私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

悟りのゲート(1)

2014年01月08日 11時18分48秒 | 悟り
◇悟りのゲート(1)◇

昨年6月28日、29日の記事で悟りのゲートについて書いたのですが、クリアになった視点でもう一度まとめてみようと思います。
この記事は、昨年6月28日、29日の記事にも上書きコピーします。

私という意識(これも考えであり、幻なのですが)は、以前に書いたように、「個」という意識要素と「全体」という意識要素の微妙なバランスにより成り立っています。
しかし、悟りを得る前の意識状態(顕在意識)では、個、全体の両方の意識要素に対する認識が殆どありません。
よって、悟りとは、顕在意識のレベルで個の意識、全体の意識に目覚めることなのです。

これに対応して、悟りの要素には、個の意識に対応した要素と、全体の意識に対応した要素が含まれています。
典型的には、個の意識に対応した悟りのゲートが見性であり、全体の意識に対応した悟りのゲートが明け渡し(大いなる受容)です。
なお、ここでいう明け渡しは、一神教系の宗教でいう特定の神に対する明け渡しとは本質的に異なります。
悟りのゲートは複数存在するのですが、多くの方の場合、いずれかのゲートを順番に一つずつ潜っていかれるのが通常なのだろうとは思います。
ですが、希に複数のゲートを一度に潜ってしまわれる方もおられるのかも知れません。

まず、見性について説明します。
見性とは、私という存在が創造主としての揺るぎない私であるに気づくことです。
すなわち、これが「個」という意識要素に対する目覚めなのです。
なお、この「個」という意識要素は、通常の肉体感覚で得られる自我とは本質的に別ものです。
肉体感覚の自我は、あくまで肉体に付随した感覚です。

また見性では、この世界のすべての事象が創造主である自分のつくった考え(思考)であるという認識が得られるため、自分の感情や種々の外的要因に振り回される程度が低下し、楽になります。
しかし、多くの方の場合、全体という意識要素に対する目覚めはまだ得られてないため、個(私)という意識要素の影響が全体という意識要素のそれよりも大きく、アンバランスです。
自覚(私に意識を向ける)を続けることにより、全体意識に目覚めていくとともに、私という存在を含めてすべての事象が考えであり、幻であることに気づいていきます。

次に、明け渡し(大いなる受容)は、すべてを受け入れて私という自我を明け渡すことです。
すべてを受け入れると言っても、明け渡しの瞬間に本当にすべてを受け入れてしまう方はおそらく極めて希なんだと思います。
私の場合もそうだったように多くの方の場合、その時点でその方が残すべきものは残して、それ以外のすべての事象に対する受け入れが起こります。

明け渡しに伴って、全体意識が目覚めますので、相対的に肉体感覚の自我の影響が小さくなります。
このため、いわゆるエゴに伴う苦しみや欲望等が薄くなり、楽になります。
しかし、多くの方の場合、個という意識要素に対する目覚めが得られてないため、主体性が欠落しやすく、厳しい言い方をすれば全体意識の海の中で溺れてしまいがちです。
また、すべての事象が考えであることに対する認識もないですから、受け入れることや、愛などのプラス方向の考えに惑わされます。
この明け渡しを経た方の場合も、自覚を通じて「私」という個の意識に目覚めることにより、主体性の欠如や、考えの海の中での迷いの状態から抜け出すことができます。


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読んで頂いてありがとうございました。

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