数十年後に、こうして、再びギターを弾くことになるとも思って居なかった。
それは、何故なんだろう❔
ギター以上に優先するべき事柄があったのだろうね。 今、再度ギターに触れて思うのは、やっぱり私はギターが好きなんだと実感することである。
小学生の頃はピアノが弾きたかった。 同級生の女の子がピアノが上手で、その子にピアノを音楽室で教えてもらっていた記憶がある。
でも、結局は、家にはピアノは無いし、ピアノを習うだけの家柄でもない。
机に鍵盤を描いていたことも思い出す。 その、ピアノの音色も好きだったけど、その女の子が好きだったこともピアノへの憧れが募ったのだろう。
今でも瞼に浮かぶほどに彼女にピアノを教えてもらっていた時間が懐かしく、とても幸福な時間として、忘れることがない無二の幸せと感じる。
今、彼女はどうしているだろうか? いや、私も、今の人生をその時には全く想像することもできなかったし、当然だけど、幼い子供が想像することなんて、たかが知れてる。
私はそれから、ピアノは当然家に無いし、高根の花と諦めていたのである。
で、中学になり、姉がどこかで頂いたか、買ったのかは定かでないけど、ギターを弾き始めていた。 今思うと、なんだかちょっと小さ目のギターだ。
でも、それを2本も持っていて、私もギターを弾くことになり、当時はフォークソング全盛期で、チューリップ吉田拓郎、泉谷しげる、その他などなど・・・・。 その時期だったので、中学でもギターを弾いている同級生も多くいた。 中でもかなりのテクニックを取得している者もいるし、あのころは本当にギターブームと言えるだろう。
それから、数年間はギターを弾き続けていた。
友達とセッションをするようにもなり、高校の学園祭にも度々招待され、ギターの弾き語りなどをしていた時期もある。
それから、所帯を持ち、子供も生まれ、子育てに翻弄して、ギターを弾くことは忘れて居たのだ。
でも、このコロナ禍で、私ももう還暦を過ぎて、今は第二の人生を歩んでいる。 今は、休日にはバイクを走らせ、週3回の筋トレを日課とし、さらには時間があればギターを弾いている生活を送っている。
残されている命の時間はそれほど多くない。 後20年程度が凡その寿命だろう。 でもでも、残りまだ20年もあるのである。
そう考えると、ギターを再開して、この20年間、ギターと付き合ったら、思って居る以上に自由に音楽を奏でることが出来そうだと思う。
月に1曲を取得しても、20年間で240曲を取得することが可能だろう。
これは凄いだろう。
だって、それも、徐々にテクニックが向上するので、この先10年も過ぎたら、恐らく、想像以上にギターを自由に扱えることが出来ているだろうと想像すると、楽しくなる。
今日は夕方からトレーニングをする予定だったど、ダンベルバーのメッキ剥がしにトライしていた。
結果は予想以上に悪くほぼ期待を裏切られた感じ。 グラインダー用のワイヤーブラシを取り付けて、バーを目掛けて研磨した。 で、しかし、メッキは全く取れない。 当然だろう。 そもそも、メッキは金属に電解的に付着しているので、錆を取る要領なんかでは取れない。
でも、ある程度はメッキの剥がれを取り除いた・・・と思って居る。
それでも、まだメッキが剥がれるようなら、このバー(アイロテックのダンベルバー)の使用は出来ないと悟った。
まっ、730円の無駄なお金を使ったことになる。
それでも、まっ、致し方ない。 一応は出来る限りを尽くすのが私のやり方で、無駄を承知でトライすることが私の流儀だ。
今回は、このダンベルバーは反故にして、別のダンベルセットを主体にしようと思った。 何とか組み合わせで、今のウエイトも使用できそうだし、無駄にはいない。
それでは、このコロナ禍、暑い夏を有意義に過ごすために、さらには、今後の人生を豊かで、健康的で、向上心を維持し、体力を維持し、心を安らかに過ごせる人生で終わりたいと願う。
これは、高年齢になったら、誰しも思う事だろう。
人生の収束をどのようにするのか・・。 当然だけど、人間はいつかは死を迎える。 死と言う絶対的避けることが出来ない動物や自然界の成り行きに対す意識を自分なりの悟りで受け入れることが出来るように、死に対する何か尊厳的な物を意識する。
私個人は、死はまさしく、生命の終わりである。
魂と言う物は人間の想像の中になる、ある意味では、理想的な概念だろう。
しかし、動物的な考えからすると、死はそれですべてが完結している。
死後は何もないし、生の概念も無いだろう。
死は全ての終焉であり、全て、何もない世界だ。 無である世界だ。
魂とか、なんとか・・・。 それは、人間の理想的な概念であり、そもそも、人間だけが特別な生命の存在出はない。
人間だけではなく、植物や動物は勿論、人間も同等に、生命がある時こそが唯一の存在だ。 死後の世界とか言うような、特別な世界は存在しない。
それは、人間の煩悩が生み出した死に対する恐怖や、何か分からない意識を安定させるために考えた、自己防衛システムだろう。
死が確実になった時点で、世界的な共通点として、天国を思わせるような映像を誰もが体感することである。
これも、人間の死に直面した時に共通する、深層心理だろう。
人間が死に対する恐怖や苦痛を緩和するための、心理的なシステムが埋め込まれているのだろう。 だから、全世界的に共通する死に直面した時に共通する物を体感するのだ。
これは、人間の自己防衛本能だと私は考える。
死は、どんな死でも自己が死する時には、特別な苦痛や痛みを感じるだろう。
その想像できない死に直面する意思や身体に掛かる負荷を精神的な何かによって、軽減するために、人間は本能的な機能を有することになったと思う。
それは、死が確実となった時点で、天国のような安らかな時空にいざない、死からの恐怖を取り除くことに精神が働くシステムを持っているのだろうと想像する。