午後から、大津市にある2kwギャラリーに出かけた。
黒瀬 剋、長尾 圭、山岡敏明の3名の作家による「THE EMBODIED MIND」をタイトルにした展覧会だ。
3氏は、このテーマに沿った作品を展示していた。
案内には、心は本来、身体化されている。思考はたいてい無意識のものである。
と書かれている。
ギャラリートークがあり、黒瀬氏や山岡氏とは、ギャラリーで何度も話をしたことがあり、作品もよく知っているし、作家の生の考えが聞けるので、興味があり参加した。
会場で、3名の作家の話を聞いたが、知り合いの2名の作家についても初めて聞く話もあった。
終わりの質問時間や、その後のパーティーでも作家さんにいろいろ質問を投げかけ、それなりに納得のいく話を聞くことができ面白かった。
ただ、現代美術に関しては、これが正解という見方はなく、それぞれの作家の美術に対する価値観も違う。
芸術の場合一つの価値観でくくられたのが、一つの分野でさらにその中でも、傾向が分かれ、価値観が微妙に違う。
同じ価値観の中では、パラダイムが形成され、その価値観をもとに作品の良しあしや論理が形成される。
価値観が違えば、その価値観に即した論理や見かたを適用しないと十分鑑賞できない。
例えば抽象・具象 コンセプチャル ミニマル ポップアートー・・・・・・・すべて価値観が違い、ポップアートをミニマルの見方で鑑賞できない。
例えば、義太夫節をバロック音楽の聴き方やハードロックの聞き方で鑑賞できない。(価値観 文法 文脈 表現手法が違う。それぞれのジャンルには、各ジャンルで共通の楽器・声・リズム・ハーモニー・楽典が存在し、それぞれの分野で演奏法の論理が存在する。
しかも、芸術は論理ではない。
芸術は、過去の継承された表現技術や鑑賞の仕方を継承しつつ、それぞれの時代の影響を受けながら、新しい表現や価値観を模索しているのだ。
現代美術はその最先端の一つであり、作家自身自分の表現がわからない場合がほとんどだと思うし、複数の有名な作家からもそうした話を聞いた。
しかし、よく似た構造の作品を作り続けているうちに洗練され、その価値観での文法文脈が出来上がるようだ。
音楽でも、ビートルズがデビューしたときの曲は、誰も聞いたことのない音楽でなじめず理解できず雑音扱いされたが、今では名曲になっている。
また、現代美術のシンポジウムで、かつての新聞の大物の美術評論家(現代美術を評論し大きな影響を与えていた。)が、「現代美術はわかりませんなー」と何度も繰り返していたのを鮮明に覚えている。
このように、アバンギャルドとしての現代芸術の構造・宿命を考えると、大物評論家の発した言葉は今考えればよく理解できる。
この夏に行った、国立国際美術館での現在の現代抽象絵画の世界の潮流を探った展覧会でも、同様のことを感じた。
(2kwギャラリーに行くため大阪駅まで行ってから、乗車券割引なしがわかり、行くことを取りやめたことがあったことも昨日記に書いた記憶がある。このように経済的理由で行動が制限された時(遠出・飲み会・有料イベント・食事関連家事で多くの時間を割かなければならなくなった時<常に頻繫に数日単位で発生>)に貧困を強く意識し腹立たしく思うが、普段は貧困の意識はない。)
黒瀬 剋、長尾 圭、山岡敏明の3名の作家による「THE EMBODIED MIND」をタイトルにした展覧会だ。
3氏は、このテーマに沿った作品を展示していた。
案内には、心は本来、身体化されている。思考はたいてい無意識のものである。
と書かれている。
ギャラリートークがあり、黒瀬氏や山岡氏とは、ギャラリーで何度も話をしたことがあり、作品もよく知っているし、作家の生の考えが聞けるので、興味があり参加した。
会場で、3名の作家の話を聞いたが、知り合いの2名の作家についても初めて聞く話もあった。
終わりの質問時間や、その後のパーティーでも作家さんにいろいろ質問を投げかけ、それなりに納得のいく話を聞くことができ面白かった。
ただ、現代美術に関しては、これが正解という見方はなく、それぞれの作家の美術に対する価値観も違う。
芸術の場合一つの価値観でくくられたのが、一つの分野でさらにその中でも、傾向が分かれ、価値観が微妙に違う。
同じ価値観の中では、パラダイムが形成され、その価値観をもとに作品の良しあしや論理が形成される。
価値観が違えば、その価値観に即した論理や見かたを適用しないと十分鑑賞できない。
例えば抽象・具象 コンセプチャル ミニマル ポップアートー・・・・・・・すべて価値観が違い、ポップアートをミニマルの見方で鑑賞できない。
例えば、義太夫節をバロック音楽の聴き方やハードロックの聞き方で鑑賞できない。(価値観 文法 文脈 表現手法が違う。それぞれのジャンルには、各ジャンルで共通の楽器・声・リズム・ハーモニー・楽典が存在し、それぞれの分野で演奏法の論理が存在する。
しかも、芸術は論理ではない。
芸術は、過去の継承された表現技術や鑑賞の仕方を継承しつつ、それぞれの時代の影響を受けながら、新しい表現や価値観を模索しているのだ。
現代美術はその最先端の一つであり、作家自身自分の表現がわからない場合がほとんどだと思うし、複数の有名な作家からもそうした話を聞いた。
しかし、よく似た構造の作品を作り続けているうちに洗練され、その価値観での文法文脈が出来上がるようだ。
音楽でも、ビートルズがデビューしたときの曲は、誰も聞いたことのない音楽でなじめず理解できず雑音扱いされたが、今では名曲になっている。
また、現代美術のシンポジウムで、かつての新聞の大物の美術評論家(現代美術を評論し大きな影響を与えていた。)が、「現代美術はわかりませんなー」と何度も繰り返していたのを鮮明に覚えている。
このように、アバンギャルドとしての現代芸術の構造・宿命を考えると、大物評論家の発した言葉は今考えればよく理解できる。
この夏に行った、国立国際美術館での現在の現代抽象絵画の世界の潮流を探った展覧会でも、同様のことを感じた。
(2kwギャラリーに行くため大阪駅まで行ってから、乗車券割引なしがわかり、行くことを取りやめたことがあったことも昨日記に書いた記憶がある。このように経済的理由で行動が制限された時(遠出・飲み会・有料イベント・食事関連家事で多くの時間を割かなければならなくなった時<常に頻繫に数日単位で発生>)に貧困を強く意識し腹立たしく思うが、普段は貧困の意識はない。)