◇ただ受け取ればいい◇
あなた自身のことはもちろん、あなたを中心としたこの世界のことは、すべてあなたのためにあります。
それらのことは、あなただけのために起こってきたことであり、あなただけに与えられたものです。
ただ受け取ればいいのです。
それだけでいい。
どこまで無いものねだりを続ければ気が済むのでしょう。
受け取ればそれで終わるのです。
何も恐れることはありません。
受け取ってください。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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あなた自身のことはもちろん、あなたを中心としたこの世界のことは、すべてあなたのためにあります。
それらのことは、あなただけのために起こってきたことであり、あなただけに与えられたものです。
ただ受け取ればいいのです。
それだけでいい。
どこまで無いものねだりを続ければ気が済むのでしょう。
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>ただただ、私を意識してゆきたいですね。
はい^^
いまのツヨシさんのご様子や雰囲気が伝わってきたように思います。
そのまま自覚を続けられたらいいんだと思います。
>「すべては自分のはずなのにこちら側があるのはなぜ?」
ここは、とてもいい取っかかりであり、ヒントになると思います。
また、悟りの段階により見え方や感覚も変化していきますし、とても面白いところでもあります。
徹底的に追求されたらいいと思いますよ。
例えば、本当にあちら側とこちら側があるのでしょうか。
錯覚や思い込みでないのか。
追求してみて頂きたいと思います。
質問も待ってます^^
本当にありがとうございます。
西洋の非二元系の方々が話される悟りと、お釈迦さまの悟りが同じものなのかという点も気になっていたところでした。
非二元系もそこまで詳しくはないのですが、確かに「観るものは観られるもの」が最終目的になっているように思いますね。
私自身、どこまでいけるかわかりませんが、すでに以前のような肉体と思考が自分という意識には後戻りできない人生となってしまっているので、いけるところまで行ってみようと思います。
> そこで、ちょっと質問なのですが、ツヨシさんは、自分以外のすべてのことがらが自分の考えだということが附に落ちていますか?また、さらには、自分も含めた、すべてが、考えだということが附に落ちていますか?
正直ここはまだ曖昧なところがあります。
仕事中などはまったく観照などできておらず、一個人として生きていますが、仕事終りや休日は観照意識となり、ツヨシという一個人の自分ではなく、すべてのことがらを見渡す自分となります。
この時、身体の五感にプラスして、思考までも、結局は自分の意識(本当の自分)が作りあげたものであるという点は認識しており、この世界はすべて私の意識でできているという状態ではあります。
ただ常にその状態というわけではなく、またもしかしたら知識がそのような思い込みをさせているのでは?という疑問も湧いてきます。
また初めの質問のように、あちら側とこちら側を感じており、「すべては自分のはずなのにこちら側があるのはなぜ?」というところも引っかかりがあります。
以上の点から、私にはまだ自我が厚く残っているなと感じます。
まだ彗空さんの自覚を意識し始めたばかりなので、実践していくにあたってまた質問させていただくことがあるかもしれませんが、どうぞ宜しくお願い致します。
いまネットで調べて、そのワークの内容を理解しました。
このワークは「私」に対する思い込みを落とすことが狙いのようですね。
でも、その延長線上には、「観るものは観られるもの」の悟りがあります。
とても面白く、有効なワークだと思いました。
しかし、ひとつイチャモンを付けるとすると(笑)、
このワークはその最大の到達限度が、「観るものは観られるもの」までだということです。
自覚は、そこを超えて、最終的な悟りまで射程に捉えています。
ツヨシさんは自覚が大分進んでおられるようですので、「観るものは観られるもの」もそう遠くないのかも知れません。
そこで、ちょっと質問なのですが、
ツヨシさんは、自分以外のすべてのことがらが自分の考えだということが附に落ちていますか?
また、さらには、自分も含めた、すべてが、考えだということが附に落ちていますか?
