この暑さは本当にいつまで続くか見当もつかない。
ただただ気温が高いことに加えて、夏らしい気候の一部である夕立のような一時的な強い降水もない。
明日5日は急で激しい雨に注意とあった。
涼しさは感じられなくてもいいから、とりあえず雨の一つも降ってはくれないものか。
それでも我が国の国旗は日の丸の名の通り、太陽の恵みをこれ以上ない形でシンプルに表現している。
四季の移ろいのある我が国ではやはり太陽は有り難い存在であるし、そうでなければ国旗には盛り込まない。
しかし、我が国以上に暑い中東諸国(トルコやパキスタンなど)の国旗が軒並み月や星のデザインなのは、暑すぎて太陽はあまり有り難くないものだからだと何かの記事にあった。
国の象徴たる国旗にはそこに住む人々の思いや気候風土までもが表現されていると思えばまた見方も変わってくるのかもしれない。
暑い寒いに関係なく、困った人間というのも世の中には多い。
先日、私と、仕事でコンビを組んでいる某氏は、過日の書類の中にサイン漏れがあったという指摘を受けた。
私たちが準備した箱やら説明書やらを機械に組み込んで、製品と一緒になって箱詰めされていくわけだが、箱詰め側に渡すにあたっては二人で確認したという痕跡を残す必要がある。
片方が抜けることはあるが、二人分がまるまる抜けていたことで「これはどうしたことか」と書類を管轄する部署では大いに問題視され、主担当の某氏が事情の説明に追われることになった。
さすがに両方のサインが漏れるというのはチェックをしたという証明に全くならないので、非は私たちにあるし、理由を問い詰められるのも仕方がない話ではある。
問題は、私にとっては上司としてはいちばん近い、つまりチョクウエの上司(以下、チョクウエ氏)で、普段は穏やかだが他部署から何か言われた時には顔から広いオデコまで真っ赤にしてゆでダコのような形相になって部下を責めようとする。
チョクウエ氏は、自分の部下が何か指摘を受けて、自分の部下の味方になるとか防波堤になるとかは100%ない。
上から何か言われた時は、その中身を噛み砕きもしないでそのまま投下して部下を責め立てるのが仕事だと思っている。
こちらが何か反論でもすれば「上は、上は」と言うだけで、要は自分の意見などなく、自分が怒られたからどうしてくれるという全くもって短絡的な思考回路の中で生きている。
「怒られ代」が給料の中に入っているにも関わらずだ。
今回の件については、初回ということもあり書類担当からは始末書等の作成などという指示が出るまでには至らなかった。
書類担当からは、再度同じことがあったら○○ですね的な話はあっただろう。
○○の中身は、正式に始末書なのか、別室で説教を食らうのか、日々監視が付いてしまうのか、考えられることは様々だ。
そのこと自体はいいとして、チョクウエ氏が狡猾なのは、そこの○○をあえて「・・・(無言)」にして部下に伝えることである。
言い方としては、「今度やったら・・・ってことで、気をつけてください」となる。
大切な部分を「・・・」にされると、言われたこちらは無限にその内容が想像できてしまい(担当を外されるなどの最悪に近い事態)、余計な圧力としてのしかかる。
根っからの体育会系、かつては人並み外れた体軀を存分に利用して、仕事上で対立した人に暴力をふるいケガをさせたという経歴を持つから、どういう言い方をすれば人が怖がるか嫌がるかくらいは重々承知ということである。
チョクウエ氏がチョクウエのまま(今の職位から上に行けない)である理由は、自分の部署の部下に関心がなく、何かあった時には守ろうという意識がないため部署内での人望を得られないためである。
今は過去の反省もあり暴力は影を潜めているようだが、潜在的にある冷酷で威圧的な側面はなかなか変わらないだろう。
私が病気から復帰して以来、チョクウエ氏はじめその周辺4名ほどとは一切会話一つなく過ぎているのも、あるいはチョクウエ氏が指示しているのかと勘ぐりたくもなるくらいだ。
私は、チョクウエ氏よりも上の職位の上司には一定の評価を受け、最近は、復帰したことである社員の残業が減ったと、恐れ多くも感謝の言葉までいただいている。
そんな状況では、私にあからさまなことをしたくてもできないから、無視といういちばんラクな方法で私に圧力をかけるという姑息な手段に出ているということであろう。
明日からは夏の甲子園である。
残念ながら、野球(ベースボールではないあくまで野球)というスポーツが我が国において、一般的には広い支持や関心を集めながらも他のスポーツと比較して時代遅れに見えるのは、ひとえに体育会系的思想そのものが皮肉にもあの場に凝縮されているように思えてならないからだ。
もう飛田穂洲はこの世にいない。
スポーツと教育を一体化してきたこと(体育という言葉の源泉)こそが、世にはびこる「体育会系」の元凶であって、すでに他の競技は概ねそこからは脱皮し、世界で再び顕著な成績をあげるようになってきているではないか。
部下や選手を威圧して動かそうなどという人間の出番など、平成も終わろうかとしている今の時代には全くないと断言してエントリーを閉じる。
