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旅行記、世相独言

紀元1世紀の世界へタイムトリップ -ポンペイ&ナポリ-(異文化体験14 港湾空間を巡る旅3)

2011年05月24日 12時57分15秒 | 異文化体験_西欧
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紀元1世紀の世界へタイムトリップ -ポンペイ&ナポリ-  1992.7.19


 
(左)カール・ブリューロフ作ポンペイ最後の日    (右)死の灰に埋もれ朽ち果てた人々

 紀元79年8月24日、ヴェスビオ火山の噴火は一瞬にして今日的歴史的価値のある街を造り出してしまった。2000年前にタイムスリップしたかのような、生々しい人間の生活が肌で実感できる街、それがポンペイ。死の灰の下で朽ち果てた人々が石膏の塊となって再びその悶絶する姿で現代に蘇えるのをこの目で見ると、申し訳ない気持ちで一杯であるが、その生活様式に触れることが出来ることは、大いなる感動を呼び起こすのである。

 
(左)メルクリオ通りとカリゴラの門         (右)門側から見た当時の街の予想図

 
(左)通りの石畳には馬車の轍がはっきりと・・・    (右)通りに設置された水飲み場

 何と既に鉛管の水道管が使われていたとは驚き   


      
(左)床暖房が施されたフォロの浴場        (右)浴場を出るとそこは一杯飲み屋

 悲劇詩人の家の「猛犬注意」のモザイク

 
(左)パン屋街に残る石臼               (右)2000年前のパン屋の仕事風景復元図

 石畳の道路には、道路標識や横断歩道があり、馬車の轍が続く。横丁の小道には鉛の水道管が地下を走り、交差点には彫刻が刻まれた水飲み場まである。浴場の男女別の浴室は、床が二重構造で蒸気で一定温度に保たれていたという。浴場を出ると、そこはいっぱい飲み屋。大理石のカウンターが客を待ち受けている。その横はレストラン。悲劇詩人の家というのがあって、床のモザイクに鎖に繋がれた犬が描かれている。犬の下には「猛犬注意」とまで書かれている。パン屋さんもある。煉瓦を積上げた大きなオーブンと人の背丈ほどの石臼が当時の様子を伝える。


 
(左)ヴェッティ家の中庭と回廊       (右)ポンペイの赤を基調に帯状の黒で塗られた壁画

 
  (左)女中部屋に描かれた艶画        (右)豊穣の神プリアポス像

 芸術面では、大きな中庭と回廊を持つ立派なヴェッティ家の広間に描かれているフレスコ画は、繊細にして幽美、「グロテスク様式」と言いグロテスクの語源だそうな。特に「ポンペイの赤」と呼ばれる独特の赤色は現代でも再現不可という。この家にはもう一つ有名なものがある。女中部屋には艶っぽい絵が描かれており、更に豊穣の神プリアポス像の持ち物は実にご立派。昨夜の「まいった、まいった!」を思い出す。


 娼婦の館の部屋と石のベッド(当時の身長が推定出来る)

 人類社会学的に男女の関係も気になるものだが、こればかりは2000年前も今も同じである。ありました!娼婦の館。2階建ての立派な館である。1階には部屋がおよそ7室。夫々の部屋にその娼婦が最も得意とする態位が壁画で描かれている。もっとも2000年前の人間は身長が小さいので、石造りのベッドは160cm位しかない。街路には男根を形どった「娼婦の館はあちら」という道路標識が石畳に掘り込まれている。

 青い空にヴォルカーノ・ヴェスビオがくっきりと姿を見せ、48本のイオニア式円柱の並ぶアポロ神殿に立つと、人の営みが2000年という長い年月の中で何等変わっていないことを実感せざるを得ないのである。


 メルジェリーナの丘から見たナポリの街とヴェスビオ火山

 古代ギリシャ人がNeapolis、新都市と名付けたナポリ。メルジェリーナの丘からは眼下にマリーナと円弧を描く砂浜が続き、その先に海に突き出た12世紀の小城・卵城とサンタ・ルチアの港、そして視線を上げるとヴェスビオ火山。世界3大美港と言われるナポリ港。
 「ナポリを見て死ね」という名言が残る街ではあるが、今はナポリの経済は極めて悪い。イタリア経済そのものが悪いのでナポリだけの問題ではないが、港周辺は特にスラム化が激しく、治安も悪い。しかし、サンタ・ルチアから西、南に続く地域は高級住宅が続き、住んでみたいと思わせる景観である。

