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旅行記、世相独言

ベートーベンと政治都市と大食いドイツ人 - ボン - (異文化体験2 アルコールの旅3)

2010年01月29日 21時55分39秒 | 異文化体験_西欧
ベートーベンと政治都市と大食いドイツ人 -ボン-   1981.1.26~27


 雪景色の西ドイツの首都「ボン」

 西ドイツの首都ボン(参考:第2次大戦後、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の暫定首都(1949-90)で、憲法上はベルリン)は、20数km北西のケルンと飛行場を共有し、ツインシテイとでも言おう町である。もはや雪の跡の見られないライン河に面したこの町は、清潔、簡素な人口30万人ほどの政治都市である。

 ケルンとボンが共有する飛行場(Wikipediaより)

 近代的な役所の建物の入り口には、カービン銃をぶら下げた兵士が我々一行を待ち構えている。しかし、モスクワの飛行場と違ってあまり圧迫感を感じさせないのは、西側の国であるという安心感からであろうか。

 中央官庁の近代的なビル

 ドイツ人は戦争のことを忘れようとしない。テレビの深夜放送は必ず第二次世界大戦に関係する映画が、しかもモノクロ映画が放映されているし、フランクフルトのバスツアーでもこの場所は世界大戦の際にどうこうしたという解説が耳障りな位出て来る。

 また、ドイツ人は日本人に対し親切であると言う。同盟国として戦ったというのがその理由のようだが、真偽の程は分からない。確かに、テレビの深夜放送で戦争映画に次いで多いのが日本の古い映画で、滞在中も七人の侍やその他の時代劇映画が多数放映されていた。

 ボンで生まれ育ったベートーベン

 偉大なる作曲家「ベートーベン」が生まれ、育ったのがこの町である。1770年に生まれ、ハイドンに才能を認められウィーンに移る1792年までこの町で過ごした。一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であったとか。今でも旧市街にはBeethoven Hausがあるが、残念ながらお昼時に訪ねるとクローズドであった。
真冬のさなかでは名曲の旋律もなかなか頭に浮かんでこない。やはり音楽は春、もしくは暖かい部屋の中のものなのだろうか。

(左)表通りの生家 (右)裏庭から見た生家


 私が宿泊した「Hotel am Tulpenfeld」は、近代的なアメリカンスタイルのホテル。またしても食事の話で恐縮だが、夕食時のこと。ドイツと言えばソーセージに代表される豚料理。メインデイッシュにポークチョップ+ソーセージのような1品を注文した。ポテトや野菜がたっぷりのお皿に日本の2割増くらいの大きさの肉とソーセージが出てきた。これはグッドチョイスをしたと白ワインと共に舌鼓を打ちながら皆と歓談。

 
(左)アメリカンスタイルの「Hotel am Tulpenfeld」  (右)メインディッシュのイメージ写真

 さてさて、適度にお腹も仕上がり、ではデザートを何にと思案を始めたその時、ウエイターがやってきて、なんと今平らげたものと同じボリュームの肉類を横に置いてあるホットプレートの蓋をあけて私のお皿に当然と言わんばかりの顔でサーブするではないか。
メインデイッシュのお代わりなんぞわしゃ頼んだ覚えはないぞと言っても、そ知らぬ顔でさあ食えとばかり、お化けのようなポテトまでサーブしようとする。
慌ててノーサンキューを連発しても、肉は既にお皿にでっかと腰を降ろしている。
もう豚料理は誰が何と言ってもお断り。海鮮料理に対するこの旅での熱き想いが、この時から急速に高まって来るのである。

 ボン~エッセン 列車の切符

 さて、次なる目的地は石炭産業のメッカ・エッセン。インターシティ(特急列車)での移動である。日本の新幹線よりはゆったりと、かつ振動も少ないようだ。エッセンでも海鮮料理は食べることは出来ないだろうなあ。



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アップルワインと塩の町 -フランクフルト- (異文化体験2 アルコールの旅2)

2010年01月25日 23時32分25秒 | 異文化体験_西欧

アップルワインと塩の町 -フランクフルト-   1981.1.25~26


 ヨーロッパの異文化体験はフランクフルトから始まる。
18時間余りのフライトから開放され、中央駅に程近いパークホテルに落ち着いた時には、いささか気の緩みもあってか、風邪を引いたように感じられ食欲がない。何はともあれ夕食をと近くの徒歩でいけるレストランに自ら食欲を掻き立てて同行する。

