私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

執着について

2014年01月21日 11時07分31秒 | 私の成り立ち
◇執着について◇

今日は、執着について書かせていただきます。
まず初めにきっぱりと申し上げておきたいことは、執着はけっして悪いものではないんだということなのです。
執着も必要な過程なんだということなのです。
ですから、仮に無理に執着を手放そうとしても、それは無理です。
手放す時期が来たら、自ずと手放していくようになります。

それならなぜ、執着について敢えて書こうとするのかと問われそうですが、それはおそらく、執着に対する私の理解がそれを手放す時期に来ておられる方へのヒントになるのだろうと思っています。
情報の送り手がいれば、必ずその受け手がいるのです。
どういう受け取り方をされるにせよ、受け手は必ずいるのです。

では本題に入っていきます。

最も根源的な執着は、私という存在が消えることに対するおそれからくるものです(ここで言っているのは、肉体の死ではなく、存在自体の消滅に対するものです)。
殆どの方は芯の部分で、「私という存在の考え」を握りしめ、「私は在るんだ」という信念というか、思い込みをしておられます。
信じ込んでしまっているため、私という存在が考え、すなわち幻であることに気づかないのです。

上の根源的な執着の周辺である深い部分には、「私という存在の考え」を覆い隠すような形で、いくつかの深い二次的な執着があります。
その根深い執着の例としては、例えば「経験したい」、「知りたい(理解したい)」、「愛したい(反対に、憎みたい等もあるのか?)」、「楽しみたい(反対に、苦しみたいもあるのか?)」、「救済したい(反対に、苦しめたいもあるのか?)」、「霊的に進化したい(反対に、逆方向の進化志向もあるのか?)」、「伝えたい」などがあるようです(ここは推測です)。
これらの「経験したい」等の衝動的な欲求も、私という個の意識が握りしめている考えなのですが、「私という考え」を取り巻き、一体化するようにしてそれを支えています。

私の場合はと言いますと、いまは殆どの執着が消えてしまっていて、根っ子の部分ではすべてのことがどうでもよくなっています(ホントに、笑)。
強いて言えば、「家族をやりたい」、「知りたい」、「伝えたい」等の執着がほんの少し残っている感じです。

この記事を読まれて何かを感じられる方は、私と同じようにそういう時期に来ておられる可能性があるのだろうと思います。


なお、私がここに書いていることはすべて私(慧空)の考えであり、戯言ですから。
どうぞ、私や私のつくった幻に惑わされないようにしてくださいね(笑)。
私自身もそうしてますから(笑)。
考えはかる~く捉え、私自身を観るときは熾烈かつ徹底的に、というのがコツです(笑)。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

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コメント (4)
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