 ナポリ・ウンベルトⅠ世のガッレリア

 メルジェリーナの丘でネクタイ売りの屋台が何やら騒がしい。覗いてみると我が団員達があれが良い、これが良いとネクタイの「表柄」ではなく「裏」を見ながら物色している。ネクタイの裏にヘアヌードの女性がプリントされている。お土産に手頃な値段。日本人向け新手の商売の出現である。



古代の都市施設と「まいった、まいった!」-ローマ-(異文化体験14 港湾空間をめぐる旅2)

2011年05月17日 10時56分34秒 | 異文化体験_西欧
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古代の都市施設と「まいった、まいった!」 -ローマ-  1992.7.17~20

 Via Venetoに面したホテル・エクセルシオールが今回の宿舎。到着した夜、欧州旅行中の会社の先輩R夫妻とホテルで再会、通りの前にあるフェリーニの『甘い生活』で一躍有名になった「カフェ・ド・パリ」で夏の夜の一時、お互いの今後の旅行の前途を祝す。

 
(左)欧州旅行中の会社の先輩と「カフェ・ド・パリ」で (右)狼の乳を吸う双子の兄弟ロムルスとレムス(Wikipediaより)

 2回目のローマは、私をその歴史的重圧感から解放し、その都市づくりの妙味を存分に味わう機会を与えてくれた。
 双子の兄弟ロムルスとレムスが前753年にパラティーノの丘に都市を建設したと伝えられるローマは、まずテヴェレ川の湿地帯を改善するため排水溝が整備され土木技術が発達、近隣地区の征服に乗り出したローマは、この土木技術を駆使してアッピア街道のような軍用道路を建設し、遠く地中海まで遠征していった。

 
    (左)朝のスペイン階段          (右)古代の水道から水が流れ込むトレヴィの泉 

 
  (左)サン・ピエトロ広場の噴水       (右)サン・ピエトロ寺院のスイス衛兵

 ローマ帝国を建設したローマ市は、前300年には人口10万人の都市となり、最初の水道が建設され、トレヴィの泉には、今もこの時代の水道から絶え間なく水が供給されている。都市の便利な生活は、周辺農民を呼び寄せ、自作農の陥落とも連動して前3世紀には早くもスラムが形成されたという。初代皇帝アウグストウスの時代、つまり2000年前のローマは既に100万都市となっている。この時代の前後には、レクリェーション施設として円形劇場やコロッセウム、更に3000人もの人が一度に入浴出来た大浴場がいくつか建設されている。

 
(左)ベネツィア広場に面して建つヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世記念堂 (右)フォロ・ロマーノ 

      
(左)45000人収容のコロッセウム内部     (右)本日はお日柄も良くて・・こんな風景も

 このように見ていくと、既に2000年前に道路を建設し、排水溝を整備し、水道を敷設し、娯楽のための大劇場や社交場としての大浴場を建設するこれらの行為は、今日の都市づくりと何等変わらないものであり、人間の英知に感嘆せざるを得ない。



 
(左)ローマ近郊の「Ristorante Villa Zarina」 (右)亭主がサービスに出してくれた本物?の蔵出しワイン

 ローマ郊外の農家が営むレストラン「Ristorante Villa Zarina」。 真夏の太陽が周辺のオリーブと葡萄畑の濃い緑を一層鮮やかなものにする。昼食に亭主がサービスにと本物の蔵出しワインをサービスしてくれる。北イタリアでは、厳しい自然環境の中で濃厚な赤ワインが、逆に南イタリアではこぼれるばかりの太陽の恵みを受けてアルコール度の高い白ワインが、それぞれの土地柄を個性豊に反映して作られている。これぞワイン、2000年の昔、シーザーも飲んだと言う亭主。本当かねえ? 蔵出しワインの芳醇な香りと色と味を堪能する。小粒の丸い葡萄もあれば、細長い大きな葡萄もあり、さすがワイン王国である。
 
