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旅行記、世相独言

崩壊後6年 オッシーとベッシー -ベルリン-(異文化体験25 中・東欧の旅6)

2012年09月26日 22時43分43秒 | 異文化体験_中・東欧
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崩壊後6年 オッシーとベッシー -ベルリン- 1995.9.29

 1989年 ベルリンの壁崩壊

  東西冷戦の時代、鉄のカーテン(the Iron Curtain)という言葉があった。
 From Stettin in the Baltic to Trieste in the Adriatic , an iron curtain has descended across the Continent. (バルト海に面したシュテッティンからアドリア海に面したトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横断して鉄のカーテンが下りた)。

 これは1946年3月チャーチルが米国訪問時に行った演説の一節で、その中で「鉄のカーテン」という言葉を始めて使った。
 ベルリンの壁が初めて築かれたのが1961年、崩壊したのが1989年。既に23年前の話。若い世代にはベルリンの壁という言葉も徐々に死語になりつつある。
 
 今回のお話は、壁の崩壊後6年が経った時の訪問話である。

 ベルリンの案内パンフレット


       
(左)ペルガモン博物館のガイドブック(表紙) (右)ペルガモン博物館の正面

 ポツダムからベルリンに戻って訪れたのは、ペルガモン博物館。古代ギリシャ、ローマ時代の壮大な建造物が再現されている。圧倒的スケールで驚かされるのは、ペルガモン祭壇とミレトスの市場門の遺跡(いずれも今日のトルコ共和国の町)、バビロンの行列通りとイシュタル門の復元(今日のイラク近郊)である。

 
(左)ベルガモン祭壇(トルコの遺跡)         (右)バビロンのイシュタル門(イラン近郊遺跡)

 歴史的建造物は本来あった場所に復元されることが一番好ましいことだが、残念ながらいろんな理由から異なる場所で復元、再生、展示されていることが多い。人類共通の財産としてしっかり管理され学問的に有意義な利用がなされていれば、それもまた致し方のないことか。


 昼食後、ベルリン市内の見どころをドライブ。ある通りを走行中、運転手が何か吐き捨てるように言った。前の車が黒煙をあげて走っている。「何て言ったの?」と通訳に聞くと「オッシーめ!」と言ったらしい。ドイツでは俗語であるが東ドイツの人達を「オッシー」、西ドイツの人達を「ベッシー」というとのこと。あまり良い意味で使う言葉ではなさそうだ。

 ガイドブックの地図には「もう壁はない」というが。。。

 ベルリンの壁が崩壊して5,6年も経つと、当時の熱狂振りはおさまり、いろんな面で東西格差が実生活に顔を出してくる。前を走る車も東側経済の車だったようで環境対策もおろそかで黒煙を撒き散らしている。それを見て西側のこの車の運転手はつい「オッシーめ!」という言葉が口から出たのであろう。

 街中至る所で巨大クレーンが林立し、インフラ整備が進む

 
(左)わずかに残されているベルリンの壁        (右)撤去された壁後には帯標識が。

 とは言え、ベルリンの街中は至る所で巨大なクレーンが林立し、再開発が進んでいる。かつて80人の生命が犠牲になったベルリンの壁は探して廻らなければ見つけるのが難しいほど姿を消し、その一部は土産物として売られている。ベルリン大聖堂、フランス大聖堂、赤の市庁舎等、歴史的建造物の多くが東側にも存在しているが、一方でソニータワーや外国資本の建物の建設もあちこちで始まっている。

  
 (左)ベルリン大聖堂
 (中)赤の市庁舎(1870年以来の市長公舎が今はベルリン合同議会)
 (右)東独時代1969年完成のTV塔(368m) 回転展望レストランがある


 最期に訪れたのは、東西ベルリンを分かつ象徴的建造物であったブランデンブルグ門。今やこの門の周りも新たな建築のためのクレーンが立っている。東側はウンター・デン・リンデン通りに続き、西側は6月17日通りを経てティアガルテン、戦勝記念塔に続く、その接点にこの門が存在する。

