summer diary

日記らしきページ

ロシアの蛮行の行方

2022年04月18日 | Weblog
 【リビウ(ウクライナ西部)共同】ロシア国防省は17日、包囲攻撃を続けるウクライナ南東部の要衝マリウポリで、製鉄所構内に立てこもったウクライナ側部隊に武器を捨てて降伏するよう要求した。ウクライナ側は応じず、同省は「これ以上の抵抗を続ければ全滅させる」と最後通告を行った 。

この記事は今朝の中日新聞のWeb上で読んだ記事である。 朝刊でも同じ記事は掲載されているだろう。 さらにもっと詳細な内容もある。 
ウクライナは全滅したとしても、ロシアに降伏するような選択はしないだろう。 
ロシア側は未だに軍事力ではウクライナを上回っているし、ロシア国内では、まだ自国の正当性を認める国民が多勢である。 これは当然だけど、真実の姿を知らされていないのは明らかだし、プーチンは未だにロシア国内での自身の支持率が80%以上であると信じてもいて、蛮行の正当性を巧みに伝えられている事を認識しているのだろう。 プロカバンダで覆い尽くされているロシア国民には、プーチンの政策や決断は全てが国家の未来を築くものだと洗脳されている。 プロカバンダのもいろんな種があるが、ロシアやその他、社会国家、共産主義国家のそれは、凡そブラックプロカバンダである。
(ブラックプロパガンダとは、情報の発信元を偽ったり、虚偽や誇張が含まれるプロパガンダ )
こうしたロシアがこれまでも他の国への軍事侵攻を繰り返してきたし、第二次世界大戦で日本がアメリカに降伏した直後も、日本に戦争を開始して、北方領土を略奪している歴史がある。 
こうして、ロシアと言う国家の飽くなき欲望観は未だにプーチンが継承している。 世界の動向や、地球の未来など眼中にない。 自国の権威と富と(これは国民の富や平和を望んで居るのではない、自身の富や権力や名声のみに終始する卑劣で悍ましい妄念の塊である)をひたすらに追い求めるのである。 
こうして、自身の欲求でしか生きる事が出来ない人脈を築き、さらには、ロシアの資源を活用いて、他国の領土すら手に入れる望みを増幅してきた。 
この地球と言う次元に立てば、今、各国が本当にやらなければならない物がなんであるか? 今や、世界は全てが繋がり、経済だけではなく、情報や環境、技術、ウイルスなど、宗教や思想すら、国境など存在しない世界になった。 
今後も人間に取って、この地球規模の脅威は増え続けるだろう。 温暖化による気温の上昇で起こる様々な気候変動は、人間に取っては死活問題になるだろう。 そうした事を遠い未来を見据えて考察すると、国家間のいざこざや考え方の違いなんてものは、ほんの些細な問題である。 
人間がこの地球上で今後も歴史を継承するのであるなら、全ての人々が同じ信念を持ち、幸福と平和を求める道を進む必要がる。
この幸福と平和は単なる経済的な豊かさや、人より優れていると言うような優越感では得られない。 
ましてや、国家の世界的な権力や優越性なんて物は、人の幸福感には不要である。 そんな物で人は幸せと言う心の平和を持てるものではない。 

企業は他の競争相手との競合に勝つ目的であってはならない。 本来、人の役に立ち、人を楽しませ、人を豊かにする事が目的であるはずで、他の同種の企業との勝ち負けは必要は無いだろう。 
いろんな物が在って当然だし、何を選択して、何を目的とするかは別として、本当に必要な物を人は求めている。 
これはそのまま国家にも当てはまるだろう。 国民が本当に求めている物を作る事が国家の目的とするべきだろう。 
その実現のために、何をどうするべきか? これは他国を略奪する事でもないし、他の国家に勝つと言うような物ではない。 
本来、人間は平和や幸福を求める事を望んでいる。 その望みは、人と争って得る物ではない。 争い自体がすでに幸福や平和とは真逆の物だからである。 
人との競争と言う物は、それ自体ですでに進むべき方向とは違って居る。 
これは、宇宙的な視野で見ると、宇宙が求めている物は秩序と調和、協調と均等であることは、惑星や太陽系、銀河系、その他の星たちが語っているのだ。
宇宙には特定の権威など存在しない。 すべては繋がり、全ての存在が必須の物である。 何一つ欠けても、この宇宙は存在する事が出来なくなるだろう。
人間もこの宇宙の一つである限り、この宇宙的な観点に立ち、宇宙の意思を継承する必要がある。
でなければ、恐らく、人間は死滅する運命にあるだろう。 
ロシアの蛮行は、人間を死滅させる要因になり兼ねない。 さらには、世界の協調や均等をぶち壊して、混沌の世界を招くだろうし、再び、世界は闇の中で苦しみ続けることになる。 
これは、もはや世界的に完全に繋がっている現代社会の運命である。 
ウイルスを見ても分かるだろう。 決して、自国だけでは解決できない事を鑑みれば、すでにこの地球上の人間は繋がっているのだ。 
プーチンが少しでもこうした当たり前の事実を現実として受け止める事が出来る人物なら、今回の戦争がどれほど虚しい空虚な妄想でしかない物であるかは、理解出来ていただろう。
しかし、そうして考察すると、プーチンはすでに人間ではないのだろう。 
まさしく、悪魔であるだろう。 



