散歩者goo 

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昨日記171208金(無気力生活の現実と理想)

2017年12月11日 19時49分30秒 | 私的思い出・生き方・生活住環境
最高/最低  9.7  4.0  曇時々雨
この日は、副食作りを行った。
昼間は、副食作り以外に、それなりに自由時間もあったが、図書館から借りてきた本を読むわけでもなく、ラジオを聞いたりTVを見たりして、ダラダラと適当に過ごした

今まで、貧乏だから時間を金で買えないとか、残された寿命の時間を精いっぱい楽しく過ごすとか、口癖のように唱えているが、実態は冒頭に書いたように、適当に生きているのだ。
だが、たまにやる気が出て、時間が足りないと感じるときもある。
この自己矛盾は、自分でしか改善できないのだろう。
誰にでもあるかもしれない、本音と建前のような2面性の克服がこれからの生き方に大きな影響を与えるのだろう。

しかし、この問題は、今ままでずうっと取り組んできた問題でもあり、これからも失敗を重ねつつ克服しなければならない問題だ。
これに失敗し、いつも適当に生きるようになると、本当に、食べてTVを見て寝るだけの生活になり、何の充実感や達成感もなく、何も残すものもなく感動もない、空虚な人生で、一生を終えるのだろう。
そうした生活を送りたくない。
無気力生活や、なんとなく流される適当な生活は、良しあしではなく、私の価値観に全く合わないので、時折気付いては、軌道修正するだろう。
(成行き生活が悪いとは思っていないし、現実に私は日常的にそうした暮らしもしていることも多いが、私の生き方の趣味=価値観ではない)


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昨日記171207木(予定日報表 青春時代と残された寿命の時間に出来る事)追

2017年12月11日 18時43分32秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低  11.7  2.7  晴後薄曇
朝、家の前の露草を刈り取り、隣の駐車場に茂った、オシロイバナを刈り取った。
そのついでに、球根のまま土を棄て空になったプランターに放置していた5-6個の水仙の球根が発芽し、長いもので15cm程度に葉が伸びたので、このまま枯らしてしまうのも可愛そうなので、シソを植えてあるプランターの、枯れたシソを引き抜いて、植えてやった。

日中は、予定日報表の棒グラフの作業時間分類の色を一部追加して見分けやすくした。
来年が始まるまでに、来年度の空の予定日報表のフォームを作らなければならないが、手間のかかる仕事だ。
だが、今使っている予定日報表を使ってから、少なくとも過去の出来事を15分単位で検証できるようになった。
例えば昨年の秋に、展覧会を観に行ったような記憶があるという場合、昨年度の予定日報表を見ればいつ頃電車に乗って、どのギャラリーを何時頃に行ったかおおよそのことは、最低限時間単位で把握できるようになっている。
その記録を見るだけで、当時の光景が即記憶によみがえる。
だが家でゴロゴロしている場合は、ほとんど新聞TVとしか書いてないし、その時の状況は覚えていない。
予定がはっきりしている場合は、予定欄に予定行事か、行く先を書いて、HPやブログがある場合はリンクを貼っているが、数年たつとほとんどの場合、行事関連のリンクが切れているので、重要な行事の場合は、開催中のHPや関連資料をコピペして資料ファイルとしてPCに保存している。

夕方には食料品の買い出しに、3軒のスーパーを回った。
夜には、ジムに行きランニングを行った。
ランニングも筋トレも、記録がはっきりと低下傾向になりだしたので、誰もが通過する加齢による身体機能の低下=死への序章 と考えているが、何とかできぬものかと、対抗策を検討中だ。
無駄な抵抗だろうが、やるだけのことはやりたい。
同時に、残された時間(多分2-30年)を十分楽しみたいし、有意義に使いたい。

今後90歳中頃まで生きると仮定しても、20年以上あり、今後平均寿命100歳になると言われ始めた今、100歳以上生きると仮定すれば、30年間程度生きることになる。
20年間といえば、青春時代より長いのだ。
例えば青春時代を青年期と仮定すると、凡そ16歳から25歳程度で、約10年間である。
しかし、今の自分自身の考えや感性は、青春時代よりはるかに研ぎ澄まされていると思っているし、知識や行動範囲や人脈は、おどおどした自信のない青春時代とは比べ物にならない。
この様に考えると、残された時間といっても、枯れるのを待つというのでなく、工夫とやる気次第で、人間としての楽しみを謳歌し自分らしさを創造する実りの時間を過ごせる可能性があるのかもしれない。
そうしたことを実現するには、少なくとも5-60代の体力や身体機能の維持が必要だ。
今のところ、私はジムの記録から見ると、一般のほぼ60代前半男性程度の体力や筋力は、維持できているのではないかと思っている。(それぞれの身体機能に優劣はあるが。)
今後も肉体的にこのレベルを維持し、総合的に、体力、身体機能の維持や感性や知性を磨く方策を真剣に考え実行する予定だ。

余談になるが、青春時代以降から現在までの流れを振り返ってみて、生き方や価値観と経済について思ったことがある。
今、経済的には貧困生活を送っているが、負け惜しみでなく、最近報道されている金持ちの宮司一家の生活ぶりから比べると、今の私の貧困生活の方が、よほど楽しく充実していると思っている。
私も、サラリーマン時代(40年前)は年収600万円弱あり、預貯金も4-5千万円持ち、3-4軒以上の馴染みの飲み屋にボトルをいれていたので、そうした享楽的流れも多少理解できる。
だが、今思うと刹那的でむなしい面もあるし、無駄だらけの生活と思っているし、呑みに行くことで楽しさ、享楽はあっても、充実感は無かった。
生き方の上で、充実感というのは重要な要素かも知れないと思っている。
(多分宮司一家の連中の行く高級な飲食店と、阪急東通りの炉端焼き・家庭料理の店やスナックとは、人間関係もかなり違うと想像している。<男女関係ではない、庶民的な人間関係があった。>)

お金を持つとそれに見合った、無駄遣いをするようだ。
また消費すること、お金を使うことが、充実感や幸福とは一致しないのかもしれないと思っている。
今、平均年収程度の収入があれば、もっと素晴らしい有意義な使い方をするのでなく、それなりに無駄遣いしそうな気がする。
人は収入があれば、それに応じて、価値観が変化し貧しかった時の価値観を忘れることが多いように見える。


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