 中央駅に近いパークホテル

 異文化との遭遇、その一は何と言ってもオニオンスープ。何が出てくるか分からないメニューとの相談の中で、自分のイメージ出来るメニューを見つけた時のうれしさ。誰しも身に覚えのあることではなかろうか。特に風邪気味の身体には脂っこいものはとりあえずパスしたい気持ちで一杯。
 しかし、なんだこれは! オニオンスープとはコンソメ風のスープにあの甘味のある蕩けるようなオニオンが入っていて、チーズを少しちりばめたもの。それが私の知る所のオニオンスープである。にもかかわらず、これは何だ!そう、チュイングガム。まさにそうとしか言い様のないチーズの溶鉱炉。濃厚なチーズがガムのように口の中でいつまでも存在する。もう二度とこんなものは食しないぞ。

 市内を流れるマイン川、両岸には残雪が残っている

 内陸の都市の厳冬。雪が街を覆い、マイン河は凍結し凍てついた風が心身ともに凍らせる、そのようなイメージがこの街を訪れるまでに私が脳裏に描いていた風景であった。しかし、現実は少し違っていたことを知るのは翌日の朝のことである。

 誰もが悩まされる時差で眠れず、日曜の朝の散歩を思いついた。ホテルを出てCOMMERZ BANKの建物の方へ少し歩くとゲーテ像にお目にかかれるはずである。

 ゲーテ像

 フロントで貰った地図を見ながらそんなことを考えていると、ツルッ、ツルッと足もとがよく滑る。歩道には多分数日前に降ったのであろう雪がうっすらと残っている。日本を出る時、足元まで気付かず平底の靴を履いてきてしまったが、それにしても平衡感覚まで鈍ってしまったかと思いきや、アッと言う間もなく尻餅をついてしまった。イテテ!並みの痛さではない。おかしいな、雪が凍った痛さとは訳が違う。よくよく調べるとなんと塩で固めてあるではないか。車の通る車道ならいざ知らず、ここは人様が通る歩道ではないか。一人ぶつぶつ言いながら、何とか無事、ゲーテ様とご対面とあいなった。


 Eshenheimer Turm (1426年の建造、城壁の北塔)

 シーズンオフの日曜日、観光バスは幸いにも一便だけ午前中に出るという。昼食付きで37DM。しかも7ケ国通訳付きとか。中央駅に近いバスターミナルに行くとアメリカ人の家族が二組のみ。旧市内を周って、かの文豪ゲーテが生まれてから大学入学まで過ごしたゲーテハウスに向う。4階には「若きヴェルテルの悩み」等を執筆した部屋が昔の面影そのままに残されている。それにしても、車内の7ヶ国語テープ案内は第2次世界大戦の時の様子を執拗に解説している。日本ではもはや観光案内では考えられないことになっているが。

 ゲーテハウス 右:執筆部屋(4階) 

 
   (左)ゲーテ博物館とゲーテハウスの文字案内   (右)2階の音楽室にて

 さあ、いざ昼食時間である。アップルワインで有名なザクセンハウゼンの「アドルフ・ワグナー」というレストランに案内される。ここにしかないという名物アップルワインを勧められたが、これが絶品。アルコールにさほど強くない私にとって昨夜のオニオンスープの失敗を一掃し、甘味のあるまろやかなこのワインはいささか舌の荒れた私の口の中で一服の清涼剤のように広がり、今もってドイツの味として生きている。

 
(左)厳冬期のお昼のザクセンハウゼンの居酒屋街  (右)レストラン「Adolf-Wagner」

 
     (左)歴史を感じる店内の様子          (右)名物のアップルワイン

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昼なお暗い玄関口 - モスクワ - (異文化体験2 アルコールの旅1)

2010年01月22日 11時42分19秒 | 異文化体験_中・東欧
 2007年11月から掲載してきた「異文化体験」ですが、初期のものは写真のない文章だけのブログでした。ここに改訂版として、写真等を織り交ぜてリニューアルする事にしました。
表題の横に旅行日を書いています。また、写真は原則クリックすると拡大します。
では、ご期待下さい!!



