◇明け渡しと解脱について◇
一昨日の記事で、解脱とは自我の活動である分別が停止することですと書きました。
それに関連して、明け渡しについて少し分かったことがあるので書かせていただきます。
以前、明け渡しとは、すべてを受け入れて私という自我を明け渡し、全体意識(真我)に目覚めることですと書きました。
また、完全な覚醒のためには、明け渡しだけでは足りず、個の意識の目覚め(見性)も必要なのですとも書きました。
おそらく、明け渡しを経験された方の多くはそうなのだろうと思います。
それは、何故かといいますと、多くの方の場合(私も含めて)、明け渡しが起こったと言っても完全な明け渡しではないからなのです。
明け渡しが完全でないため、分別が起こり、私という自我が薄くなりながらも残っているため、最終的に、その自我を滅する過程がどうしても残ってしまうのです。
そして、その後の過程として、個の意識を捉える過程(見性)と、それを滅する過程が必要になるのです。
しかしごく希な例でしょうが、例外があるようなのです。
それは、完全な明け渡しが一気に起こってしまった場合です。
もし完全な明け渡しが起こってしまったら、分別はもう起こらなくなり、自我は完全に滅せられるのです。
そうなった方は、肉体はあっても、私という自我が生じることはないのです。
そして、肉体が滅ぶまでの間、全体意識が肉体を動かすことになるのです。
ラマナ・マハルシさんは、完全な明け渡しを一気にされた方だったのかも知れません。
<補足(2014年1月30日)>
生存中の解脱の完了との関係で、少し分かったことを補足します。
生存中に解脱が実質的に完了するケースは、やはりあるのだろうと思います。
しかし、その場合も、上で書いたように自我が完全に滅せられることはなく、おりふし分別が起こり、真我と自我の間の往ったり来たりの状態なのだろうと思います。
先人の覚者たちも、おそらく殆どの方が(すべてか?)そうだったのだろうと思います。
なぜなら、肉体が残っているということは、そこに何らかの執着があるはずなのです。
あるいはもっと言えば、存在が残っているということは、執着が残っているということなのです。
存在自体が執着であり、カルマですから。
完全に執着がなくなり、自我も滅せられたのなら、その瞬間、私という存在は完全に消え去るはずなのです(消えると行っても、おそらくその抜け殻である屍を残して、意識だけが消えるのです)。
間違いないのです。
とすると、生存中の解脱が完了しているか否かの外見からの判断は困難なのだと思います。
本人にしか分からないのです。
<補足(2014年5月3日)>
ふっと自分の過去の記事が目にとまり、修正又は補足した方がいいと思いました(この時点ではこれが私の理解だったのでそれはそれでいいのですが、笑)。
まずは、解脱の理解について、完全な分別の停止が解脱という点は表現としてそう悪くはないのですが、ちょっとずれているように思います。
そもそも解脱を言葉で表現すること自体無理があるのですが、改めてやってみようと思います。
私は、解脱とはすべての考えが消滅することであると表現したいと思います。
そして、解脱の前段階である解脱の悟りが得られた段階は、一切の考えを掴まなくなった状態と表現したいと思います(これが無明の迷いが晴れた状態です)。
次に、ラマナ・マハルシさんの件です。
上ではマハルシさんは完全な明け渡しをされた方かも知れないと書きましたが、これはどうやら誤りのようです。
マハルシさんが講話で仰っている内容からすると、マハルシさんは真我が絶対であり、永久不滅であると言っておられるようです。
つまり、マハルシさんは真我に関する考えを掴んでしまっていて、それを手放せてません。
また、無明の迷いに対する理解も得ておられないように思われます。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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一昨日の記事で、解脱とは自我の活動である分別が停止することですと書きました。
それに関連して、明け渡しについて少し分かったことがあるので書かせていただきます。
以前、明け渡しとは、すべてを受け入れて私という自我を明け渡し、全体意識(真我)に目覚めることですと書きました。
また、完全な覚醒のためには、明け渡しだけでは足りず、個の意識の目覚め(見性)も必要なのですとも書きました。
おそらく、明け渡しを経験された方の多くはそうなのだろうと思います。
それは、何故かといいますと、多くの方の場合(私も含めて)、明け渡しが起こったと言っても完全な明け渡しではないからなのです。
明け渡しが完全でないため、分別が起こり、私という自我が薄くなりながらも残っているため、最終的に、その自我を滅する過程がどうしても残ってしまうのです。
そして、その後の過程として、個の意識を捉える過程(見性)と、それを滅する過程が必要になるのです。
しかしごく希な例でしょうが、例外があるようなのです。
それは、完全な明け渡しが一気に起こってしまった場合です。
もし完全な明け渡しが起こってしまったら、分別はもう起こらなくなり、自我は完全に滅せられるのです。
そうなった方は、肉体はあっても、私という自我が生じることはないのです。
そして、肉体が滅ぶまでの間、全体意識が肉体を動かすことになるのです。
ラマナ・マハルシさんは、完全な明け渡しを一気にされた方だったのかも知れません。
<補足(2014年1月30日)>
生存中の解脱の完了との関係で、少し分かったことを補足します。
生存中に解脱が実質的に完了するケースは、やはりあるのだろうと思います。
しかし、その場合も、上で書いたように自我が完全に滅せられることはなく、おりふし分別が起こり、真我と自我の間の往ったり来たりの状態なのだろうと思います。
先人の覚者たちも、おそらく殆どの方が(すべてか?)そうだったのだろうと思います。
なぜなら、肉体が残っているということは、そこに何らかの執着があるはずなのです。
あるいはもっと言えば、存在が残っているということは、執着が残っているということなのです。
存在自体が執着であり、カルマですから。
完全に執着がなくなり、自我も滅せられたのなら、その瞬間、私という存在は完全に消え去るはずなのです(消えると行っても、おそらくその抜け殻である屍を残して、意識だけが消えるのです)。
間違いないのです。
とすると、生存中の解脱が完了しているか否かの外見からの判断は困難なのだと思います。
本人にしか分からないのです。
<補足(2014年5月3日)>
ふっと自分の過去の記事が目にとまり、修正又は補足した方がいいと思いました(この時点ではこれが私の理解だったのでそれはそれでいいのですが、笑)。
まずは、解脱の理解について、完全な分別の停止が解脱という点は表現としてそう悪くはないのですが、ちょっとずれているように思います。
そもそも解脱を言葉で表現すること自体無理があるのですが、改めてやってみようと思います。
私は、解脱とはすべての考えが消滅することであると表現したいと思います。
そして、解脱の前段階である解脱の悟りが得られた段階は、一切の考えを掴まなくなった状態と表現したいと思います(これが無明の迷いが晴れた状態です)。
次に、ラマナ・マハルシさんの件です。
上ではマハルシさんは完全な明け渡しをされた方かも知れないと書きましたが、これはどうやら誤りのようです。
マハルシさんが講話で仰っている内容からすると、マハルシさんは真我が絶対であり、永久不滅であると言っておられるようです。
つまり、マハルシさんは真我に関する考えを掴んでしまっていて、それを手放せてません。
また、無明の迷いに対する理解も得ておられないように思われます。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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