聖子さんは、今でも、独身アイドル時代の代表曲をテレビで歌ってくれ、と頼まれると、多くの場合、「sweet memories」を歌われます。これは、割と高い音を多用しない、ということもあるでしょうし、どんな年齢になっても、その年齢なりの味を出せる、ということもあるからでしょう。しかし、やはりご本人の中で、思い入れの強い曲であるというのが一番だと思います。
さらに、実は聖子さんにとって、一番難しい時期に一番よい曲を与えてくれた人こそ、大村雅朗さんであったということを、聖子さん自身が一番よくわかっていたからだと思うのです。故、大村さんへの感謝の心として、今も聖子さんは、「sweet memories」を歌っているように思います。
実は大村さんは、聖子さんの実質上の出世作となった「青い珊瑚礁」の編曲や、今も強烈なサウンドで魅了する「夏の扉」の編曲をしている人なのです。
しかし前回にも書いたとおり、この曲を出すに当たっては、スタッフがあまりよい顔をしなかったそうです。今となっては真相はわかりませんが、その理由は、
①英語を歌うと言うことで、当時洋楽に強い興味を示していた聖子さんが、このような曲を足がかりに海外へ進出しようとすることを懸念していた。
②当時は人気アーティストが聖子さんに送った曲をシングルにする、というシステムがひとつの「売り」になっており、力はあるが世間的には名の知れていない大村さんの曲を表に出そうと考えるスタッフはいなかった。
あくまでも推測ですけどね。
簡単に言うと、聖子さんのスタッフは、実質最高の音楽力を持った、本当の意味での最大の功労者である大村さんに対して、ほとんどそれ相応の対応をしていなかったということです。売れっ子ミュージシャンばかりを手厚くもてなして。
しかし、歌っている聖子さんだけには、本物と、本当の恩人が誰であるかが、わかっていた。
で、結果としてこの曲は細野さん作曲の「ガラスの林檎」B面にひっそりと入り、CMでも最初は「歌:松田聖子」の字幕はありませんでした。
歌が話題になり、聖子さんが歌っていると知れてさらに騒がれた頃、「ガラスの林檎」「sweet memories」は両A面扱いとして改めて売られ、テレビのベストテン番組では、秋に発売した「瞳はダイアモンド」とともに同時にランクインするという珍事まで巻き起こすほどのヒットとなりました。
もしかしたら、こういう「じらしヒット」は、当時のスタッフの作戦であったと考えることもできないではありませんが、ちょっと無理のある論です。
このあと、「ユートピア」というアルバムが発売されました。実は私は、このアルバムを最後に、聖子さんのアルバムを買うのをやめてしまいました。このアルバムの好きなファンは多数いますが、わたしの感覚では、「もういいよ、こういうの。」という感じだったのです。ただ、このアルバムの中に1曲、強く輝く曲がありました。「セイシェルの夕陽」という曲です。
これも後で知ったのですが、大村さん作曲の曲でした。しかしアルバムの中では、ひっそりと後半の半ばに収まっているに過ぎませんでした。相変わらずの売れっ子ミュージシャンによるごった煮のアルバム。大村さんの曲は、全く、その価値に似合うだけの扱いを受けていませんでした。
でも、聖子さん本人だけは違いました。聖子さんはこの曲も好んで歌い、今では聖子さんファンで、知らない人はいないといわれている名曲です。
ともあれこの83年後半、聖子さんは、単なるアイドルではない、本格的な歌唱力を持ったシンガーであるということを世間に知らしめ、私は新たな喜びを持って聖子さんの3度もの絶頂期を見ていました。
私の、当時18年の人生の中で、これほどまでに喜び、感動、驚きを与えてくれた歌手はいませんでした。こっぱずかしい「ファンレター」などというものを書こうと、若気の至りで突っ走ってしまったのは、この時期でした。