 初めての外国旅行。誰しも不安と興味の入り混じった気持ちで旅立つもの。
38年前のグァムへの新婚旅行から9年後の29年前、ブログ「異文化体験」の2回目は、アルコール燃料を調査するための極寒の欧州出張旅行から始めます。
名づけて「アルコールの旅」。8回に分けて掲載します。           


昼なお暗い玄関口 -モスクワ-    1981.1.24


 異文化との遭遇、幕開けはモスクワから始まる。
と言っても、クレムリンと対面というわけではない。フランクフルトに行くルフトハンザ・ドイツ航空機が給油のためモスクワ空港に立ち寄ったというだけの話である。

 
   (左)ボーイング727                   (右)ボーディングチケット    

 新潟上空からシベリア上空を経て、眼下にオビ河の氷と化した流れを眺め、暫くすると厚い雲海が視界をさえぎる。B727は、いつまでも続くこの厚い雲の中に身を投ずるように下降を始めた。まるでトンネルに入った新幹線のような光景が機窓に続く。20分近くそのような重苦しい状態が続いたであろうか。

 突然、窓の外に黒い雲とは異なる灰色の世界が広がった、晴れた日ならさしずめ一面の銀世界というところだが、黒雲の下では灰色の世界となる。針葉樹の並木がぐんぐん迫ってくるものの、町らしいものは何一つ見えない。それでもB727はまるで原野に不時着するかのように下降を続け、滑走路の端を視界に捉えた瞬間、雪煙をあげて着陸した。

 駐機場への移動の間に見えるターミナルビルは、どこかくすんだ感じの中に赤い色だけが異様に鮮烈である。見慣れぬ赤く塗装された飛行機も共産圏という先入観を掻き立てるに相応しい小道具となっている。

 
(左)機窓から撮ったオリンピックを終えた空港ビル     (右)1959年開港のシェレメーチェヴォ空港(Wikipediaより)


 給油の間の約1時間は、ロビーで待てという。通常貴重品は携行するよう指示されるが、ここではカメラは携行しないほうが良いと言う。

 なにはともあれ、狭い機内から開放された人々は広いトイレで用を足したいのが人情。しかし、数ヶ月前にモスクワ・オリンピックを終えたはずの空港ではあるが、まともな便器が半数とない。しかも、照明は薄暗く、閑散としたビル内にカービン銃を肩にした警察か、軍隊か知らないが、コツコツ足音を響かせて巡回する様は、非常な圧迫感をツーリストに与えるものである。

 ロビーの売店には、重厚かつ実用的な毛皮製品、ウオッカ、タバコ、民芸品等が何の飾りもなく置いてある。2人の女性従業員は積極的に売るでもなく、ただただツーリストのリクエストに応じて通貨両替に余念がない。

 総じて暗いイメージのモスクワ空港、長い重い厳しい冬のなせる業だけでもなさそうな気がする。乗務員交代で当地に留まるはずのノーブラの若いスチュアデス始め、ほとんどの乗務員が何故か機内一番後方座席に私服で乗ってフランクフルトへ向かう。聞くと、ここに泊まりたくないとの返事。それほどにモスクワとフランクフルトは近くて遠いのであろう。



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東京キューバンボーイズ

2010年01月17日 12時11分21秒 | コーヒーブレイク

東京キューバンボーイズ    2010.01.17





 東京嫌いの私が唯一好きな東京がある。それが見砂直照と東京キューバンボーイズ。
かれこれ50年ほど前のこと。大阪フェスティバルホールで「ザ・プラタース」の労音公演(なんと入場料500円の時代)があり、高校生の私は姉に連れられて聞きに行きました。その公演でバックを務めたのが見砂直照率いる東京キューバンボーイズ。

 当時、ザ・プラタースは「オンリー・ユー」や「煙が目にしみる」「16トン」等の世界的大ヒットを飛ばしていた人気グループで、その歌声も素晴らしかったが、それ以上に私を虜にしたのは、強烈なラテンビートでした。以後、このフルバンドの大ファンとなり、大阪公演の際には必ず出かけて行きました。
 
 貧乏学生だったので、今はなくなりましたが心斎橋のミヤコ楽器店等でアルバイトをして、お気に入りのLPレコードやオープンリールのテープを買いあさったものでした。もちろん再生するためのステレオやテープデッキもせっせとアルバイトして揃えました。

