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旅行記、世相独言

1月29日 今日は何の日 「南極の日」

2022年01月29日 23時26分47秒 | 世相独言
今日は何の日? 1月29日はわが国では「南極の日」

 本日、国立極地研究所名誉教授・佐藤夏雄氏(越冬隊長等を歴任)の話を聞く機会がありました。
世界的には、12月14日が南極の日(1911年ノルウェイ・アムンゼンが南極点に到達の日)
一方、我が国では1月29日は1957年昭和基地が開設された日。

 南極と言えば、白瀬中尉や観測船「宗谷」、ソ連「オビ号」、樺太犬タロー・ジロー等、思い出深い名前が思い起こされますが、今日の話で印象深いのは、このプロジェクトの発足経緯でした。当時小学生だった私には知りえなかった話です。
 
 氏の話によると、まだまだ戦後復興の色濃い日本で国民を特に若者を元気づけようと、二人の男が中心になって動いたとのこと。1955年、朝日新聞の矢田喜美雄記者とこの分野で国際的に著名だった永田武教授。
 朝日新聞社が日本学術会議に南極観測参加を支援表明し、その数か月後の1955年11月政府が閣議決定(当時の国家予算9915億円に対し10億円を予算化、朝日新聞も国民(当時の日本人口約8000万人)に1.5億円の寄付を募ったようです。
 南極基地建設には国際承認が必要で、多くの先進国から日本の参加に反対意見もあったようですが、永田教授らの働きで承認を取り付け、直ちに灯台補給船だった宗谷を砕氷船へ改修、1,000社に及ぶ物資提供協力等のもと、急ピッチで諸準備を行い、閣議決定からおよそ1年後の1956年11月8日観測船宗谷が出港したという。

 私が驚き、強く印象に残ったのは、この閣議決定を含むプロジェクトのスピード感と、この国家プロジェクトを仕掛けたお二人の年齢です。永田武教授43歳、朝日新聞矢田喜美雄記者同じく43歳。
 戦後復興の中で、若者に日本が世界に伍して歩む夢を与えようとした43歳のお二人と、それにいち早く応えた政府。この活力こそ、少子高齢化社会の暗闇でさ迷う今日の日本が失ってしまった一番大きなものではないでしょうか?


半世紀 50年

2022年01月27日 12時06分23秒 | コーヒーブレイク
半世紀 50年

 この方を覚えておられる方も、めっきり少なくなったのではないでしょうか。横井庄一さん(1915~1997)、元日本軍兵士。
           

 1972年1月24日、グアム島の奥地で現地住民に発見され、日本軍が玉砕した1944年8月から28年間、捕虜になることを禁じた軍令を守り、グアムのジャングルで人知れず生き延びてこられ、「恥ずかしながら生きながらえて帰ってきました」と母国に帰還されました。
ちょうど今から50年前のことです。
この知らせは、戦後27年高度成長期真っただ中の日本国中に衝撃が走りました。私たち若者には戦争の実感を間近なものにし、死亡通知を受け取った遺族の方々にはもしやわが父、わが息子もと。(さらに1974年フィリピン・ルバング島から小野田寛郎さんが29年間の潜伏を経て帰還されました)

 横井庄一さんは発見後、グアム島に初めて出来た日系ホテル「グアム第一ホテル」で10日間ほど過ごされ、2月2日に帰国されました。
我々夫婦はその3ケ月ほど後に、心の片隅に少し複雑な思いを偲ばせながらグアム第一ホテルに新婚旅行で訪れました。ビザとイエローカードを持ち、1ドル360円、円の持ち出し規制の中で。
大阪伊丹空港からパンナム機でグアム島へ、帰路は就航が始まったばかりのジャンボジェットに乗りたくて羽田経由で伊丹に戻りました。当時の伊丹空港は、ジャンボジェットが離着陸出来るだけの滑走路延長がなかったためです。

40年後の2012年9月、私は再びグアムの地に降り立ちました。タモン湾に面し当時一軒家だった日系のグアム第一ホテルは、建物は存続していましたが、経営は台湾系の企業に代わっており、タモン湾周辺には様々なホテルやDFS等の施設が林立し、昔の面影を見出すことは出来ませんでした。

朝日新聞2022年1月25日号夕刊の横井庄一さんの記事を見て、50年前を思い起こしてみました。

  
元日本兵発見を伝える新聞  グアム島初の日系ホテル「グアム第一ホテル」 台湾系の経営に代わった現在のホテル

  
左:50年前のタモン湾から恋人岬方面の景色 右:ホテル等が林立する現在の景色  PANAMのジャンボジェット