夏至には七時頃だった日没が早くも一時間ほど短くなり、虫のすだく音も秋らしくなって来ました。
寂しいですねと言いたいところですが、今年ばかりは「いい加減にしろ」とか黄門さまの「もういいでしょう」という声が聞こえて来そうなので、あまり声高に言えません。
気の早いクラレンス・カーターは暖かそうなニット。夏が暑いと、冬は寒いなんて言いますからね。(逆も言うので、そうなるとそのサイクルは何処で切れるのでしょうか)
さて散々苦しい思いまでして食べて、何かの役に立つとか意味があるとかいう事はもちろん全くありません。
家に着き、簡素な夕飯の支度をし、食後にお茶を飲みながらお約束どおり「あー、やっぱり家が一番」なんて間抜けな事を言って、だったら家にいろって感じでしょうか。
国内でも日常から切り離された土地では、郷に入りては.....に従っていると何だか外国にいるような気分がします。
同様に人に接するのも、言葉は通じますが外国人に接するような気がする瞬間が間々あります。
顔も名前も知られている人に、半年ぶりに会って挨拶したり、その間あった出来事を聞かしてくれるのさえ異国の出来事みたいです。
でも例えば、訪れた日には予約だけでたいてい満席で、後のお客さんを断らざるを得ないほど盛況だったりする店も、或る日自分達以外誰もいない状況に偶然遭遇して、当然とはいえ待つ商売の不確実さを垣間見たりするのも、不思議な心地がします。
そんなこんなで、苦しいほど食べたり世の儚さを思ったりして、下のつくばいに印されたような事を思うのかも知れません。うーん、これもちょっと苦しいか。
増井和子さんという人が「パリの味」という著書のなかで、
「いまフランスで最もフランスらしいもの、と問われたら、料理だと答える。料理は手仕事なの。その手仕事が作り出す人数分の料理しか、この世には存在しない。」と書きました。
何処かで聞いたように思ったら、イタリアの仕立て屋さんの「我々の仕事は主治医に似ているかも知れません、さすがに内臓までは診ませんが」という言葉を思い出しました。
それらは、本当には理解していない人が押し付けるワン・トゥー・ワン・マーケティングより、血の通ったより親密な関係の構築について具体的なイメージを伝えます。
先ほどの本の中で増井さんは、
「同じメニューから自分が食べたいものを、オードブル、アントレ、チーズ、デザートと選んで自分の献立を作るわけです。所詮は食べたいものを食べればよいわけながら、洋服でいう着こなしのようなようなところが、どうも、あります。料理人にしてみれば、その日の持ち材料いっぱいで店を張っているわけですから、ワイシャツ、ネクタイ、背広と組み合わせ良く選んでもらえれば、うれしいでしょう。注文をうける人も、この趣味のよさでは手ごわいと、はりきるでしょう。」
と懇切に書いてくれています。
(つくばいの画像下の英文解説は龍安寺のパンフレットから)
Ryoan-ji, Kyoto
Tsukubai, the stone-wash basin for the tea room, has a unique inscription, “I learn only to be contented.” He who learns only to be contented is spiritually rich, while the one who does not learn to be contented is spiritually poor even if he is materially wealthy. This concept is important in the Zen philosophy.
寂しいですねと言いたいところですが、今年ばかりは「いい加減にしろ」とか黄門さまの「もういいでしょう」という声が聞こえて来そうなので、あまり声高に言えません。
気の早いクラレンス・カーターは暖かそうなニット。夏が暑いと、冬は寒いなんて言いますからね。(逆も言うので、そうなるとそのサイクルは何処で切れるのでしょうか)
さて散々苦しい思いまでして食べて、何かの役に立つとか意味があるとかいう事はもちろん全くありません。
家に着き、簡素な夕飯の支度をし、食後にお茶を飲みながらお約束どおり「あー、やっぱり家が一番」なんて間抜けな事を言って、だったら家にいろって感じでしょうか。
国内でも日常から切り離された土地では、郷に入りては.....に従っていると何だか外国にいるような気分がします。
同様に人に接するのも、言葉は通じますが外国人に接するような気がする瞬間が間々あります。
顔も名前も知られている人に、半年ぶりに会って挨拶したり、その間あった出来事を聞かしてくれるのさえ異国の出来事みたいです。
でも例えば、訪れた日には予約だけでたいてい満席で、後のお客さんを断らざるを得ないほど盛況だったりする店も、或る日自分達以外誰もいない状況に偶然遭遇して、当然とはいえ待つ商売の不確実さを垣間見たりするのも、不思議な心地がします。
そんなこんなで、苦しいほど食べたり世の儚さを思ったりして、下のつくばいに印されたような事を思うのかも知れません。うーん、これもちょっと苦しいか。
増井和子さんという人が「パリの味」という著書のなかで、
「いまフランスで最もフランスらしいもの、と問われたら、料理だと答える。料理は手仕事なの。その手仕事が作り出す人数分の料理しか、この世には存在しない。」と書きました。
何処かで聞いたように思ったら、イタリアの仕立て屋さんの「我々の仕事は主治医に似ているかも知れません、さすがに内臓までは診ませんが」という言葉を思い出しました。
それらは、本当には理解していない人が押し付けるワン・トゥー・ワン・マーケティングより、血の通ったより親密な関係の構築について具体的なイメージを伝えます。
先ほどの本の中で増井さんは、
「同じメニューから自分が食べたいものを、オードブル、アントレ、チーズ、デザートと選んで自分の献立を作るわけです。所詮は食べたいものを食べればよいわけながら、洋服でいう着こなしのようなようなところが、どうも、あります。料理人にしてみれば、その日の持ち材料いっぱいで店を張っているわけですから、ワイシャツ、ネクタイ、背広と組み合わせ良く選んでもらえれば、うれしいでしょう。注文をうける人も、この趣味のよさでは手ごわいと、はりきるでしょう。」
と懇切に書いてくれています。
(つくばいの画像下の英文解説は龍安寺のパンフレットから)
Ryoan-ji, Kyoto
Tsukubai, the stone-wash basin for the tea room, has a unique inscription, “I learn only to be contented.” He who learns only to be contented is spiritually rich, while the one who does not learn to be contented is spiritually poor even if he is materially wealthy. This concept is important in the Zen philosophy.