       
(左)かつて東西ベルリンを分かつ象徴的存在のブランデンブルグ門 (右)1961年8月13日分断直前の風景

       
(左)ブランデンブルグ門から勝利の塔に至る6月17日通り (右)ティアガルテンの勝利の塔
 
 統一ドイツが、その内部経済格差を乗り越え、ユーロ経済圏の主要なリーダーとして21世紀の世界経済を牽引することを期待しつつ、ブランデンブルグ門を後にする。
広大なティアガルテンと戦勝記念塔を車窓に、車は一路空港へ。

 夕陽とネオンの輝きの中のカイザー・ヴィルヘルム記念教会

 今回の中東欧の旅は、夕刻のフランクフルト経由成田行きJAL便で終結した。

2012 和泉の国ジャズストリート

2012年09月23日 21時49分27秒 | イベント
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2012 和泉の国 ジャズ・ストリート  (2012.9.22-23)

 第7回和泉の国ジャズストリート・プログラム

 第7回目を迎えた和泉の国ジャズストリートが、9月22日(前夜祭)、23日の2日間和泉中央駅周辺の13会場で開催されました。

 昨夜来の雨が朝まで残ったが天候が急速に回復し、和泉中央駅周辺13会場でのライブが始まる頃にはお日様も顔を出すラッキーな今年のイベントとなりました。

 今年も、前夜祭も含め90団体、521名のジャズメン、ジャズウィメン達が13会場で熱演を披露。
 今年の前夜祭は、弥生の風ホールでダンシング・オールナイトの大ヒットでお馴染みのもんたよしのりさんのスペシャルライブが開催され、また和泉中央駅では夕刻から5組のゴスペルやビッグバンド演奏が披露されました。

 桃山学院大学の学生ボランティア等の協力も得て、市民の手づくりジャズ・ストリート。徐々に市民の間にこのイベントも浸透し、楽しみにされる市民も増えてきたようです。来年もまた盛大に行われることを期待したいと思っています。

 今年は都合により多くの会場を回れませんでしたが、本部のアムゼ広場、及び和泉シティプラザでの様子の一部をご紹介します。

       
エコール・イズミのアムゼ広場で、Annamed Jazz楽団の演奏      かっこいい! 

 和泉シティプラザ会場 多くの聴衆が取り囲んでいます

 
和泉シティプラザ会場での泉陽高校軽音楽部S.L.M.S 女性部員に黒一点男性部員発見 結構いい音出してます

 
7回連続出場、Early Bird ボーカルは臼井優子さん。彼女の沢山のファンが楽しみに!

 
 (左)JCBかと思いきやJOBの皆さん  (右)みんなの寄付で開催。買った応援グッズの中に入っていました。

ポツダムとサンスーシー -ポツダム-(異文化体験24 中・東欧の旅5)

2012年09月18日 23時20分40秒 | 異文化体験_中・東欧
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ポツダムとサンスーシー -ポツダム- 1995.9.29

  
 (左)プラハからベルリン駅に到着           (右)地下鉄でホテルへ

 インターコンチネンタルホテル・ベルリン

 プラハからドレスデンを経てベルリン駅に到着。市内のホテルまでは地下鉄を利用して、無事ブダペスト通りのインターコンチネンタル・ベルリンにチェックイン。

 カイザー・ヴィルヘルム記念教会

 翌朝、第2次世界大戦の戦禍を留めるカイザー・ヴィルヘルム記念教会を横目に、通訳兼案内人と共にポツダムに向かう。
 カイザー・ヴィルヘルム記念教会は、広島原爆ドームと同様に、1943年11月23日のベルリン大空襲で破壊され、最低限の修復後、崩れたままの姿で保存され、大空襲の悲惨さを伝えている。