さらに、実は聖子さんにとって、一番難しい時期に一番よい曲を与えてくれた人こそ、大村雅朗さんであったということを、聖子さん自身が一番よくわかっていたからだと思うのです。故、大村さんへの感謝の心として、今も聖子さんは、「sweet memories」を歌っているように思います。
実は大村さんは、聖子さんの実質上の出世作となった「青い珊瑚礁」の編曲や、今も強烈なサウンドで魅了する「夏の扉」の編曲をしている人なのです。
しかし前回にも書いたとおり、この曲を出すに当たっては、スタッフがあまりよい顔をしなかったそうです。今となっては真相はわかりませんが、その理由は、
①英語を歌うと言うことで、当時洋楽に強い興味を示していた聖子さんが、このような曲を足がかりに海外へ進出しようとすることを懸念していた。
②当時は人気アーティストが聖子さんに送った曲をシングルにする、というシステムがひとつの「売り」になっており、力はあるが世間的には名の知れていない大村さんの曲を表に出そうと考えるスタッフはいなかった。
あくまでも推測ですけどね。
簡単に言うと、聖子さんのスタッフは、実質最高の音楽力を持った、本当の意味での最大の功労者である大村さんに対して、ほとんどそれ相応の対応をしていなかったということです。売れっ子ミュージシャンばかりを手厚くもてなして。
しかし、歌っている聖子さんだけには、本物と、本当の恩人が誰であるかが、わかっていた。
で、結果としてこの曲は細野さん作曲の「ガラスの林檎」B面にひっそりと入り、CMでも最初は「歌:松田聖子」の字幕はありませんでした。
歌が話題になり、聖子さんが歌っていると知れてさらに騒がれた頃、「ガラスの林檎」「sweet memories」は両A面扱いとして改めて売られ、テレビのベストテン番組では、秋に発売した「瞳はダイアモンド」とともに同時にランクインするという珍事まで巻き起こすほどのヒットとなりました。
もしかしたら、こういう「じらしヒット」は、当時のスタッフの作戦であったと考えることもできないではありませんが、ちょっと無理のある論です。
このあと、「ユートピア」というアルバムが発売されました。実は私は、このアルバムを最後に、聖子さんのアルバムを買うのをやめてしまいました。このアルバムの好きなファンは多数いますが、わたしの感覚では、「もういいよ、こういうの。」という感じだったのです。ただ、このアルバムの中に1曲、強く輝く曲がありました。「セイシェルの夕陽」という曲です。
これも後で知ったのですが、大村さん作曲の曲でした。しかしアルバムの中では、ひっそりと後半の半ばに収まっているに過ぎませんでした。相変わらずの売れっ子ミュージシャンによるごった煮のアルバム。大村さんの曲は、全く、その価値に似合うだけの扱いを受けていませんでした。
でも、聖子さん本人だけは違いました。聖子さんはこの曲も好んで歌い、今では聖子さんファンで、知らない人はいないといわれている名曲です。
ともあれこの83年後半、聖子さんは、単なるアイドルではない、本格的な歌唱力を持ったシンガーであるということを世間に知らしめ、私は新たな喜びを持って聖子さんの3度もの絶頂期を見ていました。
私の、当時18年の人生の中で、これほどまでに喜び、感動、驚きを与えてくれた歌手はいませんでした。こっぱずかしい「ファンレター」などというものを書こうと、若気の至りで突っ走ってしまったのは、この時期でした。
なぜ私がここに辿り着いたかわからないのですが、
何かの縁かもしれないのでコメントを書いていくことにします。
私も松田聖子さんのファンです。
このブログに共感する内容が多いことにびっくりしました。
これからも時々遊びにきますのでよろしくお願いします。
私の赤西KUT-TUN情報サイトで
こちらの記事を紹介させていただきましたので
ご連絡させて頂きました。
該当ページは、
http://1akanishi.blog98.fc2.com/blog-entry-90.htmlです。
今後ともよろしくお願いします。
皆さん、コメントありがとうございます。
君が代の時期に比べて、皆さん、温かいですね。