、人でごった返しており、ゆっくり食事・休憩することも出来ない有様だ。

 (左)インターネット・カフェ(軽食しかない、お昼時は大混雑)

 午後は、いよいよ2階の華麗な宮殿装飾とイタリア・オランダ・フランドル・スペイン等の世界的名画との出会いが始まる。4つの建物は複雑につながっており、正直説明員なしで効率的に見て回るには技能や経験が求められる。

  
      (左・中・右)圧倒される絢爛豪華な冬宮の正面玄関(大使の階段ともヨルダンの階段とも言われる)

          
(左)ピヨートルの間(小玉座の間)     (右)イタリア人画家による「ピヨートル1世とミネルヴァ(女神)」)

      
(左)ロシアの美少女       (中)美術館から見たネヴァ川の風景      (右)1000㎡超の冬宮最大のホール「紋章の間」

                  
(左・中)1812年祖国戦争(対ナポレオン戦争)の間とアレクサンドル1世の肖像(正面奥)  (右)当時貴重な孔雀石の装飾品

          
(左)大玉座の間(ゲオルギウス(ロシアの守護聖人)の間)  (右)玉座(ロマノフ朝の紋章 双頭の鷲)

  
(左)パヴィリオンの間            (中)ジェームス・コックス(英)の孔雀時計     (右)床の見事な8角形のモザイク 

 (左)旧エルミタージュの階段(この隣の間から名画が始まる)

 3階には19~20世紀の著名な欧州美術作品(セザンヌ・ゴッホ・ルノアール・モネ・ゴーギャン・マティス・ピカソ等々)が展示されていたが、現在旧参謀本部の建物に新たな展示場所が整備されつつあり、そちらに移動しての観賞となる。これら2階の中世および旧参謀本部の近世の世界的名画については、エルミタージュ(2)で紹介します。

ヨーロッパへの窓 -サンクトペテルブルグー  (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅2) 

2015年08月16日 23時11分33秒 | 異文化体験_中・東欧
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ヨーロッパへの窓 -サンクトペテルブルグ-   2015.7.08-11

 自宅を朝5時前に出て8時伊丹空港発のJAL機で成田、そしてモスクワに、更にS7航空S7043便でサンクトペテルブルグ、プルコヴォ国際空港に到着したのが、午後19時30分。時差を考慮すると、約20時間強が経っている。LADOGAというこじんまりしたホテルにチェック・インし、バスタブで疲れを癒し、寝床についたのは丁度一昼夜経った午後11時半頃。

      
                (左・右)ホテル・ラドガ(LADOGA)外観と場所

    
(左・中・右)日本人にとってウォッシュレットのない外国のトイレは辛いが、ここは多分ビデ(右写真)がその代用に。

 時差の関係で夜中に何度か目を覚ますが、北極圏までわずか700kmの当地では、窓外は白夜のようにいつまでも薄明るい。


  
(左)ピヨートル大帝時代のヨーロッパ  (中)上空写真        (右)ピーテルの初期の街づくり(1703年~)

 サンクト・ペテルブルグ、レニングラード、ペトログラード、沢山の名前を持つこの町も、今は「ピーテル」という愛称で市民に愛されている。
 200年間(1713-1918)、ロシア帝国の首都として栄えたピーテルも、その誕生は1703年のことである。当時の強国スウェーデンの勢力圏内にあったネヴァ川河口三角州の湿地に、ヨーロッパに通じる窓口を造ろうとした人物がいた。それが、ピヨートル1世(大帝)である。タタールの軛(くびき)によって長らくヨーロッパ文化から切り離された国がヨーロッパへの窓を造ろうとしたのである。

        
(左)ピヨートル大帝         (右)大工姿に扮したピヨートル帝(通称:王様の船大工)      

 バルト海の東部、フィンランド湾の最奥部のこの地は、バルト海、ネヴァ川、ラドガ湖、更にロシア内陸部への水路網の形成という意味で戦略的重要性を有しており、更にノヴゴロド等ロシア発祥の地とも言える重要な場所で、それに目をつけたのがピヨートル大帝である。彼はどことなく織田信長に似ている。若い頃、西欧大使節団を送りながら自らも身を隠してその一員に加わり、オランダで船大工として技術取得を図るなど、やや天衣無縫な行動が見られる。