 サンスーシー宮殿と庭園

 ベルリン郊外のポツダムは、プロイセン王家がここを居城都市として創り上げてきた街。
 旧市街の西端にあって、プロイセン王国時代の1745年から1747年にかけてフリードリヒ2世の命によって建てられたサンスーシー宮殿と庭園は、今なお年間200万人の観光客を集めている。ヴォルテールが一時期滞在したことでも知られている。

 サンスーシー宮殿の階段状の庭園 

  
              ロココ調の青い丸屋根を持ち、褐色の壁を持つ宮殿  

 サンスーシーとは、もともとフランス語で「心配なく余暇にふける」という意味があり、日本や中国では無憂宮とも表記するらしい。
 丸屋根のある一階建てのロココ建築のスケッチはフリードリッヒ2世が描き造らせたようだが、階段状の庭園と青い丸屋根と褐色の壁を有する建築物の外観に加え、内部の寄木細工の床で続く臨終の間、コンサートの間等々豪華な装飾の部屋は強烈な印象を与えている。

 
(左)20世紀初頭建造されたツィツィリーエンホーフ宮殿 (右)ポツダム会談の場所を背景に記念撮影

 20世紀の初め、ここにツィツィリーエンホーフ宮殿が建造された。この宮殿はその後の世界政治に残る場所となった。
 第二次世界大戦でナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日~8月2日、当宮殿に米国、英国、ソ連の3ケ国首脳が集まり、第二次世界大戦の戦後処理と日本の終戦について話し合われた。
 いわゆるポツダム会談がここで行われ、今もその部屋が保存されている。尖閣諸島にも関係する会談であった。

 
(左)保存されているポツダム会談の行われた部屋 (右)アトリー、トルーマン、スターリンの連合国首脳

 午後は、ベルリンに戻って壁崩壊後の東西ベルリンの今を視察する。

幻のマイセンからベルリンへ -プラハ、ベルリン-(異文化体験25 中・東欧の旅4)

2012年09月11日 11時08分15秒 | 異文化体験_中・東欧
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幻のマイセンからベルリンへ -プラハ、ベルリン- 1995.9.28

 プラハとは今日でお別れ、チェコ紙幣

 28日、早目の朝食を取りホテルを出発しようとしていると、朝食に向かう私の出向元の大ボス一行とロビーでばったり。大ボスは東欧諸国を廻って帰国される由。小生は同行者と共にいざ中央駅へ。

 プラハ中央駅

 発車30分前に駅に着いたものの、出発列車案内にそれらしき列車が見当たらない。チケット売場に行って聞けども英語が通じず、案内所を駆けずり回ってやっと別の駅から発車することが分かった。

 早々にチケットの手配はしたのだが・・・

 間に合うか?と重い荷物を引きずりながら言われた駅にタクシーで5分前に到着。しかし、この駅でも出発列車案内にそれらしき列車が見当たらない。どうなっているの?と再度問い合わせると、もう一つ別の駅から出ると言う。なんと3つも駅があるという。

 プラハからベルリン方面に行く駅のホーム

 しかしである、時既に遅し! 諦めるしかしようがない。次の列車は12時18分とのこと。何と3時間近くあるではないか。ホテルでゆっくりしようや、という同行者の提案でホテルに戻ると、大ボス一行の出発と出くわす。「どうしたんや?」「いや、まあ、あのお・・」と、逆に見送る羽目に。

 この時間の列車に乗る予定ではなかったのだが・・

 同行者が丁度ボヘミアングラスを買いたかったとかで、ホテルのグラス売場の物色を始める。予定ではドレスデンで途中下車し、3時間ほどマイセン焼の工房を訪ねる予定が、幻のマイセンとなってしまった。残念無念!!