しとしと雨が降る

2022年04月18日 | Weblog
 しとしと雨が降っている。 昨日からこうして小粒で風に舞うような雨が降っている。 時折は雨が止む時期もあるけど、晴れ間が見えることはない。
一昨日には気温は25度を超え、真夏日に届くような日が続いていたので、こうして雨が続くと、さすがに気温も20度には届くこともなく、朝から肌寒さを感じる程である。 

今日は仕事は休み。 いつもの休みと同じように、特に用と言う物はない。 
のんびりと過ごすことが出来る事に感謝する。 ギターを弾き、昼ご飯を食べて、ビールも1本飲んで・・・。 午後は少し昼寝をしてからギターを弾き。 
夕方は筋トレをしてから風呂に入り、夕食を済ませてから再びギターを弾いてからベッドに入るのである。
買い物以外にはほとんど外に出るようなこともなく、車を綺麗にする以外にはほとんど屋内でギターを弾くか、Audibleで時代劇小説(山本周五郎など)を聴きながらのんびりと過ごすだけである。 
ギターはほぼ予定通りに進んでいるし、予定と言っても、特別に先々までを決めている訳でもなく、練習中の曲の完成度と言うか、ある程度スムーズに弾けるレベルに達する頃を自分なりに予想しているだけである。 
カルカッシ教則本の暫定的練習曲は50曲あり、これは中等科から上級までの練習となる。 その後は第4部では練習曲ではなく、クラシックギターの所謂名曲の譜面があるのみで、その後は自分が弾きたい曲の譜面を用意して練習することになる。 
もちろん、完璧に模範演奏と変わらないレベルで弾くことはほとんど無理かもしれない。 それでも、自分なりに納得できるレベルであれば、次の曲へ進んでいる。 私の場合には前にも書いているが、爪弾きをしていない。
右手の全ての爪は完全に深爪と言っても良い程に完全に切り落としているので、爪弾きのような切れ味の良い音色にはならない。 音量も爪で弾く奏法に比較すると、指頭での爪弾きは音色は柔らかく、音量も比較すると足らない気もする。 
しかし、私は敢えて、爪を伸ばそうと思わなくなったし、爪が無くても、自分の音色や奏法には満足している。 
さらに言えば、アコギではこの爪の必要性も感じない。 スチール弦の煌びやかな音色をそのギターのボディーのおかげだろうか、ほとんど模範演奏と同様の音を奏でることも可能だ。
ジャズでも、フルアコでピックを使用しないで練習いているが、アンプを通した音は爪の在る無しにはさほど左右されることもないし、ピック弾なら当然だけど、爪の必要性は皆無だ。 
さらに言えば、爪のメンテナンスの必要もないし、普段の生活でも爪に気付かうような必要もない。 
今は爪をしっかりと短くカットして、爪が弦に当たらないようにしている。
爪弾く指の爪がどの指でも当たらないようにして、爪弾く音が指によって変化しないようにしている。 
指頭でのピッキングは弦を弾く感覚を繊細に感じ取ることが出来るので、爪弾く強弱をつける事も容易になる。 
今では爪弾はクラシックギターの常識となっているけど、私はそうだとも思って居ない。 タレガは後年爪弾から指弾(指頭)奏法にしていたが、爪弾以上にナイーブでデリケートな音色を奏でる事が出来て、これまでよりも奥行のある演奏が出来るようになったとも言って居る。 
現代のコンサートなどではどうしても大きなホールに響かせる必要もあり、ギターはピアノなどに比較するとその音量は比べるまでもなく、小さい。 
そうした欠点?? を解消するために爪弾で音量を増すための奏法が生まれたと言われている。 
小さいホールや自宅での練習なら爪は必要ないだろう。 自分で楽しむだけなら、爪弾で得られるような音量も必要ないし、逆に近隣への騒音対策としても、音量に関しては小さい方が良いかも知れない。 
まっ、そうした点に関しては、個人的な好みの問題だし、音色に関しては個々の条件なども含めて、いろんな音があることは良いことなんだろうと思う。 

さて、Audibleを聴き始めてからまだ1か月と経っていない。 1か月間は無料なので、その間に継続するかどうかを決めるのだけど、今の所は継続しようと思って居る。 すでに読破(聴き終えた)した小説や啓発本なども含めて、10冊を超えている。 長編(2時間以上)もあるが、ほとんどは2時間以内程度の長さの短編が多く、そのぐらいの物語の方が聴きやすい。 
長文ではなく、短編の方が作家の特徴や、作家の思想、作家の人間性も伝わりやすいような気もする。 
どうししても長編になると、時間的な間が空くので、物語性の面白さを求めるようになるので、そうではなく、小説ならその作家の表現したい物を感じるのは、結局はその長編であろうと、短編であろうとほとんど差がないのである。 
私はそう感じる。 なので、出来る限り短編を好んで聴くことにしている。
これからもこれまで読んだことがない作家などもいろいろと聴き、自分の好みだろうと思える作家を探してみたいと思う。