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普通の生活の中での、思いついたこと、考えたこと。何かを表現したい、書いておきたいと思った時に、ココで発散しています。

陽のあたる場所

2006-07-21 01:56:00 | ひとりごと。
今週はいろいろ大変でした~~
月曜は用事があって実家へ行き、火曜は仕事、水曜は休みだったけど熱出して寝てました。
火曜の午後から頭痛がひどかったのです。なんだかおかしい、と思いきや、夜、熱でました。
久しぶりに38度7分とか出ちゃった。全然下がらないし。ちょっとあせりました^^; 
子供たちはおばあちゃんのおうちへ行かせてもらって、寝ていたのだけど、
夕方ふらつきながらもお医者さんへ行って薬もらってきました。ウイルス性の風邪とのこと。流行ってるんだそうです。
薬を飲んだら、まーラクになること クスリってすごいね・・・
普段、丈夫なので?あまり薬を飲まないせいか、ことのほか効きが良いのでしょうか?

今日は薬飲んで出勤、なぜならば試験!不正行為は許しません!

といっても、カンニングは不可能。なぜなら小論文だから。
四字熟語とことわざ、同意語・反意語・敬語 などの常識問題も含めて、90分。

終わってひとこと

「・・・・やればできるじゃないの・・・」

普段の授業では
「先生、書けません」「先生、書き方がわかりません」「先生、たくさん書けません」
「先生、序論本論てなんですか」「先生、結論て書かないとだめですか」・・・

・・・・・・おまえらっ!!と、額に青筋ぴきぴき立てながらも、
「こう考えたらどうでしょう」「これは、こんなふうにも書けますね。」「この部分を膨らませてみたら面白くなると思います」
「結論から書く、としたらどうやって書きますか?」などなど そこはそれ、愛ある指導。愛ある添削です。

でも今日の試験では、回収したものを見たところ、書けてるじゃん。それもたくさん。
まがりなりにも、序論→本論→結論 になってるし。普段は、「気合入れてない」わけなのね!よーするに!

なーんだ、みんな試験っていうとできるのね。やるわけね。
じゃあ、これから毎回「今日は試験です」って言おうかなっ!
と、きっとどの学校のどの先生方も、皆様一度はそう思われているのではないでしょうか。たぶん・・・

中でも嬉しかったのが、「先生へのコメント」欄に、(点数外だけど、何を書いてもいい)

「書くことが苦手で、全然書けなかったけれど、作文の授業を受けるうちに、すらすら書けるようになりました。」

と書いてくれた子がいたの。

え~~~ん 嬉しいよ~~~

この子は本当に書けなくて、どんな題材をテーマにしても、作文用紙半分ぐらいで止まってしまっていたの。
でも、添削指導を重ねるうちに、だんだん書けるようになって、今では2枚程度ならすらすら書けるようになりました。

こういう生徒が一人でもいるうちは、やはり教職は続けたいと思います。いろいろ大変だったけど、このひと言で救われました。
S君、ありがとうね!


いつもクールな?(そーでもないか、)私が、今日は絵文字など使ってしまいました。喜びのほどをわかっていただけたかと・・・


どんな子でも、「陽のあたる場所」に立つ権利は持っている。
それが、時として頭上を「苦手意識」という厚い雲が覆ってしまう。
それを、少しずつでも取り除いて行くのが、教師の役目の一つかと思います。
「日陰」にいる子を、陽のあたる場所へ連れ出したい。
なんちゃって・・・おこがましいけど。

私は、どの子もみんな、陽の当たる場所に立ち、輝いていてほしい、と思う。
いつでも、明るく、楽しく笑っていて欲しい。・・・授業中以外は。

教えている学生は、言ってみれば「他人の子」です。よそ様の、お子さん。
そんな、「他人の子」であっても、しっかり頑張れ、と応援したいし、励ましたい。
ほんとに、笑っていてほしいのです。(くどいけど、笑ってていいのは授業中以外、ですからっ!)


