◇自我と意識構造◇
一昨日、私という自我がつくる分別の性に気づいてそれを受け入れたことで、それに関連していろいろ見えてきたことがあるので、それを書きたいと思います。
それは、私という個の意識の顕在意識と潜在意識の二重構造についてです。
まだ確信には至ってないのですが、どうやら、私という自我の意識が起こるためには、顕在、潜在の意識の二重構造が必須であるようなのです。
どういうことかと言いますと、私という個の意識はそれ自体が創造主であり、すべての事象をつくり出している訳なのです。
そのすべての創造内容がすべて顕在意識で把握されてしまったら、そこに自我意識が成立し得るのかと思うのです。
おそらく、成立し得ないのです。
さらには、上手く表現できませんが、顕在意識と潜在意識の間の微妙なギャップが、自我とその活動の原動力になっていることが分かってきたのです。
つまり、私という個の意識の活動とは何かというと、顕在意識と潜在意識の間の微妙なギャップに対する反応の連鎖であるということもできるのです。
どうやら私たちは、個の意識という観点から見れば、顕在意識と潜在意識の間の微妙なギャップに対する反応の連鎖を延々と繰り広げてきたようなのです。
一つの側面として、自我とはそのギャップに対する反応ということもできるようなのです。
それでです。
ここからが本当のポイントなのですが。
そのギャップを受け入れたらどうなるかってことなのです。
おそらく、自我の活動は間違いなく大人しくなるはずです。
そして、もし仮にそのギャップをすべて受け入れてしまったら、おそらく自我の活動は停止するのです。
どうですか?
面白いと思いませんか?
面白いと思うのは私だけかな?
多くの方は、何を言っているかさっぱり分からないかも知れませんが、一応書きました。
もし私が心理学者なら、これで論文を書くのだけどな~ (^o^)
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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それは、私という個の意識の顕在意識と潜在意識の二重構造についてです。
まだ確信には至ってないのですが、どうやら、私という自我の意識が起こるためには、顕在、潜在の意識の二重構造が必須であるようなのです。
どういうことかと言いますと、私という個の意識はそれ自体が創造主であり、すべての事象をつくり出している訳なのです。
そのすべての創造内容がすべて顕在意識で把握されてしまったら、そこに自我意識が成立し得るのかと思うのです。
おそらく、成立し得ないのです。
さらには、上手く表現できませんが、顕在意識と潜在意識の間の微妙なギャップが、自我とその活動の原動力になっていることが分かってきたのです。
つまり、私という個の意識の活動とは何かというと、顕在意識と潜在意識の間の微妙なギャップに対する反応の連鎖であるということもできるのです。
どうやら私たちは、個の意識という観点から見れば、顕在意識と潜在意識の間の微妙なギャップに対する反応の連鎖を延々と繰り広げてきたようなのです。
一つの側面として、自我とはそのギャップに対する反応ということもできるようなのです。
それでです。
ここからが本当のポイントなのですが。
そのギャップを受け入れたらどうなるかってことなのです。
おそらく、自我の活動は間違いなく大人しくなるはずです。
そして、もし仮にそのギャップをすべて受け入れてしまったら、おそらく自我の活動は停止するのです。
どうですか?
面白いと思いませんか?
面白いと思うのは私だけかな?
多くの方は、何を言っているかさっぱり分からないかも知れませんが、一応書きました。
もし私が心理学者なら、これで論文を書くのだけどな~ (^o^)
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