 民謡酒場「Da Meo Patacca」

 ローマ最後の夜は、民謡酒場「Da Meo Patacca」でカンツォーネを聴きながらの食事。と言えば聞こえは良いが、野外松明の照明下で何列もの机にぎゅうぎゅう詰めの観光客向け酒場。しかし、欧州美人を夜の帳の中で松明の照明を頼りに間近に見るのもなかなか乙な物である。

 最後は超ミニのイタリア娘を引っ張り出してのサークルダンス

 カンツォーネを歌うおじさんが各テーブルを廻ってくる。トランペットとギターとタンバリンと太鼓という奇妙な組合せの楽団に、歌手は腹の底から精一杯の独唱である。 歌い終わった所でテーブル端の我が団員の一人がチップを握らせると「まいった、まいった!」とおじさんが言う。少ないのかと、慌ててもう一枚チップを渡すとまたまた「まいった、まいった!」。このおじさん、これしか日本語を知らないと知って、今度は我が団員が「まいった、まいった!」。



ペレストロイカを垣間見る -モスクワ-(異文化体験14 港湾空間を巡る旅1)

2011年05月10日 16時36分38秒 | 異文化体験_中・東欧

 正にバブル経済・絶頂期の日本、全国津々浦々に様々なプロジェクトが浮上、関西でも関西国際空港を核に臨海部の開発プロジェクトが目白押し状態。わが社も隣接企業と相互の臨海部遊休地150haを共同で開発しようと稀有壮大な絵を描き始めた。
 しかし、バブルがはじけ「兵どもが夢の跡」は、現在巨大液晶工場と一大サッカーグランド群になっている。今回の旅は、1992年バブル経済・絶頂期に港湾空間の活性化、高度利用を目的に欧州の港湾空間を調査した旅のエッセイで、「港湾空間を巡る旅」全10回としてご紹介します。

なお、異文化体験13「オアフ・マウイ島 ハッピーウェディングの旅」は、次回に新たに掲載予定です。


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ペレストロイカを垣間見る -モスクワ空港-  1992.7.17

 機窓から見る夏のシベリアは、蛇行する大河があちこちに三日月湖を残しながら、緑一色の広大な丘陵地帯が広がる。初めて海外出張した時もモスクワ経由であったが、その時の真冬の白一色の世界とは対照的である。

    
(左)真冬のシベリア上空 白一色の世界   (右)夏のシベリア上空 タイガ(針葉樹林帯)をぬって蛇行する川

 JL445便は、徐々に高度を下げながら日が燦燦と降り注ぐモスクワ空港に着陸した。機内清掃のため一旦機外に出ると、どうであろうか、ここが本当にモスクワかと疑いたくなる様相である。あの薄暗いロビーにカービン銃を持った兵士が睨みをきかしながら、トイレはオリンピック直後というのに壊れ放題で、売店にはウオッカと毛皮製品しかなかった1981年に訪問した空港とは思えない変わり様である。

   
(左)1981年のシェレメーチェボ空港(1959開港) (右)現在(2010)の同空港、主要国際線はドモジェドボ空港に移転 

 まず、目に飛び込んでくるのが「Duty Free Shop」の鮮やかな色彩の看板。外貨獲得のために色とりどりの多彩な西側商品が所狭しと並んでいる。値段は多少高い気がするが、ロシア土産にと手頃な10~20$程度の商品が結構売れている。
 レジに座るロシア娘までが明るい制服に身を纏い、笑顔を絶やさない。ちょっと奥まった所には何と!「うどん屋」まであるではないか。

    
現在のシェレメーチェヴォ空港のDuty Free Shop、今回(1997年)は現在に近い、1981年当時とは雲泥の差である

 経済の自由化は、ここ空港では西側とほとんど変わらないが、市内では勤労者の平均月収2000ルーブルの厳しい物不足の生活が続いていると言う。
前回のフライトでは、誰も降りたがらない当地であったが、今回は当地での乗り換え客が沢山あったことを見ても、身近な存在になったことが窺い知れる。

 ペレストロイカ、それは10年後のロシアをどのように変えていくのだろうか?