どういう行程で悟りの道を進んでいくのかは、それを本人の意志でどうこうするのは困難かも知れませんが、私としては、「観るものは観られるもの」に至る前に、つまり、自我の力がある程度残っている段階で、できるだけ自覚を進めておかれるのがいいだろうと思っています。
自覚は自我の力を使ってするものですから、「観るものは観られるもの」に至ると、自我の力が弱くなり、自覚が思うように出来なくなるのです。
徹底的に自覚をやって頂きたいと思います。
アドバイスをいただき安心致しました。
実はと申しますと、私はダグラスハーディングの「頭がないことを見る実験」にプラスして、思考の観察をずっと続けておりました。
ハーディングの実験でも「観るものは観られるもの」の境地に達することも可能らしいのですが、私の場合はそこまで至らず限界を感じていたところ、こちらのブログに出会った次第です。
思考は大いなる私とは別ということは腑に落ちておりますので、今後は大いなる私をより自覚して観ていこうと思います。
>普通に自覚をしていて自然にその意識状態になるのはいいですが、余り積極的にその意識状態になろうとしなくてもいいです。
今までは積極的にその意識状態を求めていましたが、たまに自然にこの意識に移行す ることがあります。
しばらく自覚のみに徹し、自然に起こるがままにしてみようと思います。
例えば、ちょっとした車の運転ミスにより、他人を死なせてしまった場合などがそれです。
改めて思うことは、囚われを手放さないかぎり、どうしたって足跡(カルマ)を残してしまうのだということです。
違いがあるとしたら、カルマの内容、例えばその大人しさや、悟りに導かれやすいものかどうかという点なのでしょうね。
主に二つの理由があります。
一つ目の理由は、自制心を働かせることにより、意識を自分に向けさせ、心(自我)を成長させるためです。
普通の自制心や理性、道徳心は実は、悟りの道の導入部になっているんです。
二つ目の理由は、カルマとの関係です。
やったやられたのカルマの応酬や連鎖が激しくうねっているときは、悟りどころではなんです。
ある程度、カルマを大人しくさせるためには、悪行をつつしむ必要があるんです。
また、こんなことも言えると思います。
大きな悪行を犯した人は、例え表面では反省がなくても、その人の心の奥底では深い深い自責の念があるんです。
来世が本当にあるのかどうかは知りませんが、もし来世があるとしたら、その自責の念がカルマとなり、来世の主立った人生の展開の種になるんです。
以上が、悟りの道で、悪行を慎めと言われる普通の理由です。
また、別の角度からはこんなことも言えます。
他人を傷つけるという行為を引き起こした感情や思考が、その行為者の何らかの囚われとの関連によって引き起こされたものなのかどうかは、大きなポイントであると言えます。
行為や思考や感情は、二つの種類があるのです。
ただ真っ直ぐに起こってくるものと、何らかの囚われとの関連で引き起こされるものとがあるんです。
その傷つけるという行為が、何らかの囚われとの関連で起こっているものなら、その行為は、カルマの連鎖を起こすので、止める必要があります。
しかし、その行為が囚われと関係するのではなく、ただ起こってきたものなら、少なくともその行為者である本人にはカルマを残しませんから、止める必要はなく、成り行きに任せておいても大丈夫なんです。
ご理解いただけましたでしょうか?