    
(左)初期のサンクト・ペテルブルグ     (右)うさぎ島のペテロパブロフスク要塞と尖塔が特徴のペテロパブロフスク聖堂

 街づくりは、まず、うさぎ島にペテロ・パブロフスク要塞を建設することから始まり、ペテロ・パウロ寺院等を建立、その後のピヨートル在位20年間に首都にふさわしい街に成長した。お手本にした街が水の都アムステルダムというのだが、ヴェネツィアにしろアムステルダムにしろ、ピーテルのスケール感とは比べ物にならない。ただ、この荒地での急な街づくりは多くの犠牲者を出し、更に松杭上の街は他と同様に今日でも沈下や洪水に悩まされ続けている。

    
(左)宮殿橋から見たネヴァ川(さしずめベニスで言えばグラン・カナル) (右)多くの橋は中央部が可動橋

    
(左・右)アムステルダムが手本という街中のカナル 多くの船が行き交う

    
(左)(冬宮の)宮殿広場(正面エルミタージュ)  (右)メインストリート「ネフスキー大通り」の百貨店

    
(左)ネフスキー大通りのカザン聖堂    (右)デカブリスト広場の青銅の騎士像とイサク聖堂

ロシアの文豪と言えば、日本ではトルストイ、ドストエフスキー等々が有名だが、ロシア国内で圧倒的人気を有するのが国民詩人プーシキン。彼の叙事詩「青銅の騎士」は、ピヨートルの街づくりへの想いを以下のように詩っている。

    
(左)芸術広場のプーシキン像   (右)青銅の騎士像 台座に「エカテリーナ2世からピヨートル大帝へ」

荒涼たる河の岸辺
壮大な想いを充ちて 彼は立ち 遠方を見つめていた。 彼の前を広びろと 河は流れ
流れに沿って ただひとつ 見るかげもない丸木の舟が走っていた。 
苔むした両岸の湿地帯には 赤貧のフィン族の住む丸太の小屋が そちこちに黒ぐろと見え 
霧にかくれた太陽の 光もとおさぬ密林が あたり一面 ざわめいていた。
彼は思った。 ここにこそわれわれは都市を築こう。 われわれがヨーロッパへの窓をあけ 
海辺にしっかと足をふまえて立つのはここだと 自然がきめてくれているのだ。 
やがて とりどりの旗を挿した客人たちが 未知の波濤を越えてここにやってくる。 
そのときは心のどこかで宴を張ろう。

(プーシキン「青銅の騎士」木村彰一訳(抜粋)、「サンクトペテルブルグ」小町文雄著 中公新書より)

日本の俳句や和歌の調べのように、このプーシキンの叙事詩はロシア語の流れで独特の調べがあるとロシアの人々が言うが、残念ながらロシア語を解さない私にはわからない。

さあ、明日からはロマノフ王朝、ピヨートル大帝が創った街をしっかり見てみよう!

玉葱坊主とモスクワ空港今昔 -モスクワー (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅1)

2015年08月10日 15時22分04秒 | 異文化体験_中・東欧
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玉葱坊主とモスクワ空港今昔 - モスクワ -  2015.07.08-13

 書店の旅行本コーナーでロシア本を探しても「地球の歩き方」か「るるぶ」程度で、このあまり人気のない旅先を選んだのには理由がある。

      
(左)モスクワの玉葱坊主「聖ワシリー教会」  (右)サンクトペテルブルグの玉葱坊主「血の上の教会」

 退職後、近隣大学の聴講を始めた初期に選択したのが、それまであまり勉強したことのないロシア文化であった。7年前のことである。聴講生は期末試験やレポート提出の義務はないのだが、ロシア正教会のあの玉葱坊主に興味があって、簡単なレポートを提出した。そのレポートが「玉葱坊主の一考察」で、私のブログにもアップした。
アドレスは、 http://blog.goo.ne.jp/skhr0247/e/c3a0d4d515bcafa6a02514191405a903
 この時、将来必ずこれらの教会建築を見てやろうと思い、それがやっとこの夏に実現した。