 1976年紫綬褒章受賞 後はトリオ・ロス・チカノス


 ダンスホールのバックヤードから、華々しいステージへとフルバンドのあり方を模索され、二度と同じ編曲で聴衆に聞かせず、組曲「祭りの四季」や「黒い太陽」で芸術祭奨励賞を受賞するなど、私の青春時代に豊かな感性をはぐくんでくれたバンドでした。

 そんな東京キューバンも1949年の結成後31年の活動を経て、1980年解散コンサートを打たれました。見砂氏71歳の時です。大阪フェスティバルホールでのさよならコンサートは、ダフ屋が出るほどの盛況で、私も女房共々最後のキューバンサウンドを聴きに行きました。冬の寒い折りしも珍しく残雪が残る道を自宅に戻る時には、何故かうっすらと涙が出てきました。

 記念パンフ(A4版50頁)の表・裏表紙 


 マエストロ見砂氏は解散コンサートの10年後に永眠され、その遺骨は日本とキューバに眠っていると聞いていますが、昨年「見砂直照生誕100年、東京キューバンボーイズ結成60周年を記念して「TOKYO CUBAN BOYS」というパンフレットが発行されました。懐かしい写真が満載され、その輝かしい活動の歴史が改めて思い起こされます。ちなみに1部1500円(送料込み)で東京キューバンボーイズのホームページから申し込むことが出来ます。
(参考:info@tokyocubanboys.com )

 2005年、息子さんの和照氏が再び東京キューバンボーイズを再結成され、活動されています。本ブログの「イベント」でも紹介したように、当時日本の2大ビッグバンドであった「原信夫と#&♭」のさよならコンサートにゲスト出演したり、新たな活動を始められています。が、残念なことに東京中心の活動に止まっています。関西にも沢山のキューバンファンがいます。是非、また大阪で強烈なラテンリズムを再現して欲しいものです。


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えべっさん

2010年01月11日 14時16分24秒 | イベント
えべっさん

 夜の十日戎境内風景(今宮戎HPより)


小さい頃から十日戎のことを「えべっさん」と言ってきた。
「えびす」とは七福神の一柱で、古来より漁業の神様として崇められてきた。
大阪の今宮戎神社は、上町台地にあり、昔はすぐ西まで海岸線が迫っていた。漁業の神様が鎌倉~江戸時代にかけて徐々に商売の神様となり、商売繁盛にご利益のある福笹、熊手などが授与されている。

 境内近くの道両側は熊手のお店がびっしりと


今宮戎駅を降りると、「商売繁盛で笹持て来い!」の賑やかなお囃子が耳に届く。人の流れに身を任せると自然と境内に入っていく。沿道両側には豪華な熊手やミニ熊手まで様々な熊手が売られている。

境内は押すな押すなの人出で、宵えびす、本えびす、残り福を求める残りえびすの3日間で100万人の人出がある。

 
(左写真)右側が本殿、左側は福娘達が吉兆をつけてくれる    (右写真)本殿の賽銭箱の中


本殿両側で笹が配られ、福娘達に様々な縁起物=吉兆をつけて貰う、1点1000円~1500円ほどの吉兆を数点つけて貰って5千円から1万円位を支払って「福笹」を持って帰る。福娘達はお揃いの着物の上に千早を着用し、頭には金の烏帽子を付けて奉仕している。

  

  今年の福娘達といろんな吉兆(縁起物)


小生も東京の息子の会社のために毎年出かけるが、関東では十日戎の習慣はあまりなく、関西中心のイベントのようだ。
金太郎飴の福飴もえびっさんの定番のもの。今は紅白のねじり飴と金太郎飴の2種類が主に売られている。

 
 (左写真)十日戎の定番 福飴、福おこし        (右写真)南海本線・今宮戎~難波駅間ガード沿いの露店

帰路はいつも難波駅まで歩くのだが、電車のガード沿いにびっしりと露店がつながっている。露店の種類も移り変わりがあって面白い。
食い物系では、一時トルコケバブ系が流行ったが、最近は宮崎の肉巻きにぎり、広島風お好み焼き、佐世保バ-ガー、福岡の梅ケ餅、その他沖縄、韓国等、露店もバラエティに富んだきた。


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