いろいろ書いたので、却って混乱させてしまったかもしれませんね。
遠慮なく質問してくださいね。
他人を傷つけてはいけません。
になるんですか?ならなかったらすいません。今の僕は、誰かを攻撃したいと思ってません。が、無常な存在の他人(自分が創作したもの)を、壊したところで、無常なんだから、壊していいじゃん!!!!!!!!って考えないで、
他人を傷つけてはいけない
のはなんなんでしょうか~(*'▽'*)
>しかし思考を観照し、思考と思考の隙間を見ている状態においても、見ている私が未だにあります。
>あちら側と、こちら側という分離があります。
ツヨシさんは、「私」という自我と思考の分離がしっかりと出来ておられるのです。
素晴らしいです。
いまはそれで大丈夫ですし、全く問題無いです。
>現状このレベルの私は、上記で言うこちら側を私として自覚し続ければよいのでしょうか。
はい、その通りです。
とても上手に自覚をやっておられると思います。
その、こちら側からあちら側の思考を観ている意識は、私という自我の意識の根底にある観照意識です。
その意識の状態でも自覚はできますので、徹底的に自覚をやって頂きたいと思います。
積極的に何かの考え(思考)をつくり出したりもしながら、その考えを観察するなどもして、自覚して頂きたいと思います。
どんどん自覚が進んでいかれるのではないかと思います。
ただ、ツヨシさんのその観照意識は、自我がつくっている意識状態なのです。
ですから、その意識状態に余り囚われないようにして頂きたいのです。
普通に自覚をしていて自然にその意識状態になるのはいいですが、余り積極的にその意識状態になろうとしなくてもいいです。
他に何か気になられることがありましたら、遠慮なくどうぞ^^
私は思考=自我という認識の中、思考が無くなれば自我もなくなると考えていました。
しかし思考を観照し、思考と思考の隙間を見ている状態においても、見ている私が未だにあります。
あちら側と、こちら側という分離があります。
現状このレベルの私は、上記で言うこちら側を私として自覚し続ければよいのでしょうか。
何かアドバイス頂けると幸いです。
宜しくお願い致します。
どうぞ遠慮なく、聞きまくってくださいな^^
自分の周りにこんなこと(自分とはなにか)を考える人がいず、教えてもらうこともなかったので、彗空さんには色々聞きまくる(教えて頂く)と思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。
いい感じだと思いますよ^^
そうやって、「私」に意識を向け、「私」を見つめていただきたいと思います。
自分をその対象に設定しても大丈夫ですよ。
自分を設定しても、それがヒットすればハートは開くと思いますよ。
ぜひやってみて頂きたいと思います。
それで結果も報告頂けると嬉しいです^^
自我が薄くなったなぁ。って感覚より、これが自我(掻きたい、鼻水すすりたい、ちょっと動きたい)なんかもしれないなぁ。って感覚が出てきました。
自我があるなぁって思てる「私」がいるなぁとも感じ始めました。自我でない「私」も自我なんかんぁとも思い始めています。これが、彗空さんがいう囚われをとっていくと「私」に近づくのかなぁ。って感じです。
ハートを開くワークは、昨日に読んでいたので、自分の心の怒りが出てきたときには、5番までやるようにしようとおもっています。
ステップ1で否定したくなる、受け入れたくない対象を一つ選ぶということですが、自分はその対象にしないほうがいいのでしょうか。
明け渡しの実感については、実感が薄い方もおられるようですよ。
おそらく、自分でその変化に気づくことなく生活している人も結構おられるのではないかと思います。
ですから、明け渡しの実感のことはあまり気にされない方がいいかもしれませんよ。
それよりも、自我がどれくらい薄くなっているか、握り締めた考え(囚われ)がどれくらい減っているかが重要です。
自分で自我が薄くなったなあ、と思うようなら、明け渡ししてるんじゃないかと思いますよ。
かなりアバウトですみませんが(^o^)
明け渡しの方法については、もちろん自覚を続けていれば、明け渡しも自ずとやってくるのですが、明け渡しを直接的に得る方法としては、私は二つだけしか知りません。
一つは、以前ブログ記事に書きました、受け入れの瞑想です。
瞑想等により可能な限り深い意識状態に入り、そこで、すべてを受け入れるんです。
それが出来たら、その瞬間明け渡しが起きると思います。
間違いないだろうと思います。
その記事のURLは、下記です。
http://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/5e7f8221dce983705bd2783fdd48b18f
もう一つは、ハートを開くワークです。
記事のURLはこれです。
http://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/2498e9fe9c62e3642a146b685a96825f
何かご質問があれば、遠慮なくどうぞ^^
自我って何かな?と色々と検索しているうちに、最近このブログを読むようになりました。
明け渡し、受け入れの感覚が実感出来ていません(何かの感覚を得て、涙を凄く流すとか、笑いが
止まらないとか)。
何か良い方法はありませんか?