       
(左)プラハからドレスデン経由ベルリンへ  (右)本来ならここで途中下車のドレスデン駅

 お昼過ぎに出発したドレスデン、ベルリン経由ハンブルグ行きの列車は、プラハからヴルタバ川を支流に持つ全長約1091kmのエルベ川に沿って西北に渓谷沿いの景色を車窓に見せながら定刻通りドレスデンに到着。

           
(左)エルベ川沿いのお城、お城好きの同行者にはいい眺め (右)エルベ川の渓谷沿いに列車は走る

 本来ならマイセンに行ってこの列車でベルリンに向かうはずであったのだが、乗り過ごしては大変と午睡との戦い。ベルリン駅から市内のホテルまでは地下鉄を利用。無事ブダペスト通りのインターコンチネンタル・ベルリンにチェックイン。

  マイセン「泉の妖精」(参考)

 28年ぶりにベルリンの壁に穴があいたのは、1989年11月9日。12月22日には、東西ドイツを分離する象徴的なブランデンブルク門が開放され、当時の西独コール首相と東独ハンス・モドロウ大統領、そしてモンター西ベルリン市長が最初にこの門をくぐった際、熱狂的な歓喜の声が湧き上がったと新聞が報じている。あれから6年。東西330万人の人口を有するベルリンは、再び統一ドイツの首都として名乗りを挙げ、あちこちで都市改造が進んでいる。

 マイセンの刀デザインの推移

 ベルリンは15世紀からおよそ5百年間、ホーエンツオレルン家が統治し、区別出来ないほど沢山のフリードリッヒ・ヴィルヘルムが誕生した。
1740年から86年まで統治したフリードリッヒ大王は、今日のウンター・デン・リンデン通りを目抜き通りにし、オペラ劇場や王立図書館等の文化施設を整備し、この間人口も8万人から15万人に増加するなど、ベルリンを欧州の主要な都市に変身させた。

 1861年、ヴィルヘルムⅠ世がプロイセン王となり、71年ベルサイユ宮殿「鏡の間」でドイツ皇帝になると、このシュプレー川沿いの都市は人口82万人となり、文字通りドイツの首都となった。

 更に、1920年にはグレーター・ベルリンとして人口380万人にまで膨れ上がったが、1933年から45年の12年間はヒトラー支配下で第2次世界大戦により焦土と化した。1945年東(ソ連)西(米英仏)ベルリンに分割統治され、1961年8月13日にベルリンの壁が初めて築かれた。そしてその28年後。

 明日は、ポツダムとベルリンの今日をつぶさに見て廻ろう!

中世の玉手箱 プラハの街角散歩 -プラハ-(異文化体験25 中・東欧の旅3)

2012年09月02日 22時23分21秒 | 異文化体験_中・東欧
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中世の玉手箱 プラハの街角散歩 -プラハ-  1995.9.25~9.28

 ヴルタバ川に架かるカレル橋とプラハ城

 IGU(世界ガス連盟)理事会メンバーには、9時半から徒歩による観光プログラムが用意されている。1000年以上の長い歴史のほとんどを他国に侵略されながら、それでも民族の誇りと文化を守り続けてきた気高い精神が街の隅々まで染み込んでいる。

 市民の憩いの場、旧市街広場 後ろはフスの銅像

 まずはホテルから旧市街広場に向けてそぞろ歩き。旧市街広場には宗教改革のフス像が、また1380年に建造された3つのバシリカを持つ「The Church of Our Lady before Tyn」と呼ばれるティーン教会が目につく。

 後方のタワーが天文時計のある旧市庁舎

            
(左)15世紀から時を刻み続けている機会仕掛けの天文時計  (右)死神と異教徒の姿もあらわれる

 更に更に6世紀に亘って街のランドマークとなっている機械仕掛けの時計を有する69.5mの旧市庁舎は1338年、時のルクセンブルグのジョン王が旧市街地の市民に独自の市庁舎建設を許可し、時計は15世紀初頭から時を刻んでいる。最上部の二つの窓から12人の国王(キリストの12の使途像の説も)が順に姿を現し、またその脇には死神、異教徒、守銭奴、放蕩者の像が動き、鶏の鳴き声で時計塔の鐘がなる仕組み。
この天文時計は、中央欧州の時間、古ボヘミア時間、バビロニア時間、星時間の4種類の時間を示している。