ましてや自分の子であれば。

大事に思い、命に替えても、と思うのは常だけれど、でも、時として、煩わしく思うこともある。「まったくもう!」と、怒ることもある。あーもういやだ、と弱音を吐きたくなることもある。
もうやめたい、疲れる、めんどくさい!と思うこともある。しょっちゅう、ある。
ある、ある、ある。ああ、もう、そう思う私がイヤ・・・
イヤだけれど、文句いいながらも、

今日もほっぺたくっつけて寝るだろう。おしっこもらしてたら取り替えるだろう。
明日の朝は一緒にヨーグルトを食べるだろう。かたづけなさいっと、怒るだろう・・・それでも、私は不動である。
何があっても、不動である。(ゴルファーではない、)
動かない、ということ。
なぜなら、ここが私の「陽のあたる場所」だから。

 
・・・鬼のような母、とありきたりの表現で取り上げられる例の容疑者。


私が今思うのは、この容疑者は、
今までに、「陽の当たる場所」にいたことがないのではないか、ということ。

自分の人生で、「自分が主役」と感じたことがなかったのではないか、と思う。

どんな小さなことでもいい。親からのふれあい、小さなプレゼント、お友達とのお誕生日会、
ボーイフレンド、何かでほめられた、とか、仕事での成長、友人の励まし、Etc・・・・

人によって、「陽の当たる場所」はそれぞれ違うし、いくつもあるだろう。

私にとってのその「場所」は、家庭、であり、教室、であり、公園、であり、銀座であり、駅前のバーであり・・・

とにかく、存在している限り、その人が今いる場所が、すべてにおいて、「陽のあたる場所」なのだ。


この、畠山容疑者は、精神的に未熟で劇場型、自己顕示欲がつよいタイプという心理学者のコメントが新聞にあった。

今まで、スポットライトが当たらなかったから。
誰も、自分を日陰から連れ出してくれなかったから。陽の当たる場所、にいけなかったから。

自分で、自分を。

架空の劇場で、架空の筋書きを、演じてしまった。演じれば一番涙をもって、同情される、「悲劇」の主役、で。


もう、納得しただろうか。演じ終わった今、放心状態だろう。抜け殻。
そしてこれは、劇ではない。つくりごとではない。自作自演の、「事実」である。
全部、「真実」なのだ、ということに気がついたときに、事実として受け入れられるか。
もしかしたら精神的に破綻するかもしれない・・・もう既に、破綻しているけれど・・・この人は。でもいつから?そこを知りたい。なんで、なんで、なんで?

「逮捕」すら想定していなかったのかもしれない。そこから先は、考えるのをやめてしまったのだろう。
架空の舞台はそこで幕となる。しかし、現実はそこから始まる。
・・・法に従って償うべし。・・・子供が気の毒でたまらない・・・・
誰も、他人が陽のあたる場所へ出て行く権利を奪うことはできない。如何なる理由があっても。



ああ、今回のブログってば、前半いいカンジで書いていたのに、
後半、暗くなっちゃった。でも、いろいろと考えちゃってね。


今日のタイトルの「陽のあたる場所」というのは、エリザベス・テーラー主演の映画です。
「陽のあたる場所」へ行きたくても、たどりつけない、貧しい青年の悲劇・・・(青年役は、モンゴメリー・クリフト)、
このところのいろいろな出来事と重なる部分があり、ブログのタイトルにしました。
古い映画ですが、よろしかったら週末にでも、是非ご覧下さい。
究極に美しいベス!まさに息を呑む美しさです。お話も、とても深いものです。


ながーくなってしまいましたが、
最後までお読みいただいたそこのあなた
どうも有難うございました。あなたさまに、いいことがたくさんありますように。

それでは、このへんで。あと1日、がんばるのだ!
(^^)/~~~
コメント (2)
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