神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.164 3人の恩人 2

2024-05-09 04:43:04 | 追憶
   
      朴葉:空高く

(1)上京して私は、西武池袋線の「椎名町駅」近くの南長崎に間借りして住んでいました。
 しばらくして、私の不在中に母が上京して来ました。
 教育大で露文をやるといっていたものが、浪人したのにその受験ができず、代わりの受験先はことごとくうまくいかず、苦肉の策の私大は受けられない、挙句は夜間大学へ入学。ですから、送り出しはしたものの、どんな所でどんな生活をしているのか心配だったようです。

(2)西部池袋線の二つ目の駅に「東長崎駅」があります。
 これは、後日譚ですが、上京した母は、私の部屋の住所が「南長崎」であることに気を取られて、「椎名町駅」を通過して「東長崎駅」まで行ったそうです。そして、下車して駅員に場所を尋ねたところ、一駅乗り過ごしたことがわかったので、
 「次の電車はいつ来るでしょうか」「ハイヤーに乗った方が速いでしょうか」
と、尋ねたそうです。そしたら駅員が、
 「待っていれば、5分もすれば来ますよ」
と答えた、と笑ってました。
 無案内な所によく出てきたと思いましたが、親というものはそういうものかもしれません。

(3)その母が、帰京した折に私に言いました。
 「家主に開けてもらって入ったら真っ暗で、昼間なのに電気をつけなければ何も見えないんでびっくりした。」
 確かにそうでした。
 当時は、畳1畳1000円の時代で、借りた部屋は3畳間で3000円でした。この上は4.5畳間で4500円。6畳間は6000円です。
 私も、できれば6畳間、せめて4畳半くらいをと希望しましたが、その部屋がなかったのと、あっても、1500円といえば、時給250円で6時間分の1日の日給に相当しますから、けっしてバカにならない金額でした。
 それで、どうせ朝出て夜寝に帰るだけだし、ようすがわかるまでは少しでも負担が小さい方が安心と考え、そういう部屋でもよしとしたわけです。
 たしかに、陽が入らないために押し入れの下の方が少しじめじめとした感のある、わびしい北側の部屋でした。

  
   小菊

(4)新生活が始まり、いくらか落ち着いた5月の連休頃、「しまった」と思い始めました。というのは、自分の思い描いた大学での勉強が、まったく予想外の違ったものだったからです。
 それだけでなく、当時の法政大学のⅡ部もやはり荒れていて、授業も落ち着きませんでした。そういうところなのに、受験校のはずの高崎高校からほかに先輩2人が来ていました。その人たちは、生徒会を頑張った人と応援部で活躍した人でよく知られた尊敬できるところのある人たちでしたが、受験勉強に力を入れているとは思えない人たちでしたから、驚きましたが、すぐに納得できました。
 しかし、露文を目指した自分と、ほかのことをやっていた人とが同じ境遇にいることに違和感がありました。事情を知らない人は、私の法政選択とその人たちのことを繋げて考えるかもしれませんが、まったく無関係のことでした。

   
   シビビー:正確な名前しらず

(5)そういうことを考え考えして窓の外を見ていると、向かいのアパートの部屋の人が同じように外を見ているのに気が付きました。一瞬ですが見ていると、あちらも気が付いて、互いにペコッと挨拶しました。
 それからしばらくして、暑くなってきたので、窓を開けていると、
 「よかったら、来ませんか」
 と声をかけてくれましたから、遠慮なくおじゃましました。胡坐をかいて、ビールをごちそうになったのを覚えています。 
 向かいのアパートといっても、人が一人通れるかどうかというほどしか離れていませんでしたから、最初は、外を廻って入り口からおじゃましてましたが、あとからは、窓越しにまたいで入りおじゃましました。

(6)伺うと、6畳の部屋はずいぶん広いと思いました。
 何回か伺うようになって、次第に詳しい境遇も話すようになりました。
 あまり詳しくは書けませんが、この人は村山さんといって、私より4歳年上で、九州大学出の建築士でした。黒川紀章という有名な建築家がいましたが、目標としてあこがれていたのか、この人のことを話されていたのを覚えています。

(7)その村山さんに「やり直し」のことを話し、意見を伺いました。すると、その要旨は、
 「いま居場所がないならともかく、不本意でもあるのだから、先へ行く方がよい」
 「受験勉強をいくらやっても意味がない」
 ということでした。
 これには、自分の周りの人のこと、たとえば、成績は優秀だが、気が弱いために決断力に乏しくてダメな人のことなどを例にいろいろ話してくれ、
 「やりたいことがあるのだから、戻ろうとしないで、目標に向かっていくのがよい」
 と、説得されました。
 そして、部屋の壁に貼ってあった自筆の武者小路実篤「進め進め」のを取り外し、メモを切り取り、自分の支えにしてきたものだといってくれました。それが、次のものです。


   
 左下は「武者小路実篤」の名前のようです。切り取った理由は訊かずじまいでした。
 もちろん、いただいた当時はまだ新しく、白紙に赤文字がくっきりとしていましたが、経年劣化と、自分が70歳を超えたので、今は取り外して保存しています。
 村山さんとは、その後、転居されて離れ離れになりましたが、今に至るまで年々挨拶を交換していただいてきました。いまも健在です。
 なお、お別れの際、棚のオールド・パーを取って、お兄さんからのロンドン土産だと言いながら、「半分くらいしか残ってなくて申し訳ないけど、飲んで』と渡してくれました。
 当時はまだ貴重品でした。私はそれをずっと棚に取っておいて、飲んだのは還暦を過ぎたころだっと思います。
 村山さんは、このころの大事な恩人です。
 では。
 
 

 



 
 

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