東京から帰って、新聞を読んでいると---。
「お兄ちゃん、その死亡欄に出ている元巨人の選手って知ってる?」と妹が尋ねて来ました。
目をやると、「征矢高行」の文字。
「この人、昔、辰野高校から確か巨人に入団したんじゃ無かったかなぁ?」と私。
こういうことは、親父に聞けば一発回答なのですが、既に故人ですから自分で調べなくちゃなりません。
「征矢高行」で検索すると、もうスポーツ各紙、征矢氏の死亡記事でいっぱいです。
しかし、どの新聞社も「元投手・1952年~53年巨人在籍」。
(読売巨人軍が広報を通じて発表したありきたりの情報)
ここまでしか書いてありません。
確か、親父(元伊那北高校野球部監督)が昔言っていたのは、「山崎弘美選手との同時入団」だったような。
そう、山崎弘美氏というのは、辰野高校野球部出身で巨人の元捕手。
で、川上監督のV9時代の1軍チーフマネージャーだった人です。
マネージャー退任後は、スカウトに転進し、角盈男・原辰徳・江川卓等の獲得に尽力したのでありました。
更に、藤田監督時代に1軍チーフマネージャーに復帰。
この頃ですよ。
ベンチのポロシャツ姿の山崎氏がテレビに映ると、親父が「あの人、辰野高校出身だぞ!」と教えてくれたものでした。
山崎氏の現役は、1952年~60年の9シーズン。
そしてその後、スコアラー・マネージャー・スカウトを歴任し、巨人の大功労者として、今でも語り草になっています。
同時入団したした征矢高行選手は、投手兼外野手。
1952年、巨人に入団するも、1軍出場は一度も無く、翌53年に退団しています。
でも、52年に辰野高校のバッテリーが、巨人に同時入団って凄いことですよ。
なぜ?
実は、1951年(昭和26年)の全国高等学校野球選手権・長野県大会で、辰野高校は準優勝をしているのです。
(当時は県大会に優勝しても、信越大会で優勝しないと甲子園に行けませんでした)
そのときに活躍したのが、4番山崎選手と5番征矢選手だったのです。
巨人は、2人に目を付けて、同時入団となったのでありました。
でも、征矢氏の現在の住所が伊那市山寺と聞いてビックリでした。
元巨人の選手が、隣の地区に住んでいたとは---。
心からご冥福をお祈りいたします。
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「お兄ちゃん、その死亡欄に出ている元巨人の選手って知ってる?」と妹が尋ねて来ました。
目をやると、「征矢高行」の文字。
「この人、昔、辰野高校から確か巨人に入団したんじゃ無かったかなぁ?」と私。
こういうことは、親父に聞けば一発回答なのですが、既に故人ですから自分で調べなくちゃなりません。
「征矢高行」で検索すると、もうスポーツ各紙、征矢氏の死亡記事でいっぱいです。
しかし、どの新聞社も「元投手・1952年~53年巨人在籍」。
(読売巨人軍が広報を通じて発表したありきたりの情報)
ここまでしか書いてありません。
確か、親父(元伊那北高校野球部監督)が昔言っていたのは、「山崎弘美選手との同時入団」だったような。
そう、山崎弘美氏というのは、辰野高校野球部出身で巨人の元捕手。
で、川上監督のV9時代の1軍チーフマネージャーだった人です。
マネージャー退任後は、スカウトに転進し、角盈男・原辰徳・江川卓等の獲得に尽力したのでありました。
更に、藤田監督時代に1軍チーフマネージャーに復帰。
この頃ですよ。
ベンチのポロシャツ姿の山崎氏がテレビに映ると、親父が「あの人、辰野高校出身だぞ!」と教えてくれたものでした。
山崎氏の現役は、1952年~60年の9シーズン。
そしてその後、スコアラー・マネージャー・スカウトを歴任し、巨人の大功労者として、今でも語り草になっています。
同時入団したした征矢高行選手は、投手兼外野手。
1952年、巨人に入団するも、1軍出場は一度も無く、翌53年に退団しています。
でも、52年に辰野高校のバッテリーが、巨人に同時入団って凄いことですよ。
なぜ?
実は、1951年(昭和26年)の全国高等学校野球選手権・長野県大会で、辰野高校は準優勝をしているのです。
(当時は県大会に優勝しても、信越大会で優勝しないと甲子園に行けませんでした)
そのときに活躍したのが、4番山崎選手と5番征矢選手だったのです。
巨人は、2人に目を付けて、同時入団となったのでありました。
でも、征矢氏の現在の住所が伊那市山寺と聞いてビックリでした。
元巨人の選手が、隣の地区に住んでいたとは---。
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