      
(左)1981年1月機窓から撮影したシェレメーチエヴォ国際空港    (右)同 空港

 さて、私が初めてモスクワに、正確にはモスクワ空港に降り立ったのが、今から35年前の1981年1月のこと。ルフトハンザ・ドイツ航空でフランクフルトに行く途中で給油のため降り立ったわけだが、当時はソ連上空を飛ぶ北回りヨーロッパ線は全てモスクワで一度降ろされていた。同様にアメリカに飛ぶ場合はアンカレッジで給油させられていた。

 当時のモスクワ空港は、シェレメーチエヴォ国際空港(現ターミナルF、1980年オリンピックに向け供用開始)で、その時の様子を書いたブログによると、
 「駐機場への移動の間に見えるターミナルビルは、どこかくすんだ感じの中に赤い色だけが異様に鮮烈である。見慣れぬ赤く塗装された飛行機も共産圏という先入観を掻き立てるに相応しい小道具となっている。給油の間の約1時間は、ロビーで待てという。通常貴重品は携帯するよう指示されるが、ここではカメラは携帯しないほうが良いらしい。
 なにはともあれ、狭い機内から開放された人々は広いトイレで用を足したいのが人情。しかし、数ヶ月前にオリンピックを終えたはずの空港ではあるが、まともな便器が半数とない。しかも、照明は薄暗く、閑散としたビル内に銃を肩にした警察か、軍隊か知らないが、コツコツ足音を響かせて巡回する様は、非常な圧迫感をツーリストに与えるものである。ロビーの売店には、重厚かつ実用的な毛皮製品、ウオッカ、タバコ、民芸品等が何の飾りもなく置いてある。2人の女性従業員は積極的に売るでもなく、ただただツーリストのリクエストに応じて通貨両替に余念がない。
 総じて暗いイメージの空港は、長い重い厳しい冬のなせる業だけでもなさそうな気がする。乗務員交代で当地に留まるはずのルフトハンザの若いスチュアデス始め、ほとんどの乗務員が何故か機内一番後方座席に私服で乗ってフランクフルトへ向かう。聞くと、「ここには泊まりたくない」。それほどにモスクワとフランクフルトは近くて遠いのである。」


 ⇔1992年7月のシェレメーチエヴォ国際空港

 その11年半後の1992年7月、再びシェレメーチエヴォ国際空港に降り立って見た驚きを当時のブログに書いている。

「ここが本当にモスクワかと疑いたくなる様相である。まず、目に飛び込んでくるのが「Duty Free Shop」の鮮やかな色彩の看板。外貨獲得のために色とりどりの多彩な西側商品が所狭しと並んでいる。値段は多少高い気がするが、ロシア土産にと手頃な10~20$程度の商品が結構売れている。レジに座るロシア娘までが明るい制服に身を纏い、笑顔を絶やさない。ちょっと奥まった所には何と!日本のうどん屋まであるではないか。
 経済の自由化は、ここ空港では西側とほとんど変わらないが、市内では勤労者の平均月収2000ルーブルの厳しい物不足の生活が続いていると言う。前回のフライトでは、誰も降りたがらない当地であったが、今回は当地での乗り換え客が沢山あったことを見ても、身近な存在になったことが窺い知れる。ペレストロイカ、それは10年後のロシアをどのように変えていくのだろうか?」



  
(左・中)老朽化に伴う新国際空港窓口のドモジェドヴォ国際空港             (右)乗り継ぎ便のシベリア航空(参考写真) 

 そして、今回のモスクワ空港。空港は新しい玄関口として整備されているドモジェドヴォ国際空港に変わったが、もはやどの先進国の空港と何ら変わらない賑わいと設備で、この後の国内観光を期待させるものであった。

  
(左)シベリア航空機   (中)搭乗券(13D⇒1D席に変更)とラウンジ券   (右)ワインリストの一部(私には無縁のリストだが)

 今回のツアーは、関空からではなく成田からモスクワへのJAL直行便利用である。関空からはソウル経由便があるが、お隣韓国は今伝染性ウイルス病で混乱しているためそれを避けての出発である。ツアーは、サンクトペテルブルグからスタートするので、ドモジェドヴォ国際空港で入国後、シベリア航空(S7ロゴ)のフライトに乗りかえる。S7はJALグループと同じワンワールドメンバー航空会社ということで、JGC・サファイアの小生は座席と機内サービスがアップグレードされ、得した気分でサンクトペテルブルグに向かった。