躍動する世界都市 -パリ-(異文化体験12 都市再生の旅9)

2011年05月03日 11時59分17秒 | 異文化体験_西欧
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躍動する世界都市 -パリ-  1990.9.22~25

 「コネサンス・デザール」のパリ再開発を扱った特別号(日本語版)

 私にとってパリが今ほど躍動感に溢れていると感じたことはない。もっとも一番最近の訪問から4年経つのだが。その原因は、やはり大改造計画が現実に姿を見せ始めたからだろう。

 4年前までのパリは、私にとって一人寂しく欧州各地からパリに来てIEA(世界エネルギー機関)を訪問し、せいぜい一日か半日滞在して帰国する直行便の出発基地でしかなかった。

 ルーブル一つとっても工事中で中に入れてもらえず、グランアルシュ(新凱旋門)もエア・フランスのリムジンに乗るためポルトマイヨーまで行っていても目と鼻の先のグランアルシュは工事中でまだその姿を現していなかった。

 それが今、春に一度に花が開花するように、我々の目の前に大改造計画が現実の姿を見せている。EC統合を前に、ロンドンはドックランズを、パリはデファンスを夫々中心とする大改造計画は、まさに両者の世界都市としての生き残りを賭けた熾烈な主導権争いなのである。

  
 
ラ・デファンスのアルシュは、1989年7月14日の革命記念日に完成 広大なデッキが張り巡らされた新しい街

 
(左)今尚、再開発の槌音が・・  (右)再生された1793年創設のルーブル美術館I.M.ペイ設計のピラミッド

 
 19世紀後半の芸術を収め、かつ19世紀末の鉄骨建築オルセー駅を保存したオルセー美術館

    
「アラブ世界研究所」 ディアフラグムの伸縮による太陽光の変化で採光量を調節するシステムがユニーク

 
(左)カルスト・オットの「オペラ・バスティーユ」   (右)ラ・ヴィレットの「科学・技術博物館」

 「新大蔵省」 この移転でルーブル美術館の拡張が可能に。 


 パリの夜は、ツアー最後の文化体験、リドのディナーショーとなった。正装して参加のことというのが事務局のお達しである。初めてリドのショーを見た時は、食事の際のお酒が効いて半分寝てしまった記憶がある。それにしても、仕掛けが大掛かりになって飛行機は飛ぶわ、馬が出てくるわで、今後どうなるのであろうか?
同行のN氏、リドに双眼鏡持参とは、いやはや用意周到、まいりました。

 飛行機や馬が出現するリドのショー、次は何が・・


 二日目、パリ郊外のマルヌ・ラ・ヴァレというユーロ・ディズニーランドが出来る地区を視察後、自由行動。お土産を買わなければとメトロであちこち物色する。自分のものも記念にと思い、スーツケースの空き具合を想像しながら靴を購入することにした。3E幅の靴をやっと決めてさあ帰ろうとするとパリジェンヌの店員がクリームはこれが良いとか、型崩れさせないためにこの木型もどうかとか、営業熱心に迫ってくる。これを丁寧に断ってホテルに戻ると30分後には豪華ディナーに出発と言う。あわててシャワーを浴びてバスに乗り込む。
 それにしても、このPullmanというホテル。およそパリのホテルとは言い難いホテル。日本人団体向けホテルのようで、用心は悪いわ、鍵は壊れているわ、もう少しましなホテルはなかったのかと残念がる。

 
       パリ郊外 マルヌ・ラ・ヴァレ近郊のユニークなデザインのアパルトメント(集合住宅)

 「最後の晩餐」は、Les Georgiquesという日本人経営の本格的?仏料理レストラン。我々の部屋の斜め後方テーブルに日本の美女2人連れがやってきた。添乗のO君が何やらそわそわ。彼の席が丁度彼女等を見通す正面席。「ちょっとこっちと替わろう」と無理やり席を替えて、写真の連写。彼女達も何事かとこちらに注目。そこを更に連写。確かにモデルっぽい美女達、笑顔で応じてくれる。そう、O君は30を越えてはいるが独身なのだ。何とか間を取り持とうと彼女達に迫るが、笑顔とは裏腹に雰囲気は迷惑顔。後日、現像された写真はあれほど撮ったにもかかわらず、ほとんどが光量不足。残念、O君!

     
(左)今回の旅行の最後の晩餐会場「Les Georgiques」 (右)ライトアップされたエッフェル塔を背景に。

帰り道、ライトアップされたエッフェル塔とパリの夜景を楽しむ。明日は帰国の途に。