三十回くらい京都へ行っているのに、訪れる機会がなかった比叡山延暦寺を三日目ようやく訪れました。広い寺域を一番奥から廻ります。初めてでもあり見所も多い為、一廻りがやっとだと思いますが、やはりメインの根本中堂という御堂が独特の造りと空間で印象に残りました。何故か井上靖著「敦煌」の序のあたりを思い出します。
他にもその向かいにある文殊楼という建物の二階へ上ることが出来たので、物見高いねとか言いながら二人して垂直な階段を上がると、その狭さと勾配の急なことにフィレンツェのドゥオモに登った時のことを思い出しました。
ところが帰って来て少し時間の経った今、思い浮かぶのは一番奥の横川と呼ばれる辺りの景色や空気です。
また以前イタリアの美術館で観る絵画のほとんどが宗教画という話を書いたように思いますが、文盲率が高かった時代にキリストや聖人の生涯を解かり易く見せていたみたいに、ここにも親鸞や日蓮などの生涯がマンガ調の絵に平易な解説で参道に掲げてありました。
ケーブルカーとロープウェイを乗り継いだ登り口の眺望も素晴らしく、海抜八百メートル超の高度は空気も清々しい聖域です。

夜は、早目に電話してあったリヨン近郊で研鑚した人の店へ。
黙って座ればピタリと当たるではありませんが、ここの店だけ唯一お任せです。
豊かな酸をもつ一杯をたのんで待っていると、今回は先ず岩ガキにホワイト・ソース。
次にオマールのサラダ仕立て、甘鯛のポアレ、シャラン産鴨胸肉のローストと続き、白桃のコンポート+ソルベ、コーヒーのクレーム・カラメルと繋がります。
いつもながら、柔らかい物腰からは想像しにくい完璧主義で満足させてくれました。
もちろんこの内容に各々のポーションが充分なので、萎える気持ちにムチ打って翌日の為無理にも歩いてホテルへ帰りました。
ところがこの夜、とうに夜半を過ぎて膨満感に目覚めてしまいます。何やってんだかなーと暗い中で考えましたが、朝方ようやく眠れたようです。まるっきり海老沢泰久著「美味礼讃」みたいな話で、さすがにこの夜は「物見遊山じゃないんだぞー」と自分に向けて呟く余裕はありません。
苦しいとか思いながら、でも美味しくなかったらこんなには食べられなかったと反芻するのでした。

他にもその向かいにある文殊楼という建物の二階へ上ることが出来たので、物見高いねとか言いながら二人して垂直な階段を上がると、その狭さと勾配の急なことにフィレンツェのドゥオモに登った時のことを思い出しました。
ところが帰って来て少し時間の経った今、思い浮かぶのは一番奥の横川と呼ばれる辺りの景色や空気です。
また以前イタリアの美術館で観る絵画のほとんどが宗教画という話を書いたように思いますが、文盲率が高かった時代にキリストや聖人の生涯を解かり易く見せていたみたいに、ここにも親鸞や日蓮などの生涯がマンガ調の絵に平易な解説で参道に掲げてありました。
ケーブルカーとロープウェイを乗り継いだ登り口の眺望も素晴らしく、海抜八百メートル超の高度は空気も清々しい聖域です。

夜は、早目に電話してあったリヨン近郊で研鑚した人の店へ。
黙って座ればピタリと当たるではありませんが、ここの店だけ唯一お任せです。
豊かな酸をもつ一杯をたのんで待っていると、今回は先ず岩ガキにホワイト・ソース。
次にオマールのサラダ仕立て、甘鯛のポアレ、シャラン産鴨胸肉のローストと続き、白桃のコンポート+ソルベ、コーヒーのクレーム・カラメルと繋がります。
いつもながら、柔らかい物腰からは想像しにくい完璧主義で満足させてくれました。
もちろんこの内容に各々のポーションが充分なので、萎える気持ちにムチ打って翌日の為無理にも歩いてホテルへ帰りました。
ところがこの夜、とうに夜半を過ぎて膨満感に目覚めてしまいます。何やってんだかなーと暗い中で考えましたが、朝方ようやく眠れたようです。まるっきり海老沢泰久著「美味礼讃」みたいな話で、さすがにこの夜は「物見遊山じゃないんだぞー」と自分に向けて呟く余裕はありません。
苦しいとか思いながら、でも美味しくなかったらこんなには食べられなかったと反芻するのでした。

