昨日、妻の故郷へ墓参に出かけた。その墓地内で次のような文章を見つけ書き写してきた。
精忠院徳一日誠居士之墓:その側面に
徳一は海軍砲術学校高等科を抜群の成績で卒業後上等兵曹に昇進支那事変から引き続き太平洋戦争に参加して幾多の戦功を樹て進んで昭和19年10月比島附近の海戦に加わり激戦に及んだが我賀が軍非戦の己をなきにいたり遂に同月24日乗艦麻耶と共に壮烈の戦死を遂げた功により金鵄勲章を贈られる事になったが横須賀軍事部より敗戦の己をなきに立ち至りたる理にて賜り兼るに付賢察を乞う旨の頼信があり実現を見なかった徳一は親に孝行であり学校の成績も優秀で常に温厚勤勉であった国破れて山河あり今や山河のみならず国は再建の途上にあり家も亦復興に向っている金鵄勲章に値するものであるかもしれない
昭和24年4月建
鎮魂碑には
故海軍上等兵曹森川徳一は太平洋戦争に於いて国運を賭けた挺1号作戦中乗艦重巡洋艦「麻耶」と共に壮烈な戦死を遂げ27歳の短い生涯を閉じた
日本国天皇は青春を祖国に捧げ勇敢に戦い抜き遥かなる南方の大海原に散華した故人に対し昭和40年8月28日付をもって勳七等に叙し青色桐葉章を贈りその栄光を讃えた
昭和50年10月27日
そして「日めくり万葉集」に次の記述は偶然だろうか!
朗々とラッパの響く朝の海乳色の靄艦(もやふね)に流るる (広海)
誰やらが書きしか母といふ文字の机の隅(くま)に薄く残れる(隆計)
この二首は重巡洋艦・麻耶(まや)で発行されていた「麻耶新聞」という日刊新聞の投稿歌壇にあったものだ。ガリ版刷りのこの新聞は、大阪の下町の古書店で、古新聞の山に埋まっていたのをスタッフが偶然に発見したという。最前線で戦闘にあたる艦船内で、このような歌壇が設けられていたことにある感銘を禁じ得ないが、それこそ日本人と短歌文芸の深い結びつきを如実に表す証左だ。そして、この艦は昭和19年にレイテ沖海戦で戦艦・武蔵とともに撃沈された。残された歌の詠み手はおそらく艦と運命をともにしたであろう。
89歳になる義母の手料理を食し歓談しながらつかの間の時間をゆっくりと輪を作っての母親と娘の語り合いを聞き眺めながら嬉しいひと時を過した。この平和な時間に守られて!
精忠院徳一日誠居士之墓:その側面に
徳一は海軍砲術学校高等科を抜群の成績で卒業後上等兵曹に昇進支那事変から引き続き太平洋戦争に参加して幾多の戦功を樹て進んで昭和19年10月比島附近の海戦に加わり激戦に及んだが我賀が軍非戦の己をなきにいたり遂に同月24日乗艦麻耶と共に壮烈の戦死を遂げた功により金鵄勲章を贈られる事になったが横須賀軍事部より敗戦の己をなきに立ち至りたる理にて賜り兼るに付賢察を乞う旨の頼信があり実現を見なかった徳一は親に孝行であり学校の成績も優秀で常に温厚勤勉であった国破れて山河あり今や山河のみならず国は再建の途上にあり家も亦復興に向っている金鵄勲章に値するものであるかもしれない
昭和24年4月建
鎮魂碑には
故海軍上等兵曹森川徳一は太平洋戦争に於いて国運を賭けた挺1号作戦中乗艦重巡洋艦「麻耶」と共に壮烈な戦死を遂げ27歳の短い生涯を閉じた
日本国天皇は青春を祖国に捧げ勇敢に戦い抜き遥かなる南方の大海原に散華した故人に対し昭和40年8月28日付をもって勳七等に叙し青色桐葉章を贈りその栄光を讃えた
昭和50年10月27日
そして「日めくり万葉集」に次の記述は偶然だろうか!
朗々とラッパの響く朝の海乳色の靄艦(もやふね)に流るる (広海)
誰やらが書きしか母といふ文字の机の隅(くま)に薄く残れる(隆計)
この二首は重巡洋艦・麻耶(まや)で発行されていた「麻耶新聞」という日刊新聞の投稿歌壇にあったものだ。ガリ版刷りのこの新聞は、大阪の下町の古書店で、古新聞の山に埋まっていたのをスタッフが偶然に発見したという。最前線で戦闘にあたる艦船内で、このような歌壇が設けられていたことにある感銘を禁じ得ないが、それこそ日本人と短歌文芸の深い結びつきを如実に表す証左だ。そして、この艦は昭和19年にレイテ沖海戦で戦艦・武蔵とともに撃沈された。残された歌の詠み手はおそらく艦と運命をともにしたであろう。
89歳になる義母の手料理を食し歓談しながらつかの間の時間をゆっくりと輪を作っての母親と娘の語り合いを聞き眺めながら嬉しいひと時を過した。この平和な時間に守られて!