 1475年建造、高さ65mの真っ黒に煤けたプラハ城「火薬塔」

 今や真っ黒に煤けた65mの高さを有する1475年建造のゴシック建築Powder Tower(火薬塔)は、良く知られたRoyal Route(城と旧市街と橋は戴冠式行列のための王の道と言われる)の出発点として使われた。

 城と旧市街と橋を結ぶRoyal Route(戴冠式の王の道)

 隣接してオリジナルの王宮跡地に20世紀初頭建てられた新市庁舎があり、スメタナホールや数々のラウンジを有する首都の文化の殿堂となっている。

 
(左)旧市街とヴルタバ川向こうのお城を結ぶカレル橋からの眺め (右)橋の欄干には30の石造が     

 これらの旧市街地とVltava(ヴルタバ)川向こうのプラハ城を結ぶのが、石造りのカレル橋(チャールズ橋)。橋の欄干にバロック様式の合計30の石像を有する珍しい芸術橋である。1357年に着手され15世紀初頭に完成した橋は長さ516m、幅10m、16の橋脚で支えられている。両端には橋塔を有し、旧市街地の塔は14世紀のもの。

 カレル橋の両端にある橋塔

 徒歩ツアーはここで昼食に。


 歴代ボヘミア王の居城 世界最大の古城「プラハ城」

 午後は、対岸の歴代ボヘミア王の居城で、世界一大きな古城「プラハ城」の見学。1918年からチェコ共和国大統領府がここに置かれている。

           
(左)ネオゴシック様式の聖ヴィート大聖堂の正面ファサード (右)南からの眺め(メインタワーとゴールデンゲート)

プラハ発祥の地にして始祖聖人ヴァーツラフが眠る「聖ヴィート大聖堂(St.Vitus’ Cathedral)」と「プラハ城」の複合体はプラハのシンボルとも言える。広大な複数の宮殿を有するお城は、残念ながら共産圏支配の間に真っ黒に煤けて、本来の真っ白な大理石の面影はないが、それでもその偉容は圧巻である。

    
(左)王宮の裏の昔錬金術師が住んでいた「黄金の小路」 (右)青い彩色の家がカフカが住んでいた家

 宮殿の裏に「黄金の小路」と呼ばれるところがあり、異色の作家カフカが身を寄せていた家がある。お城からゆっくりと川向こうのプラハの街を眺めながら坂道を下り、バスでホテルに戻る。


           
(左)プラハ城内、美しい大聖堂の内部空間  (右)ガラ・ディナー(別名マラソンディナー)の始まり

 今夕は、プラハ城にてTransgas主催のガラ・ディナー。ディナーに先んじてのカクテルパーティでは、デンマークの世界ガス会議国内組織委員長のP.S氏と日本で開催される世界エネルギー会議の情報交換を行う。ディナーは城内のBall-Game Hallでベルギー、スペイン等の代表とテーブルを囲んで、恒例のマラソンディナーに古都の夜がふけて行く。

 翌27日はコングレスホールで午前中理事会が開催され、お昼はダイアナサロンで各国事務局の昼食会。午後も理事会とTransgasからのチェコ・ガス事情の報告等が開催。
ロシアから欧州へのパイプラインガスはチェコ国内を通過するため、欧州のガスの大動脈の役割をTransgasが担っている。
 夕刻は、チェコガス連盟主催のプラハ醸造所でインフォーマルイブニング。

          
(左)建築博物館「プラハ」は中世の玉手箱 (右)街角で見たネオルネサンス様式のRott Houseの見事なフレスコ画

 「魔法の都」「黄金の都」「百塔の街」「北のローマ」等々、多くの異名を持つ建築博物館プラハは、プラハの春以降かつての自由都市の息吹を猛烈に感じさせる都市に変身中であった。

 一方、その街の佇まいは中世の玉手箱であった。