ただただ気温が高いことに加えて、夏らしい気候の一部である夕立のような一時的な強い降水もない。
明日5日は急で激しい雨に注意とあった。
涼しさは感じられなくてもいいから、とりあえず雨の一つも降ってはくれないものか。
それでも我が国の国旗は日の丸の名の通り、太陽の恵みをこれ以上ない形でシンプルに表現している。
四季の移ろいのある我が国ではやはり太陽は有り難い存在であるし、そうでなければ国旗には盛り込まない。
しかし、我が国以上に暑い中東諸国(トルコやパキスタンなど)の国旗が軒並み月や星のデザインなのは、暑すぎて太陽はあまり有り難くないものだからだと何かの記事にあった。
国の象徴たる国旗にはそこに住む人々の思いや気候風土までもが表現されていると思えばまた見方も変わってくるのかもしれない。
暑い寒いに関係なく、困った人間というのも世の中には多い。
先日、私と、仕事でコンビを組んでいる某氏は、過日の書類の中にサイン漏れがあったという指摘を受けた。
私たちが準備した箱やら説明書やらを機械に組み込んで、製品と一緒になって箱詰めされていくわけだが、箱詰め側に渡すにあたっては二人で確認したという痕跡を残す必要がある。
片方が抜けることはあるが、二人分がまるまる抜けていたことで「これはどうしたことか」と書類を管轄する部署では大いに問題視され、主担当の某氏が事情の説明に追われることになった。
さすがに両方のサインが漏れるというのはチェックをしたという証明に全くならないので、非は私たちにあるし、理由を問い詰められるのも仕方がない話ではある。
問題は、私にとっては上司としてはいちばん近い、つまりチョクウエの上司(以下、チョクウエ氏)で、普段は穏やかだが他部署から何か言われた時には顔から広いオデコまで真っ赤にしてゆでダコのような形相になって部下を責めようとする。
チョクウエ氏は、自分の部下が何か指摘を受けて、自分の部下の味方になるとか防波堤になるとかは100%ない。
上から何か言われた時は、その中身を噛み砕きもしないでそのまま投下して部下を責め立てるのが仕事だと思っている。
こちらが何か反論でもすれば「上は、上は」と言うだけで、要は自分の意見などなく、自分が怒られたからどうしてくれるという全くもって短絡的な思考回路の中で生きている。
「怒られ代」が給料の中に入っているにも関わらずだ。
今回の件については、初回ということもあり書類担当からは始末書等の作成などという指示が出るまでには至らなかった。
書類担当からは、再度同じことがあったら○○ですね的な話はあっただろう。
○○の中身は、正式に始末書なのか、別室で説教を食らうのか、日々監視が付いてしまうのか、考えられることは様々だ。
そのこと自体はいいとして、チョクウエ氏が狡猾なのは、そこの○○をあえて「・・・(無言)」にして部下に伝えることである。
言い方としては、「今度やったら・・・ってことで、気をつけてください」となる。
大切な部分を「・・・」にされると、言われたこちらは無限にその内容が想像できてしまい(担当を外されるなどの最悪に近い事態)、余計な圧力としてのしかかる。
根っからの体育会系、かつては人並み外れた体軀を存分に利用して、仕事上で対立した人に暴力をふるいケガをさせたという経歴を持つから、どういう言い方をすれば人が怖がるか嫌がるかくらいは重々承知ということである。
チョクウエ氏がチョクウエのまま(今の職位から上に行けない)である理由は、自分の部署の部下に関心がなく、何かあった時には守ろうという意識がないため部署内での人望を得られないためである。
今は過去の反省もあり暴力は影を潜めているようだが、潜在的にある冷酷で威圧的な側面はなかなか変わらないだろう。
私が病気から復帰して以来、チョクウエ氏はじめその周辺4名ほどとは一切会話一つなく過ぎているのも、あるいはチョクウエ氏が指示しているのかと勘ぐりたくもなるくらいだ。
私は、チョクウエ氏よりも上の職位の上司には一定の評価を受け、最近は、復帰したことである社員の残業が減ったと、恐れ多くも感謝の言葉までいただいている。
そんな状況では、私にあからさまなことをしたくてもできないから、無視といういちばんラクな方法で私に圧力をかけるという姑息な手段に出ているということであろう。
明日からは夏の甲子園である。
残念ながら、野球(ベースボールではないあくまで野球)というスポーツが我が国において、一般的には広い支持や関心を集めながらも他のスポーツと比較して時代遅れに見えるのは、ひとえに体育会系的思想そのものが皮肉にもあの場に凝縮されているように思えてならないからだ。
もう飛田穂洲はこの世にいない。
スポーツと教育を一体化してきたこと(体育という言葉の源泉)こそが、世にはびこる「体育会系」の元凶であって、すでに他の競技は概ねそこからは脱皮し、世界で再び顕著な成績をあげるようになってきているではないか。
部下や選手を威圧して動かそうなどという人間の出番など、平成も終わろうかとしている今の時代には全くないと断言してエントリーを閉じる。